――三浦蒼生

 空白が、小さく埋まりはじめた。言ってしまえばそれだけのことだ。勉強ができるようになったわけでも、世界の色が劇的に変わったわけでもない。ノートの左上に日付を書き、その横に小さくチェックを入れる。〈今日も、最初のページ〉。英単語帳の一枚目、あの見慣れた名詞の列に鉛筆の影を落とし、読んで、目を離し、また読む。覚えるためというより、続ける事実を紙に刻んでおくためだった。
 図書室では、律がいつも席を半分空けて待っている。待っている、と俺は思っているだけで、彼が本当に俺を待っているかはわからない。けれど、そこに半分の空きがあることが、俺にはほとんど救いに近かった。救いという言葉を使うのが気恥ずかしいときは、「居場所の片割れ」と言い換えた。
 律は勉強のコツを教えたりはしない。俺のノートを覗き込むことも、手元に口を出すこともない。ただ、ペン先が紙の上をまっすぐ進む音を、同じ机の板を通じて伝えてくる。一定の速さで、ため息ひとつつかず。俺の呼吸はまだ揺れているから、その一定に体を合わせると、揺れはひとまず小さくなる。
 欄干ではなく、紙の上に指先を置く時間が増えた。紙は冷たくない。指を置くと、そこだけ体温で柔らかくなる。冷たい鉄が輪郭の確かさで俺を支えるなら、紙はやわらかい沈みで俺を支える。沈めるものがあるのは、悪くない。

 そんなふうに、薄い進み方をしていた夜。眠れなかった。理由は、思い出すと消える種類のものだ。布団の中で左を向き、右を向き、目をつむると余白の白がいよいよ眩しくなる。家の中は静かで、冷蔵庫のモーター音だけが遠くで続いている。
 時間は午前二時を回っていた。起きる理由はない。でも、起きない理由もなかった。俺は静かにベッドから抜け出し、上着を羽織り、スニーカーのかかとを踏まずに足を入れ、玄関の鍵を音を立てないように回した。
 外は雨上がりの匂いがした。アスファルトが濡れて、街灯の橙色が細長く伸びる。自転車のサドルに、まだ小さな水滴が残っている。親指で払うと、水が指腹で丸まって、指の動きに遅れて落ちた。
 ペダルを踏む。空気は軽いが、肺の奥に触れるところだけひりひりする。道の先に、白い四角い光が見えた。夜でも明るい場所の種類は限られていて、その光はコンビニでも自販機でもなく、もっとやわらかく、横に広がっていた。コインランドリーだ、とわかったのは、近づいてからだった。ガラス越しに円い窓がいくつも並び、どれも低い唸りを漏らしている。ゴウン、ゴウン、と、海に沈んだ心臓が遠くで鳴るみたいな音。

