――三浦蒼生

 週の中に空洞があることを、俺は初めて正確に知った。木曜だ。月火水は図書室の木目と紙の白に座り、金曜は明日の気配が少し軽くする。土日は家の皿の重みでやり過ごす。なのに木曜だけ、空気が抜けて、音が遠くなる。
 図書室に行く。席は半分空いている。半分は俺のために空けられている――と考えるのは、俺の勝手だとわかっている。けれど、その勝手は俺の体温を一度だけ上げて、すぐに下げる。木曜は、律が来ない。二週続けて、三週続けて、そうなると空洞は形を持ちはじめる。
 空洞を測るために、俺は宿題を測った。キッチンのはかりにノートとプリントを乗せる。三百九十グラム。数値は現実を与える。三百九十グラムの穴、という言い方はおかしい。穴には重さがない。けれど、穴があるからこそ、そのまわりは重くなる。
 木曜の黒板は、いつもより一行分だけ上の段が見えづらい。教師のチョークの粉が、他の日よりも白い。放課後の校庭の砂は乾いて、足跡がすぐに消える。どれも気のせいだ。気のせいで十分に有害な種類の、木曜だ。

 夜、ベッドに背中を貼り付け、天井の白をにらむ。眠れない夜は、俺の中の回転が悪い。回転は、乾燥機に重ねれば整うのは知っている。でも、コインランドリーに行っても、木曜の夜には律はいない。いないと知っていて、いないことを確かめに行く勇気は出ない。
 代わりに、図書室のノートの最初のページを開いて、左上に〈木〉と書いた。曜日を紙の上に置くと、木曜がようやく紙の重さを得る。空洞に紙の角を差し込むみたいに。
 俺は次のページに、列を一本引いた。上から下へ、すとんと落ちる線。線の脇に、細い字で書く。〈逃げてもいい場所〉。図書室。コインランドリー。駅のベンチ。欄干。コンビニ。ここまで書いて、ペンが止まった。最後にもう一つ、自然に出た言葉を、書く。〈律の眼鏡〉。書いてから、自分で少し驚いた。眼鏡は場所じゃない。ものだ。けれど、俺の中では、あれは「面」だった。蛍光灯の海を反射して、正しい角度に置き直すための、平らな面。そこに目を合わせれば、呼吸が揃う。
 木曜に形があることと、逃げる場所に名前があることは、矛盾しない。矛盾しなければ、両方を持ち運べる。そう考えながら、俺は紙の上で〈また〉の字を細く二度なぞり、電気を消した。

 翌週の木曜、俺は学校帰りに駅前のコンビニへ向かった。ドアが開くときのチャイムはいつもと同じ音程なのに、木曜には半音だけ低く響く気がする。蛍光灯の白。棚の面の揃い方。レジの向こうに、見慣れた眼鏡はなかった。
 代わりに、バックヤードのカーテンが少し揺れて、律が出てきた。エプロンの紐が解けかけ、目の下に隈。眼鏡の鼻当てが赤く跡を残している。
「大丈夫?」
 俺の口は、先にその言葉を選んでいた。言葉が便利で、嫌いだ。
 律は首を横に振りかけて、止める。止め方が上手い。途中で止まった頷きが、彼の喉の筋肉のところで丸く固まった。
「大丈夫って言ってほしそう」
 俺が続けると、律は小さく笑った。笑い方の形だけ借りるみたいに。
「言葉は便利だね」
 便利、という単語が、レジの引き出しの音と同じに聞こえた。軽く開いて、すぐに閉まる。
 俺は苛立って、「いつも逃げる」と責めた。責めるに値するほど、俺は彼を知っているか。知らない。知らないのに、言った。木曜に空洞があるのは、俺の事情だ。
 律は、レジ横の公共料金の封筒を揃えながら応えた。薄いクリーム色の紙。〈電気料金〉〈水道料金〉〈国民健康保険〉。封筒の角は鋭くて、束ねるたびに指に当たるたび、小さな痛みを寄こす。
「逃げてるよ」
 律は淡々と言った。
「逃げられる場所があるうちは、逃げる」
 封筒の角が、彼の人差し指の腹にかすかに赤い線を残した。俺は思わずティッシュを差し出しかけ、やめた。触れたら、俺は彼の逃げ場の角を鈍らせてしまうかもしれない。鈍らせるのは、俺の仕事じゃない。

