――三浦蒼生

 冬が、抜けかけている。朝の空気はまだ冷たいのに、吐く息はもう白くならない時間帯が増えた。駅のホームには受験生たちの列。肩に透明の雨カバーをかけた参考書、耳に差し込まれた白いイヤホン、背中の板みたいに固い緊張。俺はその列の端から、別の制服の律を探す。見つけると、ほっとして、同時に身構える。ほっとしたことを見透かされるのが少し怖いからだ。

 律は小さなワンルームに移った。補助金の紙、丸い判子、緊急連絡の昼と夜。支援の人の名前を俺はもう三回は聞いた。母親の電話は、前より遠回りして届く。距離ができると、声は少し丸くなる。丸くなるぶんだけ、突き刺さる角は減る。角が減った夜は、俺も冷蔵庫の音をよく聞ける。

 俺は、ノートの最初のページから先へ進めるようになった。英単語帳は二枚目に入って、三枚目の端が指に馴染む。日付の横のチェックは薄い鉛筆のままで、でも線はまっすぐだ。進むというより、置く。置く、が俺の動詞だ。置けば、そこが場所になる。

 同じ方向の電車を待つ。違う制服のまま。同じ方向に向かって、足元だけが別の白線をまたいでいる。アナウンスの声が風に千切れて、俺の耳には半分しか届かない。届かない半分を埋めるのに、俺は勝手に想像を使う。想像は、手順の隣で静かに座る。

「おはよう」

 律が言う。眼鏡のレンズの端に小さな傷があって、そこに朝の光が入り込む。俺はうなずく。喉はまだ寝ている。

「今日、時間ある?」

「夕方」

「夕方、欄干」

「うん」

 うなずくだけで、予定ができる。言葉が少なくて済むのは、約束が合図の形をしているからだ。合図は、借りにならない。借りを減らすのは、生き延びるための技術だ。

 電車が来て、人の列が動く。乗り込んだ車両のドアのガラスに、自分の顔が薄く映る。冬の色が抜けかけた頬。目の下、影の薄さ。俺は窓の外を見ながら、ノートの余白に浮かぶ文字を心の中でなぞる。〈交換〉。〈手順〉と〈無駄〉。あの朝の湯気の二人分。透明テープの端。二回転のゴム。欄干の五分。乾燥機の十。

 放課後は図書室へ。三時の紙は乾いていて、指が吸い寄せられる。ページをめくると、紙同士が擦れる音が薄く鳴る。俺は書きながら、今日の欄干の風の強さを想像する。欄干の上に置かれる、紙袋の重さ。肉まんの温度。温度を想像できるのは、冬の終わりの贅沢だ。

 日が傾くのを待って、川沿いへ向かう道を辿る。道の縁に積もっていた砂の薄い帯が、雨に混ざって流れた跡がある。欄干の金属は、冬より少しだけ温かい。冷たさが完全に抜ける前の、境目の温度。境目は、俺たちの得意分野だ。

――篠原律

 小さなワンルームは、角が少ない。角が少ない部屋は、息がしやすい。補助金の書類に押された丸い印を、俺は何度も見返した。丸は刺さらない。刺さらない印の列が、俺の生活の外枠をつくっている。母からの連絡は、支援の人を経由する。距離のある言葉は、近すぎる言葉よりよく届く。届くまでに、温度が一度下がるからだ。

 部屋の窓は小さい。朝は東から光が入って、床に薄い四角を作る。四角の端が、ゆっくり動く。時間が目に見える。目に見える時間は、信用できる。俺はその四角の中にトーストの皿を置く。一呼吸待つ。向きを変える。向きを変える前の一呼吸は、相変わらず難しい。急ぐ癖は簡単には抜けない。急がない練習を、パンの前でやる。

 洗濯機は共同だ。ポケットを触る。ティッシュの不在を確かめる。この建物の住人は俺の事情を知らない。知らないことは、悪ではない。知られないことも、悪ではない。俺はネットの口を結び、二回転までの輪ゴムでレシートの束を止める。二回転まで。三回転にすると、角が反る。反った角は、封筒の角と喧嘩する。角に角を重ねない。

