〔禁閲アーカイブ/映画祭向けプレス試写素材(教育目的)〕
 配布範囲:審査員・プレス(要同意書)
 ——本映像は教育目的の引用を含みます。権利上の理由により、個人名・ログ一部を黒塗り/加工しています。
 ——本資料の二次配布・複製・録音録画は固くお断りします。
 ——映像内で示される測定結果は観客の同意に基づく実験によるもので、医学的診断を意図しません。

 00:00:00:00——黒。
 白い細字がゆっくり現れ、すぐに太る。
 《法務部より:差止め留意事項》
 《1. 旧版素材の混入は技術的事象として表記すること(“幽霊”等の語を避ける)》
《2. CCTV・個人の肖像は匿名化/マスキング》
《3. “教育目的の引用”の旨を常時左下に表示》
 ——文字の角が一瞬だけ角張る。O→0、l→|。次のフレームで丸みに戻る。

 泡のSE。ロゴ。
 《HAPPIER RETAIL Co., Ltd.》
 《しあわせは、笑顔から。上歯は“6本”見せて》
 ——観客席のどこかで小さな笑いが起きる。プレス向けの朝、眠気の代わりに緊張が座席を温めている。

 00:00:07:12——スライド。
 《この検証映像の構成》
 1. **EDL(編集決定リスト)**の紹介
 2. Slackログ/旧版マニュアルPDF
3. CCTVダイジェスト(匿名化)
4. 社内通達メール
5. 視聴実験(同意取得済)

 画角の外で紙が擦れる音。プログラム・ディレクターの声がマイクに乗る。
 「本作品はモキュメンタリーの文法を用いていますが、資料はすべて実在の社内データに準じた形式で再現されています(※一部加工)。映像が誰のために作られるか、今日の議論はそこから始めましょう」

 ◇

 00:00:22:00——画面録画。PremiereのUI。タイムラインが2800%まで拡大され、薄い帯が震える。V2の細片を指示棒のようなマウスが丸で囲む。
 三井(手元のみ)の声。「はい、ここが2フレーム。EDLにはある。《SMILE_MASTER.mov》。プロジェクトにはない。MAMにもない。でも——書き出すと鏡に顎線が出る」

 映像は25%スローになり、ショーケースの反射に顎が遅れて生まれて、消える。
 観客席が少し身を乗り出す。説明の声と目の欲が一瞬合わさる。

 00:00:41:15——スペクトラム表示。青紫の帯に粒の列。
 《120bpm》のラベルがマーカーで置かれる。
 「合唱の裏側にクリック。笑顔保持のテンポに合わせるための過去の慣習です。Slackのログ」

 黒塗りされたSlackキャプチャが挿入され、蛍光色のハイライトが山科(2013)を舐める。
 観客席の前方、ペンのノック音が二度、三度。カチ、カチ、カチ。このホールの空調もまた、どこかの拍に合わせている気配を出す。気配は音に似る。

 ◇

 00:01:12:00——旧版マニュアルPDF。
 《笑顔見本:山科(2013)》
 《Appendix:角度と歯列の指標》
 リンクは切れている。矢印がリンクの亡霊のようにカーソルを待つ。
 三井「見本は規格になる。規格は人を楽にする。楽は善で、善は止められない。その止められなさが私は怖い」

 ——わずかなざわめき。プレス席のスクリーンに**“教育目的の引用”が常時表示され続け、隅でO→0が一瞬**。

 ◇

 00:01:28:18——CCTVダイジェスト。顔は楕円のマットで隠され、身体も輪郭だけに簡略化される。
 閉店後、誰もいない通路に、会釈の角度。十三度。一定間隔。120。
 「主観ではありません。装置が記録した運動です」と画面下に字幕。
 観客はすでに二章三章を知っている。期待は確信に、確信はおぞけに変わる瞬間を探す。映像は、主観と客観の境界をテロップで明示し続ける。安心が設計されている。

 ◇

 00:01:50:00——社内通達メール。やわらかい文体。
 《笑顔の標準化にご協力ください》
 《CCTV映像の社外流出は固くお断り》
 黒塗りの下線が明るい空調音に重なる。紙吹雪のスタンプのスクショがふっと浮かび、微妙にピントが合わない。

 ◇

 00:02:07:12——黒。白い文字。
 《——視聴実験》
 《協力:映画祭来場者 72名(同意済)》
 《測定:視線追跡(瞳孔径・視線位置)/表情検出(口角変位・頬隆起・目尻角)》
 《提示:2フレームのSMILE_MASTER.mov挿入(終盤)》

