――三浦蒼生
翌週から、俺は放課後の図書室に通うようになった。理由はわからない。言葉にしてしまうと、理由はたいてい間違う。たぶん俺は、蛍光灯の白とは違う、紙の上の白さに囲まれて座っていたかっただけだ。紙の白は、触れると指の熱で少し温度が変わる。蛍光灯の白は、触れても変わらない。変わらない白のなかで俺はよく迷子になるが、変わる白のなかなら、迷子のふりができる。
区立図書館の二階、学習席の島。木目の机は古くて、誰かが刻んだ名前の最初の一画が、長い時間の中で誰の名前でもないただの線になっている。椅子の脚が床をこする音が、一定の間隔で散っている。時計の針は、秒を刻むタイプではなく、すべるように進むタイプで、じっと見ていると自分の呼吸のほうが規則的に思えてくる。
俺は教科書とノートを広げて、何もしない、をはじめる。何もしないのに、何かをしているふうに見える場所は、俺にとって貴重だ。机の木目に額を落として、いつの間にか眠った。眠ることのうしろめたさが薄くなる場所でもある。
目を開けると、向かいの席に彼がいた。篠原律。制服の襟は別の学校の色。白いシャツのボタンをきちんと留め、筆箱は横一列に影を落とし、教科書には付箋が規則的に並ぶ。付箋の色が三色だけなのが印象に残る。黄色、青、薄い緑。ページの端に色が立っていて、そこだけ紙が厚く見えた。
「ここ、空いてた?」
律は俺に問うというより、机という存在に確認するみたいに静かに言った。俺は頷いた。喉の奥で「どうぞ」がほどける前に、彼は腰を下ろした。二人は視線を交わさないまま、同じ机の端を使いはじめる。
彼のペン先はまっすぐ進む。まっすぐ、というのは字の形のことではない。迷うときの音がしない、ということだ。ため息ひとつつかない。ノートの上を走るペンの細い音だけが、机の木の年輪の上で等間隔に刻み直されていく。
俺は――黒板を思い出した。ぼやける他人の授業を、遠くから見ているだけの俺の視界。板書の字はどこもかしこも正しく並んでいるのに、焦点の輪がどこにも合わない。ぼやけは、疲れや眠気だけのせいじゃない、と俺はうすうす感じていた。ピントを合わせるという行為そのものを、俺は長いこと忘れていたのかもしれない。合ってくれるものだと思って、待っていた。何もかもが、向こうから勝手に合ってくれるのを。
やがて律が眼鏡を外し、目頭を押さえた。薄い指で目のくぼみを少しだけ押して、ぐっと視界の厚みを調整するみたいな仕草。反射的に、俺はポケットティッシュを差し出していた。差し出してから我に返って、気まずくなる。
「ありがとう」
律は受け取り、ふっと笑った。
「ピント、合いにくい日ってあるよね」
俺は曖昧に頷く。黒板の文字みたいにぼけた自分の毎日を、その瞬間だけ、透明な膜越しに見た気がした。ピントは、合わせるものなんだ、と誰かが黒板の端に小さく書いてくれたような感じ。
自分のノートの白が、蛍光灯の白ではなく、紙の白だということが、やけに鮮やかだった。
閉館のアナウンスが、小さな音で天井から降りてきた。机の上のものを静かにしまう。消しゴムの角についた黒い粉が、指に移る。立ち上がるタイミングを、律に合わせるつもりはないのに、そうなってしまう。
階段を降り、入口の風除室でガラス戸に触れる。外に出ると、空気が思ったより冷たかった。
「勉強、嫌い?」
横に並んだ律が、歩幅を合わせながら訊いた。訊き方は優しくも厳しくもなく、ただ事実を確認する角度。
「今は、紙の重さも嫌だ」
俺は正直に答えた。ノートを持つ手首に感じる、物理の重さの話じゃない。紙に字を載せると、その紙が急に重くなる感じ。書いたぶんだけ沈んでいく感じ。
「紙は軽いけどね」
律は冗談めかして言い、俺の顔を見ないまま歩く。
「じゃあ、宿題は重さで測る?」
そんなふうに続けられて、俺は笑ってしまった。笑うと、胸の奥の砂が少しだけ沈む。
「暇?」
俺が挑むみたいに訊くと、律は短く考えてから言った。
「忙しい。でも、暇は作れる」
その言い方が、初めての光に見えた。忙しいという言葉の中に、救いがあるなんて想像したことがなかった。忙しいはいつも、俺から時間を奪っていく言葉だった。けれど彼は、忙しいの中から暇を作ると言った。作る、という動詞は、俺の世界ではめったに登場しない動詞だ。
駅前に出る。信号待ち。赤の明かりが俺の頬に落ちる。律はポケットから硬貨を出して、自販機で缶ココアを買い、俺に押しつけるように渡した。
「熱いから気をつけて」
「要らない」
と口では言いながら、俺は缶の熱を掌で受け取っていた。指先が、缶のアルミの薄さを透かして液体の重さを知る。
