――三浦蒼生

 木曜の夜は、待つために形を持っている。図書室の席の半分、透明テープ、封筒の角、蛍光灯、そして回転――そういうものの輪郭が、木曜になると急に濃くなる。俺は約束どおり、コインランドリーのベンチに座った。乾燥機は二台だけ回っていて、低い唸りが床に伝わる。紙コップのココアはぬるい。自販機の前で迷わなくなった自分に気づく。迷わないのは、良いことかもしれないし、危ないことかもしれない。どちらでも、今夜は構わない。

 時計の針がひと回りしても、律は現れない。ガラスの外の道を、三分おきくらいに足音が通り過ぎていく。足音は、誰のものでもない速度で歩き、誰でもない場所へ消えていく。俺は紙コップを捨て、新しいココアを買う勇気はないから、空の手でベンチの端を撫でた。指先に付いた粉の正体は、洗剤か、俺の皮膚の欠片か。細かいものの境目は、いつも曖昧だ。

 十分、十五分、二十分。回転に呼吸を合わせようとして、呼吸のほうが息切れした。俺は立ち上がった。ベンチが小さくきしむ。サドルについた水滴はもう消えていて、代わりに夜の冷たさが、金属の中に沈んでいる。自転車の鍵を抜くときの音が、妙に大きく聞こえた。

 コンビニの前を通る。蛍光灯の四角い白が、歩道に薄い長方形を落としている。レジの中に律はいない。バックヤードのカーテンは動かない。傘立てのビニールがからから鳴る。誰もいないのに鳴る音は、だいたい風のせいで、風の音は残酷さの痕跡が薄くて、だから怖い。

 俺はもう少し歩いて、律が曲がっていったことのある細い路地に入る。道幅が急に狭くなり、街灯の間隔が広がる。アスファルトの端に、割れたガラスの粒が二つ光って見えた。光っても、拾われない種類の粒だった。アパートの鉄階段は古く、手すりに小さな白い塗料の欠けがいくつもあった。二階の突き当りから、怒鳴り声。低い、酒で磨かれた声。続いて、皿の割れる音。

 俺の手は、勝手に震えた。震えは寒さのせいだと決めるには、気温が足りない。溶け残った氷みたいな震え。インターホンのボタンの位置はすぐわかったが、押す勇気はどこにも置いてない。指を近づけては離し、離してから、階段の影に身を入れる。コインランドリーで練習した「待つ手順」が、ここでは鈍い。乾燥機の一定は、ここでは通用しない。一定のない音が、空気を突き抜けてくる。

 怒鳴り声は、単語の端が崩れていて、意味が拾えない。拾えないまま、意味だけが届く。皿が割れる。陶器の音は思ったより軽い。軽い音が、俺の胃の底だけ重くする。しばらくして、足音。ドアの蝶番が鳴って、鍵が回る音。扉が開き、律が出てきた。

 頬に青い痕。眼鏡のフレームが少し曲がって、鼻あての跡が赤い。視線がどこにも置けないみたいに揺れて、俺を見つけた瞬間だけ、止まった。眉が少し上がる。

「見た?」

 乾いた声。コインランドリーの紙コップよりも、からからに乾いている。俺は頷いた。喉が音を作る前に、頷きが先に出た。

「大丈夫って言って」

 律が言った。命令ではない。懇願でもない。書類の欄外に印字された定型文みたいに、中身がないのに効く方向が、決まってしまっている言葉。

 言えない。喉がつまって、舌が貼りついた。便利な言葉ほど、喉の前で重くなる。俺は「大丈夫」と言う代わりに、律の前に立って、階段の影から路地へ、一歩出た。出てしまえば、進むしかない。コインランドリーまで歩く。律がついてくる。二人の足音は、うまく重ならない。

 角をふたつ曲がり、古いアパートの匂いが薄まって、洗剤と乾いた金属の匂いが戻ってくる。ドアを押すと、乾燥機の低い唸りが胸に入る。耳に届くより先に、胸に入る音がある。冷蔵庫のモーターの音もそうだ。家の中で一番、俺の体内の波形に似ている音。割れる皿の音は、波形を断ち切る。切られると、人は自分を見失う。

