その日、風が先に門を叩いた。
西本願寺の長い軒の下、旗は布に出されぬまま胸の骨の裏で揺れていたが、揺れの拍が一度だけ変わった。足音より先に、言の匂いが来たのだ。
僧の草履が石畳を掃き、門番が名を取る。
「伊東甲子太郎」
北辰一刀流の遣い手、儒をよくし、口舌は滑らか。紙に書けば、これだけで人となりの輪郭が立つ。だが、輪郭の中の芯までは、紙の字だけでは量れない。
伊東は、礼を尽くして頭を下げ、最初の言葉で風向きを変えた。
「新選組。京の秩序の棒。誠の旗。――見事です」
称えた。正面から。
そして、さらりと次の一行を置いた。
「これからは、剣より文が勝つ時代」
挑発ではない。診断だ。
風は門をくぐり、座の内側まで入り込んだ。
近藤勇は、口を結び、うなずいた。
「教養を備えた剣士は、顔になる」
会津への奏達、町奉行への控、蔵屋敷への書付――どれひとつ、粗くてよいものではない。
顔は、紙の上で先に立つ。
土方歳三は、眼の端で風を測る。
「……秤の眼だ」
重さを量る眼。忠誠も情も、戦功も評判も、同じ皿に載せて比べる眼。
それは、便利であり、危うい。
だが、組は大きくなった。
大きくなった組は、異物も呑み込む余裕を持たねばならない。
器に水が増えれば、旗の布は濡れずに済む夜が増える。
漏れ口が増えることは、番で補えばよい――土方は、自身にそう言い聞かせ、伊東の名を帳面の末尾に置いた。
*
伊東はすぐに仕事をした。
取り調べの口上を整え、上書の文言を磨き、会津への奏達文を格調高く改め、諸役所との折衝に「剣士の礼」を与える。
言葉は刃ではない。だが、刃の鞘になりうる。
鞘が良ければ、刃は最後まで鞘に眠る。
紙が良ければ、座は短く済む。
短く済めば、血は減る。
減った血は、旗の布の湿りを保つ。
『取調口上改』――伊東の筆は、冒頭の句読だけで座を引き締めた。
名、由緒、居所、用向。
「脅す言は要らぬ。道理の順を先に示す」
『上書文言拾遺』――末尾の敬辞に、剣士の姿勢が立った。
「刃をもって御用にあたり候えども、まず紙をもって御意をうかがい候」
会津への奏達――同文異表の妙。
京の句と江戸の句は、一文字違えば匂いが変わる。
伊東は、その匂いの差を嗅ぎ分け、文の温度を整えた。
やがて、講義が始まる。
「筆は刃ではない。刃は最後。筆は、最初」
若い者が集まり、煤けた灯の下で書を学ぶ。
「字は顔だ。顔は返しの速度」
沖田総司も、縁側からそれを見ていた。
咳は浅く、目は笑っている。
「拍で書くと、読む者の呼吸も合うんです」
伊東は軽く頷いた。「拍は、文にもある」
言葉の中に、同じ合図が見えた。ただ、音が少し違う――柔らかい。柔らかいが、芯は固い。
伊東の芯は、向きを変える時に音を立てる。
それは、酒席の端でも聞こえた。
永倉新八が盃を傾け、耳打ちする。
「あいつは、斬る前に天秤を振るう」
原田左之助は笑って盃を空ける。
「斬らずに済むなら上等だ」
沖田は黙って笑い、観察を続けた。
柔らかな声の奥に、硬い芯の節がときどき鳴る。
節が鳴るとき、文は刃より鋭い。
*
伊東は、思想を持っていた。
公武合体ではない。朝廷中心の新政。
薩長土肥の動きを読み、武家政の退潮を、冷静に言語化する。
「幕府は自然に、朝廷は必然に。剣は過去を守る。文は未来を呼ぶ」
言は美しく、よく通る。
美しい言ほど、危うい。
危うい言は、旗の布に細い裂け目を作ることがある。
裂け目は、最初は風しか通さない。
風が通えば、布はよく揺れる。
よく揺れれば、美しい。
美しいまま、薄くなる。
土方は、番を増やした。
『口上控』に小注――「言で人を束ねるのは、われらの役。言で人を連れてゆく他の棒を座に立てるな」。