青に変わる。俺たちは同時に歩き出し、駅の改札の前で立ち止まる。俺は自分から「また」を言いかけて、喉の奥で飲み込んだ。律は言わない。言わないことが、今日の正解だった気がした。言わないまま、視線を交わさないで、別れる。俺はホームへ、彼は地上へ。
電車が入ってきて、ステップの金属が濡れた靴底で鳴る。座席に腰を下ろすと、ふくらはぎに温度が戻ってくる。缶ココアは、蓋を開けないまま膝の上に置いた。少しずつ冷めていく音が、聴こえるような気がした。耳を澄ますと、世界のどこにも、わずかながら音はある。ピントが合いにくい日の音は、小さい。小さい音を拾うには、身体の中のうるささを静める必要がある。
俺は車窓に映る自分の顔を見た。ガラスの向こうに街が流れて、顔だけが流れない。流れない顔の輪郭が、昨日よりも、すこしだけはっきりしていた。
*
――篠原律
図書館の机は、店のレジとは別の種類の水平だ。レジの水平は誰もが通過していくためのもので、机の水平は誰かがとどまるためのものだ。俺は、どちらの水平にも慣れている。とどまることに慣れると、通過に怯える。通過に慣れると、とどまる重さを忘れる。
制服の襟で学校の色が違うのを、俺はたいてい一目でわかる。自分の学校の襟、近隣の進学率の高い高校の襟、夜間の定時制の襟。制服の襟は、記号だ。俺の生活は記号でできている。記号に頼ると、判断は早くなる。早くなる判断は、ときどき冷たい。だから俺は、机の上にだけは、記号を置かないようにしている。
眠っている蒼生を見て、俺は机の木目を数えた。数えるというのは、見ないふりの一部だ。人の寝顔を見るのは、侵入に似る。侵入するなら、責任が必要になる。俺は今すぐに背負える責任の数を、ポケットに入っている小銭の数に合わせている。今日は小銭が少ない。
「ここ、空いてた?」
問う。空いていなかったら、別の机に行く。空いているなら、ここに座る。座り方に言い訳は要らない。
ペンを走らせる。授業の板書ではなく、問題集の解説を写す。写す行為は、俺にとって作業で、作業は避難だ。避難するために最小の手数で動く。最小の手数は、意地悪に見えることがある。意地悪ではない。持ち帰れる荷物の量は決まっている。
目が疲れてきて、眼鏡を外す。安いフレームは鼻の付け根に跡を残し、跡は夜になると痛む。目頭を押さえると、視界の隅が微かに明るむ。
向かいから、ポケットティッシュが差し出された。彼の指が少し震えている。ありがとう、と言い、笑った。笑いは、俺の防波堤の内側で起きるさざ波みたいなもので、誰にも届かないけれど、俺自身には効く。
「ピント、合いにくい日ってあるよね」
言って、自分にも言っていた。俺のピントは、遠くには合いやすい。遠くにある、来年の試験、将来の書類、来月の支払い。近くにある、今日の会話、目の前の顔、机の上の一センチのずれには、合いにくい。だから、口に出して、近い場所にピントを呼び込む。
彼が頷いたのは、返事というより、共犯の合図のように見えた。ぼやける黒板の話を、俺は勝手に想像していた。想像は、たいてい間違う。その間違いのいくつかが、役に立つこともある。
閉館のアナウンス。席を立ち、階段を降りながら、携帯が震えた。非通知。鳴動時間の短さで、向こうの酒の量が大体わかる。俺は出ない。出ない、を選ぶ権利は、俺にもある。出ないを選ぶためには、別の応答のための場所が必要だ。図書館の階段は、その一つだ。
「勉強、嫌い?」
俺は訊いた。彼の答えは知っていた。知っていて、言わせた。言わせないと、言葉は溜まる。溜まった言葉は、夜に形を変える。
「今は、紙の重さも嫌だ」
そうだろうな、と思う。紙は軽いのに、目がそれを重くする。紙の上では、自分の線が全部見えるから。俺は、「紙は軽いけどね」と言い、「宿題は重さで測る?」と続けた。冗談を言うとき、俺は少しだけ舌足らずにする。冗談は、丁寧に言うと冗談じゃなくなる。
彼が笑った。笑いの音は、缶ココアのアルミの表面で小さく震える音に似ていた。自販機の下にかがんで、小銭を入れ、取り出し口から熱い円筒を取り上げ、彼に渡す。要らないと言いながら受け取る手は、俺が見たどの受け取り方より素直だった。
「忙しい。でも、暇は作れる」
これは俺の持論で、守り札だ。俺は暇を持っていない。けれど、作ることはできる。作る暇は、借金ではない。返す期限がない。自分で作ったものは、自分で壊せる。壊せるものだけが、俺の手の中に置ける。
改札の手前で分かれた。俺は地上へ戻り、駅の外の空気を吸った。冬の匂いは、毎年似ている。似ていても、同じではない。今年の冬は、紙がよく乾く匂いがする。紙が乾くと、ペンのインクの線が早く定着する。にじみが少ない。そういう冬は、失敗の形がはっきり残る。