 朝のパン屋に寄ると、焼き立ての角が指でへこみ、すぐに戻る。戻る力は、復元の手順。手順は、俺の側にあるものだ。無駄は、蒼生の側にあるものだ。俺はその無駄を、少しずつ練習している。欄干の五分。乾燥機の十。午後三時の図書室で何も借りない一分。何も起きない一分を持てると、起きることの重さが少し変わる。

 支援の人は、電話の向こうでよく息継ぎをする。息継ぎの音が聞こえる大人に、俺は遅れて信頼が芽生える。「何かあったら、遠慮なく」と言うときの声が、俺の部屋には入ってこない。入ってこないから、俺は責任を自分の手に戻せる。「結果は僕の責任。選んだのは僕」。あの夜、蒼生に言った言葉を、自分で何度も言い直す。言い直すたびに、表面がすべすべになる。すべすべになったからといって、重さは減らない。減らせない重さを、持ちやすくするために、角を丸くする。

 夕方、川沿いへ向かう。冬の間に膨らんだ川面の光は、少し色を変えて、銀と灰の間で揺れている。欄干に触れると、金属は冷たくも温かくもない中間の顔をしている。中間は、俺の好きな位置だ。どちらにも偏らないところ。偏らないのに、確かにここだと言えるところ。

 蒼生が、俺より少し早く来て、手すりを背にして立っている。顔色は悪くない。口元の緊張が、薄い。薄い緊張は、いい。薄い緊張があるから、人は落ちない。

「パン、落ちるよ」

 俺は紙袋を欄干の上に置いて、あの日と同じ言葉を投げる。蒼生が笑う。笑いは、冬の終わりに似合う。肉まんを紙から出して、彼に渡す。蒼生はありがとうと言わない。言わないのは、俺たちの合図の一つだ。

 眼鏡を外す。春の風が、目を乾かしすぎない。目を細める。レンズのない視界は、少しだけ遠い。遠い輪郭は、角が丸い。

「ねえ、ないものねだりってさ」

 俺は言う。蒼生がこちらを見る。

「手を伸ばす相手の形を学ぶことかもしれない」

「それ、ずるい」

 蒼生が返す。声の中に、笑いと苛立ちが半々。どちらも、本当だ。

「勝ち負けじゃないやつだ」

「うん」

 紙袋から取り出したもう一個の肉まんにかじりつく。二人で同時に噛みちぎる。中の肉汁が舌に広がり、少しだけ熱い。熱いと、言葉は遅くなる。遅くなるのは、悪くない。

――三浦蒼生

 欄干の上のパンは、落ちなかった。落ちなかった代わりに、俺の中の何かが、あの日の位置から少しずれた。ずれたぶんだけ、景色の奥行きが増える。俺は肉まんの湯気に目を細める。湯気は角がなく、目の奥を優しく曇らせる。曇るのは、はっきり見ることからの短い休暇だ。

「俺は、君の手順がほしい」

 口に出すと、胸の中の板が軋む。軋む音は、俺にしか聞こえない。聞こえなくていい。

「朝起きて、皿を洗って、出る前に窓を閉めて、鍵をかける。それを一緒にやる理由がほしい」

 律はうなずく。うなずくとき、眼鏡のフレームがわずかに揺れる。

「俺は、君の無駄がほしい」

 律が言う。

「何も決まらない時間、決めないと決める時間。そこに座って息をするだけの夕方」

 それは、俺のほうが得意なやつだ。得意というのは、うまい、ではない。諦めないで長く続けられる、という意味だ。俺は欄干の金属に背中を当て、風を吸い込む。春の手前の匂いは、透明テープの匂いに少し似ている。薄くて、鼻を抜ける。強く嗅ごうとすると消える。

