【限定公開】応募者向け研修ビデオ
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 ©️HAPPIER RETAIL Co., Ltd.

 00:00:00:00——。

 白い。発光するような白バックの中央にロゴが浮かび、ポロンと軽いシンセの音が鳴る。泡が弾けるようなSE。テロップがすべる。

《しあわせは、笑顔から。上歯は“6本”見せて。》

 女声ナレーションは落ち着いていて、アナウンサーの滑舌だ。どの音にも丸みがある。

「さあ、あなたの笑顔で、街の一日を明るくしましょう。ポイントは、口角二ミリ。目尻をやさしく、角度は十三度。最初はむずかしくても、大丈夫。私たちが一緒に練習します」

 00:00:08:19、カット。店舗内の広い画。午前の光がガラスから流れ込み、ショーケースの奥で氷がほどけあう音がかすかに立つ。床は磨き込まれ、観葉植物が規則正しく並ぶ。BGMは四和音。陽気だがうるさくはない。

 フレーム右に「春川 澪(はるかわ・みお)18——新人」と小さな字幕。制服はまだ身体に馴染んでいない。胸ポケットに名札、髪は耳の後ろで結び、額の産毛が照明に白くひかる。彼女はカメラの少し左側を見ながら、深呼吸を一つ。

「いらっしゃいませ!」

 笑顔が跳ね、声に芯がある。左隅で、店長の桐生が肩越しに様子を見守る。四十代半ば、ネクタイは地味な青。口元に、仕事の癖が刻まれている。桐生は澪の背から少し身を乗り出し、手の甲を二本の指でちょい、と上げる。

「口角、あと二ミリ」

 その言い方には叱責はない。習字の筆圧を直すみたいな柔らかさ。澪は一拍おいて口角を持ち上げ、目尻がほんの少し、笑う形に折れる。画面左上、丸い吹き出しのテロップ。

《Good! 上歯“6本”見えています》

 00:00:22:03、ロールプレイが続く。レジ台の奥からピッチャーを出して、グラスに氷を二つ落とす。ポンと氷の角が触れた音が上ずって、キンと高い倍音がひと筋立つ。聞き流せば爽やかな効果音の一種だ。だが、そのあとに映るショーケースの鏡面は、外の街路をほのかに拾っている。反射の中を、赤いリュックの子どもが走り抜け、ベビーカーを押す母親が続く。信号の青が店内の銀色に薄く入る。

 00:00:29:14、別角度の同アクション。氷は同じ数、手の動きも同じ。だが通行人の数は一致しない。反射の中にいたはずのベビーカーはなく、代わりに肩掛けバッグの青年が見切れる。編集での差し替えの類かもしれない。通常の視聴者は気づかない。たぶん。

 00:00:36:07。桐生が正面に立つ。指導の声が音楽に溶ける。

「笑顔は“固定”ではなく、“維持”。筋トレだと思って。挨拶は歩きながら、目線はお客様の胸より少し上、歯は……そう、六本。そうそう」

 その言葉の直後、澪の笑顔が静止画のように一瞬だけ止まる。打ち合わせが入ったのか、フレーム落ちか。0.1秒もない。でも、ほんの僅かな停止のあいだ、光が止まる。頬の陰影が止まる。次のフレームで、なにごともなかったように動き出す。

 00:00:48:00、白バックに切り返し。福利厚生の紹介。テロップが祝祭のように踊る。

《誕生日制度》《スタッフ表彰》《家族割引》《健康診断》《提携保育所》《コミュニティ支援》

 それぞれの項目に、淡いイラストと短い映像が添えられる。笑顔の写真がスライドショーのように流れ、ポラロイド風の枠がカタカタと重なる。ポラの角が重なる音が乾いた拍子のように聞こえるのは、気のせいだろうか。

