京の風は、江戸と違って乾いて刺す。
 石畳にからみつく煤の匂い、鴨川の底に沈む冷えの層、町筋を抜ける足音の速さ――どれもが、浪士組を招き寄せておきながら、同時に突き放しているようだった。

 壬生の八木家に屯所を定めて数日。近藤勇は、朝の縁に腰をおろし、濡れ縁をわずかに濡らす露の粒を払った。庭の椿は花の色を深めている。だが、ここは花を眺めるための庭ではない。靴音が土を掘り、木刀が空気を裂き、夜の気配は血の匂いに変わる。
 「勇さん」
 襖の陰から、井上源三郎が静かに現れる。歳の功で、人の声の高さでその日の空模様を読む男だ。
 「今日、会津からの使いが来る。芹沢殿と、その一党も同席なさる由」
 近藤は短く頷き、口の中で言葉を転がした。――芹沢鴨。
 その名は、京の下駄音よりも先に耳に入っていた。水戸の血気、奔放、そして剛。夜更の乱行を見咎めた者は、翌朝にはいなくなる。噂はどれも行き先を持たないまま、壬生の空に溜まっている。

 廊下の向こうで、沖田総司が稽古着の紐を結んでいる。目が合うと、あどけない笑みが返ってきた。
 「すごい人らしいですね、芹沢さん」
 「すごい、の中身だな」
 近藤が言うと、奥から土方歳三が現れた。黒の羽織は皺ひとつなく、視線は刃物のように薄い。
 「すごさは扱い方を誤ると厄介だ。桶が小さければ、水は溢れる」
 「桶を大きくすればいい」
 勇が笑って返すと、土方は口の端だけで笑い、煙管の先を軽く叩いた。

     *

 八木家の座敷は、朝の光を撥ね返して白い。
 会津藩の目付が座を占め、その左右に浪士組の面々が控える。片側には近藤、土方、山南、沖田、井上、永倉、原田――天然理心流の名――もう片側には、芹沢鴨、平間重助、野口健司、そして新見錦ら水戸派。
 芹沢は一目で場を所有した。背はさほど高くないのに、座り方が大きい。膝の開きが獣じみて、背筋は弓のように反っている。額の皺は深く刻まれ、眼は笑っても笑っていない眼だ。
 「会津公御預かりの御用、壬生浪士組――」
 目付が口上を述べる間、芹沢はじっと相手の歯音を数えているように見えた。やがて合図が終わると、彼は朗々と、しかし乱暴に言った。
 「治安は剣でしか戻らん。狼が徘徊する夜に、経文を唱えても朝には齧られている」
 近藤は軽く頭を下げ、「剣は秩序のために」と返す。
 芹沢は鼻で笑う。「秩序は剣の副産物だ。まず剣の威。威があれば、民は黙る」
 威――その言葉は、座にいる者の喉に小石のように引っかかった。土方は瞬きを一度だけして、それきり動かない。言葉に刃を当てて、刃こぼれを確かめている顔だった。

 山南が穏やかな声で口を出した。
 「威は必要でしょう。ですが、威は怖れと紙一重です。怖れは恨みを孕み、恨みは夜陰に化ける。僕らが相手にすべきは、夜陰の顔ではないはず」
 「お前はよく喋るな」
 芹沢の眼が笑った。「言が刀の上だと? 刀の上で踊っていられるのは、刀が鈍らぬうちだけだ」
 沖田がわずかに眉を上げ、永倉が膝の上で拳を握り、原田は槍の代わりに空気を掴んでいる。緊張は音のない合戦のように座敷を走った。

 会は取り繕った調子のまま散じたが、壬生の空はひとつ重くなった。
 「近藤さん」
 引き上げてくる廊下で、土方が低く言う。「あれは風だ。正面から押さえれば、家が軋む。風が抜ける道を考えろ」
 「道?」
 「放蕩の口実を潰し、乱暴狼藉の筋を切る。やつの威が“御用”の枠に収まるように、柵を先に打つ」
 近藤は黙ってうなずく。己の胸のうちで、剣と柵が噛み合う音がした。