 場内の灯りが5%だけ上がる。機材の赤い点がいくつか増える。最後列の支柱に取り付けられた赤外カメラが目を数え、スクリーン左下に豆粒のような白点が72個、瞬きのリズムでゆれる。
 司会「応援するように笑ったり、意識して真顔を保ったり、なんでも大丈夫です。これはゲームではありません。正解はありません」

 ——正解がないと言われると自由になる人と、不安になる人と。自由も不安も、同じ筋肉を使う。

 00:02:29:00——再生。
 白バック、ロゴ、泡のSE。第一章の明るさが固定化され、第二章の指と数式が背後に居座り、第三章の習慣が座席に移っている。
 三井の声は論理の装いを崩さない。「ラスト3秒前に2フレームを挿入します。視線は自由です」

 観客の視線を示す白点が口元周辺に寄る。寄るのは人類のくせだ。笑顔のコンテンツを見たとき、人は口を見て安心し、目を見て意図を読む。白点は目元と口元で二層に分かれ、合唱のテンポが来るたびに揺れる。揺れは120で刻まれる。

 00:03:01:20——終盤へ。
 2フレームの予告はない。マーカーはこちら側にのみ見える。編集の特権。
 00:03:04:22。挿入。加算の輪郭のような笑顔がうっすら、スクリーンのガラスに映るみたいに出て、消える。
 視線オーバーレイの点群が一瞬だけ口元へ雪崩を起こす。次のフレームで戻る。
 右上に小型グラフ。
 《平均口角変位:+0.6mm》
 《標準偏差:0.4》
 《頬隆起:+0.3(相対)》
 《検出信頼度:0.73》

 スクリーン下部の注意書きは淡々としている。
 《人は笑顔に反射します》《規格は身体に伝播します》。
 事実であるかのように、置く。置かれ方が事実のかたちに似る。

 前方右の席で、メモを書いていた記者がペンを止める。口が一つ、ゆるむ。本人は気づかない。観測は他者だけができる。自分の口角は見えない。
 後方で、意地のように無表情を保っていた男性が奥歯を噛む。噛むと、頬は少し上がる。測定はそれを上がりと読む。正解はない。数値はある。

 ◇

 00:03:19:00——黒。拍手が一拍だけ早い。
 観客の推測が飛ぶ前に、制作PCの画面録画が割り込む。

 〔画面録画/制作PC〕
 Premiereのタイムライン。V1〜V4。何もないはずの上に、V5が出現する。
 V5:BLEND “加算”
 透明度:100%
 長さ:00:00:00:02
 位置:00:03:04:22~00:03:04:23

 三井の息が詰まる。
 「うちのデモでは、ここは演出です。でも、だからこそ聞きたい。“誰が編集し、誰が責任を持つのか**”」

 UIの上部バーが一拍だけ沈む。メニューが微細に傾ぐ。Auto Saveの小窓が点滅し、頷く。
 この頷きはトリックだ。トリックと表記される。
 《※このUIの挙動は演出です》
 ——そう表記すること自体が演出であると知りながら、我々は「偽物」という安心に手を伸ばす。偽物は正しい。本物は怖い。

 ◇

 00:03:40:00——パネル式のQ&Aが割り込む。
 舞台袖からプログラム・ディレクター、映像倫理の研究者、労働衛生の医師が座る。三井は顔を出さない。手元だけがスライドのカーソルを動かす。

 研究者「規格が身体に介入することは、広告や教育の現場に普遍です。反射は悪ではない。問題は責任の線引き」
 医師「笑顔が痛い、という訴えは珍しくない。顎関節、筋膜、自律。痛みは主観で、主観は制度に拾われにくい」
 プログラム・ディレクター「映像が安心を提供する時、倫理は誰が持つ?」

 三井の声は短い。「“なおす”ことが仕事だと思ってました。でも、“治す”と混ざる瞬間がある。それを私は怖いと言葉にしたい。怖いは悪ではなく、境界の名前だから」

 ——客席の紙がめくれ、膝を組み直す音が合図になる。誰も拍手しない。まだ、終わっていないから。

 ◇

 00:04:07:05——禁閲アーカイブ・ビューア。
 ウインドウの上に**「社内メール(アーカイブ)」。検索窓に#誕生日演出**。
 件名リストが無味乾燥な効率で並ぶ。
 件名《【共有】誕生日演出のベストプラクティス》をダブルクリック。
 本文は明るい。事務的。
 《笑顔の標準化にご協力ください》
 《写真の推奨構図:口角が見える/上歯が六本/目尻はやさしく》
 スクロール。文末の定型句。
 《本動画の無断転載はご遠慮ください》

