門の柱の木目が、夜露でわずかに膨らんでいた。
 西本願寺の大屋根から落ちる水は、石畳に細い筋を描き、その上を風が撫でるたびに、音のない皺が増える。入口は、音のない皺から広がる。
 その皺の縁をたどるように、伊東甲子太郎のまわりには、自然と人が集まっていった。

 最初は手習いだった。
 上がり框の端に板を渡し、「筆合」の座ができる。煤けた行燈の灯で、若い者が交代に字をなぞる。
 「はらいは風、止めは石」
 伊東は笑い、筆先で空に線を引く。「拍を身体に落としてから、文字へ移す。逆にすると、字は痩せる」
 藤堂平助は鼻先で笑い、扇を畳んで紙の端を押さえ、原田左之助は筆を握ってみて、あっけなく匙を投げる。
 「槍は“見せる”だけで効くが、筆は“書かねえと”効かねえ」
 永倉新八は、勢いだけで書いた「誠」の字を見て頭をかく。「おい、誠が走り出しちまった」
 沖田総司は、その走る字に笑いを乗せて、半歩で止め方を示した。
 「まず呼吸。息の出口が大きいと、筆も暴れる。狭める。狭めたら、間に置く」
 咳は袖に消え、目は灯の明かりを柔らかに反射する。
 灯の下には、少しずつ伊東一派と呼びうる影が生まれた。派というほど固くはないが、同じ方向へ顔の角度が傾く群れである。

 やがて、手習いの端に政が混じった。
 「文は未来を呼ぶ」
 伊東の言は、若い耳に鮮やかに入る。
 「幕府は自然に、朝廷は必然に。われらは、過渡の棒」
 その診断は冷ややかだが、声は温かい。温かさに支えられた冷ややかさは、人を傷つけずに向きを変えさせる。
 平助は「なるほど」と小さく頷き、斎藤は目を伏せて黙し、尾関は筆の頭で机を叩いて拍をとる。
 拍が揃えば、群れになる。群れは、入口の風を足早に運ぶ。

 隊の拍は、微かにずれはじめた。
 稽古の号令は同じ速度で落ち、足音は同じ呼吸で並ぶのに、座が開かれたときの間がずれる。
 名→用向→座→紙→顔――土方歳三が磨き上げた順番は、全体としては守られるが、細部の角度に伊東の癖が入りこむ。
 「顔を先に立てる」
 「言葉で“暴れ”を吸う」
 「印を押す前に、詩を載せる」
 詩は悪くない。悪くないが、早い。
 詩が先に立つと、紙が後に重くなる。
 紙が重くなると、刃は最後に置けても、冷えが残る。

 土方は補条を増やして、番を増した。
 『講義之義・座中心得 付記』
 ――「詩は座の外にありて座を濡らすことあり。濡れ過ぎると、紙は乾かず」
――「顔を先に立てるは、時として効く。効くゆえ、常に用うべからず」
 墨は乾いたが、印は遅れた。
 遅れは、心の側にある迷いだ。
 迷いは、旗の布にしわを作る。
 しわは、美しく見えることがある。美しく見えれば、なお厄介だ。

     *

 近藤の名は、いよいよ決着に向かっていた。
 会津の顔は「顏の立つ名」を、町は「信用の降りる名」を、寺社は「礼に叶う名」を、蔵屋敷は「帳尻に載る名」を、それぞれ求めている。
 伊東は、書院の畳に短い座を設け、候補の名を秤にかけて見せた。
 「この名なら、宮中の拍に合う。あの名なら、江戸の声が通る。こちらの名は、町と商いに強い」
 土方は、黙って聴いていた。
 名は器。器が大きくなれば、水は増える。
 「漏れる口も増える」
 彼は、同じ一句を三度目に置いた。
 伊東は笑った。
 「漏れ口は、文で塞ぎます。紙で補い、顔で回し、詩で湿らす」
 「詩で湿らせば、乾きに時間がかかる」
 土方の返しは短い。
 時間は、敵味方に等しく働くわけではない。
 時は、風上を選ぶ。

 結局、名の器は、幾つかの顔の合意に薄紙を重ねたような形で決まり、近藤は黙って頭を垂れた。
 「皆で支える」
 それは、旗の棒にもう一本、見えない柱が増えたという意味だった。
 柱は、入口から吹く風を折り返して内へ流し、屋根の内側の温度を守る。
 温度は、人から出る。
 人は、疲れる。
 疲れは、夜に深く、朝に浅い。
 浅い朝の鐘が、器の縁を小さく鳴らした。

