――三浦蒼生

 言葉は、紙の上ではうまく並ぶのに、口から出すとすぐ躓く。だから、ノートに箇条書きを作ってから、スクールカウンセラー室の扉を叩いた。三回。三回は俺の手順だ。
 部屋の中は、紙の匂いと、ほんの少しだけ薬の匂いが混ざっている。蛍光灯の白は図書室のそれと似ているけれど、音が違う。ここは、薄く唸って、それからときどき息継ぎをする。先生は顔を上げ、俺に椅子を示した。座ると、座面の布が身体の輪郭に合わせて少し沈む。沈む感覚は、俺を少しだけ落ち着かせる。

「曜日は、木曜が多いです」
「時間帯は?」
「夜。十時から、遅いと二時。……三時に近いことも」
「見たのは?」
「頬に青い痕。眼鏡の跡が赤くて、フレームが、少しズレている。……皿の音がしました。割れる音は、もっと重いと思っていたけど、軽かったです。軽い音なのに、俺の胃の底だけ重くなった」
 話していくうち、ノートの箇条書きよりも細かい言葉が、勝手に口から出た。先生は相槌を急がない。必要な箇所だけ繰り返しを求め、俺の言い間違いを直さない。直されない言葉は、弱くならない。
「彼の名前は」と問われ、俺は呼吸を一度止め、冷蔵庫の音の不在を胸の中に置く。
「篠原律」
 言った瞬間、自分の名前をひとつ渡した気がした。渡すことは、怖い。怖いのに、渡した。
 先生はメモを取り、「ありがとう」と言った。その声の高さは、蛍光灯の白に混ざらない。混ざらない音は、あとで思い出しやすい。

 翌日の午前、担任に呼ばれた。短い確認と、連絡の手順の説明。俺の学校と、律の学校。福祉の人の名前。連携の線が、地図の上で引かれていくように思えた。大人の社会が動く音は、遠くで低く鳴る。図書室やコインランドリーの回転より、ずっと大きい。けれど、その音は、俺の耳まで届く前に、たくさんの書類と許可の紙の角で削られて、やわらぐ。

 放課後、図書室へは行かず、駅前のコンビニの斜向かいで待った。律はいつもの時間より遅れて出てきて、目の下にうっすらとした影を落とし、俺を見て、一瞬だけ眉を上げた。俺の顔を見て、何かに気づいた顔だ。
「……話した?」
 訊き方に、責める角はなかった。
「話した」
 律は視線を俺から外し、地面に落ちていた輪ゴムを靴先で拾い上げるみたいな動作をして、それから小さくうなずいた。
「ありがとう」
 裏切られたように、ほんの一瞬見えたのは、俺が勝手にそう見たのかもしれない。すぐに彼は目を落とし、短い言葉を置いた。ありがとう。便利な言葉だ。けれど今夜のそれは、俺の懸念の角を鈍くした。

 事は一気には変わらない。大人の音が動いても、夜の川沿いの風は同じ冷たさで、欄干の金属は変わらず冷たい。透明テープは封筒の角にしか貼れず、人の声の角は、やはり貼れない。
 木曜、律の母からの電話は、彼の携帯にだけではなく、なぜか俺のスマホにまで非通知でかかってきた。番号を知られた理由はわからない。着信の震えがポケット越しに太ももの皮膚を揺らす。出ない。出ないと、震えは長くなる。長くなると、俺の呼吸は浅くなる。図書室の机の端を指で探り、角が丸くなるほどなでた。
 律は電話に出ない。出ない彼の横顔は、欄干の上の紙袋のように、軽く見えて、内側に重いものを隠している。