     *

 京は、夜に顔を変える。
 夕刻、壬生から三条へと出ると、暖簾が灯を含み、路地の影が濃くなる。木屋町の流れは闇に光り、小間物屋の娘が戸を閉める。
 「今日は下がれ」
 土方が若い者を帰し、沖田と二人だけで通りを歩いた。
 「副長」
「ああ」
 「さっきの座で、芹沢さんは僕たちを試していましたね」
 「試す、というより、自分の使い心地を測っていた。あの手の男は、自分が刀かどうかにしか興味がない」
 「刀?」
 「刀は鞘無しでは生きられん。抜きっぱなしなら、やがて折れる」
 沖田は笑って頷いた。「なら、僕らが鞘ですね」
 土方は返事をしなかった。彼の目は、川べりの一団に止まっていた。酔いの勢いに任せて路地の男を蹴りつける影。荒い笑い。白い息。
 「水戸の連中だ」
 近づくと、ひとりが振り返って、にやりと笑った。
 「おう、壬生の坊ちゃんがた」
 「御用改めだ」
 土方の声は氷のように冷たかった。「乱妨狼藉は御法度。名を名乗れ」
 「名? 芹沢様の威光を知らぬのか」
 刹那、沖田の体が溶けた。雪が風に融けるみたいに、前へ。相手の腕の筋を掴み、手首を返して地面に沈める。刃は抜かない。ただ、低く。
 「名を」
 男の歯が鳴り、夜風が音を攫う。
 「――平間……」
 「重助殿の手の者か」
 土方は短く頷くと、懐から紙片を出して男に見せた。会津の目付の記した“浪士組取締細目”。まだ墨の匂いが新しい。
 「今夜の狼藉は、ここに記す。明朝、芹沢殿に届ける。次は“ここ”では済まない」
 土方の指は紙ではなく、男の眉間を指していた。
 男は舌打ちをひとつ残し、影の群れは水に溶けるように散った。
 「副長」
 沖田が小さく笑う。「紙で斬るのも、悪くない」
 「紙で斬れぬ時は、刀で斬る」
 土方の声は低い。「順番を決めるのは、こちらだ」

     *

 翌日、八木家の座敷に芹沢が現れた。
 「昨夜の話は聞いた」
 彼は座するなり、酒を求めた。朝からの酒。盃は一息で空になる。
 「会津の細目がどうした。紙は紙だ。夜の京は紙では拭えない」
 「拭えません」
 近藤が正面から言った。「拭えないからこそ、まず紙に落とす。筋を立てる。筋が無ければ、俺たちの斬り口はただの乱暴です」
 「乱暴でいい」
 芹沢の声が笑い、座敷の柱が一度だけ鳴った。「乱暴こそ、乱れた世を戻す唯一の言葉だ」
 言い終わらぬうちに、彼は立ち上がり、座敷の端の小箪笥を蹴り倒した。小さな音がはね、引き出しから帳面がこぼれる。紙は白く、空気は乾いている。
 「……昨夜の狼藉は、これで帳消しということに?」
 山南が静かに問うと、芹沢は大きく笑った。
「苦情は明日まとめて聞いてやる」
 土方の眼がわずかに光り、近藤の額の血が温度を上げた。
 その場はそれ以上、荒れなかった。荒らさなかった――と言うべきだろう。だが座の空気は、薄い氷の上を歩くみたいに緊張したまま、昼を過ぎた。