 00:01:02:22、「誕生日制度」の項で例示映像。店舗中央に小さなケーキ。火のついたろうそく。スタッフが半円になり、ハッピーバースデーを歌い出す。歌は明るく、声は少し恥ずかしそう。0.3秒ほど、音が映像より遅れてやってくる。ケーキの火が揺れ、口が開き、すこしして歌が耳に届く。

 そして、拍手が入る。一拍早い拍手が、既にどこかで鳴っている。遠い部屋の拍手が先に始まり、店の拍手が追いかける。その重なりは、こちらが注意すれば確かにわかる。注意しなければ、ただにぎやかに感じる。

 00:01:21:05、澪の笑顔がアップ。ケーキの火が瞳に映って、彼女の頬に小さな虹が浮く。桐生はその横に立って、スタッフと一緒に手を叩く。手のひらが触れる音の合間に、カチ……カチ……と規則的なクリックのようなものが、ごく小さく混じる。音量はBGMに埋もれる。何度か巻き戻してようやく気づく程度だ。

 00:01:35:00。映像は再び白バックへ。“笑顔の練習”セクションだ。テロップのタイトル。

《笑顔の角度は13度》

 澪の横顔が、三面図のように並ぶ。耳の後ろ、鼻の線、口角の上がり方。線画と実写が重なる。透明な分度器のCGが現れ、13°という数字がやさしく光る。分度器の目盛りに、ほんの一瞬だけフォントの乱れ。《O》が《0》に、《l》が《|》に。気づかない程度の差異がスライドの端で瞬く。

 00:01:45:12。実地ロールプレイ。店に「お客様役」が入ってくる。中年女性、腕に布バッグ。澪は会釈する。笑顔の維持はうまくいっている。声も明るい。桐生が背中でOKサイン。カメラは二台。Aカメ(正面)、Bカメ(斜め後ろ)。Aカメで挨拶を撮り、Bカメでグラスの洗浄へパン。ここで氷がグラスに触れる音がまた高い。キンと、ガラスの呼吸みたいな倍音が立ち、ショーケースの鏡面に外の街が再び映る。

 00:01:59:00。同じ動作のはずの別テイク。通行人がまた違う。青いリュックの少年が、先ほどは赤だった。編集の都合、Bロール差し替え、そういうことはある。けれど、この映像は**会社が外に見せる“完全見本”**だ。見本の中の外の世界は、揺れないほうが、気持ちがいい。

 00:02:06:18。テロップ。

《“笑顔は筋肉の記憶” 最初は10秒×3セットから》

 澪は鏡の前で笑い、10秒数える。**10、9、8……**と、画面下で数字が減る。3のところで、数字だけ隣のフォントに変わる。桐生の声が被さる。

「澪、いいテンポ。そのまま——」

 あなたは、いま笑ってますか?とテロップの端で誰かが小さく問う。いいえ、そんなテロップは出ていない。出ていないはずだ。確認する。何度巻き戻しても、そこには出ていない。代わりに出るのは、整った言葉だけだ。

《笑顔はお客様への“最初の贈り物”》

 00:02:24:00、制服の整え方。袖を折る角度、名札の水平。澪は真剣に、名札をまっすぐにする。カメラが寄ると、名札の反射の中で手が増えるように見える。指は二本のはずだ。反射が重なって四本に見える。レンズの奥で光が二度折れたのだろう。ズームアウトすれば、いつもの数に戻る。

 00:02:38:06、レジ操作。トレーの上のコインが並ぶ。カチ、カチ、カチ。さっきのクリックと、まったく同じ間隔。テンポは120拍くらいか。音楽の表拍にうすく噛む。BGMが、そのテンポに寄っていくように聞こえる。気のせいだ。音楽は最初からそういう設計だ。