 ベンチに腰を下ろしても、律は座らない。丸い窓の前に立ち、ガラスに掌を当てる。回転の熱が、青い痕の下まで届けばいいと思う。届かないとわかっていても、掌を当てる。

「……母さん、ね」

 律がぽつぽつ話し始めた。言葉はひとつずつ、乾燥機の前で手で畳むタオルみたいに、角を合わせながら出てくる。角が合わないときは、言い直し、言い直せないときは、沈黙に畳む。

「やめられないんだ。酒。仕事も長く続かない。続かないと、封筒が来る。角の鋭い封筒。水道、電気、家賃、電話。電話はね、俺のじゃない固定のほうにかかってくるから、鳴ってるのが見える。止め方は知ってる。コンセントを抜けばいい。でも、抜くと別の音が鳴る。『逃げるな』っていう、声」

 俺は聞くことしかできない。こういうとき、手順があれば楽だと思う。〈傾聴〉とか、〈共感〉とか、〈要約〉とか。けれど、手順は紙の上にあるときしか温度を持たない。目の前の人間に触れようとすると、紙はすぐ冷える。

「木曜は……稼ぎの振り込みがあったり、逆に督促が来たり、どちらにしても、音が増える。封筒の角に透明テープを貼っても、人間の声の角は、貼れない」

「……貼るだけ、が効かないもの」

「うん。貼るだけ、が効かない夜がある。こういうとき、学校では顔を変える。『安心』の顔。成績がいいと、安心の顔は誰でもすぐ作れる。『大丈夫』って言われる。言われると、少し楽になる。言われすぎると、少し壊れる」

 律の声は穏やかだが、穏やかというのは温かさのことじゃない。フタの閉まった鍋の上を指で撫でるみたいな穏やかさ。熱は中にいる。

「ごめんね」

 律が繰り返す。何度も。俺に謝っているのか、今日の夜に謝っているのか、誰に謝っているのか、わからないまま謝る。謝っているうちに、謝る相手が自分に近づいてくるのを、俺は知っている。謝罪は鏡だ。

「謝ることじゃない」

 俺は言いながら、乾燥機のガラスに額を当てた。ガラスはぬるく、額の骨がそのぬるさを内側に連れていく。回転の影が、額の向こうの暗闇に映っている。酔っていないのに、世界が少しだけ回る。

 しばらくして、律が言った。

「あの日、欄干で君を見て、羨ましかった」

 俺は顔を上げた。反射的に、言い返したかった。羨ましい、という言葉はときどき、刃の反対側から振り下ろされる。刃じゃない側でも、人は斬れる。

「俺は降りる勇気もない。穴の上にベニヤ板を渡して、その上で生活してる。板は薄い。いつ落ちるか、わからないまま」

「勇気じゃない」

 俺は首を振った。言葉が先走った。呼吸は後から追いかける。

「あれは、ただの疲れだ」

「疲れ」

「うん。俺は、疲れて、そこで立ち止まっただけ。勇気だったら、格好いいけど、格好よくなかった」

 俺たちの言葉は違う方向を向いているのに、同じ場所に落ちていく感じがした。穴。穴の縁。板。欄干。俺は穴の側から、彼は板の側から、同じ空洞を覗いている。空洞は、覗く角度で深さを変える。

 乾燥機が止まった。電子音が、今日の中で一番、正直に鳴る。律が扉を開け、熱気に目を細める。その目の隅に、薄い涙の膜が張っているのが見えた。涙は落ちない。落ちない涙は、重い。落ちる涙は、軽い。軽くならない夜は、長い。

「……どうしようもないね」

 律が、畳みながら言う。畳む手は、レジの時と同じ、迷いがない。物と物の間にいつも同じ距離を置く。距離を置けるのは才能だ。俺は距離をうまく置けない。すぐ近づき、すぐ遠ざかる。