     *

 京の町は、目に見えない境界線で満ちている。
 この辻を一本越えれば長州の影、この角を曲がれば薩摩の息、この寺の回廊には会津の足音――政治の線が石畳の下で光っている。浪士組は、その線の上を歩くよう命じられているのだ。
 夜半、火の手が上がった。場所は木屋町のはずれ。酒蔵の板戸が赤く染まり、男の叫びが風に散る。
 「行くぞ」
 土方の一声に、沖田、永倉、原田が続く。近藤は殿に回って後詰の段取りを指示した。
 火は派手だが、火筋は浅い。誰かが見せるために点けた火――土方は鼻で判じる。蔵の陰に、複数の足音。
 「出ろ」
 声の先に現れたのは、昨夜の面子に別の影が混じった群れ。
 「また壬生の坊ちゃんか」
 「坊ちゃんでも、御用は御用だ」
 永倉の声音が低く沈む。「火付けは斬首。覚悟はあるか」
 「覚悟ならある」
 暗がりから、別の声が割って入った。芹沢だった。
 「火は、恐怖に一番よく効く薬だ」
 「薬は分量を違えれば毒です」
 山南が駆けつけて低く言う。
 「毒で良い」
 芹沢は笑い、袖口で汗を拭った。「毒でしか治らぬ病が、京には蔓延している」
 その刹那、土方が一歩踏み出した。踏む音がひとつ。足の幅が戦の幅になる。
 「芹沢殿。昨夜の記録、今夜の火付け、明朝、会津と町奉行所に届ける。以後、この手の“薬”は御用の外で扱うな」
 「外?」
 「ここは御用の中だ。御用の中の毒は、俺が責任を取る。外で撒くなら、斬る」
 芹沢の眼が、初めて笑うのをやめた。
 沈黙。火のはぜる音。遠くで鳴る町太鼓。
 やがて芹沢は肩を一度だけ震わせ、踵を返した。
 「好きに記せ。紙で腹は斬れぬ」
 影が散る。火は手早く消され、焦げた木の匂いだけが夜に残った。

     *

 翌朝の八木家。
 近藤は帳面の前で筆をとった。会津への報告。夜警の巡回路。火急時の合図。乱暴狼藉の処置。
 筆は刀ほど派手ではない。だが、刀の斬り口を正当化する筋を紙に残すのは、組の心臓の鼓動に等しい。
 「土方君」
 山南が目を上げる。「昨夜の言い回しは、強かった」
 「強くせねば伝わらぬ相手だ」
 土方は目を落としたまま言い、紙に小さく“順”の字を書き添えた。
 「順番を間違えれば、刀はすぐに“ただの暴力”に堕ちる。順を守って暴れる。これが俺たちのやり方だ」
 「暴れるのは、やはり避けられないのだな」
 山南の顔に影が差す。
 「避けられる暴れと、避けられぬ暴れがある」
 土方は筆先を拭い、静かに微笑んだ。「お前は、避けられる暴れをすべて避ければいい。俺は、避けられぬ暴れをすべて引き受ける」
 その言葉は、彼自身の未来への密かな判決でもあった。

     *

 数日をおかずに、芹沢一派の酒宴が開かれた。
 招きは広く、上洛したばかりの浪士ども、町の顔役、商人、芸妓。八木家の座敷は夜更まで笑いと盃で満ち、廊の障子に影が踊る。
 近藤たちは、断り切れずに座の端に連なった。
 「ちと、見物だ」
 永倉が杯を受け、原田が味を確かめる。沖田は盃に指を添えたまま、ほとんど口をつけない。土方は最初から水を所望し、山南は途中で席を外して帳面を見に行った。
 中央で、芹沢が大笑している。芸妓の扇を取り上げ、唄に無体な節をつけ、笑いの狙いを席の弱い者に向ける。笑われる者は笑うしかない。笑っても、笑わなくても、傷になる。
 「おい、壬生の坊ちゃん」
 芹沢が扇をこちらに向けた。「昨夜の火、紙に書いたか」
 近藤は盃を置き、静かに頷く。「書いた。会津にも、町奉行にも」
「よう書いた」
 芹沢はにやりと笑い、扇で座の端の若者の頭をひとつ叩いた。
 「痛いか?」
 若者は顔を強ばらせ、笑ってみせる。
 「笑うな。痛いなら痛いと言え」
 座が凍る。
 近藤が立ち、扇を受け取って畳に置いた。
 「芹沢殿。座は座らしく」
 「座らしく?」
 「乱れれば、座は崩れる。崩れた座は戦になる」
 芹沢はしばらく近藤の顔を見て、それから盃をつかみ、酒を流し込んだ。
 「よかろう。今夜は崩さぬ」
 言葉の最後に、かすかに“まだ”がついていた。