 店の前に自転車を止め、スタンドを下ろす。ドアを開けると、乾いた空気が体にまとわりついた。洗濯と乾燥の匂い。洗剤と柔軟剤と温められた金属の匂いが混ざって、深呼吸したくなる。
 ベンチが二つあって、その一つに数学の参考書が伏せられている。ページの端が少し曲がっている。乾燥機の前に、人影。黒いダウンに、眼鏡の、見慣れた横顔。
「こんばんは」
 律が、振り返らないまま穏やかに言った。時計を見ると、針は三にかかっている。午前三時。こんばんは、でいいのか迷ったけど、俺も言った。
「こんばんは」
 律はベンチの脇の自販機に小銭を入れ、紙コップのココアを二つ落とした。その一つを、俺に差し出す。
「また親切?」
 刺のつもりで言った。でも、声は刺の形になりきれず、丸いまま転がってしまう。
「習慣」
 律は少しだけ笑って、乾燥機の丸い窓に掌を当てた。回る衣類の色が、彼の掌の下でぼやける。ガラス越しの熱が皮膚の内側に入ってくるみたいで、俺は真似して掌を置いてみた。じんわりとした温かさに、目の裏が柔らかくなる。紙コップの縁から立ちのぼるココアの匂いは、コンビニで飲んだ缶の甘さとも違って、もっと低く、夜に向いていた。
「こんな時間に、どうしたの」
「眠れなくて」
「俺も」
 律の声は、乾燥機の音に自然に混ざる高さだった。俺の声は、まだ少し水っぽくて、機械に弾かれる。
「勉強?」
 ベンチの参考書を目で示すと、律は首を傾ける。
「洗濯の待ち時間。ページを決めて、そこまで。足りなければ足りないまま、今日はここで終わり、って決めると、眠れない夜に形ができる」
「形」
「うん。形があると、空白のまわりが崩れにくい」
 俺は、図書室での彼の手の動きと、今の声の手触りが同じことに気づいた。まっすぐ進む、というのは、目の前の文字にだけ向いていることではないのだろう。終わりを決めるための速度でもある。
「……あの日、なんで止めた」
 俺は言った。欄干の夜のことだ。乾燥機の音に紛れて、言いやすいと思った。
 律は少し考える沈黙を置いてから、俺のほうを見た。眼鏡のレンズに蛍光灯が二つ、白い丸をつくる。
「たぶん、自分が困るから」
 鼻で笑いかけて、やめた。笑うところではないと思い直すのに、一拍かかったからだ。
「困る?」
「知らない誰かの不在って、あとから生活に穴を開けるよ。パンも、傘も、宿題のページも、全部ちょっとずつ変わる。俺は変わりたくなかったのかも。今日はいつもの箇所に×をつけたいし、いつものタイミングで『また』って言いたい。それをやめさせられるのは困る」
 俺は、その言い方がずるいと思った。ずるい、と言っておきながら、救われてもいた。相手のための言葉に見せかけて、自分の輪郭を守る正直さ。人が人を止める理由に「自分が困るから」を含めることを、俺は考えたことがなかった。考えたことがなかったことは、最初は不快で、次に安心に近くなる。
「……親切じゃなくて、自己都合」
「親切にするより、続けたい」
「何を」
「自分の一日」
 乾燥機のガラスの向こうで、Tシャツの袖が一瞬ひらりと広がる。俺は紙コップを両手で持ち、少しだけ啜った。熱い。舌の先の皮が薄くなり、味が広がるところだけが急に敏感になる。

 乾燥機が止まった。電子音が一度だけ鳴る。律は扉を開け、熱気に目を細めながら、洗濯物を取り出す。バスタオル、シャツ、靴下、ハンドタオル。ベンチに置いた白いカゴに収め、肘を軽く曲げて畳む。その手際は、レジのときと同じで、迷いがない。物と物の間の距離がいつも一定で、角が角として残る。
「四つ折り派?」と俺が聞くと、律は笑った。
「ものによる。タオルは三つ。Tシャツは半分にして、袖を入れてから三つ」
「合理的だな」
「いや、手で覚えた形」
 靴下を合わせるとき、律の手首の内側に薄い痣があるのが見えた。黄と青の境目がぼんやりしている。最初に見たときよりは薄いのかもしれない。俺は、問いを飲み込んだ。問いは牙になる。牙を向ける日ではない。
 かわりに、洗濯機の上に貼られた注意書きを読んだ。〈深夜のご利用の際は、お静かに〉。〈ペットのものは専用機をご使用ください〉。〈店員は常駐しておりません〉。店員は常駐していないのに、ここには人の手の高さが残っている。ガムテープの端のめくれ、記されたマジックのインクの薄さ。そういうものが、夜の無人の場所で生の証拠になる。

「また、ここに来る?」
 気づいたら口にしていた。
「暇を作れたら」
 律はいつもの言い方で返し、畳んだタオルをカゴに収めた。俺は乾燥の終わったタオルの匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。温かい匂いは、体の内側の寒い場所にじわっと触れて、境目を曖昧にする。
「今日はどのくらいの暇?」
「十五分」
「じゃあ、その十五分で歩こう」
 律が扉を押して外に出る。俺は自転車を押して並ぶ。濡れたアスファルトはもう冷たさが落ち着いて、足音が小さく吸い込まれていく。
 交差点の手前で別れた。律は右へ、俺は左へ。別れるときに「また」は言わなかった。言葉を置くときの高さを、俺たちはなんとなく選んでいる。今は置かない。置かないほうが、帰り道の長さに合っている。

 家に戻ると、台所の時計は四時を少し過ぎていた。靴を脱ぎ、濡れていないはずの靴下のつま先が、じんわり冷えている。洗面所で顔を洗うと、水が指先の皮膚から体に戻ってくるみたいだ。タオルで拭く。さっきの乾いた匂いに、家の洗剤の匂いが混ざる。
 ベッドに入ると、眠りはすぐそこにいた。久しぶりに、何も手順を踏まずに眠れた。夢は見なかった。見たとしても、朝には跡形も残らない種類のやつだ。目を閉じる直前、乾燥機の低い唸りと、紙コップの縁の甘さが、同じ場所に積もっていった。