「どうしようもない」を、俺は頭の中で何度も言い換えた。〈俺にはできない〉とか、〈今は無理だ〉とか、〈待とう〉とか。全部少しずつ違って、全部少しずつ正しい。正しさは、紙の上では強いが、夜の中では頼りない。

 歩いて、コンビニの前に戻る。閉店時間を過ぎても、店内の蛍光灯は白い。白は冷たい。冷たい白は、フレームのズレを教えてくれる。律の眼鏡はわずかに歪んでいて、彼はそれを知っていて、直さない。直すと、痛みが動くからだ。

「今日はどこに戻るの?」

 俺は問うてから、問うたことを悔いた。戻る、という動詞の重さを、俺は最近覚えたばかりだった。帰る、ではない。

「……戻らない」

 律は言った。短い言葉に、たくさんの選択が折りたたまれていた。

「どこかで、朝までいる。学校に行く。出席を取って、ノートの端に丸をつける」

「丸」

「角がないやつ」

 俺は頷いた。頷くしか、できなかった。

 別れ際、律がポケットから透明テープの小さな巻きを出してみせた。前に見たやつより、端が少し乱れている。

「封筒の角に貼るやつ。……人には貼れないけど」

「うん」

「でも、俺は今これを持ってるから、少し大丈夫」

 大丈夫、という言葉を、俺は今日、初めて肯定した。誰かが持っているものを、見せてもらうだけで、こちらの体温が上がることがある。

「また」

 律が言った。俺も言った。木曜の夜に、四文字が通る。通るだけの幅が、今夜はあった。

 帰り道、冷蔵庫の音が聞こえる家に帰りたくなった。冷蔵庫の音は、生きているのに死んでいるみたいな音だ。感情がなく、一定で、冷たい。俺はその音を嫌っていたはずなのに、今夜は、その一定が欲しかった。一定は、割れる皿の音の反対側にある。

 家のドアを開ける。暗いキッチン。冷蔵庫のモーターが小さく唸っている。モーターの音に耳を合わせると、さっきの皿の音の残りかすが、ゆっくり沈む。俺は蛇口をひねり、コップに水を入れて飲んだ。水は味がない。味がないのに、喉を通るときだけ、わずかに甘い。わずかな甘さを、俺は信じる。

 部屋に入り、机に向かう。ノートの最初のページを開く。左上に今日の日付を書き、チェックを入れ、その下に列を作る。〈律のために俺ができること〉。ひとつずつ、書いていく。
 助ける。庇う。通報する。隠す。逃げる。手を握る。……どれも正解のようで、どれも怖い。紙の角が、ひとつずつ俺の指の腹を刺す。刺す痛みは、眠気と似ている。痛みを数えると、眠りが近づく。

 俺は鉛筆を止め、呼吸を合わせるために、冷蔵庫の音を数えた。五つ数えると、胸の中の波形が少し揃う。そこで、最後の行に書いた。〈明日、学校の先生に相談する〉。字が震えた。震えは怖さのせいかもしれないし、救いの重さのせいかもしれない。どちらでも、紙の上では同じ太さになる。

 それは、律のためだけじゃない。俺自身が生きるための、新しい宿題だ。宿題を重さで測るとき、これは何グラムだろう。測れない。測れないから、持ち帰る。持ち帰るから、明日が始まる。

 電気を消す。暗闇の中で、冷蔵庫の音が細く続く。割れる皿の音は、もう聞こえない。聞こえないことに罪悪感を持つ必要はないと、今夜の俺は自分に言い聞かせる。耳を休ませるのも、生き延びる手順だ。目を閉じたまま、小さく言う。
「また」

 届かなくていい。届かない合図が、俺の胸の中で角を丸くする。

 *

――篠原律

 夜の穴は、毎週同じ場所に開くわけじゃない。開く位置がずれる。ずれるぶんだけ、俺は体を傾ける。傾け方を間違えると、穴は広がる。今夜は、穴の縁に足をかけたまま、踏み外しかけた。皿が一枚、床で割れた。母は笑った。酔った笑いは、笑いじゃない。笑いの真似をしているだけで、音は笑いのほうへ向かっていない。