家へ向かう途中、また非通知。出ない。出ないまま、歩幅を少し広げる。歩幅を広げると、体温が上がる。家の鍵はポケットの中で冷たい。鍵の冷たさが、俺の手の中で唯一、言い訳を必要としない冷たさだと思う。俺は鍵を回す音を聞きながら、さっきの「また」を言わなかったことを、正しいと決めた。決めるのは俺だ。誰でもない。
*
――三浦蒼生
図書館に通う理由は、理由の形をしていない。俺は、あの机の角度と、天井の色と、紙の匂いに、体の置き場所を貸してもらっている。借りている、ではなく、貸してもらっている。借り物には返す期限があるけど、貸してもらうものには、返す期限が書かれていないように感じたから。
二日目。俺は入口のカウンターの横で貸し出しカードの更新をし、スタンプの赤いインクの濃さに、曜日の疲れ方を勝手に測った。スタンプの色が薄い日は、図書館の人の手が疲れている。印面を強く押せない。そんなふうに見えた。
学習席につくと、律はまだいなかった。俺はノートの最初のページに戻り、昨日書いた日付の下に今日の日付を書いた。右上の角に小さく×を入れる。開始の印。
五分ほどして、律が来る。制服の襟の色。シャツの白。机の上に広がる色の配列は、昨日とほとんど同じ。変わらない配置は、落ち着く。人の変わらなさに、俺は救われる。
「ここ、空いてた?」
「空いてる」
声が出た。俺は、机の角で鉛筆を転がして、落ちる直前に止めた。こういう細かいゲームを、自分に出して、ちゃんと自分でクリアするのは、今の俺にはちょうどいい難易度だった。
律のペンは今日もまっすぐ進む。俺は、単語帳の一枚目をまた開く。何度も開いた、一枚目。俺は、裏に意味を書かないことにした。書くと、紙が重くなる。今日は軽くしておきたい。
途中で、律が眼鏡を上げ、鼻の付け根に跡のない位置を探して、また下ろす。小さな落ち着きの行為。俺はそんなものをいくつも知っている。爪の角を指の腹でなぞる、ペンのキャップを外しては付ける、消しゴムの紙の部分を少しだけめくる。落ち着きは、何かを壊しながらやって来るのかもしれない。紙を少し破り、キャップを少し緩め、付け根の皮膚を少し赤くする。
閉館の時間。俺は鉛筆をしまい、律と同じタイミングで立つ。たぶん、合わせたのではなく、同じ速度で集中が切れただけだ。
外は細かい雨。傘を開くほどではない。俺たちは歩きながら、話を切り出すタイミングを探す。切り出す必要のない会話も、世の中にはある。それでも、人はなぜか、切り出したがる。
「今日、紙は軽かった?」
律が言う。
「真ん中あたりが重かった」
「真ん中が重いのは、いいね」
「どうして」
「端から端へ移動しようとしてる証拠」
俺は笑って、笑った自分に少し驚いた。俺の笑いは、相手の言葉の意味に対してではなく、言葉の置き方に反応する。律の言葉は、いつも置き方がうまい。
「宿題、測ってみた」
「何で?」
「キッチンのはかり」
「いくつ」
「四百三十グラム」
律がふっと笑う。
「それは、持ち歩くにはちょっと重いね」
「だろ」
俺は、昨日家のキッチンで宿題の束を本当に測ったことを言いながら、自分で少し可笑しくなった。測った数字が、俺の手の中で急に現実になった気がして、重さを理由に逃げられる時間が少し減った。
駅の前で、律が足を止めた。
「蒼生」
名前を呼ばれて、心臓が一拍だけ、別の場所に落ちた。
「……呼ぶなよ」
「呼ばないほうがいい?」
「わからない」
「わからない、っていいね」
昨日も言われた言葉だ。俺は舌の手前に溜まった何かを飲み込んで、「また」と言いそうになった唇を指で押さえた。
「じゃあ、また」
先に言われた。俺は頷いた。頷くことのほうが、今は合っている。
その夜、家に帰って、俺はキッチンのはかりの上に今度はノート一冊だけを置いた。九十グラム。軽い。軽いものは、すぐに遠くへ行ける。俺はノートを鞄に戻し、ベッドにひざを立てて座った。ピントを合わせる練習が必要だと思った。練習はきらいだ。けれど、練習は、上手くなるためじゃなくて、思い出すためにあるのかもしれない。合い方を思い出すために。
俺は部屋の壁の一点を決め、そこに視線を固定し、そこから少しだけ外し、また戻す。焦点の輪がキュッと縮む瞬間の感覚を、体のどこかで覚える。目のほかの場所、例えば肩とか、舌の付け根とか、膝の内側とかで。
*
――篠原律
図書館の帰りに、俺は自販機の前で立ち止まり、缶コーヒーと水を買う。コイン投入口に硬貨を入れる角度が、今日は二度ずれていた。二度のずれは、俺の中では充分に大きい。俺は歩きながら、そのずれを正すように、足首の角度を少し変えた。