 *

――篠原律

 午前三時のコインランドリーは、俺にとっては、手順の中の自由区画みたいな場所だ。洗濯機にコインを入れる。蓋を閉める。ボタンを押す。時間が数字で表示される。数字は、雨の日も晴れの日も、酒の匂いがする夜も、一定の速度で減る。その一定に、身体を預けることができる。
 洗濯物は少ない。タオル数枚とシャツ、靴下。家に置いておくと、あの匂いを吸ってしまうから、ここで洗って乾かす。乾いたものを袋に入れて持ち帰るとき、袋の口から外の空気に逃げる温かさが好きだ。逃がしている、と感じられるのが好きだ。
 数学の参考書を開いて、ページに付箋を立てる。今日はここまで。たどり着けないなら、そこまで。到達できる距離の見積もりを誤らないことが、俺の生活では大事だ。誤差が出るのは構わない。誤差の幅を、自分で把握しておきたい。

 ドアのベルが鳴って、蒼生が入ってきた。眠れない夜の顔をしていた。眠れない夜の顔は、眠っていない人の顔じゃない。眠ろうとして眠れなかった顔だ。眼の下の影が、いつもより薄いのは、外の空気でいったん剥がれたからだろう。
「こんばんは」
 俺はそう言って、紙コップのココアを二つ落とした。こういうとき、缶じゃなくて紙コップがいい。湯気が、受け渡しの間に行き来するからだ。蒼生の手は温かい。温かさは、返ってくる。返ってこない温かさを何度も見てきたから、返ってくる温かさにいちいち驚く。
 乾燥機の丸窓に掌を当てると、指紋のところだけじんわりと熱が行き渡る。窓の向こうで衣類が回る。回転は俺を安心させる。回っているという事実は、止まっていないという事実よりも、具体的だ。止まっていないは広すぎる。回っているは測れる。
「あの日、なんで止めた」
 蒼生に問われて、俺は正直に答えた。たぶん、自分が困るから。人の不在は、あとから穴になる。穴は、日常の手順に少しずつひびを入れる。店で商品の面を揃えるときの角度。レジの音の間隔。図書室の席の半分。橋の欄干の高さ。パン、傘、宿題のページ。俺はそれらの連続が壊れるのを怖がる。怖がることに理由は要らない。怖いと思うのは俺の勝手だ。
 自己都合、と彼は言った。たしかに。救いの言葉を持っていない俺は、俺の都合で人に触る。都合を認めてしまうと、罪悪感は薄くなる。その薄さでしか続かないことが、世の中にはたくさんある。

 乾燥機が止まり、ドアを開ける。熱い空気が顔に触る。手を早く動かす。動かすうちに、手首の痣が自分でも目に入る。蒼生が視線を落とした気配がして、俺は何も言わないで靴下を合わせた。尋ねられないことのほうが、尋ねられるより痛い日もある。逆の日もある。今日は、尋ねられないほうが助かった。
 畳んでいくと、布の四隅が頼もしい。角があるというのはいい。角は人の手で作れる。作れない角も、世の中にはある。そういう角の前では、俺は呼吸を浅くする。
 タオルを三つに畳みながら、蒼生に手順を説明する。説明というより、自分の手の動きを言葉にして追いかけた。俺がやっていることは、たいした工夫じゃない。数と順番を間違えないようにする、ただそれだけだ。

「また、ここに来る?」と、蒼生が言う。
「暇を作れたら」
 俺はいつも通り答える。暇は、俺の生活の中では、甘いものに似ている。摂り過ぎると体が重くなる。でも、ゼロにすると、体は別のところで取り返しに行く。だから、作って、配分する。夜の三時のコインランドリーは、俺にとっては摂取に近い。甘さじゃなくて、塩。体の奥の方で、水を呼ぶ。
 店を出て、交差点の手前で別れる。俺は右へ、彼は左へ。背中に「また」を乗せない。乗せないまま、夜は俺たちをそれぞれの方角に置く。