「なにしに帰ってきたのよ」

 言葉は矢印ではなく、棒状で、落ちてきて、当たる。俺はかわす。かわすのは、得意になった。かわすことで、誰かが傷を負う。だから、かわすことに向き合うのは苦手になった。矛盾は、木曜の中にきれいに収まる。

 封筒が二枚、テーブルの上に重なっていた。角に透明テープを貼る余裕はなかった。テープはポケットにある。貼る前に、角は刺さる。刺さってから、貼ることもできる。貼っても、刺された記憶は残る。記憶は、セロファンの下にも滲む。

「お金、いつまでに」

 俺の声が俺の声に聞こえない日がある。今日がそれだ。母は答えない。答えない代わりに、引き出しを乱暴に開けて、割れた皿の破片を掴み、袋に入れ、袋を結ぶ。結び目が甘く、すぐほどける種類の結び目。ほどける音が、部屋の空気を少し軽くする。ほどける音が好きだと気づいたのは、最近だ。

 携帯が震える。非通知ではない。〈母〉。今ここにいるのに、電話が鳴る。固定電話から、携帯へ。線の上を音が行き来する。行き来しても、意味は増えない。増えるのは角だけだ。

 俺は外へ出た。ドアが背中で閉まる。階段の影に、蒼生がいるのが見えた。見えた瞬間、眉が少し上がる。自分の顔が自分の意志とは別の動きをするとき、俺は自分の顔を他人だと思う。「見た?」と訊いた。訊くしかなかった。見たのに見ていないふりをされると、俺はまた別の板を渡さなければならないからだ。

「大丈夫って言って」

 言った瞬間、自分がずるいのを知っていた。言葉は便利だ。便利にすがる夜がある。すがって、利息を払えない夜もある。今夜は、その夜だ。

 コインランドリーへ歩きながら、俺は足裏の感覚で、道の傾きを測った。傾きが小さいと、穴は遠い。傾きが大きいと、穴は手前にある。蒼生は前を歩く。歩幅は小さく、一定ではない。一定じゃない足音は、俺の一定を崩さない。人の不規則が心地いい瞬間も、ある。

 乾燥機の前で、掌をガラスに置く。熱が皮膚の薄いところから沁みて、頬の痣の裏に届くことはない。届かない熱を、届くふりで受け取る。ふりでも、体は少しだけ整う。ふりは、俺の生活では重要な技術だ。

 ぽつぽつ話す。母子家庭、酒、給料日、督促、封筒、角、電話、逃げられる場所、とどまる場所、安心の顔。話している間、蒼生はほとんど口を挟まない。挟まない沈黙は、責めない沈黙に似ているが、同じではない。責めない沈黙は、相手を守る。挟まない沈黙は、相手を信じる。今夜の沈黙は、後者に近かった。

「ごめんね」

 繰り返す。何度も。謝るたび、言葉の角が少しずつ丸くなる。丸くなると、意味が減る。意味が減った言葉は、重量が増える。重さで落ちる。落ちる音は、乾燥機の唸りに混ざって、誰にも届かない。

「あの日、欄干で君を見て、羨ましかった」

 言ってすぐ後悔した。羨ましい、は、言っていい単語と悪い単語の境界線の上にある。蒼生は首を振り、「勇気じゃない。ただの疲れだ」と言った。彼の言葉は、刃ではなかった。木べらみたいに、鍋の底を焦がさないように、ゆっくり底に触れる言葉だった。

 乾燥機が止まる。扉を開け、熱の逃げる速度で夜を測る。熱はすぐ逃げる。逃げるものは、追いかけないほうがいい。追いかけると、逃げる速度が上がるからだ。畳む。角を合わせる。角を合わせられるものは、まだ救える。角を合わせられないものは、救い方を選ぶ必要がある。選べない夜は、ある。