 その夜、俺は律を公営の一時避難所まで送った。市の福祉の人が電話口で教えてくれた住所。駅から歩いて十分、川沿いの道を抜けた先にある、低い建物。入り口のガラス戸は古く、押すときに少し軋んだ。受付のカウンターの上に、消毒液のボトルと、記入用の紙と、ペンが三本。
 蛍光灯が、白い。白いのに、図書室のそれと違って、音を出さない。無音の白。
 氏名と生年月日。連絡先。緊急時の連絡先。律は落ち着いて書き、最後にペンを止めてから、俺に目配せした。俺はうなずく。同行者の欄に自分の名前を書く。手の中のペンが、少し汗を吸った。
 薄い毛布と、簡易ベッド。床に敷かれたビニールの匂い。足元に置かれたスリッパが軽く鳴る。眠る人たちの寝息が、広い空間のどこかで薄く重なっている。
 朝。配られた紙コップの味噌汁から、湯気が立つ。湯気がやけに大きく見えるのは、蛍光灯の白がそれに面を与えるからだ。俺と律の前に、二人分の湯気。湯気は角がない。角がないものを見ていると、胸の内側の尖りが少し鈍る。
 味噌汁の縁で唇を少し切った。切ってから、黙って笑う。律も笑った。笑いは、朝に似合う。夜の笑いは、薄くなる。

「地図、見せる」
 俺は鞄からノートを出して、余白に書いてきた〈逃げてもいい場所〉のリストを見せた。図書室。コインランドリー。駅のベンチ。欄干。コンビニ。律の眼鏡。透明テープ。避難所。
 律は、ふっと笑って、ペンを手に取った。
「二つ、足してもいい?」
「いい」
「朝のパン屋。午後三時の図書室」
「午後三時?」
「午後三時の図書室は、紙の匂いが一番乾いてる」
「ああ」
 言われてみれば、三時の紙は、読む音がよく響く。
「……交換しようか」
「何を」
「ないものねだり」
 律は味噌汁の湯気に目を細めながら言った。
「君から、俺には『無駄に見える時間』。俺から、君には『生活の手順』」
「取り引きみたいだな」
「取り引きだよ。手に入れたものは、返さなくていい」
 返さなくていい、という言葉は、最初の日の欄干を思い出させる。返さなくていい傘。返さなくていい合図。手放すのが下手な俺にとって、返さなくていいものは、やっと置ける場所だ。

 午前のうちに、律は避難所の職員と話をし、学校の先生からの連絡とつながって、週末までの段取りが動きはじめた。母から一時的に離れる。安全な場所。これからのこと。書類の角に、透明テープが貼られている。人間の声の角には貼れないが、紙の角には貼れる。貼れることは、それだけで救いになる。
 俺は律の話を聞きながら、自分のノートを開いた。ページの上に、〈交換〉と書く。交換は、俺にとって新しい手順だ。

 まず、俺が受け取る番――「生活の手順」。
 朝のトーストの焼き方。
「パンは冷凍しておくと、焼いたときに水分が戻る。二枚焼くなら、トースターの網の位置を少し下げる。焦げ目は端から先につくから、最後は向きを変えて、一呼吸置いてから出す」
 一呼吸置く。それだけのことが、俺には難しい。待つのは、出発前のホームだけで十分だと思っていた。パンの前でも待つ。待つための一呼吸。
 洗濯の回し方。
「色物と白いのは分けられたら分けるけど、分けられない日もある。そういう日は、ネットに入れる。柔軟剤の蓋の目盛りを守る。回す前に、ポケットを触る。ティッシュを回すと、世界は白くなる」
 世界は白くなる。笑いながら、律は指でネットの口を閉じ、紐を結ぶ方法を見せた。結び目は固くしすぎない。ほどけない結び目は、安全ではない。
 レシートの束のまとめ方。
「日付でおおまかに分ける。ゴムは二回転まで。三回転すると、角が反る。反った角は、封筒の角と喧嘩するから」
 角に角を重ねない。角が多い日ほど、丸を増やす。丸は呼吸だ。
 律が手を動かすたび、俺の中の「生活」が少しだけ輪郭を持った。輪郭は、今までなかったわけじゃない。見ていなかっただけだ。見ないで済むなら、それでいい日もある。けれど今は、見る。見ることで、俺の存在が確かになるなら。

 次は、律が受け取る番――「無駄に見える時間」。
 欄干で立ち止まって空を見る五分。
「欄干の金属は冷たい。冷たいのを確かめてから、頬じゃなくて、手のひらを置く。置いて、空を見上げる。朝は薄い灰、昼は白、夕方は橙。色を名前で呼ばなくてもいい。数えるだけでもいい。数は、五十までいかなくてもいい」
「五分、立ってるの?」
「うん。五分は、歩き出す前の五分」
 コインランドリーで乾燥機の音を聞くだけの十分。
「回転に合う呼吸を探す。合わなかったら、合わない呼吸でいる。十は、少し長い。長いから、終わらせるための十」
「終わらせるための」
「うん。なかったかのようにするための十じゃなくて、ここで終わった、と言える十」
 律は笑って、「無駄の練習は難しい」と言った。
「難しいけど、難しいから、効く」
 俺が言うと、律は「効く」という言葉の角を確かめるみたいに、口の中で転がした。効く。手順にも、無駄にも効き目がある。効き目はすぐには出ない。出ないほうが、深く届く。