     *

 会津・町・寺社・蔵屋敷――四つの顔の圧は、日ごとに重く、しかし柔らかくかかってくるようになった。
 会津は「秩序」の語で、町は「信用」の語で、寺社は「礼」の語で、蔵屋敷は「勘定」の語で、座の端を押す。
 押し方は角がない。角がない分、逃げ道もない。
 土方は、押しに対する返しを紙に起こし、同文異表の三種を用意する。
 会津には「御所の拍」を先に。
 町には「顔と銭の回り」を先に。
 寺社には「礼の順番」を先に。
 蔵屋敷には「帳尻の速度」を先に。
 伊東は、その語を整え、温度を足した。
 温度が足されると、紙はよく通る。
 よく通るが、詩が混じる。
 詩が混じると、座は短くなる。
 短くなると、腹の時間が減る。
 腹の時間が減ると、刃は最後に置けても、置きどころが浅くなる。

 この浅さが、ある夜小さな事件を生んだ。
 町はずれの貸座敷で、倒幕を資金で支える筋の話が浮かぶ。
 山崎烝の耳が拾い、島田魁の肩が横の足を崩し、井上源三郎の結び目が逃げ道を塞いだ。
 座が開く。
 名→用向→座→紙→顔――いつもの順。
 だが、この夜、伊東が一歩前に出て、順番を崩した。
 「顔を先に、詩を挟む」
 彼は短い詩を置き、相手の顔を立て、座を滑らかにしようとした。
 その詩は美しかった。
 美しかったが、早かった。
 早い詩の隙に、一つ、名が抜けた。
 名は、ほんの半拍だけ、座の外へ逃げ、そこで別の名前とつながった。
 紙が追いついたとき、つながった名は、法度の外側にいた。

 刃の出番は、最後に来た。
 最後に来た刃は、短く、重く。
 土方の号令は低く、沖田の半歩は正確で、永倉の声は腹に響き、原田の槍は見せだけで足りた。
 座は収まり、紙は乾いた。
 乾いたが、冷えが残る。
 冷えは、詩の影に沈殿する。
 沈殿は、次の夜に効く。

 帰途、土方は伊東に言った。
「順番を崩す時は、刃の番を先に立ててから崩せ」
 伊東は、悪びれず笑った。
 「崩したから、刃が短くて済みました」
 言は正しい。
 正しい言ほど、危うい。
 危うさは、旗の布に見えぬ傷を作る。
 見えぬ傷は、入口の風で拡がる。

     *

 沖田の笑いと咳の間は、目に見えぬところで広がったり縮んだりした。
 子らの前では笑い、夜の座では声を落とし、稽古場では誰より軽く走り、寝所では袖の中で咳をひとつにまとめる。
 「総司、休め」
 井上が帯を結び直し、結び目で気持ちを支える。
 「休むのも稽古です」
 沖田は笑い、半歩を示す。
 半歩は、斬らない構えの核心で、入口の風を受け流す角度でもあった。
 伊東は、その半歩を興味深げに見た。
 「剣の半歩は、文の読点に似ている」
 「読点が多い文は、鈍る」
 土方が短く言うと、伊東はまた笑った。
 「読点がなければ、走り過ぎる。息が切れる」
 「息は、拍で整える」
 沖田の声は明るい。
 明るさは、刃の角を丸めない。ただ、座の湿りを保つ。
 その湿りの内で、入口の風は、さらに細く速くなっていく。

     *

 冬の底が抜けて、冷えの質が変わった。
 鐘の音は、前よりも遠く響き、戻ってくるのに時間を要する。
 戻る間に、噂が三つ走る。
 ひとつは、長州の恭順が文で固まりつつあるという噂。
 ひとつは、薩摩の風が、京の裾で雨に変わるという噂。
 ひとつは、新選組の中に、文の風を好む者と、剣の棒を好む者の座ができつつあるという噂。
 噂は、入口から入る。
入るたびに、座の間は、ほんのわずかに変わる。