 手すりに背中をつけ、同じ橋の上で、別々の過去を抱える。隣で、律の呼吸の速度がわかる。図書室のペン先の速度と同じだ。一定。一定は、俺の苦手なものだった。苦手なものを、隣で学べる。学ぶというのは、真似から始まる。真似を続けるうちに、真似の縁が自分の輪郭に吸い込まれて、本当に自分のものになる日が来る。来ない日もある。どちらでも、続ける。

「木曜、どうする?」

 俺が訊く。木曜の夜は、空洞の曜日だった。今も、空洞の跡は薄く残っている。跡が残るのは、悪くない。傷に触らないように歩くための地図になる。

「木曜は、うちで朝のパン」

 律が答える。

「土曜は、午後三時の図書室で何も借りない」

「日曜は、欄干の五分」

「火曜は、乾燥機の十」

「水曜は、透明テープで封筒の角を鈍くする講座」

 冗談みたいな予定表を、俺たちは本気で交わす。曜日に色が戻る。月火水木金土日、全部が白かった時期を、俺はもう遠くから見られる。

 別れ際、俺は初めて自分から言う。

「また」

 四文字は軽い。軽いのに、橋の上でちゃんと立つ。律はうなずいて、

「また、木曜に」

 と言う。「木曜に」が、合図の輪郭に色を付ける。色は薄い。薄いから、持ち歩ける。

 帰り道、欄干の冷たさではなく、紙袋の温かさを手のひらに確かめる。紙は薄いのに、温度を持つ。温度があると、重さが変わる。重さが変わると、持ち方が変わる。持ち方が変わると、歩き方が変わる。歩き方が変わると、同じ道が少し違って見える。

――篠原律

 木曜の朝、パンを焼いた。蒼生が来る前に、台所の角に透明テープを貼る。角を鈍くするのは、怪我の予防でもあるが、俺の落ち着きの手順でもある。電気ケトルが鳴る。トースターが光る。光が弱まるのを待ち、一呼吸。向きを変える。もう一呼吸。パンの面に焼き色が浮かぶ。

 蒼生がドアをノックする。三回。三回は、彼の手順だ。ドアを開けると、朝の外気が薄く押し寄せる。入ってきた彼は、うちの小さな玄関を一度見て、靴を揃える。靴を揃えるときの彼の指の動きは、コインランドリーのベンチに座るときのそれと同じで、丁寧だ。

 皿を二枚出す。俺は一緒にやる理由を、台の上に並べていく。皿。バター。ジャム。水。蒼生の手が自然に皿を受け取り、分担のようで分担ではない動きが始まる。俺がパンを乗せ、彼がナイフを渡し、俺が切り、彼が切り分ける。二人分の湯気が、朝でもう一度立つ。

「鍵」

 蒼生が言う。俺はうなずき、玄関に戻って鍵をかけ直す。出る前に窓を閉め、鍵をかける。これが彼の欲しがっていた「手順」で、俺が彼に渡せる「理由」だ。理由は、誰かと一緒にやると、少し楽しい。

 朝食のあと、洗濯機に向かう。共同の洗濯室で、ポケットを触る手順を蒼生に見せる。彼はうなずき、ポケットを二度触れてから「大事だな」と言った。柔軟剤の蓋の目盛り。二回転まで。角に角を重ねない。学べることは、まだある。学べることがあるのは、救いだ。

「午後三時、図書室な」

「うん」

 午後三時の紙に触れる。何も借りない。触れるだけ。触れるだけ、が効く日がある。効かない日もある。効かない日に、あえて触れる。触れること自体が、続ける理由になる。

 土曜の夕方は、欄干の五分。蒼生が時計を見ない五分。俺は見る。見るけれど、数えない。数えないでいると、五分は五分以上であり、以下であり、ただの「ここ」で終わる。終わらせるための十。欄干の五。数字は、俺たちの共通語になりつつある。

 支援の人との面談は続く。母との連絡は距離を置いて行われ、声の角が小さくなった。俺のポケットの中の透明テープは、残りが少ない。新しいのを買う。買ったテープの切り口は鋭い。鋭い切り口は、使い始めの焦りに似ている。使っているうちに、端は丸くなる。丸くなると、剥がしやすい。剥がせることを、いつも残しておく。