「旗は割れる」
彼は、近藤に低く言った。
近藤はしばらく黙し、やがて頷く。
「だが、今は使う。京も江戸も、言葉で揺れておる。剣だけでは拾いきれぬ」
剣の行政は、傘の骨。
文の行政は、屋根の瓦。
骨だけでは雨をはじけず、瓦だけでは柱が立たない。
柱は、順番でできている。
紙で斬れ。
座で斬れ。
最後に、刀で斬れ。
その順番を、伊東は筆で助け、土方は番で守る――いまのところは。
*
西本願寺の器は、風の入口を作るのがうまい。
伊東は、門のところで、入口をひとつ増やした。
そこから、涼しさも、寒さも、香りも、塵も入る。
空気は澄んだ。
同時に、落ち着かなくなった。
落ち着かなさは、旗の布に静電のような細いざわめきを乗せる。
ざわめきは、紙の端にも移る。
紙がざわめけば、印の赤は遅く乾く。
ある午後、伊東は取り調べの場に座した。
座は、見せる座として整えられている。
名→用向→座→紙→顔。
伊東は、この順にわずかに息を足した。
「名は声で、用向は拍で、座は目で。紙は字で、顔は角度で」
角度――声の高さ、目の線、膝の向き。
角度がある座は、刃の出番を遠ざける。
遠ざかった刃は、重くなる。
重くなった刃は、価値になる。
夜、灯のしたで、伊東は筆を置き、庭の闇を見た。
「誠の旗――よい名だ」
独り言のようだった。
「だが、誠は、誰の誠か」
その問いは、まだ誰にも聞こえていない。
しかし、問われた瞬間から旗は少しだけ重みを増し、揺れやすくなる。
重さは、布にしなを作る。
しなのある布は美しい。
美しい布は、裂けやすい。
*
酒席の端で、もうひとつの入口が開いた。
小さな講義は、やがて小さなサロンになった。
詩を掲げ、書を比べ、政を談ず。
隊士の中には、伊東を慕う者が現れ、筆を執る者が増える。
「剣の稽古の後に、筆の稽古」
沖田は笑って、若い者を背で押す。
「拍は、剣にも筆にもある」
だが、永倉は盃の影で眉を寄せ、原田は笑いながらも目を細くする。
「天秤の音が増えた」
天秤は、便利だ。
だが、天秤は、先に置かれると、旗の棒の重さまで量り始める。
伊東は、薩長の紙の風を、あからさまに嫌わなかった。
嫌わぬどころか、その風の身のこなしの良さを、言葉で描写した。
「戦わずして勝つ道。文で人を動かす術」
彼は腕を組み、うすく笑う。
「幕府は自然に退く。朝廷は必然に進む。われらは、過渡の棒」
土方は黙って聞き、紙の端で指を止めた。
棒は、過渡にも要る。
要るが、「過渡」と名指される棒は、冷たくなる。
冷たさは、布の温度を奪う。
その夜の評議で、土方は補条を増やした。
『講義之義・座中心得』
――「思想は座の外で。座の内は、順番」
――「順番を崩す言は、刃に等し」
――「刃は最後」
伊東は目を伏せ、笑い、軽くうなずいた。
「順番、承知」とだけ言った。
承知の声は、柔らかい。
柔らかい声は、風を通す。
風が通れば、入口は広がる。
*
捕者の場で、伊東は刃を遠ざける術を見せた。
密談の噂が立った茶屋で、座が開かれる。
永倉が横を塞ぎ、原田が裏口を抑え、島田が肩で横の足を崩す。
名→用向→座→紙→顔――
伊東は、顔を先に出した。
「聞き及ぶところあり。だが、まず顔を立てる」
順番を崩した。
崩したのに、座は崩れなかった。
場がそれを受け入れるほど、彼の声は温度を持っていた。
温度のある声は、順番を一度だけ逆送りにできる。
逆送りが効けば、刃の出番はまた遠のく。
遠のけば遠のくほど、刃は重い棒になる。
土方は、帰り途で短く言った。
「……天秤を、座の内で振るな」
伊東は笑った。
「振っておりませぬ。目で量っているだけ」