 レジを抜けて、ドアの前に立つ。外は雨上がり。ビニール傘が傘立てでからから鳴る。俺は棚の前で時間を稼ぐみたいに栄養ドリンクを一本選び、レジに戻すと、律は無言で受け取った。レシートの下部には、いつものとおり〈担当:篠原〉と印字されている。紙の角が小さく手のひらに刺さる。俺はそれを折り、ポケットにしまった。
 閉店時刻の少し前、店長の「今日はもう締めるぞ」という声がバックヤードの奥から飛んだ。俺は外で待つ。自動ドアが開いて、蛍光灯の白が路上に流れ出る。律が出てきた。エプロンを外し、ダウンの襟を立てる。眼鏡のレンズに街灯が白い丸を二つつくる。

 「出ないの?」
 律の携帯が震えている。画面に〈母〉。彼は画面を伏せた。
「出ると戻ることになる」
 戻る。戻る、という言葉には、家の匂いがある。はたらきがある。帰る、ではない。戻る。ある位置に戻される。
「木曜は缶を回収する日でさ」
 律が話題を逸らす。笑いにもならない冗談で、目だけが少し泳ぐ。
 俺は踏み込みたい衝動を飲み込む。飲み込むたび、喉がひりつく。代わりに言った。
「来週の木曜、コインランドリーにいる」
 律はうなずいた。うなずきは約束ではない。けれど、合図にはなる。合図があれば、俺は位置を確認できる。位置がわかれば、空洞の形を紙の上に写せる。

 その夜、眠れない。いつものように、ノートの余白を開く。〈逃げてもいい場所〉の列に、ひとつずつ、短い説明を足す。
 図書室――紙の白。紙の白は、触れると温度を少し変える。
 コインランドリー――回転。回転は一定。一定は呼吸。
 駅のベンチ――待つ。待つ手順。
 欄干――冷たい。冷たいものは輪郭を教える。
 コンビニ――蛍光灯。蛍光灯は正しい面を作る。
 律の眼鏡――面。面があると、ピントが合う。
 書きながら、最後の一行に、胸の奥があたたかくなるのを感じた。人の持ち物に居場所を求めるなんて、依存だと笑われるかもしれない。けれど俺にとっては、居場所の座標を、人の輪郭に描きつけることは、世界に参加するための最小単位だ。最小で、十分だ。
 紙の角で唇を少し切った。痛みはすぐに引いた。封筒の角は人を切る。紙の角と封筒の角の違いは、そこに数字が印刷されているかどうかだ。数字があると、角は刃に近づく。律の指先の薄い赤い線を思い出しながら、俺はノートを閉じた。

 *

――篠原律

 木曜は、音が増える。店の冷蔵ケースのモーター。レジのビープ。コインケースの金属の鳴り。バックヤードで段ボールが擦れる音。店長のせかす声。外から入ってくる雨のしずくの音。携帯の震え。母の電話。封筒の角が紙を擦る音。
 俺は音の中で、手順を守る。レジを打ち、商品を入れ、頭を下げる。公共料金の封筒を、期日別にそろえる。封筒は人の生活の形に似ている。長くて薄い。中に数字が入っていて、角が鋭い。角は、ときどき指を切る。切れても、血がすぐに出ない種類の傷だ。赤くなって、あとで痛む。
 封筒を揃えるのは、俺の役割ではない。店長がやれと言うからやる。やりながら、俺は信号の青の時間で歩幅を決めるみたいに、角の位置をそろえる。角と角が、ぴたりと重なると、少しだけ呼吸が整う。
「大丈夫?」と蒼生に聞かれたとき、俺は首を横に振りかけて、止めた。大丈夫と言えば、その場が整う。大丈夫ではないと言えば、たぶん俺の夜が崩れる。どちらも困る。だから、止める。止めるのは、俺の小さな技術だ。
「言葉は便利だね」と言ったのは、自嘲だ。便利に甘えたい日もある。けれど、便利は利息を取る。利息はいつの間にか溜まる。俺の部屋には、利息の匂いが滞留する。だから、便利を使いすぎない。三回まで、と決めている。今日の〈大丈夫〉は、まだ二回だ。

 閉店後、外に出ると、空気が少し軽い。蛍光灯の白から夜の色に視界を戻すのに、数秒かかる。携帯が震える。〈母〉。表示は固定電話の番号に変わっている。電話の向こうの部屋の壁紙の柄まで、嗅ぎ取れる気がする。
「出ると戻ることになる」
 俺は蒼生に言った。戻る、は、帰るより重い。帰るは自分の選択の匂いがする。戻るは、呼び戻される匂いがする。
 木曜は缶を回収する日でさ――口から出たのは、逃げの言葉だ。缶。回収。資源。規則。俺の外側の言葉を借りると、内側の穴が少し隠れる。
「来週の木曜、コインランドリーにいる」
 蒼生が言う。逃げ場を指し示されることは、優しさであり、恐怖でもある。優しさは、時々、人を捕まえる。恐怖は、時々、人を解放する。どちらに傾くかは、当日になってみないとわからない。
 「うん」とだけ答えた。約束はしない。合図だけ置く。合図は、俺が逃げるための標識にもなる。標識があると、逃げる経路がばれる。ばれても、いい。ばれた経路は、時に安全になる。監視と保護の境目は紙一重だ。