 00:02:51:00、桐生の“まとめ”。笑顔の復習。桐生はカメラに正対し、淡く笑う。背後のガラスに街路が映る。桐生の言葉が最後の支柱のように、映像を締める。

「笑顔は“固定”ではなく、“維持”。維持のためには、仕組みが要る。仕組みは、みんなを楽にする。だから、安心して——」

 止まる。一瞬。桐生の笑顔が静止する。光が、陰影が、止まる。それからすぐに動き出し、彼は言い切る。

「あなたの笑顔が、誰かの一日を変えます」

 00:03:05:10。画面は“お辞儀の角度”解説。スローモーション。三つの角度。会釈、普通、丁寧。数字がテロップで示され、**13°**のところだけ、ハイライトが長い。お辞儀のフォームが美しい。背筋の湾曲にゆるい線が描かれ、曲線の上を光が滑る。

 フェードアウト——直前。テロップの角の丸みが角張る。ほんの刹那。O→0, l→|。次のフレームで元に戻る。

 黒。軽快なサウンドロゴ。人工の拍手がほんの少し早く入ってから、本当の拍手が追う。スピーカーの穴の底で、カチ、カチ、カチ。終了テロップ。

《エントリーは公式サイトから。あなたの笑顔を、お待ちしています》

 ——ここで終わりだ。動画の本編は。

 だがYouTubeのページには、まだ下がある。コメント欄。限定公開のはずだが、応募者向けにURLが出回るのはよくある。コメントは温かい。あるいは、温かすぎる。

「元気、出た」「働きたくなった」「動画、見やすい」「笑顔の角度、わかりやすい」

 数分おきに、投稿者名だけ違う。文面は同じ。絵文字の顔が微妙に違い、肌色が変わる。時間帯もまばらで、夜明け前に集中している。

 サムネイルのすぐ下、「高評価」の親指は気持ちよく立っている。数字は見るたびに増える。再生回数は限定公開の割に妙に滑らかな曲線で増えている。スパムの痕跡?——私はそう思う。けれど、スパムがこんなに規則正しい必要は本来、ない。

 「この動画を使いたいのですが」というコメントがひとつある。投稿者は大学のゼミ名を名乗り、顔文字を付け、明るい文体だ。三時間後、同文が別名義で投稿される。四時間後、文末の絵文字だけが違う同文がまた。どれにも返信はつかない。既読もない。世界のどこかで、押しボタンが誰かの代わりに押されているような、錯覚。

 画面右の関連動画は同社の広報や他社の研修が並ぶ。タイトルは似ている。白バック、笑顔のスローモーション、角度の数字。私はいくつかを開ける。同じようにきれいだ。同じように、最後の拍手が早い。あるものは同じタイムコードのポン出しSEがある。カチ、カチ、カチ。そこまでくると、もう意識のほうが音に寄ってしまって、すべての拍手が早く感じられる。

 この章は、映像だけで完結している。だからここには、**“異変の原因”**は、まだ、ない。澪は素直に笑い、桐生は落ち着いて指導し、テロップは整う。氷は美しい音、ショーケースは清潔、福利厚生は具体的だ。幸福の形式化が整い、誰も、不幸になっていない。少なくとも、表では。

 私は動画を止め、再生位置を0に戻す。二回目を見る。三回目、四回目。音に耳を分け、鏡面の端に目を置く。すると、気配が耳に住みつく。カチ、カチ、カチ。グラスの声、氷の吐息。拍手の先走り。それらがやがて、こころよさとして馴染む。問題のない規格として、私の感覚に収まっていく。そのことが、いちばん怖い。

 ——画面を閉じようとすると、コメント欄に新着が入る。文面は短い。

「いい笑顔」

 それだけ。名前はアルファベットの羅列。アイコンは笑顔の絵文字で、影が薄い。投稿時刻は、現在時刻と一分違い。私はリロードする。コメントは増えていない。増えていないはずなのに、さっきの**「いい笑顔」が、今度は別の位置**にいる。上のほうに。名前は別。文面は同じ。クリックしても、ユーザー情報は出ない。限定公開なのに。限定公開だからこそ、誰が、いつ、どこから。