目で量る――それは、秤より厄介だ。
目は、座の外でも振れる。
沖田は、二人の背を見送り、袖に咳を沈めた。
咳は、夜に深い。
深い夜ほど、彼は笑いを置いた。
笑いは拍。
拍は、隊の心臓。
心臓が温かい限り、誠の字は布に出さずとも揺れる。
ただ、その揺れの振幅が、少し大きくなっているのを、彼は感じていた。
*
名の話が、再び上がる。
近藤の器は、いよいよ大きくなるべき時に来ていた。
由緒、格式、旗印の正統。
伊東は、紙の上で案内をした。
「この名なら、礼に叶う。あの名なら、信用が下りる。この名なら、顔が立つ」
天秤の皿に名を載せ、角度で勧める。
土方は、一言だけ置く。
「器に入る水は増えるが、漏れる口も増える」
伊東は応える。
「漏れ口は、文で塞げます」
土方は、紙の端で指を止めた。
文で塞げぬ漏れ口を、いくつも見てきた。
塞げぬ口から、風が入る。
風は、入口を出口に変える。
夜の回廊で、伊東は庭の闇を見た。
「旗の誠」
彼は、ほとんど唇を動かさずに発音し、
「誰の誠か」
と続けた。
問いは、まだ空にしか響かない。
だが、問いの影は、座の隅に残る。
影は、人の胸で育つ。
育てば、答えが欲しくなる。
答えは、旗の布に書けない。
*
冬の底、講和の文が定着し、京の音は一段低くなった。
低い音は、静謐に似ている。
静謐は、嵐の礼儀。
西本願寺の鐘が、乾いた空に長く響く。
引き潮の足音が遠のくほど、砂は広く、石は多く、貝は光る。
貝を拾う指は、文字に似る。
文字は美しい。
美しい文字は、刃の角度を曖昧にする。
曖昧は、順番の敵だ。
土方は、補条にさらに小さな句を足した。
――「美は座の外で。座の内は、順番」
――「順番の背に、温度」
――「温度の背に、覚悟」
印はゆっくり乾き、乾く間に、伊東の講義が一つ増え、若い者の手習いが二つ増えた。
増える手習いは、旗の布の湿りになる。
湿りは、火を遠ざける。
火が遠ざかるほど、風は入りやすい。
ある晩、沖田が伊東に問うた。
「先生。順番は、文にもありますか」
伊東は笑って、少し考えた。
「ある。名→用向→座→紙→顔――君たちの順は美しい。だが、世の順は、時に違う」
「違えば?」
「変える」
「誰が?」
伊東は、庭の暗がりを見た。
「言が」
沖田は笑って頷き、袖に咳を沈めた。
咳は、答えにならない。
答えにならぬものが、夜を長くする。
*
西本願寺の区画は、伊東の風で少しだけ角度を変えた。
稽古場の脇に「筆合」の座が生まれ、兵具庫の隣に「文庫」の間ができ、調練路の終いに「小講」の幕が張られた。
紙は増え、声は増え、刃の歌は短くなった。
短い刃の歌は、重い。
重い刃の歌は、価値だ。
価値は、狙われる。
狙われるほど、入口は出口になりやすい。
伊東は、門で一度立ち止まった。
入ってきた風の通り道を、目でなぞる。
「入口は、口でもある」
彼は、独り言を落とし、灯の下へ戻った。
灯は、紙を白くし、影を濃くする。
影が濃くなると、芯が見える。
芯は、向きを変える時に音を立てる。
音は、まだ小さい。
小さい音ほど、遠くまで届く。
その夜半、土方は紙の端に、薄く一行を加えた。
――『入口ハ、出口ニ通ズ。入口ノ番ヲ堅クスベシ。文ノ入口、剣ノ番。剣ノ入口、文ノ番。』
筆は、わずかに躊躇した。
躊躇は、人の温度だ。
温度があるうちは、旗は折れない。
折れない旗の布の裏で、拍が静かに増えた。
鐘が鳴り、冬の空気が薄く震えた。
伊東の言は、まだ座を割ってはいない。
まだ――だ。
風は、入口から入る。
涼しさも、寒さも、香りも、塵も。
そのすべてを抱えながら、新選組の空気は澄み、そして、落ち着かなくなっていった。