 避難所の朝を出ると、川沿いの道の空気が、いつもより乾いていた。俺は朝のパン屋を通り過ぎ、焼き上がったばかりの食パンの匂いに、胸の奥がほどけるのを感じた。律はガラス越しに並ぶパンを見て、「あの角の焦げ目が、ちょうどいい」とつぶやく。角。焦げ目まで角だ。

 それからの数日は、遅い速度で進んだ。律の学校の担任が家庭訪問の段取りをし、福祉の人があらためて話を聞き、避難所の滞在の延長や別の施設の選択肢が提示された。提示、という言葉は便利だ。俺は紙の上にその言葉を書き、矢印を引いた。
 律の母からの電話は続いた。俺のスマホにも、一晩に三回、四回。非通知。留守番電話に切り替えると、何も残らない。何も残らないのに、残る。残るのは、音の影だ。影が長く伸びる夜は、窓を狭く開け、冷蔵庫の音を増幅する。

 週末の手前、律は一時的に母から離れる段取りに入った。必要な荷物。学校への連絡。避難所での次の部屋。俺は手伝いながら、怖くなった。俺が介入したことで、何かが悪化しないか。俺が押したことで、ドミノの角が予期せず倒れていくんじゃないか。
 袋に入れた靴下が一足だけ足りず、探す俺の手が、知らない引き出しの角で小さく切れた。切れた場所を舐めると、鉄の味が薄くした。
「……怖い」
 と言うと、律は、透明テープを俺の指に巻いてくれた。皺が寄って、端が少し浮いた。
「結果は僕の責任。選んだのは僕」
 彼は静かに言った。
 俺はその言い方に、初めて彼が年齢よりもずっと大人であることを、真正面から突きつけられた。突きつけられると、胸が痛い。痛みは、俺が今まで背負わずに来た分の重さかもしれない。

 夜、俺は自分の部屋に戻り、ノートの最初のページを開いた。左上に日付。右上に小さな丸。〈交換〉の下に、今日増えた手順と、今日練習した無駄を記す。
 朝のトースト――向きを変える前の一呼吸。
 洗濯――ポケットを触る、ティッシュの不在を確かめる。
 レシート――二回転まで。
 欄干の五分――冬の空の白、五十までは数えられなかった。
 乾燥機の十――回転に合わず、合わないまま終える練習。
 書いていると、紙の角がまた指を刺す。刺す痛みは、眠気を呼ぶ。眠る前に、もう一行だけ書いた。〈また〉。
 それは合図でしかない。合図でいい。合図があると、手順も無駄も、どちらも持ち歩ける。

 *

――篠原律

 「ありがとう」と言えたとき、俺は自分の言葉の重さを測っていた。裏切られた、と一瞬だけ思ったのは、正直だ。正直は、時々、他人を傷つける。自分も傷つける。傷が新しいうちは、正直でいられる。古くなると、正直は、鈍くなる。
 蒼生が話した。学校に。大人に。俺の学校にも連絡が来て、担任が声を落として話をする。「家庭訪問の段取りを」と言う。段取り、という言葉の四角さは好きだ。角を合わせれば、立つ。立つものは、倒れにくい。
 母の電話は鳴り続ける。非通知の震え。固定電話からの呼び出し音。隣室にまで聞こえる怒鳴り声。皿の音は、今週はひとつだけ。ひとつで十分に大きい。
 俺は出ない。出ないことの利息は、あとから払う。払う算段が立たない夜は、外に出る。駅のベンチ。漫画喫茶。避難所。コインランドリー。交互に。回転に助けられ、蛍光灯に目を細め、紙コップのココアと味噌汁で喉の膜を作る。膜の向こうで、眠気が丸くなる。