 夜、蒼生が「無駄」を持ってくる。何も決まらない時間、決めないと決める時間。部屋の床に座り、湯を沸かし、湯の音を聞く。湯の音は、乾燥機の音より軽い。軽い音が、俺の背中の板を少し柔らかくする。柔らかくなった板は、折れにくい。

 日曜日、俺たちは欄干でサンドイッチを半分ずつ食べた。パンの角に焦げ目。焦げの苦さ。苦さは、無駄の味に少し似ている。大人の味、というやつは、たぶんこういう混ざり方をいうのだろう。混ざった味を覚えるのは、子どもをやめるためではなく、大人を増やすためだ。

――三浦蒼生

 学校の先生は、俺のノートの端の小さな丸に気づかない。気づかなくていい。丸は俺の合図で、俺の輪だ。英語の小テストは相変わらず悪くはないけれど、良くもない。良くなかった頃と比べれば、少しだけ上だ。上がった事実は、誰の肩にもかからない。俺の肩にだけ、軽く乗る。軽くなら、持てる。

 昼休みに伊藤が「塾、変えようかな」と言って、俺は「変えれば」と答える。乱暴でも冷たくもなく、単に距離の測り方が前よりうまくなっただけだ。距離は角だ。角を合わせて立てると、相手は倒れにくい。俺もだ。

 放課後の図書室で、午後三時の紙は乾いていて、指の腹が吸い付く。ページをめくるだけで満足する日がある。満足、というのは、満ちることじゃない。空白が、空白のままでいていいとわかることだ。空白に透明テープを貼っておいて、角が刺さらないようにする。それで、俺は次のページへ進める。

 避難所にいたときに見た丸い判子の列。支援の人の吸う息。担任の低い声。大人たちの働く音は、遠くで低く鳴っている。鳴っている間、俺は欄干の五分を練習し、乾燥機の十で終わらせる練習をする。終わらせる練習は、始める練習と同じくらい難しい。難しいものを、難しいままで持つ。持てる日は持つ。持てない日は、置いておく。置いておける場所が増えた。置いておく場所の名前は、俺たちが交換した言葉の中にある。

 列の長い駅で、受験生たちの背中は板みたいに強い。俺も背中を板にして立つ。律も。違う制服で、同じ方向を待つ。風が吹くたび、掲示板の紙がめくれて、角が揺れる。角に透明テープが貼られている。誰かが貼った。誰かの手が残した鈍い光。知らない誰かの手に救われる夜がある。救われる昼もある。

 律の母からの電話は、俺のスマホにはもう来ない。静かな夜が増えた。静かな夜は、怖い夜と同じくらい、俺を試す。怖くない静けさを持てるのは、訓練の成果だ。訓練は、生活の手順と同じだ。毎日やると、効く。すぐには効かない。効くと思ってやると、効かない。効かないと思ってやると、いつか効く。そんなあてにならなさを、俺は信用する。

 律の部屋で、俺たちは一緒に皿を洗う。俺が洗い、律がすすぎ、俺が拭く。拭いた皿の水滴が、テーブルの上に丸い跡を作る。丸い跡は、角がない。指でなぞると、消える。消えるのに、たしかにそこにあったとわかる。人生の証拠は、だいたいこの程度の濃さだ。濃い証拠は、たいてい誰かを傷つける。

「宿題、どのくらい?」

 律が訊く。「重さで言うと?」

「二百グラム」

「軽いな」

「うん、でも、最初のページじゃない」

 俺が笑うと、律も笑う。笑いは、二人でやると増える。増えたぶんを、分け合う。俺たちの「ないものねだり」は、だんだん「あるもの分け合い」に変わっていく。変わっていくのを、俺はゆっくり見ている。見るのに、手を出しすぎない。手を出しすぎると、変化は逃げる。逃げたものは、追いかけない。追いかけない練習を、俺は欄干の上でやってきた。