 土方は、また補条を増やした。
 『座次改定・風入之節』
 ――「入口の番を二重に。文の入口には剣の番、剣の入口には文の番」
 ――「詩は、座に近づくほど薄く」
 ――「印は、詩より先に置く」
 印の赤は血ではない。
 だが、血の代わりに立つ覚悟の色だ。
 覚悟は、声にすると折れることがある。
 折らせぬために、紙に置く。

     *

 ある黄昏、「筆合」の座が終わった後、伊東は数人の若い者と私席を持った。
 詩と書に始まり、政に触れ、やがて道の話になる。
 「御所の拍と、江戸の拍は、最後には一拍になる」
 「そのとき、棒はどこに立つ」
 「棒は、旗の下から、宮の側へ移る」
 小さな声だった。
 小さな声は、遠くまで届く。
 届いた先で、入口が、出口に見えはじめる。
 出口に見えた口は、たしかに出口になりうる。
 そのとき、入口で番をしていた者は、裏口へ走らねばならない。

 土方は、私席の気配に気づいていた。
 気づいていて、すぐには動かなかった。
 動かぬかわりに、番を倍にした。
 山崎烝は耳を増やし、島田魁は肩の広さをもう半枚増やし、井上は結び目を二重にし、永倉は笑いで空気を和らげ、原田は槍を“見せ”る回数を減らした。
 減らすのは、見慣れを作らぬためだ。
 見慣れは、番を鈍らせる。

 その夜半、近藤は土方にだけ言った。
 「使うと決めた以上、使い切る」
 土方は頷いた。
 「番は俺が持つ」
 言葉は短い。
 短い言葉の間に、長い沈黙が置かれた。
 沈黙は、覚悟の形をしている。

     *

 やがて、小さな別の座が、寺の外に置かれはじめた。
 名を持たぬ席。
 灯の下ではなく、月の下。
 詩ではなく、道。
 剣ではなく、文。
 そこに伊東の影があるという噂は、入口から入って、座の中央に座らず、畳の縁だけを濡らしていった。
 縁が濡れれば、印は遅れる。
 遅れは、間を生む。
 間は、入口を出口にする。

 沖田は、その縁を見て、笑ってみせた。
 笑いは拍。
 拍は、隊の心臓。
 心臓が温かい限り、旗は折れない。
 ただ、旗の布の端に、ごく細い毛羽立ちが生じているのを、彼は見逃さなかった。
 毛羽立ちは、指では整えられる。
 風では、裂けに変わる。

 鐘が鳴った。
 冬の空に、細く長い音が走り、戻ってくる。
 戻ってきた音は、柱のどこかで小さく軋みに変わった。
 軋みは、木の声だ。
 木は、折れる前に必ず鳴く。
 鳴きを聞くのは、番の役目だ。
 番は、入口に立ち、出口を見張る。

     *

 翌朝、土方は紙を一枚増やした。
 『入口出口覚』
 ――「入口は、風のために開ける。出口は、人のために閉じる」
 ――「閉じるは、封ずるに非ず。番を置くこと」
 ――「番は、笑いと結びと見せと耳と紙と刃でなる。刃は最後」
 墨が乾くころ、伊東はすでに、別の入口のほうへ顔の角度を変えつつあった。
 角度は、まだ微差である。
 微差は、長い道の上では大差になる。
 長い道の上に、油の匂いがごく薄く漂った。
 匂いは、まだ名を持たない。
 名を持たぬ匂いは、番の鼻だけが拾う。

 近藤は、刀の紐を締め直し、土方の紙を受け取り、静かに言った。
 「旗は折らぬ。入口は保つ。出口は、選ぶ」
 選ぶ――その一語は、座の中央に置かれ、誰も触れなかった。
 触れれば、音が立つ。
 音が立てば、風が変わる。
 風が変われば、入口が出口に、いよいよ転じる。

 伊東甲子太郎は、灯の下で筆を置き、庭の闇を見た。
 「誠の旗――よい名だ」
 彼は、また小さな声で言い、続けた。
 「だが、誠は、誰の誠か」
 問いは、今度は誰かの胸に届いた。
 届いた胸の温度が、一度だけ下がる。
 温度が下がれば、旗はよく揺れる。
 よく揺れる旗は、美しい。
 美しいものほど、裂けやすい。
 入口の風は、なおも涼しく、同時に、どこか冷たかった。
 その冷たさの縁で、誰もがまだ名を知らぬ出口が、暗がりの中に、ほんの僅かに、口を開けていた。