西本願寺の長い軒の下、旗は布に出されぬまま胸の骨の裏で揺れていたが、揺れの拍が一度だけ変わった。足音より先に、言の匂いが来たのだ。
僧の草履が石畳を掃き、門番が名を取る。
「伊東甲子太郎」
北辰一刀流の遣い手、儒をよくし、口舌は滑らか。紙に書けば、これだけで人となりの輪郭が立つ。だが、輪郭の中の芯までは、紙の字だけでは量れない。
伊東は、礼を尽くして頭を下げ、最初の言葉で風向きを変えた。
「新選組。京の秩序の棒。誠の旗。――見事です」
称えた。正面から。
そして、さらりと次の一行を置いた。
「これからは、剣より文が勝つ時代」
挑発ではない。診断だ。
風は門をくぐり、座の内側まで入り込んだ。
近藤勇は、口を結び、うなずいた。
「教養を備えた剣士は、顔になる」
会津への奏達、町奉行への控、蔵屋敷への書付――どれひとつ、粗くてよいものではない。
顔は、紙の上で先に立つ。
土方歳三は、眼の端で風を測る。
「……秤の眼だ」
重さを量る眼。忠誠も情も、戦功も評判も、同じ皿に載せて比べる眼。
それは、便利であり、危うい。
だが、組は大きくなった。
大きくなった組は、異物も呑み込む余裕を持たねばならない。
器に水が増えれば、旗の布は濡れずに済む夜が増える。
漏れ口が増えることは、番で補えばよい――土方は、自身にそう言い聞かせ、伊東の名を帳面の末尾に置いた。
*
伊東はすぐに仕事をした。
取り調べの口上を整え、上書の文言を磨き、会津への奏達文を格調高く改め、諸役所との折衝に「剣士の礼」を与える。
言葉は刃ではない。だが、刃の鞘になりうる。
鞘が良ければ、刃は最後まで鞘に眠る。
紙が良ければ、座は短く済む。
短く済めば、血は減る。
減った血は、旗の布の湿りを保つ。
『取調口上改』――伊東の筆は、冒頭の句読だけで座を引き締めた。
名、由緒、居所、用向。
「脅す言は要らぬ。道理の順を先に示す」
『上書文言拾遺』――末尾の敬辞に、剣士の姿勢が立った。
「刃をもって御用にあたり候えども、まず紙をもって御意をうかがい候」
会津への奏達――同文異表の妙。
京の句と江戸の句は、一文字違えば匂いが変わる。
伊東は、その匂いの差を嗅ぎ分け、文の温度を整えた。
やがて、講義が始まる。
「筆は刃ではない。刃は最後。筆は、最初」
若い者が集まり、煤けた灯の下で書を学ぶ。
「字は顔だ。顔は返しの速度」
沖田総司も、縁側からそれを見ていた。
咳は浅く、目は笑っている。
「拍で書くと、読む者の呼吸も合うんです」
伊東は軽く頷いた。「拍は、文にもある」
言葉の中に、同じ合図が見えた。ただ、音が少し違う――柔らかい。柔らかいが、芯は固い。
伊東の芯は、向きを変える時に音を立てる。
それは、酒席の端でも聞こえた。
永倉新八が盃を傾け、耳打ちする。
「あいつは、斬る前に天秤を振るう」
原田左之助は笑って盃を空ける。
「斬らずに済むなら上等だ」
沖田は黙って笑い、観察を続けた。
柔らかな声の奥に、硬い芯の節がときどき鳴る。
節が鳴るとき、文は刃より鋭い。
*
伊東は、思想を持っていた。
公武合体ではない。朝廷中心の新政。
薩長土肥の動きを読み、武家政の退潮を、冷静に言語化する。
「幕府は自然に、朝廷は必然に。剣は過去を守る。文は未来を呼ぶ」
言は美しく、よく通る。
美しい言ほど、危うい。
危うい言は、旗の布に細い裂け目を作ることがある。
裂け目は、最初は風しか通さない。
風が通えば、布はよく揺れる。
よく揺れれば、美しい。
美しいまま、薄くなる。
土方は、番を増やした。
『口上控』に小注――「言で人を束ねるのは、われらの役。言で人を連れてゆく他の棒を座に立てるな」。