 家へ戻る途中、自治会の掲示板の前を通る。〈資源ごみの回収日は木曜です〉の文字。俺が口にした言い訳の、元ネタ。言い訳の出どころが、こんなに安っぽいことに、少しだけ笑った。笑うと、喉の奥で硬くなっていたものが、ほんの少し崩れる。
 部屋に入る。狭い。狭い場所は、音が近い。冷蔵庫のモーターの音と、自分の呼吸の音が干渉する。机の上には、封筒が二通。〈水道料金〉〈電気料金〉。封筒の角が、俺の視界の端で光る。蛍光灯の白ではない、安い電球色。
 角に指を当てる。紙は刃ほど鋭くないのに、なぜか刃の態度を持っている。俺は封筒の角に透明なセロテープを一枚貼った。角鈍化。俺のやり方だ。痛い場所を透明なもので覆う。透明だから、見た目には何も変わらない。けれど、指は覚えている。触れるたび、痛みは少し鈍くなる。
 机の引き出しから付箋を三色取り出して、壁に貼る。黄色「学校」。青「店」。緑「寄り道」。木曜の緑は、少し右に寄せる。寄せると、俺の目の位置が変わる。目の位置が変わると、電話の音の高さが変わる。
 携帯がまた震える。〈母〉。俺は伏せたまま、鳴らし続けた。鳴っている間、俺は呼吸を数えられる。十まで行って、窓を少し開ける。外の空気は濡れている。紙が湿る匂い。湿った紙は、角が丸くなる。
 机に戻り、封筒の角にもう一枚、テープを貼る。角は、俺が今日、鈍くできる唯一の刃だ。鈍くできない刃は、まだ部屋の外にある。外の刃に触れないために、俺は内側の角を落とす。そういう夜だ。

 *

――三浦蒼生

 木曜のコンビニで見た封筒の角が、頭から離れない。あの角は、律の指先を切らなかったかわりに、俺の目の奥を少しだけ切った。痛みは出血しない種類のやつで、後からじわじわ来る。
 学校の帰り、廊下の掲示板に保護者会のお知らせが貼られている。紙の角が、誰かの腕に当たらないように、透明のカバーで覆われている。覆われた角は、見えない。見えないけれど、そこに角があることは、みんな知っている。
 図書室の机に座ると、木曜以外の曜日のように呼吸が整う。律は来ない。来ないはずだ。来ないことを前提に、ページをめくる。最初のページ、日付、チェック。俺の手順。手順は、木曜の空洞に橋を渡す。
 ペンが進まなくなると、ノートの端に〈角〉という字を何度も書いた。角。角。角。書くたび、字の角が丸くなる。丸くなった角は、俺の気持ちを傷つけずに、紙の上に座る。
 閉館のアナウンスが流れる頃、空は薄い灰色になっていた。駅前のコンビニを遠くから見る。蛍光灯の白が四角く外に漏れる。傘立てがからから鳴る。今夜は行かないと決めた。行かない、も手順の一部にする。
 家に帰ると、母が食卓に封筒を置いた。〈学年費〉と印字された白い封筒。角は丸い。
「これ、明日持ってって」
「うん」
 丸い角は、子ども用のハサミみたいだ。切らないことが前提になっている角。切らない角でも、心は傷つく。傷は角のせいじゃない。印字された数字のせいだ。数字は角を鋭くする。
 夜、ノートに戻る。〈逃げてもいい場所〉の列に、〈封筒の角を鈍くする方法〉と書き足す。内容は空欄のままにした。方法はまだわからない。わからないまま置いておく。置いておけることが、今夜の俺の精一杯だ。