 コンビニの前で別れる前、俺は透明テープを見せた。封筒の角に貼るための、貼るだけの工夫。人には貼れない工夫。貼れない工夫が、俺のポケットの中にあるだけで、少し大丈夫。大丈夫を三回言うルールは、今夜破ったかもしれない。破ってもいい。ルールは、守るためだけにあるとしんどい。壊すためにあると、息ができる。

「戻らない」と言った。戻らない夜を、俺は選んだ。選ぶと、別の誰かの夜に負荷がかかる。その誰かの顔を思い浮かべると、俺は自分の選択がきれいではないことを知る。きれいじゃない選択を、きれいじゃないまま持つ。持ち歩くために、小さく畳む。透明テープで端を留める。

 どこへ行くか。漫画喫茶。駅のベンチ。学校の近くの公園。コインランドリー。どれも、夜をやり過ごすための“寄り道”。寄り道は、戻る前提で外れること、と以前自分で言った。今夜は戻らない。戻らない寄り道は、もう寄り道ではない。漂流だ。漂流のほうが、今は安全だ。岸が暴れる夜がある。

 俺は駅のほうへ歩いた。途中でコンビニに寄り、缶のコーンスープを買った。缶の上面の薄い金属を指で押して、少しだけへこませる。へこませると、熱が指に伝わる。熱を受け取る準備ができる。飲み口で舌を軽く切った。切れても、血は出なかった。出ない血は、そのうち夜のどこかに溶けていく。

 駅のベンチは冷たく、ホームの風が時々、背中に回り込み、汗を奪う。汗は出ていないのに、奪われる感覚がある。コーンスープの甘さが、喉の奥に薄い膜を作る。膜のうしろで、眠気が丸くなる。

 携帯が震えた。〈母〉。俺は伏せたまま、呼吸を数えた。十まで。十の次を数えず、目を閉じた。蓄光シールはない。天井もない。空は黒い。黒は角がない。角がない色は、眠りを呼ぶ。ベンチの端に腰をずらし、足元の白線の外に出ないように注意する。手順を守る。手順は、俺が自分をなくさないための、最後の索条だ。

「また」

 小さく言った。届かない。届かないほうがいい合図がある。届かない合図は、自分の耳だけで完結する。完結する円の中で、眠気がやっと、俺のほうに向かってきた。

 *

――三浦蒼生

 朝。冷蔵庫の音が止まっている時間帯がある。モーターはずっと唸り続けてはいない。たまに休む。休んでいるあいだの静けさに、俺は以前不安を感じていた。止まっているとき、世界の一定は、どこへ行ったのか。昨夜の皿の音が戻ってくる気がして、耳が勝手に広がる。今朝は違った。止まっている間に、俺の呼吸の一定を置けばいい。置き場所は、自分で選べる。

 制服に袖を通し、靴ひもを結ぶ。結び目を固くしすぎない。ほどけない結び目は、安全ではない。ほどける可能性のある結び目のほうが、外で呼吸できる。俺は玄関で、母の置いた〈学年費〉の丸角封筒を鞄に入れ、透明テープをひと巻きポケットに入れた。たぶん、今日の俺は、紙の角を鈍くする役になる。

 学校の廊下を歩く。掲示板の角、開け放たれたドアの角、机の角、人の視線の角。角は世界のいたるところにある。角を丸くするのは、たぶん仕事ではない。けれど、今日は仕事みたいにやる。自分のためにも。

 休み時間に、俺は階段を上がった。保健室の前は、いつも薬の匂いがする。匂いは角がない。角がない匂いは、人を弱くも強くもする。俺は保健室を通り過ぎ、その先の小さな部屋の前で止まった。〈スクールカウンセラー室〉。封筒の印字よりやわらかい文字。扉は半分閉まっていて、内側から紙の擦れる音がする。俺はノックをした。三回。三回は、俺の手順だ。

「どうぞ」

 中に入ると、机の上に紙が広がっていた。女性の先生が顔を上げる。俺は入口のところで立ったまま、言葉を探した。喉の奥で、薄い紙片がまたふらつく。ふらつく紙片が嫌いで、俺はずっと飲み込んできた。今日は出す。出す手順を、昨夜決めた。