     *

 壬生寺の鐘は、夜の深さを告げるより先に、心の浅さを打つ。
 その夜更、近藤と土方は座敷を抜けて廊に出た。風が酔いを冷やす。
 「副長」
 「うむ」
 「芹沢さんは、俺たちの正面に立っているというより、俺たちの背に回ろうとしている」
 「背か」
 「背は、刺しやすい」
 土方は首だけで頷いた。「背を守るのが、俺たちの順番だ」
 「守り切れるか」
 「守る。守れなきゃ、順番を変える」
 「順番?」
 「背を出さぬように、座の形を変える。連中の放縦を“御用の顔”に巻きつける。縛りすぎれば噛む。緩めすぎれば崩れる。綱の張り具合を見ろ」
 近藤は肩を回し、息をひとつ吐いた。
 「やれる」
 断じる声は、しかしどこか自分にも聞かせている響きだった。

     *

 翌日の昼前、突然の呼び出しがあった。
 先の酒宴で笑いものにされた若い者が、夜明けに井戸で首を括っていたのだという。
 座は一気に冷えた。人が死ねば、笑いは嘘に変わる。
 近藤は遺骸の前に座し、黙礼した。顔はまだ温い。畳に落ちる影の輪郭が、やけにくっきりしている。
 「記す」
 土方が短く言い、山南は筆を取った。
 「誰も、彼の名を笑いで消すことはできない。紙に残す。名を残す」
 沖田は静かに目を伏せ、永倉は歯を食いしばり、原田は拳を握って指の骨を鳴らした。
 芹沢は現れなかった。
 ――現れないというふるまいもまた、威である。
 近藤はそのことを、遺骸の冷えに手をのせながら、痛いほど理解した。

     *

 日が傾くころ、雨が降り始めた。
 壬生の土は水を吸い、庭の石が暗くなる。
 縁に腰かけた近藤の隣に、土方が座った。雨の筋を目で追い、彼は言う。
 「芹沢の威は、民に恐怖を、隊に軋みを、御用に隙を生む」
 「なら、どうする」
 「威を“仕事”に変える。変わらねば、切る」
 近藤は頷いた。
 「切るなら、俺が立つ」
 土方は目を細めた。「順番だ。立つ順は、最後に決める」
 雨脚が強まる。軒に吊るした風鈴が鳴り、濡れた庭に赤い椿がひとつ落ちた。
 落ちる音はしない。だが、落ちたという事実だけが冷ややかに残る。

     *

 夜半、巡察の合図で起こされた。
 木屋町の外れ、茶屋の前に血の筋。争いの跡。
 「斬り合いだな」
 永倉が刀の柄に手を置く。
 「いや、斬り合いに見せた殴り」
 土方が地面に膝をつき、指先で血の広がりを撫でる。「刃の跳ねがない。鈍器だ」
 「誰が」
 「威を見せたい者」
 返事の代わりに、路地の奥で笑い声が弾けた。
 芹沢の影が、提灯の灯りの外に立っていた。
 「おお、壬生の坊ちゃん。夜回りご苦労」
 「御用だ」
 近藤は一歩前に出る。「これ以上の狼藉は、名を貶めるばかりだ」
 「名?」
 芹沢は笑い、前に歩み出て、灯りの縁を踏んだ。
「名を欲しがるのは、まだ若い証拠だ。名より先に、恐れられろ。恐れられれば、名は後からついてくる」
 「恐れられただけの名は、すぐ嫌われる」
 沖田が静かに言った。「嫌われた名は、長く生きない」
 芹沢は沖田の顔を見、ほんの少しだけ目を細めた。
 「面白い目をしている。お前は早く死ぬ」
 沖田は笑って、何も言わなかった。
 土方が前へ出る。「本題だ。今夜のこれは、お前がやったか」
 「俺でないなら?」
 「記す。明日、御用の席に出せ」
 「出さぬなら?」
 「――斬る」
 膝の間に落ちた言葉は、よく研がれていて、光らなかった。
 芹沢は初めて、声を立てずに笑った。そして、背を向けた。
 「明日話そう。火は消した。血も拭え。紙にでも書いておけ」
 影が去る。
 夜は、またひとつ冷たくなった。