 避難所は、音が少ない。少ないのに、音がある。配られる毛布が擦れる音。紙コップが触れ合う音。注意書きの紙の角にセロテープが貼られる音。音が少ないと、人は自分の内側の音を聞く。内側の音は、たいてい大きい。
 朝、味噌汁の湯気は、二人分。二人分の湯気が並ぶと、空気の手触りが違ってくる。蛍光灯の白に面を作るのは、湯気のほうかもしれない。湯気には角がない。角がないものに囲まれると、俺の言葉の角も少し削れる。
 蒼生がノートを見せた。〈逃げてもいい場所〉。そこに「避難所」が加わっていて、俺は笑った。他人のノートの余白に自分の生活が書かれているのを見るのは、変な感覚だ。恥ずかしくて、嬉しい。嬉しいと恥ずかしいは、同じ温度を持つ。

「二つ、足していい?」
 朝のパン屋。午後三時の図書室。
 パン屋は、匂いの地図の中心にある。焼きたての角は、指で押すと小さくへこみ、すぐ戻る。戻るのは、しなやかさの証拠だ。午後三時の図書室の紙は、乾いていて、手のひらが吸い寄せられる。乾いた紙に書く線は、はっきり残る。残る線は、間違いの印にもなる。
「ないものねだりを交換しよう」
 提案しながら、俺は怖くなっていた。無駄に見える時間を、俺は長いこと持っていない。持とうとすると、誰かが指で角を押してくる気がした。押される前に、角を落とすやり方を学んだ。落としすぎて、何も立たなくなった夜もある。
 蒼生は「無駄の練習は難しい」と言い、俺に欄干の五分と乾燥機の十を渡した。
 練習した。欄干に手のひらを置くと、冷たさの裏側に自分の体温が薄く移る。五分は長い。長い時間を長いまま持つのは、俺には難しい。難しいものを、難しいまま持ってみる。五分のあとに歩き出すと、歩幅が、少しだけ、自分のものになっている。
 乾燥機の十。回転の音に呼吸を合わせようとして、合わないままで終える。合わない、と言い出すのは勇気じゃない。疲れでもない。宣言だ。宣言は、俺にとって新しい動詞だ。
 俺から渡す番。「生活の手順」。
 トーストの一呼吸。洗濯のネット。レシートの二回転。
 蒼生は、俺の口から出た「二回転」という数字を面白がった。数字は俺にとって、手順のための目盛りだ。目盛りがあると、角が揃う。角が揃うと、台が水平になる。水平の上では、人はものを置ける。置くことは、すべての始まりだ。

 週末に向けて、避難の段取りは進む。市役所の人に会い、学校の先生と話し、紙にサインをして、判を押す。俺は、判子の丸が好きになった。角のない印は、紙の端で刺さらない。刺さらない印が、俺の生活に増えるのは、悪くない。
 蒼生は、俺の荷物をまとめるのを手伝いながら、手の甲を引き出しの角で切った。切った場所に、透明テープを巻く。端が少し浮いた。浮いた端は、あとで剥がしやすい。剥がしやすさを残すのは、大事だ。剥がせないと、人はそこで止まる。

「……怖い」
 彼が言った。怖い、と言えるのは、偉い。俺はなかなか言えない。言うと、角が増える気がするからだ。
「結果は僕の責任。選んだのは僕」
 口にした言葉は、俺の中では何度も何度も裏返してきた言葉だ。裏返すたびに、表面が少しすべすべになる。すべすべになっても、重さは減らない。重さを持ったまま、ポケットに入れる。ポケットの中で、時々当たる。痛む。痛むから、生きている。

 避難所での生活は、簡単ではない。簡単にしてはいけない。簡単にすると、戻ったときに壊れる。俺は配られたスリッパを、自分の足の形に慣らし、毛布の折り目を一定にし、朝のパンの角を少し残して昼に回し、午後三時の図書室の乾いた紙に触れに行く。やることを増やすのは、逃げではない。やることに逃げるのは、逃げだ。違いは、俺にしかわからない。

 蒼生は、「学校の先生に相談した」と、さらに報告してくれた。俺はそれを責めない。責めると、彼の手順が折れる。折れた手順は、もう一度覚え直すのに時間がかかる。時間は、無駄に見えるほうが、役に立つ夜がある。
「……ありがとう」
 俺は言った。言ってから、ベンチに置いた両手の間の距離が、いつもより近いことに気づいた。近すぎると、角がぶつかる。ぶつかる前に、俺は少しだけ手をずらす。ずらした距離は、蒼生にもわかったはずだ。わかってもらうためじゃない。俺が呼吸を続けるためだ。