家に着く直前、また非通知。出ない。出ないを選ぶと、向こうの声は増幅する。悪い夢みたいに。俺は玄関の前で鍵を持ち替え、鍵穴に入れる前に一度深呼吸した。深呼吸は、俺のピント合わせだ。
部屋に入って灯りをつける。狭い。狭いから、ものの位置は一定で、そこは安心だ。机の上に今日の付箋を三枚並べる。黄色に「学校」、青に「店」、緑に「寄り道」。書くことはない。色を置くだけ。色を置くと、頭の中の都市計画が少しだけ整う。
スマホにメッセージ。店長から明日のシフトの確認。〈木曜、遅番でいいか〉。木曜。俺の生活で一番、音が増える曜日。
〈大丈夫です〉と返す。大丈夫は、便利な言葉だ。便利な言葉を便利なままにしておくには、使う回数を決める必要がある。俺は一日に三回までと決めた。今日の大丈夫は、これで二回目。
机に座り、問題集を開く。数字は裏切らない、という言い方は嫌いだ。数字は裏切る。裏切らないのは、手順だ。手順を踏めば、間違いは浅い。浅い間違いは、修正のための余白を残す。
ペン先を紙に置く。さっき図書館で蒼生が指で押さえていた唇の形を、思い出す。名前を呼んだあとの、言葉の渋滞。俺は人の渋滞に息を合わせるのが下手だ。だから、先に一歩引く。引いて、相手が前に出られるスペースを作る。前に出ないなら、出ないままでいい。出ないのを責める権利は、俺にはない。
脳裏で、蒼生の声が「紙は重い」と言う。俺は笑ってしまう。紙が重いと言う人を、俺は初めて見た。初めて見るものは、だいたい怖い。でも、少し嬉しい。俺はコーヒーを飲み、舌に苦さを貼り付けた。
*
――三浦蒼生
三日目。図書館へ向かう途中、俺は階段で足を滑らせた。転ぶほどではない。靴底が濡れていたのだろう。体の中の何かが半歩遅れて転びかけて、足首の内側がぎゅっと縮む。俺は手すりに軽く触れて、呼吸をやり直した。やり直す、という行為が、昨日よりすこしだけ短い動作で済むことに気づく。
席につく。律は先に来ていた。今日の付箋は二色しか見えない。黄色と青。緑がない。俺は勝手に、寄り道の色が今日は机の上にないことに、少しだけ肩の力が抜けた。寄り道は色がなくてもできる。俺の頭の中での話だ。
「ここ、空いてた?」
「空いてる」
律のペンの音が、雨の日の傘立ての音とよく似ていることに、今さらながら気づいた。軽く当たって、鳴って、やんで、また鳴る。
俺は、単語帳の二枚目に進んだ。二枚目に進むのは、なぜか一枚目に戻るより怖い。戻る場所がどんどん薄くなるからだ。俺は二枚目の単語を見て、意味を見て、もう一度単語を見て、目を閉じて、頭の中に文字を置く。置いた文字は、すぐに崩れる。崩れるたび、少しだけ太くなる線がある。
今日も律が眼鏡を外す。目頭を押さえる。俺はティッシュを出さなかった。出さないことが、出した昨日と同じくらい正しいと思えたから。
閉館のアナウンス。俺たちは無言で立ち上がり、無言で階段を降りる。外は風。風は音を奪う。
「蒼生、宿題、今日何グラム?」
俺は笑う。
「二百八十グラム」
「軽い日だ」
「持って帰れる」
「いいね」
駅の手前で、律が信号と同じタイミングで足を止める。
「暇、作れた?」
「十分」
「十分か」
「缶ココアを買って、蓋を開けないで持って帰るくらいの十分」
「それは、良い十分だ」
良い十分。俺は、そんな単位で時間を見たことがなかった。俺の時間はいつも、授業の五十分、休み時間の十分、電車の三分、電子レンジの三十秒。良いはどこにもつかない。ただの数字。そこに形容詞を貼る方法を、今日初めて見た。
律は改札の前で、俺を見ずに言った。
「また」
俺は今日も、喉の奥で言って、出さない。出さないことの居心地が、昨日より少し良い。
帰宅して、机に向かう。ノートの余白に、小さく円を描く。焦点の輪のつもり。外側から内側へ、ゆっくり線を寄せる。合う、ということばの形を紙にしてみる。丸が小さくなって、最後は点になって、そこに点があることが怖くなって、消しゴムで消す。消したあとの薄い跡が、今日のほうが好きだ。
寝る前、窓の外に目をこらす。街灯の橙色の輪郭が、昨夜よりくっきりしている。ピントが合うというのは、対象が変わるのではなく、俺のほうが少しだけ近づくことなのかもしれない。
*
――篠原律
木曜。音が増える日。図書館に向かう前に、俺は店のバックヤードで在庫の缶を数え、ガムテープで段ボールの口を閉じ、店長の愚痴が耳に入らないふりをした。耳に入らないふりは、耳を閉じることではない。別の音に焦点を合わせることだ。