     *

 翌朝、八木家の座敷。
 会津の目付と、浪士組の面々。
 芹沢は遅れて現れ、無言で座についた。
 目付が口を開く前に、土方が帳面を差し出す。
 「昨夜の件、名前、時刻、場所、形跡。これが筋」
 目付は帳面を繰り、短く頷いた。
 「以後、狼藉は厳罰に処す。名において」
 その“名”がどの名を指すのか――会津か、浪士組か、芹沢か――座の誰もが、理解していながら言葉にしなかった。
 芹沢は帳面に目を落とし、やがて唇の端をわずかに上げた。
 「紙で斬ると言ったな、副長」
 土方は何も言わない。
 「斬られた傷は、夜、疼く」
 芹沢は立ち上がり、座を出た。
 残された空気は、雨上がりの土の匂いがした。

     *

 その日の午後、近藤は庭で剣を振った。
 振りは高からず、低からず。息は浅からず、深からず。
 刃はまだ、人を斬るために研がれている。だが、斬らずに済む日があるなら、それに越したことはない。
 縁に腰を下ろし、汗を拭うと、山南が膝を進めた。
 「近藤さん。あなたは“誠”という字を、旗に掲げたいのだね」
 「まだ旗はない」
 近藤は笑った。「だが、旗があれば、皆の目の高さが揃う」
 「芹沢さんは、旗を嫌うだろう」
 「旗は、目印だ。嫌う者には目印がいらないかもしれない」
 山南はうなずき、庭の椿を見た。
 「目印は、風で折れることがある。折れたとき、どうする」
 「折れた旗は、畳んで持つ。持って歩けば、また立てられる」
 「誰が持つ」
 「皆で」
 山南は目を閉じた。「皆で、は最も難しい」
 近藤は頷き、柄に手を置いた。
 「難しいことをやるために、ここにいる」

     *

 夜の入口の色になるころ、沖田がふいに咳き込み、袖口を口に当てた。薄い紅が滲んだ。
 「総司」
 近藤が振り返る。
 「大丈夫ですよ」
 沖田は笑って、袖をしっかりと握った。「少し、冷えただけです」
 土方がこちらを見た。目は何も言わない。だが、その沈黙の重さが、言葉の代わりだった。

     *

 芹沢は、いつ、どこで、どれほどの無体を働くのか――予測がつかないこと自体が、彼の威だった。
 だが、その威の輪郭が、ゆっくりと紙に写り取りされていく。
 巡察の地図に、細い朱が増える。
 御用改めの記録に、同じ筆跡の名が重なる。
 若い者の間に、言葉ではない視線の合図が身につく。
 「これが“組”になるということだ」
 土方が呟くと、近藤は静かに頷いた。
 「組にする。乱暴でも、乱戦でもない。“組”に」
 「芹沢殿は、組を嫌う」
 「嫌うなら、なおさら組にする。組は盾だ。盾があれば、誰かの命が一日延びる」
 近藤の言葉は、遠い未来にいる自分に向けられているようにも聞こえた。

     *

 雨は上がり、壬生に月が戻った。
 八木家の座敷には、まだ酒の匂いが微かに残っている。
 この屋敷で多くの笑いと怒号が生まれ、多くの決断がなされ、やがて幾つかの命が終わる――未来の気配は、もう確かにここにいる。
 近藤は縁に立ち、夜の庭を見下ろした。
 「土方」
 「うむ」
 「芹沢さんは、いつか――」
 言いかけて、やめた。
 「順番だ」
 土方が言った。「まだ、その話を口にする順じゃない」
 庭の暗がりで、椿がもうひとつ落ちた。
 音はやはり、しない。

 明日は巡察。
 紙は増える。
 剣の紐は固く結び直される。
 嵐の前の、空気の密度を、全員が肺の奥で感じている。
 風は、まだ吹いていない。だが、吹く。
 吹いたとき、誰が立ち、誰が座り、誰が紙を取り、誰が刀を抜くのか――
 順番は、決められつつあった。