 夜、駅のベンチで、蒼生から「欄干の五分」を受け取る練習をした。ホームの端の白線から足先をはみ出さないように気をつけ、欄干の代わりに手すりに手のひらを置く。空は黒い。黒は角がない。角がない色に、目はすぐ慣れる。慣れた目は、眠気を呼ぶ。
「また」
 小さく言った。届かない。届かない合図は、自分の耳だけで完結する。完結する輪は、小さい。小さい輪は、持ち歩きやすい。

 *

――三浦蒼生

 週末に入る前日、先生に呼ばれ、短い説明を受けた。律は一時的に母から離れる。適切な大人が関わる。これからも、見たこと、聞いたことを教えてほしいと。俺の名前は出していい、と既に伝えてある。伝えたときの自分の声は震えていたが、震えた文字は、紙の上では同じ太さだ。
 放課後、俺は図書室で英単語帳の一枚目を開き、同じ語を読んでは目を離し、また読む。その作業は、役に立たないように見えて、今は役に立つ。役に立つ、を形にできないからこそ、続ける。続けること自体が、俺のなかの回転を一定にする。
 欄干の五分も、乾燥機の十も、律に教えながら、自分のためでもあった。俺は欄干に手のひらを置き、空の灰を数え、五十まで数えられずに笑って、笑った自分に少し驚く。驚けるのは、まだ余白がある証拠だ。余白は、逃げてもいい場所の別名だ。

 夜、避難所の前で待つ。律は少し遅れて現れ、手にクリアファイルを持っていた。中には、控えの紙。丸い判の列。
「丸、きれいだな」
 俺が言うと、律は「角がないから」と笑う。
「角がない印は、紙の端で刺さらない」
「刺さらない印を増やそう」
「増やそう」
 会話の角が丸い夜は、言い過ぎなくて済む。言い過ぎないことは、弱さじゃない。強さでもない。ただの手順だ。

 避難所の食堂で、スープの代わりに配られた薄い飲み物を飲み、俺は律からレシート束の二回転をもう一度習った。「二回転まで」。紙の角に角を重ねない。
 俺のノートの〈交換〉のページは、行が増える。生活の手順と、無駄に見える時間が、交互に並ぶ。勉強のコツみたいに、ここに書けば身につくというものではない。書くのは、ただの覚え書きだ。覚え書きにしておくと、忘れても戻れる。戻る場所の目印は、丸いほうがいい。角のある印は、戻るときに刺さる。

 その帰り道、俺はふと思い立って、朝のパン屋に入った。律が「朝のパン屋」をリストに足した意味を、匂いで確かめたかった。焼き立ての角に、指をそっと当てる。へこみ、すぐに戻る。戻る力は、もちもちという動詞じゃない。生地の中に隠れている復元の手順だ。
 翌朝、俺は教わった通りにトーストを焼いた。向きを変える前の一呼吸。トースターの中の光が弱まり、パンの面に焦げ目が浮かび上がる。香ばしさは、手順のご褒美の匂いだ。
 母が「いい匂い」と言い、食卓に座る。二枚目を焼く前に、俺は網の位置をひとつ下げる。焼け具合が均一になる。均一は、退屈かもしれない。けれど、朝には均一が似合う。夜に均一を求めると、世界は苦しむ。
 洗濯機の前では、ポケットを触る。ティッシュの不在を確かめる。柔軟剤の蓋の目盛り。蒼白い液体が、規定量で止まる。止めるのは、俺の手だ。止められるものは、止める。止められないものは、回転に渡す。

 週末、律は一時的に母から離れた。避難所から別の部屋へ。学校と福祉の連携が動き、担任が付き添い、俺は入口で手を振る。手を振るのは、合図だ。合図に約束を混ぜない。混ぜると、借金になる。
 俺のスマホは静かになった。非通知は減り、たまに震えるだけになった。震えない夜は、冷蔵庫の音がよく聞こえる。
 それでも怖さは残る。俺が介入したことで、どこか別の角が鋭くなっていないか。俺の知らないドミノが、倒れていないか。
 怖さは紙に書いておく。書くと、角が丸くなる。丸くなった角に指を置いて、俺は眠る。眠るための手順を、ずっと忘れていた。今は、思い出しつつある。