図書館への道で、俺の携帯が震える。非通知。いつもより長く鳴る。出ない。出ないことを責める声は、非通知の向こうにしかいない。出ないを選び続ける俺は、いつか別の誰かに出るために、耳を残しておく。
席につくと、蒼生は眠っていた。額の位置が昨日より机の中央に寄っている。眠りの深さの違い。俺はペンを取り、教科書を開く。今日の付箋は三色。黄色、青、緑。緑が机の上にある日は、寄り道をしてもよい日、と俺は勝手に決めた。
蒼生が起きる。目の焦点が戻るまで、三秒。三秒で戻る日は、いい日だ。
「ここ、空いてた?」
「空いてる」
いつものやりとりを、いつもの高さで。
俺は、ふと、眼鏡を外すのをやめた。わざと、外さない。外さないと、目の前の文字はわずかに滲む。滲んだまま読む。滲んだままでも読めることを、体に思い出させる。ピントを合わせるだけが正解じゃない。ピントが外れている状態で生きられる時間を、延ばす。
閉館のアナウンス。俺たちはまた階段を降りる。
「律」
蒼生が小さく言った。
「……呼ぶなよ」
「呼ばないほうがいい?」
「わからない」
「わからない、って、やっぱりいい」
今日三度目の会話の同じ結論に、俺は内心で笑う。人は同じ場所に同じ言葉で戻ってこれるとき、少しだけ安心する。
「宿題、今日は」
「ゼロ」
「ゼロか」
「ゼロの日は、紙が軽い」
「そうだね」
駅の前で、俺は足を止める。缶ココアを買わない。缶を買わないことが、今日は正解だと思った。何かを足すと壊れる均衡がある。今日は、何も足さないで、均衡を保つ日。
「また」
言って、背を向けた。歩きながら、背中に視線を感じた。振り返らない。振り返らないという選択肢を、自分に残しておく。
夜、部屋に帰って、俺は付箋の緑を指でつまみ、机の端に貼った。緑は、目に優しい。目に優しい色は、ときどき心に厳しい。優しくされると、弱いところが露出する。露出したところを、俺は数だけ覚える。場所は覚えない。場所を覚えると、狙われる。
スマホにまた非通知。通話は切れるまで鳴らせておく。鳴っている間、俺は呼吸の数を数える。十まで数えたら、窓を少しだけ開ける。冬の匂いが入ってくる。紙が乾く匂い。今年の冬は、失敗の跡がくっきり残る。
*
――三浦蒼生
週の終わり、俺は図書館に向かう階段を一段飛ばしで上がった。体の中の何かが、今日は前に出たがっている。席につくと、律は少し遅れてきた。眼鏡のレンズに水滴の跡。外で風が吹いたのだろう。
「ここ、空いてた?」
「空いてる」
今日は、自分の声が一言目からちゃんと出た。
俺は単語帳の三枚目に進む。三枚目は、恐怖の峠だ。越えたら、下りになるかもしれない。それを知っていて、足を出せない。俺は手のひらに小さな汗を感じ、膝の内側に力を入れた。
律がペンを止める気配。目の端で、彼の指がスマホの画面を伏せるのが見えた。非通知。俺は何も言わない。言わない沈黙が、今日の俺たちのやり方だ。
閉館のアナウンス。階段を降りる途中で、俺は口を開いた。
「……勉強、嫌い?」
今度は俺が訊く番だと思った。
「嫌いではない」
律は言葉を選ぶ間の時間を、きちんと取る。
「嫌いではない、は好きではない、だろ」
「うん。好きではない」
「じゃあ、なんでやるんだ」
「手順があるから」
「手順」
「手順があると、間違いの深さが浅くなる」
俺は笑って、笑ってから、ちょっとだけ羨ましかった。俺の生活には手順が少ない。あるのは、たいてい、結果だけだ。結果だけが、テレビの画面みたいに明るくて、途中が映らない。
「手順、くれない?」
言ってから、顔が熱くなった。見返りを求めるみたいな言い方を、俺はした。
「手順は、配れるよ」
「配れる?」
「うん。宿題を重さで測るみたいに」
俺は、笑いながら、真面目に頷く。
「暇、作った?」
「今日は三十分」
「大盤振る舞いだ」
「駅まで歩くくらいの三十分」
「それで充分」
青に変わる。俺たちは同時に歩き出し、改札の前で立ち止まる。俺は喉の奥にいつも引っかかる紙片を、今日はゆっくり取り出す。
「……また」
言った。自分の声が、思っていたよりも軽く空に上がり、駅の天井の白に貼りついた。律は少しだけ目を細め、うなずいた。
「また」
同じ重さで返ってきた言葉が、俺の胸の中で転がり、止まる場所を見つけた。「また」は、約束じゃなくて、合図だ。合図は、目印になる。目印があると、ピントは合わせやすい。
帰りの電車で、俺は窓外の街灯の輪郭を眺めた。いつもより、遠くの光がくっきり見えた。近くの広告の文字は、少し滲んでいる。ピントは全体に一度で合わない。誰かの顔に合わせると、背景がぼける。背景に合わせると、顔がぼける。それでいい、と今日の俺は思えた。全部に合焦する視界は、存在しない。合わない場所があるから、合う場所が際立つ。