 帰り道、携帯が震えた。表示は「非通知」。鳴動は短い。短いときは、向こうが酔っていない。長いときは、酔っている。俺は出ない。出ないと決めたとき、胸の中の何かは少しだけ軽くなり、耳だけが重くなる。耳が重くなるのは、後で音を拾いすぎるからだ。
 部屋に戻って、洗濯物の袋をベッドの端に置く。小さな部屋の匂いが、一瞬だけ乾いた。乾いた空気は、長くは続かない。それでも、少しの間は続く。続く間に、俺は参考書を開く。夜の三時のページは、昼間より文字が薄く見える。薄さの中で線を引くと、線がやけに濃くなる。
 机の上に、今日も付箋を三枚並べた。黄色「学校」、青「店」、緑「寄り道」。緑は、あとの二色の間に置く。寄り道は、間に入れてやると綺麗に収まる。端には置かない。端に置くと、端から落ちる。
 枕に頭を置いた瞬間、眠気はまだ来なかった。来ない眠気の代わりに、乾燥機の回転が頭の中で続く。ゴウン、ゴウン。回転の音は、夜の中で唯一、時間を測れる。俺はその回転に呼吸を合わせ、速度を少しずつ落としていった。

 *

――三浦蒼生

 翌日の昼、図書室の机に座ると、紙の白さがいつもより柔らかい。昨夜、乾いたタオルの匂いを胸に入れたせいかもしれない。俺は「続けた事実ノート」の余白に、昨夜のことを簡単に記した。〈午前三時、コインランドリー。律に会う。ココア。回転。〉簡単すぎて意味が抜け落ちそうなメモ。でも、未来の俺がこの三語を見れば、そこから細かい匂いと音が立ち上がる気がした。
 英単語帳の一枚目をまた開く。繰り返しは飽きる。でも、飽きるまで連れていってくれるのは繰り返しだけだ。飽きるという地点にたどり着くとき、俺はいつも少しだけ嬉しい。飽きた、という事実は、別の何かを始めるための証明書みたいなもので、ここから先は次のページへ進みなさい、と紙の中から声がする。
 律は今日も半分空けて座っている。眼鏡のレンズはきれいで、水滴の跡はもうない。彼はペンを進め、俺は鉛筆を進める。進める、と言える速度ではない。置く、に近い。言葉を紙に置く。置いた場所に影ができる。影を見て、今日はこのくらい、と思う。

 閉館のアナウンスが流れる前、律が眼鏡を外した。いつものように目頭を押すのではなく、レンズの縁の小さな傷を指先で撫でた。そこにだけ、薄い虹が宿っている。
「昨日は眠れた?」
 俺は訊いた。寝起きの顔で聞くべきではなかったかもしれない。でも、訊いた。
「回転のおかげで」
「回転」
「うん。眠れない夜に、機械の回転はありがたい。人の回転は怖いけど」
「人の回転?」
「考えごととか、同じ後悔とか。回り続けるやつ」
「ああ」
 俺の胸のどこかが、不意にひりっとした。俺も持っている回転。欄干の冷たさを一晩で何度も再生する、あの回転。
「回り続けるやつには、外から別の回転を重ねるといい。乾燥機とか、電車とか。一定のやつ」
「一定」
「一定」
 確かに、と俺は頷く。一定は、俺の世界では希少だ。だからこそ、手順や機械や規則は、俺にとっての救いの外形に見えるのかもしれない。

 帰り道、駅までの歩道で、俺は律に歩幅を合わせる。合わせることができる日と、できない日がある。今日はできる。
「……昨日、手首」
 言いかけて、やめる。言葉が牙になる。噛めば血が出る種類の話題だ。
「何?」
「いや、何でもない」
「うん」
 律はそれ以上、何も言わない。言わないことが、言ったときよりも、俺の側の責任を濃くする。俺が選んだ黙秘だ。
「暇、作れた?」
 彼が話を戻す。
「今日は二十分」
「十分味のココアを、二杯分だ」
「そんな単位、初めて聞いた」
「俺も今作った」
 くだらない冗談が、靴の底で軽く弾む。改札の前で、俺はいつもどおり、喉の奥に紙片を持ち上げる。
「また」
 律は少し口角を上げて、「また」と返す。夜の三時の回転が、夏の扇風機みたいに、昼の俺の背中にまだ当たっていた。

 家に帰って、夕飯の皿を洗う。水流の音は、やっぱり乾燥機の唸りに似ている。皿の表面の泡がくるくる回り、排水口に吸い込まれる。泡が小さく破裂するときの「ぱち」という音が、俺は好きだ。世界の微小な破裂は、恐ろしくない。恐ろしいのは、静かに続く沈黙の方だ。
 寝る前、俺はノートの余白に、〈手順〉と書いた。その下に三つ書き足す。〈最初のページを読む〉〈日付を書く〉〈眠れない夜は回転を探す〉。三行の手順が、俺の部屋の空気を少しだけ整える。整えると、息が入ってくる。今日は、眠れそうだ。眠る手順を、体が思い出しつつある。