 夜更け、欄干で立ち止まり、五分を練習したあと、空に小さく言う。
「また」
 届かなくていい。届かない合図は、俺の胸の中で輪になり、朝のトースターの光と、乾燥機の回転と、紙コップの湯気と、透明テープの端と、二回転の輪ゴムと一緒に、静かに回り続ける。

 *

――篠原律

 避難の段取りが進むなかで、俺は「戻る」という言葉を、自分の手の中で何度も裏返した。戻るは、帰るより重い。戻るのは、決まった位置に置き直されること。置き直されると、角が合う。角が合うと、痛む場所がはっきりする。痛む場所がはっきりすると、透明テープを貼れる。貼れない夜も、ある。
 蒼生が交換してくれた「無駄に見える時間」は、俺にとっては新しい領土だった。欄干の五分。乾燥機の十。朝のパン屋の匂いに立ち止まる三十秒。午後三時の図書室で、何も借りないで紙に触れる一分。
 時間は、俺の生活ではいつも「何かをするために」存在していた。何も起こらない時間は、借金に見えた。利息がかかると思っていた。蒼生は利息のない時間をくれた。利息のない時間は、最初、空虚だ。空虚の呼吸に慣れると、そこに薄い味がある。味は、塩ではなく、湯の味だ。
 俺から渡した「生活の手順」は、蒼生の指の中で少しずつ温度を持った。トーストの一呼吸。洗濯ネットの口の結び目。レシート束の二回転。二回転まで、と言ったとき、蒼生は笑った。「まで」が彼の中で新しかったのだろう。線引きは、誰かからもらってもいい。もらった線は、自分の地図に合うように少しずらせばいい。
 週末、俺は一時的に母から離れた。避難所の別室。薄い布団。蛍光灯の音。外の風。窓の隙間。
 蒼生は、入口で手を振り、「また」と言った。言い置かれた「また」は、借金ではない。合図だ。合図なら、俺は受け取れる。ポケットの中には、透明テープと、輪ゴムと、深さの浅い間違いのメモ。
「結果は僕の責任。選んだのは僕」
 その言葉を面で支えるために、俺はパンの角を残し、二回転のゴムで束ね、欄干の五分を練習し、乾燥機の十で終わらせ、午後三時の紙に指を置く。大人になる、というのは、こういう地味な寄せ木細工みたいな作業なのかもしれない。どの木にも角があり、角を合わせると、模様が浮かぶ。模様は、遠くから見ないとわからない。
 母からの電話は、相変わらずかかってくる。出ない。出ないのは、逃げだ。逃げられる場所があるうちは、逃げる。逃げる場所に名前をつけてくれたのは、蒼生だ。名前があると、逃げ場は地名になる。地名は、地図に載る。地図に載ると、救助も来る。
 夜更け、ベンチの上で、俺は息を整え、小さく言った。
「また」
 届かなくていい。届かない合図は、輪になって、俺の耳のすぐそばで回り続ける。回転の音は、乾燥機よりも小さい。小さいけれど、たしかだ。小さいから、持ち運べる。
 蒼生の「無駄」と、俺の「手順」。ないものねだりを交換して、片方だけでは持てなかった重さを、二人で割った。割るときの音は、皿が割れる音とは違う。軽くて、甘い。紙コップの縁を舐めるみたいな、朝の湯の音だ。

 来週の木曜、またあの白い蛍光灯の下を通る。封筒の角は相変わらず鋭い。透明テープは相変わらず薄い。相変わらず、だから続けられる。続けることを、俺はやっと選びはじめた。選ぶたび、蒼生のノートの余白で、丸がひとつ増える。角のない印が増えるたび、世界は少しだけ、俺の手の中で持ちやすくなる。

 そしていつか、選び続けた先で、俺たちは「ないものねだり」が、ただの「あるもの分け合い」に変わるのを見つけるのかもしれない。まだ先の話だ。先の話は、先に置いておく。置いておく場所を、今はやっと手に入れたのだから。
「また」
 輪の中で、合図はもう一度、小さく明滅する。二人分の湯気みたいに、角のない形で。