家に帰って、俺はキッチンのはかりの上に、自分の一日を置くことを想像した。何グラムだろう。測れない。測れないから、今日を持ち帰れた。持ち帰れなかった日は、重すぎる日だ。重すぎる日は、明日に小分けにする。小分けにする手順が、いつか俺にもできるかもしれない。
ベッドに入る前、机に向かい、余白に小さく書いた。「ピントは、合わせる」。その下に、もう一行。「合わないときは、待つ」。さらにもう一行。「待っても合わないときは、外れたままにしておく」。三行目の句点を丸く濃くして、照明を消した。暗闇のなかで、句点だけが目の奥に残って、やがてゆっくり薄れていった。
*
――篠原律
「また」を、彼の口から初めて聞いた。声が軽かった。軽かったのに、軽薄じゃなかった。軽さの中に、持ち運べる重さが折りたたまれていた。
改札を離れてから、俺は振り返らなかった。振り返らないという選択が、今日は合っている。合っているかどうかは、誰かに決めてもらえない。俺が決める。
家に帰る途中、交差点で信号が青になり、車が走る。タイヤが濡れたアスファルトを切る音。俺は、その音の高さで季節を測る。測るやり方を、何年もかけて身につけた。
部屋に着いて、机の上の付箋の緑をはがす。緑は、今日はここで終わり。明日の朝、また貼る。繰り返しは、俺の手順だ。手順は、俺の堤防でもある。
スマホが震える。非通知。鳴動の合間に、俺は窓を数センチだけ開ける。外の空気が入る。紙が乾く匂いの奥に、うすい酒の匂いが混ざる。風向きの問題だ。俺は窓を閉め、机に向かい、ペンを取った。
ピントは、合わせる。合わないときは、待つ。待っても合わないときは、外れたままにしておく。そう書いてあるノートをいつか読むかもしれない彼の姿を、少しだけ想像した。想像は、たいてい間違う。間違いが、支えになることがある。
俺は眼鏡を外し、目頭を押した。今日は、外す日。明日は、外さない日。合う日と、合わない日。どちらも、俺の手の中に置いておく。そこから、暇を作る。忙しい。でも、暇は作れる。そう言い切った口の形を、俺は自分の頬の内側で確かめ、灯りを落とした。
翌週から、俺は放課後の図書室に通うようになった。理由はわからない。言葉にしてしまうと、理由はたいてい間違う。たぶん俺は、蛍光灯の白とは違う、紙の上の白さに囲まれて座っていたかっただけだ。紙の白は、触れると指の熱で少し温度が変わる。蛍光灯の白は、触れても変わらない。変わらない白のなかで俺はよく迷子になるが、変わる白のなかなら、迷子のふりができる。
区立図書館の二階、学習席の島。木目の机は古くて、誰かが刻んだ名前の最初の一画が、長い時間の中で誰の名前でもないただの線になっている。椅子の脚が床をこする音が、一定の間隔で散っている。時計の針は、秒を刻むタイプではなく、すべるように進むタイプで、じっと見ていると自分の呼吸のほうが規則的に思えてくる。
俺は教科書とノートを広げて、何もしない、をはじめる。何もしないのに、何かをしているふうに見える場所は、俺にとって貴重だ。机の木目に額を落として、いつの間にか眠った。眠ることのうしろめたさが薄くなる場所でもある。
目を開けると、向かいの席に彼がいた。篠原律。制服の襟は別の学校の色。白いシャツのボタンをきちんと留め、筆箱は横一列に影を落とし、教科書には付箋が規則的に並ぶ。付箋の色が三色だけなのが印象に残る。黄色、青、薄い緑。ページの端に色が立っていて、そこだけ紙が厚く見えた。
「ここ、空いてた?」
律は俺に問うというより、机という存在に確認するみたいに静かに言った。俺は頷いた。喉の奥で「どうぞ」がほどける前に、彼は腰を下ろした。二人は視線を交わさないまま、同じ机の端を使いはじめる。
彼のペン先はまっすぐ進む。まっすぐ、というのは字の形のことではない。迷うときの音がしない、ということだ。ため息ひとつつかない。ノートの上を走るペンの細い音だけが、机の木の年輪の上で等間隔に刻み直されていく。
俺は――黒板を思い出した。ぼやける他人の授業を、遠くから見ているだけの俺の視界。板書の字はどこもかしこも正しく並んでいるのに、焦点の輪がどこにも合わない。ぼやけは、疲れや眠気だけのせいじゃない、と俺はうすうす感じていた。ピントを合わせるという行為そのものを、俺は長いこと忘れていたのかもしれない。合ってくれるものだと思って、待っていた。何もかもが、向こうから勝手に合ってくれるのを。
やがて律が眼鏡を外し、目頭を押さえた。薄い指で目のくぼみを少しだけ押して、ぐっと視界の厚みを調整するみたいな仕草。反射的に、俺はポケットティッシュを差し出していた。差し出してから我に返って、気まずくなる。