 *

――篠原律

 来週の木曜。店に入る前から、空気の湿り方で夜の難易度がわかる。湿っている夜は、音がくっつく。くっついた音は、剥がすのに手間がかかる。俺は耳の中の焦点をいつもより広くする。広げると、通り抜けられる。
 レジを打ちながら、封筒を揃えながら、俺は時間の端を掴む。端を掴んでおかないと、夜が一度に落ちてくる。
 休憩に入る直前、店長が「公共料金の控え、まとめといて」と言った。控え伝票は薄い青色。数字の印字が冷たい。角は、やはり鋭い。俺はポケットから小さな透明テープを出して、控えの束の角を一枚ずつ、そっとなぞった。角は、鈍くなる。鈍くなるだけで、呼吸の角度が変わる。
 閉店後、外に出ると、空が少し軽い。携帯が震えた。〈母〉。画面を伏せる。
 信号の向こうに、蒼生が立っていた。コインランドリーの方向から来たのだろう。汗はない。乾いた匂いがする。
「……いた」
 彼が言った。俺はうなずいた。
「いた」
 それだけで十分だ。いた、という事実は、だれにも貸さない。貸すと、利息がつく。
「コインランドリー、回ってた?」
「回ってた」
「良かった」
 良かった、は便利な言葉だ。今夜は、利息なしで使わせてもらう。
「今日は缶、回収する日?」
 蒼生が軽く笑う。俺も笑って、肩をすくめる。
「毎週だ」
「毎週は、手順だな」
「手順だ」
 俺はポケットから透明テープを取り出し、彼に見せた。
「封筒の角、鈍くするやつ」
 蒼生の目が、ほんの少しだけ明るくなった。
「方法、あったんだ」
「ある。貼るだけ」
「貼るだけ、か」
「貼るだけ、がいい」
 貼るだけ、の方法は、世界にたくさんある。それで助かる夜も、たくさんある。助からない夜も、同じくらいある。
「コインランドリー、また行く?」
「行く」
「じゃあ、また」
「また」
 言葉が行き交って、蛍光灯の白の手前で止まり、外の空気に溶ける。木曜の夜に初めて、あの四文字が軽く通った気がした。

 帰り道、俺は封筒の角を鈍くするためのテープを三枚だけ余らせた。三枚は、明日の俺のための緑の付箋だ。三枚あれば、一つは上手く貼れる。二つは失敗する。それでいい。失敗の跡は、地図の印になる。
 部屋に戻って、机に透明テープを置いた。窓の外で風が鳴る。風の音は角がない。角がない音は、眠りを呼ぶ。俺は眼鏡を外した。目頭を押さえず、ただ置いた。レンズに天井の薄い光が二つ映る。映った光が、貼り残しのテープの端みたいに、すこしだけめくれて見えた。

 *

――三浦蒼生

 来週の木曜。昼間の授業は、相変わらず黒板の上段が見えにくい。けれど、俺は板書の右端に、今日の日付の下に、小さく丸を付けた。丸は、角がない。角がない印を木曜に置く。そうするだけで、空洞がほんの少し埋まる。
 放課後、図書室の席は半分空いている。半分は、俺のためかもしれないし、他の誰かのためかもしれない。わからないままで、いい。わからないことが、俺に残された自由だ。
 夜、コインランドリーに行く。乾燥機は回っている。律はいない。ベンチに座って、紙コップのココアを飲む。飲み口で唇を軽く切った。小さな痛み。痛みがあると、眠りがやってくる。
 帰りにコンビニの前を通ると、閉店作業を終えた律が外に出てきた。目の下の隈は薄い。眼鏡の跡は赤い。
「封筒の角、鈍くする方法、俺にも教えて」
 俺が言うと、律はポケットから透明テープを一巻き出した。
「貼るだけ」
「貼るだけ」
 二人で笑った。笑いは、角がない。笑いが角を鈍くする。
「また」
 律が言う。
「また」
 俺も言う。木曜の四文字は、今度は言い残しではなく、合図になった。合図は夜の角を丸くする。丸くなった角を指先で確かめながら、俺は家に帰った。
 机の上のノートを開く。〈逃げてもいい場所〉の列に、もう一つ付け加える。〈透明テープ〉。場所ではない。でも、今夜の俺には場所よりも役に立つ。貼るだけ。貼るだけで、紙の角は鈍くなる。鈍くなった角で、木曜の空洞にふれる。空洞は、まだ空洞のままだけれど、触れても血が出ない。
 電気を消す。暗闇の中で、目の裏に四角い白と、丸い光がふたつ浮かぶ。白は蛍光灯の枠。丸は眼鏡のレンズ。どちらも、俺の逃げてもいい場所だ。場所は、いつも、そこにある。俺が触れられるときも、触れられないときも。
「また」
 小さく言う。届かなくていい。届かない合図は、俺の胸の中の角を、今夜は確かに、少しだけ丸くした。