――篠原律

 春は、手前が長い。手前の長さは、人を疑わせる。「このまま春にならないんじゃないか」と。でも、手前が長いほど、角は鈍くなり、丸は増える。増えた丸は、紙の上で並び、印の列になる。俺は丸印の列を見ながら、ここまでの道を思う。欄干。透明テープ。紙コップの湯気。二回転の輪ゴム。パンの角。朝の一呼吸。乾燥機の十。午後三時の紙。避難所の蛍光灯。駅の列。支援の人の息継ぎ。母の声の距離。

 蒼生と一緒にやる理由は、台所にも、欄干にも、図書室にもある。理由は、いつも面でできている。面があると、ピントが合う。俺は蒼生の肩越しに、川の面を見た。風が作る小さなさざなみ。さざなみには角がない。

「受験、どうする?」

 蒼生に訊く。彼は肩をすくめる。

「まだ決めない」

「決めないと決める」

「そう」

 決めないと決める、は、彼から受け取った高度な無駄の一種だ。無駄は役に立つ。立たないふりをして、後から効く。効くふりをすると、すぐには効かない。だから、ふりをやめて、ただやる。

 小さな部屋の壁。カレンダーの角。俺は角に透明テープを貼る。テープは薄く、透明で、光の中に消える。消えるのに、手触りは残る。残る手触りを、人は記憶と呼ぶ。記憶は、ときどき刃になる。刃を丸くするために、無駄がいる。手順がいる。二つが交互に、俺の呼吸に入ってくる。

 駅で、また受験生の列。背中の板を軽くし、白線を踏まない。蒼生が先に気づいて、軽く手を振る。俺はうなずき、ホームの端の欄干を目で探す。欄干は、もう俺たちの敵ではない。友達でもない。位置だ。位置は、何度も使うと、場所になる。場所は、名前になる。欄干の上のパン。俺たちの物語の名前は、たぶんそういうふうにして増えていく。

――三浦蒼生

 春の手前で、俺たちは同じ未来に薄く指先を触れさせる。触れさせる、なのがいい。掴むでも、握るでもない。触れるだけ。触れるだけで、温度は移る。移った温度は、すぐに消える。でも、消えたことを知っていると、次に触れたときの温度を、前より正確に受け取れる。

 欄干の上に紙袋。あの日と同じ位置。俺たちは笑いながら、同時に噛みちぎる。肉汁の熱さ。風の冷たさ。橋の下の水の匂い。遠くで、救急車の音が小さく流れる。音は角のない曲線で、橋の下を抜ける。

 俺は言う。

「また」

 律は言う。

「また、木曜に」

 曜日に色が戻る。木曜は透明だったのに、今は薄い黄緑色だ。春の手前の色。俺は帰り道、欄干の冷たさではなく、紙袋の温かさを手のひらに確かめる。温かいものを持っていると、背筋が少し伸びる。伸びた背筋で、駅の階段を上がる。受験生たちの列を横目で見て、彼らの板みたいな背中に、うっすらと応援の言葉を心の中で貼る。透明テープで。見えないけれど、剥がれにくいように。

 部屋に戻る。ノートの最初のページを開かない。二枚目に指を置き、三枚目の端に触れる。日付を右上に書いて、小さな丸をひとつ。今日の丸は、いつもより少し濃い。濃くなったぶんだけ、明日の薄さに余裕ができる。余裕ができると、無駄が入る。無駄が入ると、手順が進む。進んだ手順は、無駄を呼ぶ。交互に、俺の中で回転が続く。乾燥機の音に似た、低い、たしかな唸り。

 春はまだ手前だ。けれど、段差がある。二人でなら越えられる段差が、確かにある。段差の前で、俺は肩で息をして、律は一呼吸置く。置いた呼吸の上に、俺は足を乗せる。乗せると、足場は少しだけ広くなる。広くなった足場の端で、俺たちはまた、四文字の合図を交わす。

「また」

 合図は、橋の上で、紙の上で、朝の湯気の上で、透明テープの上で、小さく光る。光は角がない。角のない光が、俺たちの手の中で、ゆっくり春になる。