「ありがとう」
律は受け取り、ふっと笑った。
「ピント、合いにくい日ってあるよね」
俺は曖昧に頷く。黒板の文字みたいにぼけた自分の毎日を、その瞬間だけ、透明な膜越しに見た気がした。ピントは、合わせるものなんだ、と誰かが黒板の端に小さく書いてくれたような感じ。
自分のノートの白が、蛍光灯の白ではなく、紙の白だということが、やけに鮮やかだった。
閉館のアナウンスが、小さな音で天井から降りてきた。机の上のものを静かにしまう。消しゴムの角についた黒い粉が、指に移る。立ち上がるタイミングを、律に合わせるつもりはないのに、そうなってしまう。
階段を降り、入口の風除室でガラス戸に触れる。外に出ると、空気が思ったより冷たかった。
「勉強、嫌い?」
横に並んだ律が、歩幅を合わせながら訊いた。訊き方は優しくも厳しくもなく、ただ事実を確認する角度。
「今は、紙の重さも嫌だ」
俺は正直に答えた。ノートを持つ手首に感じる、物理の重さの話じゃない。紙に字を載せると、その紙が急に重くなる感じ。書いたぶんだけ沈んでいく感じ。
「紙は軽いけどね」
律は冗談めかして言い、俺の顔を見ないまま歩く。
「じゃあ、宿題は重さで測る?」
そんなふうに続けられて、俺は笑ってしまった。笑うと、胸の奥の砂が少しだけ沈む。
「暇?」
俺が挑むみたいに訊くと、律は短く考えてから言った。
「忙しい。でも、暇は作れる」
その言い方が、初めての光に見えた。忙しいという言葉の中に、救いがあるなんて想像したことがなかった。忙しいはいつも、俺から時間を奪っていく言葉だった。けれど彼は、忙しいの中から暇を作ると言った。作る、という動詞は、俺の世界ではめったに登場しない動詞だ。
駅前に出る。信号待ち。赤の明かりが俺の頬に落ちる。律はポケットから硬貨を出して、自販機で缶ココアを買い、俺に押しつけるように渡した。
「熱いから気をつけて」
「要らない」
と口では言いながら、俺は缶の熱を掌で受け取っていた。指先が、缶のアルミの薄さを透かして液体の重さを知る。
青に変わる。俺たちは同時に歩き出し、駅の改札の前で立ち止まる。俺は自分から「また」を言いかけて、喉の奥で飲み込んだ。律は言わない。言わないことが、今日の正解だった気がした。言わないまま、視線を交わさないで、別れる。俺はホームへ、彼は地上へ。
電車が入ってきて、ステップの金属が濡れた靴底で鳴る。座席に腰を下ろすと、ふくらはぎに温度が戻ってくる。缶ココアは、蓋を開けないまま膝の上に置いた。少しずつ冷めていく音が、聴こえるような気がした。耳を澄ますと、世界のどこにも、わずかながら音はある。ピントが合いにくい日の音は、小さい。小さい音を拾うには、身体の中のうるささを静める必要がある。
俺は車窓に映る自分の顔を見た。ガラスの向こうに街が流れて、顔だけが流れない。流れない顔の輪郭が、昨日よりも、すこしだけはっきりしていた。
*
――篠原律
図書館の机は、店のレジとは別の種類の水平だ。レジの水平は誰もが通過していくためのもので、机の水平は誰かがとどまるためのものだ。俺は、どちらの水平にも慣れている。とどまることに慣れると、通過に怯える。通過に慣れると、とどまる重さを忘れる。
制服の襟で学校の色が違うのを、俺はたいてい一目でわかる。自分の学校の襟、近隣の進学率の高い高校の襟、夜間の定時制の襟。制服の襟は、記号だ。俺の生活は記号でできている。記号に頼ると、判断は早くなる。早くなる判断は、ときどき冷たい。だから俺は、机の上にだけは、記号を置かないようにしている。
眠っている蒼生を見て、俺は机の木目を数えた。数えるというのは、見ないふりの一部だ。人の寝顔を見るのは、侵入に似る。侵入するなら、責任が必要になる。俺は今すぐに背負える責任の数を、ポケットに入っている小銭の数に合わせている。今日は小銭が少ない。
「ここ、空いてた?」
問う。空いていなかったら、別の机に行く。空いているなら、ここに座る。座り方に言い訳は要らない。
ペンを走らせる。授業の板書ではなく、問題集の解説を写す。写す行為は、俺にとって作業で、作業は避難だ。避難するために最小の手数で動く。最小の手数は、意地悪に見えることがある。意地悪ではない。持ち帰れる荷物の量は決まっている。
目が疲れてきて、眼鏡を外す。安いフレームは鼻の付け根に跡を残し、跡は夜になると痛む。目頭を押さえると、視界の隅が微かに明るむ。
向かいから、ポケットティッシュが差し出された。彼の指が少し震えている。ありがとう、と言い、笑った。笑いは、俺の防波堤の内側で起きるさざ波みたいなもので、誰にも届かないけれど、俺自身には効く。