 ——別の日。私はこの映像を、応募フォームからダウンロードしておいた。オフラインで、音を波形で見たくなったからだ。波形には規則が現れやすい。クリックは、規則を持つ。

 夜。波形は淡い青で、等間隔の細い針が立っている。120。120。120。BPM。メトロノーム。私は笑ってしまう。笑顔の練習に、メトロノーム。合理的だ。テンポがあれば、維持は楽になる。肩がこわばらない。筋肉が迷わない。仕組みが、楽にする。

 無料の波形ソフトの画面で、私は再生ヘッドを微妙に動かし、クリックと拍手の位置を重ねてはずらす。ずらすたび、頭の中の笑顔の形が動く気がする。六本の歯が、角度が、照明が。気のせいだ。私は独りで画面を見ている。隣に誰もいない。そうだろう?

 翌朝、応募者向けの掲示板に新しい案内が出ていた。動画の差し替え。音量バランスの調整と、色味のわずかな補正。リンク先は同じだが、サーバ上のファイルは更新されている。私はまた再生する。白バック。ロゴ。泡のSE。テロップ。《しあわせは、笑顔から。上歯は“6本”見せて》。

 昨日と同じ、はずだ。けれど、わずかに、絵の赤が深い。ショーケースのガラスに映る外の青が、ほんの一段濃い。拍手は——やっぱり、早い。クリックは——聞こえない。いや、うすく。ごくうすく。カチ。カチ。カチ。BGMの表拍の手前に置いてある。それはもう習慣みたいに、私の耳に当たり前として入る。当たり前は、人を安心させる。安心は、善に似ている。善は、正しいに寄りやすい。気をつけたほうがいい。正しいの顔をしたものは、ときどき、ひどくこわい。

 澪は今日も正しい。店内の導線を歩き、レジで会釈し、グラスの口元を布で拭く。拭う動作の指先が、映像の端でかさなる。名札はまっすぐ。桐生の声は柔らかい。お客様役の女性は、にこやかにうなずく。幸福の形式が、映像のなかに、隙なく組まれている。それを見ている私の口角は、いつのまにか二ミリ、上がっている。私は気づく。そして恥ずかしくなり、口元を戻す。戻すと、画面の拍手が一瞬、遅れる気がする。もちろん気のせいだ。私が世界を動かせるはずはない。だけど、笑顔は人を動かす。規格は身体を調整する。

 コメント欄に、また新着がある。「元気出た」。五分前。投稿者名は一昨日と同じ語感を持つが、アルファベットの順序だけ違う。私はもう驚かない。それは規格なのだ。規格は維持される。維持は仕組みで支えられる。仕組みは、楽にする。桐生が言っていた通りだ。

 私は一度、PCを閉じる。窓の外の朝は、ごく普通で、鳥の声、新聞受けの金属音。私は試しに、口角を二ミリだけ上げて歩く。十三度は、街灯の影の角度くらいだ。歩幅が軽くなり、視界が広くなる。誰も見ていないのに、誰かに見せるための身体になる。善い。楽だ。怖い。

 夜。再び動画を開く。私はまだ、この第一章のなかにいる。だから、理由は探さない。異常は異常として、よくできた演出として、プロの編集として、飲み込まれていく。私は再生を繰り返し、波形の針を眺め、ショーケースの反射の人数を数え、澪の静止を指で追う。

 そして、ふと、画面の外で拍手が聞こえる。テレビの音か、隣室のなにかか。一拍、早い。私は笑ってしまう。いい演出だ。いい笑顔だ。私は、いま、笑っている。誰も見ていないのに。誰かが、見ているみたいに。

 ビデオは、そこでまた白に戻る。ロゴ。泡。SE。テロップ。《しあわせは、笑顔から。上歯は“6本”見せて》。私は、六本の歯を、見せる。そして、クリックが三度、どこかで鳴る。カチ。カチ。カチ。
 第一章・了。