「旗は割れる」
彼は、近藤に低く言った。
近藤はしばらく黙し、やがて頷く。
「だが、今は使う。京も江戸も、言葉で揺れておる。剣だけでは拾いきれぬ」
剣の行政は、傘の骨。
文の行政は、屋根の瓦。
骨だけでは雨をはじけず、瓦だけでは柱が立たない。
柱は、順番でできている。
紙で斬れ。
座で斬れ。
最後に、刀で斬れ。
その順番を、伊東は筆で助け、土方は番で守る――いまのところは。
*
西本願寺の器は、風の入口を作るのがうまい。
伊東は、門のところで、入口をひとつ増やした。
そこから、涼しさも、寒さも、香りも、塵も入る。
空気は澄んだ。
同時に、落ち着かなくなった。
落ち着かなさは、旗の布に静電のような細いざわめきを乗せる。
ざわめきは、紙の端にも移る。
紙がざわめけば、印の赤は遅く乾く。
ある午後、伊東は取り調べの場に座した。
座は、見せる座として整えられている。
名→用向→座→紙→顔。
伊東は、この順にわずかに息を足した。
「名は声で、用向は拍で、座は目で。紙は字で、顔は角度で」
角度――声の高さ、目の線、膝の向き。
角度がある座は、刃の出番を遠ざける。
遠ざかった刃は、重くなる。
重くなった刃は、価値になる。
夜、灯のしたで、伊東は筆を置き、庭の闇を見た。
「誠の旗――よい名だ」
独り言のようだった。
「だが、誠は、誰の誠か」
その問いは、まだ誰にも聞こえていない。
しかし、問われた瞬間から旗は少しだけ重みを増し、揺れやすくなる。
重さは、布にしなを作る。
しなのある布は美しい。
美しい布は、裂けやすい。
*
酒席の端で、もうひとつの入口が開いた。
小さな講義は、やがて小さなサロンになった。
詩を掲げ、書を比べ、政を談ず。
隊士の中には、伊東を慕う者が現れ、筆を執る者が増える。
「剣の稽古の後に、筆の稽古」
沖田は笑って、若い者を背で押す。
「拍は、剣にも筆にもある」
だが、永倉は盃の影で眉を寄せ、原田は笑いながらも目を細くする。
「天秤の音が増えた」
天秤は、便利だ。
だが、天秤は、先に置かれると、旗の棒の重さまで量り始める。
伊東は、薩長の紙の風を、あからさまに嫌わなかった。
嫌わぬどころか、その風の身のこなしの良さを、言葉で描写した。
「戦わずして勝つ道。文で人を動かす術」
彼は腕を組み、うすく笑う。
「幕府は自然に退く。朝廷は必然に進む。われらは、過渡の棒」
土方は黙って聞き、紙の端で指を止めた。
棒は、過渡にも要る。
要るが、「過渡」と名指される棒は、冷たくなる。
冷たさは、布の温度を奪う。
その夜の評議で、土方は補条を増やした。
『講義之義・座中心得』
――「思想は座の外で。座の内は、順番」
――「順番を崩す言は、刃に等し」
――「刃は最後」
伊東は目を伏せ、笑い、軽くうなずいた。
「順番、承知」とだけ言った。
承知の声は、柔らかい。
柔らかい声は、風を通す。
風が通れば、入口は広がる。
*
捕者の場で、伊東は刃を遠ざける術を見せた。
密談の噂が立った茶屋で、座が開かれる。
永倉が横を塞ぎ、原田が裏口を抑え、島田が肩で横の足を崩す。
名→用向→座→紙→顔――
伊東は、顔を先に出した。
「聞き及ぶところあり。だが、まず顔を立てる」
順番を崩した。
崩したのに、座は崩れなかった。
場がそれを受け入れるほど、彼の声は温度を持っていた。
温度のある声は、順番を一度だけ逆送りにできる。
逆送りが効けば、刃の出番はまた遠のく。
遠のけば遠のくほど、刃は重い棒になる。
土方は、帰り途で短く言った。
「……天秤を、座の内で振るな」
伊東は笑った。
「振っておりませぬ。目で量っているだけ」