 *

――篠原律

 午前三時の店に明かりはない。代わりに、俺の部屋の天井に貼り付けた小さな蓄光シールが、ぼんやりと光る。コインランドリーの回転を持ち帰るための、個人的なまじないだ。
 仕事が終わると、店長が「律、助かった」と言った。俺は「大丈夫です」と返す。今日の〈大丈夫〉は三回目。ルール通りだ。大丈夫を四回言うと、俺は翌朝、目の下の影が濃くなる。経験上、そう決まっている。
 帰り道、風の匂いが変わった。紙の乾く匂いに、少し埃が混ざった。埃の匂いは、古い本の匂いに似ている。古い本の匂いを好きだ、と言える日はいい日だ。言えない日は、匂いが全部ひとつにまとまって、息が短くなる。
 部屋に戻って、スマホの画面を伏せる。通知の光が反射して、天井のシールが不規則に明滅するのを防ぐためだ。机に座り、付箋を三枚並べる。今日の緑は、コインランドリー。緑の角が少し丸くなっている。指の脂でそうなる。
 参考書を開く。蒼生の「また」が耳に残っている。軽い。また、という言葉に、俺はずっと警戒心を持っていた。約束になるのが嫌だったからだ。約束は借金だ。返せない借金は、部屋の空気を濃くする。けれど、蒼生の「また」は合図に近い。合図なら、借りにならない。
 ページの端に線を引く。線が紙に食い込む音が小さい。今日は、紙が乾いている。失敗の跡が、はっきり残る。残る跡は、俺の地図だと思う。間違った場所に印がつく地図は、役に立つ。
 窓の外で、遠くの線路を電車が走った。深夜の貨物列車の音は、昼間の電車より少し低い。低い音に耳を合わせると、目の奥の筋肉が緩む。
 俺はペンを置き、眼鏡を外す。目頭を押さえず、ただ、外して机の上に置いた。レンズに天井のシールの光が二つ映る。二つの小さな光は、昨日より近づいている。近づいているのは、俺の目のほうか、光のほうか。どちらでもいい。合う日と、合わない日。外す日と、外さない日。回る夜と、止まる朝。その間に、寄り道を置く。
 いつか、蒼生が眠れない夜をまた連れてきたとき、俺はまたコインランドリーにいるかもしれない。いないかもしれない。いなくてもいい。回転は、俺の部屋にもある。蓄光の小さな円。指で触っても熱くはならないけれど、目の裏にじわりと灯る。

 *

――三浦蒼生

 コインランドリーの夜から数えて三日目、俺はまた眠れなかった。眠れないことを怖がるのをやめて、眠れない夜の手順を紙に書き、手順どおりに動く。ペンを置く。ジャケットを羽織る。鍵を回す。自転車のサドルを指で払う。ペダルを踏む。
 店の前に着くと、灯りはついていた。扉を開けると、やはり乾いた空気。あの低い唸り。今夜は、律はいなかった。ベンチは空いていて、参考書も置かれていない。
 それでも、俺はベンチに座って、紙コップのココアを一人で買った。飲み口の紙の縁が、唇に軽く引っかかる。乾燥機の丸窓に掌を当てる。温かい。回転はそこにある。
 「回り続けるやつには、外から別の回転を重ねるといい」
 律の声を思い出す。俺の中の回転に、機械の回転を重ねて、しばらく一緒に回す。回転が、いつのまにか別のものになって、どちらが先に始まったのか、たどれなくなる。
 ふと、乾燥機の向こうに映る自分の顔が、夜の鏡より穏やかだった。俺は紙コップを捨て、店を出て、空を見た。雲は薄い。白い息はもうほとんど見えない。
 家に戻って、布団に入る。眠りは、少し遅れて、でも確かに来た。来るまでの時間を、待てるようになってきたのかもしれない。待つ手順を、一つ覚えたのかもしれない。俺は目を閉じ、胸の中で小さく言った。
「また」
 誰にも届かないけれど、届かなくていい合図だ。自分に向けての。起きたら、最初のページ。日付。チェック。回転。紙。手順。俺は明日の俺にそれらを渡す。渡すことができるくらいには、空白が埋まっている。ほんの少しずつ、だけど。