 そこに、一行が増える。
 《山科(2013 標準笑顔)》
 フォントが一瞬、角張る。O→0、l→|。戻る。
 三井の呼吸が画面録音のマイクに薄くかかる。
 カチ。カチ。カチ。クリックが三度。
 画面は黒。
 白文字が浮かぶ。
 《笑顔の角度を、いま確認してください》

 ——無音。
 一拍早い拍手が先に鳴り、次に本物が追う。
 場内にごく短い、息のざわめき。観客のいくつかの口角が0.6ミリだけ上がる。無意識の反射は彼らの椅子のきしみで可視化される。笑ったのか、息を呑んだのか、本人にはわからない。測定だけが答えを持つ。

 ◇

 〔映画祭ロビー/上映後〕
 ポスターの前で名札の人々が名刺を替え、笑顔を交換する。
 「モキュメンタリーとしては精度が高いね」「法務の黒塗りがかえって本物っぽい」「実験のオーバーレイは倫理的か?」
 問いは正しい。正しい問いは気持ちいい**。気持ちいいは怖い。
 桐生は招待を受けて来ていた。領収書の欄がやわらかく折れて手に残る。澪は来ていない。勤務。水曜は研修。研修は生活。生活は祝祭に追いつかない。

 「ねえ」
 記者が三井に声をかける。顔は映らない。
 「あの署名、どこから来たと思います?」
「署名は誰でも足せる。でも、誰も足していないと言う。MAMは夜に動く。夜は、なおす。なおすは誰かを要らない**」
 「では、責任はどこに?」
 三井は少し笑う。上歯が六本、見えるくらいに。
 「あなたの口角が上がるところに、あります」

 記者は口に触れる。触れて、慌てて手を離す。
 「反射です」
 「反射は悪じゃない」
 「でも、気づけたほうがいい」

 ——ロビーの壁に貼られたタイムテーブルのOが0になり、戻る。誰も見ていない。見ていないものは怖くない。怖くないものは広がる。広がるものは善に似る。

 ◇

 〔禁閲アーカイブ:追補〕
 1|実験環境について
 ・座席配置:扇形(前列ほど近接)
 ・測定機器:IRカメラ4基、表情推定はローカル処理
 ・同意:サイン+シール(胸元の黄ステッカー)
 2|統計の取り扱い
 ・口角変位は相対(スクリーン視聴前5秒間の平均を基準)
 ・有意差検定ではなく可視化を優先
 3|倫理
 ・実名の不使用、顔の保存はしない
 ・“教育目的”を常時表示
 ——この追補は丁寧だ。丁寧は信頼を呼ぶ。信頼は正しさを太らせる。正しさは境界を隠す。境界が見えなくなると、拍に合わせやすくなる。

 ◇

 〔字幕:あとがき(上映版のみ)〕
 《映像の責任は“誰が編集したか”ではなく“誰が見たか”にも宿る》
 《“誰が見たか”は数値にされにくい》
 《それでも、見てしまった口角は、0.6ミリを覚えている》

 字幕の末尾で白い点が一瞬、にっこりと楕円に広がる。UIの冗談。冗談は救いだ。救いはときに、拍の先に来る。

 幕。
 拍手。
 先走る一拍と、追いかける本物。
 観客の何人かは立ち上がるとき、自分の頬を触る。触ることでしかわからない角度がある。十三度は触れない。触れないものは規格になる。規格は身体をなおす。なおすは悪ではない。ただ、怖い。だから、覚える。

 ◇

 〔エンドカード(プレス配布用ファイル限定)〕
 黒。
 白い英数がセンターに浮く。
 TITLE: HAPPIER_RETAIL_SMILE_MASTER_ARCHIVE_vFEST.mov
 FCM: DROP FRAME
 003 SMILE_MASTER V C 00:03:04:22 00:03:04:24 00:03:04:22 00:03:04:24
 下に、小さく、灰色の注釈。
 《※003は教育目的の演出です》
 ——この注釈が真実である確率と、注釈そのものが演出である確率が、ちょうど****五分と五分で揺れて見える。その揺れが本作の心臓だ。

 カチ。カチ。カチ。
 クリックが三度。
 暗転。
 沈黙。
 エアコンの風が微振動して、止む。
 外の廊下で誰かが笑う。
 こちらも笑ってしまう。0.6ミリ。たったそれだけ。
 それだけが、戻らない。

 第四章・了。