目で量る――それは、秤より厄介だ。
目は、座の外でも振れる。
沖田は、二人の背を見送り、袖に咳を沈めた。
咳は、夜に深い。
深い夜ほど、彼は笑いを置いた。
笑いは拍。
拍は、隊の心臓。
心臓が温かい限り、誠の字は布に出さずとも揺れる。
ただ、その揺れの振幅が、少し大きくなっているのを、彼は感じていた。
*
名の話が、再び上がる。
近藤の器は、いよいよ大きくなるべき時に来ていた。
由緒、格式、旗印の正統。
伊東は、紙の上で案内をした。
「この名なら、礼に叶う。あの名なら、信用が下りる。この名なら、顔が立つ」
天秤の皿に名を載せ、角度で勧める。
土方は、一言だけ置く。
「器に入る水は増えるが、漏れる口も増える」
伊東は応える。
「漏れ口は、文で塞げます」
土方は、紙の端で指を止めた。
文で塞げぬ漏れ口を、いくつも見てきた。
塞げぬ口から、風が入る。
風は、入口を出口に変える。
夜の回廊で、伊東は庭の闇を見た。
「旗の誠」
彼は、ほとんど唇を動かさずに発音し、
「誰の誠か」
と続けた。
問いは、まだ空にしか響かない。
だが、問いの影は、座の隅に残る。
影は、人の胸で育つ。
育てば、答えが欲しくなる。
答えは、旗の布に書けない。
*
冬の底、講和の文が定着し、京の音は一段低くなった。
低い音は、静謐に似ている。
静謐は、嵐の礼儀。
西本願寺の鐘が、乾いた空に長く響く。
引き潮の足音が遠のくほど、砂は広く、石は多く、貝は光る。
貝を拾う指は、文字に似る。
文字は美しい。
美しい文字は、刃の角度を曖昧にする。
曖昧は、順番の敵だ。
土方は、補条にさらに小さな句を足した。
――「美は座の外で。座の内は、順番」
――「順番の背に、温度」
――「温度の背に、覚悟」
印はゆっくり乾き、乾く間に、伊東の講義が一つ増え、若い者の手習いが二つ増えた。
増える手習いは、旗の布の湿りになる。
湿りは、火を遠ざける。
火が遠ざかるほど、風は入りやすい。
ある晩、沖田が伊東に問うた。
「先生。順番は、文にもありますか」
伊東は笑って、少し考えた。
「ある。名→用向→座→紙→顔――君たちの順は美しい。だが、世の順は、時に違う」
「違えば?」
「変える」
「誰が?」
伊東は、庭の暗がりを見た。
「言が」
沖田は笑って頷き、袖に咳を沈めた。
咳は、答えにならない。
答えにならぬものが、夜を長くする。
*
西本願寺の区画は、伊東の風で少しだけ角度を変えた。
稽古場の脇に「筆合」の座が生まれ、兵具庫の隣に「文庫」の間ができ、調練路の終いに「小講」の幕が張られた。
紙は増え、声は増え、刃の歌は短くなった。
短い刃の歌は、重い。
重い刃の歌は、価値だ。
価値は、狙われる。
狙われるほど、入口は出口になりやすい。
伊東は、門で一度立ち止まった。
入ってきた風の通り道を、目でなぞる。
「入口は、口でもある」
彼は、独り言を落とし、灯の下へ戻った。
灯は、紙を白くし、影を濃くする。
影が濃くなると、芯が見える。
芯は、向きを変える時に音を立てる。
音は、まだ小さい。
小さい音ほど、遠くまで届く。
その夜半、土方は紙の端に、薄く一行を加えた。
――『入口ハ、出口ニ通ズ。入口ノ番ヲ堅クスベシ。文ノ入口、剣ノ番。剣ノ入口、文ノ番。』
筆は、わずかに躊躇した。
躊躇は、人の温度だ。
温度があるうちは、旗は折れない。
折れない旗の布の裏で、拍が静かに増えた。
鐘が鳴り、冬の空気が薄く震えた。
伊東の言は、まだ座を割ってはいない。
まだ――だ。
風は、入口から入る。
涼しさも、寒さも、香りも、塵も。
そのすべてを抱えながら、新選組の空気は澄み、そして、落ち着かなくなっていった。