「あの……相談が」

「どうぞ。座って」

 椅子に座ると、少し呼吸が浅くなった。浅くなった呼吸の上に、言葉を少しずつ置く。置くたび紙がたわむ。先生は相槌を打たない。打たない沈黙の技術を持っている大人に、俺は初めて会った。俺は、木曜の夜のことを話した。皿の音。封筒。角。透明テープ。コインランドリー。回転。蛍光灯。眼鏡。言葉の順番は、ときどきずれた。ずれても、先生は直さなかった。直さない大人は、希少だ。

 「彼の名前は?」

 訊かれて、躊躇した。名前は角だ。名前の角は、人を切る。切る角を、今、ここで誰に渡すのか。俺は躊躇の中で、一度目を閉じて、呼吸の数を数えた。五。冷蔵庫の音の代わりに、時計の針の動きを数える。ゆっくり目を開き、言った。

「……篠原律」

 先生は手元の紙に書き留め、ほんの少しだけ、間を置いた。間は、角を丸くする。角を丸くしてから、先生は言った。

「話してくれて、ありがとう」

 ありがとう。学校で大人に言われるありがとうは、たいてい、仕事の一部に聞こえる。今朝のありがとうは、少し違った。違うように聞こえたのは、俺の都合かもしれない。都合でいい。都合は、ときどき、人を救う。

「ここからは、私と担任の先生で連携して、あなたの学校と、篠原くんの学校にも連絡します。あなたが見たこと、聞いたこと。必要なところに、必要なだけ。あなたの名前を出すかどうかは、決められます。どうしますか」

 俺は考えた。自分の名前は角の形をしていて、角は、どこに置くかで刃にも支えにもなる。俺は、自分の名前を支えに使うことを、一度もしたことがなかった。

「出していいです」

 言って、驚いたのは俺だった。言ってから、背中の板が少し硬くなった。硬い板は、体を支える。支えすぎると、動けなくなる。今は支える番だと思った。支えの番は、長くは続かない。続けない。続けない手順も、いつか覚える。

 先生はうなずき、次の手順を説明した。説明の言葉は乾いている。乾いた言葉は、役に立つ。役に立たない乾きもあるが、今日の乾きは、俺を前へ押した。部屋を出るとき、俺は小さく頭を下げた。廊下の空気が、少しだけ軽い。

 教室に戻ると、黒板の上段が見えやすかった。見えやすさは気のせいだろう。気のせいで構わない。気のせいで、今は十分だ。ノートの左上に日付を書き、右上の角に小さく丸を描いた。角のない印。木曜の真ん中に、丸を置く。

 昼休み、伊藤が「英表の小テスト、出ると思う?」と訊いた。俺は「出る」と答えた。適当だ。でも、当たることがある。適当が役に立つ日がある。役に立たない日もある。今日は、当たった。

 放課後、図書室に寄って席に座る。半分は、いつものように空いていた。空いていることが、約束ではない。合図だ。俺は英単語帳の一枚目をまた開き、読み、目を離し、また読む。覚えるためではなく、続けるために。続けることが、今は支えだ。支えは、誰かの背中にも延びることがある。

 夜、コンビニの前を通る。蛍光灯の白は変わらず、傘立てがからから鳴る。レジの中に、律はいない。いないことが怖くなかった。怖くないのは、鈍感だからじゃない。怖さの行き先が、今は紙の上にあるからだ。

 家に戻ると、冷蔵庫の音がまた止まっていた。俺はその静けさを、前より長く持てた。持てる静けさは、たぶん、成長ではない。慣れだ。慣れでもいい。慣れは生き延びるための重要な機能だ。暗闇の中で、俺は小さく言った。
「また」

 今夜の四文字は、遠くで誰かに届くかもしれないし、届かないかもしれない。どちらでも、俺は明日も最初のページを開く。日付。チェック。丸。相談。回転。透明テープ。冷蔵庫の音。皿の音は、これからも、ときどき来る。来るのを知っていて、一定の音のほうを選ぶ手順を、俺はつづけて覚えていく。