「ピント、合いにくい日ってあるよね」
言って、自分にも言っていた。俺のピントは、遠くには合いやすい。遠くにある、来年の試験、将来の書類、来月の支払い。近くにある、今日の会話、目の前の顔、机の上の一センチのずれには、合いにくい。だから、口に出して、近い場所にピントを呼び込む。
彼が頷いたのは、返事というより、共犯の合図のように見えた。ぼやける黒板の話を、俺は勝手に想像していた。想像は、たいてい間違う。その間違いのいくつかが、役に立つこともある。
閉館のアナウンス。席を立ち、階段を降りながら、携帯が震えた。非通知。鳴動時間の短さで、向こうの酒の量が大体わかる。俺は出ない。出ない、を選ぶ権利は、俺にもある。出ないを選ぶためには、別の応答のための場所が必要だ。図書館の階段は、その一つだ。
「勉強、嫌い?」
俺は訊いた。彼の答えは知っていた。知っていて、言わせた。言わせないと、言葉は溜まる。溜まった言葉は、夜に形を変える。
「今は、紙の重さも嫌だ」
そうだろうな、と思う。紙は軽いのに、目がそれを重くする。紙の上では、自分の線が全部見えるから。俺は、「紙は軽いけどね」と言い、「宿題は重さで測る?」と続けた。冗談を言うとき、俺は少しだけ舌足らずにする。冗談は、丁寧に言うと冗談じゃなくなる。
彼が笑った。笑いの音は、缶ココアのアルミの表面で小さく震える音に似ていた。自販機の下にかがんで、小銭を入れ、取り出し口から熱い円筒を取り上げ、彼に渡す。要らないと言いながら受け取る手は、俺が見たどの受け取り方より素直だった。
「忙しい。でも、暇は作れる」
これは俺の持論で、守り札だ。俺は暇を持っていない。けれど、作ることはできる。作る暇は、借金ではない。返す期限がない。自分で作ったものは、自分で壊せる。壊せるものだけが、俺の手の中に置ける。
改札の手前で分かれた。俺は地上へ戻り、駅の外の空気を吸った。冬の匂いは、毎年似ている。似ていても、同じではない。今年の冬は、紙がよく乾く匂いがする。紙が乾くと、ペンのインクの線が早く定着する。にじみが少ない。そういう冬は、失敗の形がはっきり残る。
家へ向かう途中、また非通知。出ない。出ないまま、歩幅を少し広げる。歩幅を広げると、体温が上がる。家の鍵はポケットの中で冷たい。鍵の冷たさが、俺の手の中で唯一、言い訳を必要としない冷たさだと思う。俺は鍵を回す音を聞きながら、さっきの「また」を言わなかったことを、正しいと決めた。決めるのは俺だ。誰でもない。
*
――三浦蒼生
図書館に通う理由は、理由の形をしていない。俺は、あの机の角度と、天井の色と、紙の匂いに、体の置き場所を貸してもらっている。借りている、ではなく、貸してもらっている。借り物には返す期限があるけど、貸してもらうものには、返す期限が書かれていないように感じたから。
二日目。俺は入口のカウンターの横で貸し出しカードの更新をし、スタンプの赤いインクの濃さに、曜日の疲れ方を勝手に測った。スタンプの色が薄い日は、図書館の人の手が疲れている。印面を強く押せない。そんなふうに見えた。
学習席につくと、律はまだいなかった。俺はノートの最初のページに戻り、昨日書いた日付の下に今日の日付を書いた。右上の角に小さく×を入れる。開始の印。
五分ほどして、律が来る。制服の襟の色。シャツの白。机の上に広がる色の配列は、昨日とほとんど同じ。変わらない配置は、落ち着く。人の変わらなさに、俺は救われる。
「ここ、空いてた?」
「空いてる」
声が出た。俺は、机の角で鉛筆を転がして、落ちる直前に止めた。こういう細かいゲームを、自分に出して、ちゃんと自分でクリアするのは、今の俺にはちょうどいい難易度だった。
律のペンは今日もまっすぐ進む。俺は、単語帳の一枚目をまた開く。何度も開いた、一枚目。俺は、裏に意味を書かないことにした。書くと、紙が重くなる。今日は軽くしておきたい。
途中で、律が眼鏡を上げ、鼻の付け根に跡のない位置を探して、また下ろす。小さな落ち着きの行為。俺はそんなものをいくつも知っている。爪の角を指の腹でなぞる、ペンのキャップを外しては付ける、消しゴムの紙の部分を少しだけめくる。落ち着きは、何かを壊しながらやって来るのかもしれない。紙を少し破り、キャップを少し緩め、付け根の皮膚を少し赤くする。
閉館の時間。俺は鉛筆をしまい、律と同じタイミングで立つ。たぶん、合わせたのではなく、同じ速度で集中が切れただけだ。
外は細かい雨。傘を開くほどではない。俺たちは歩きながら、話を切り出すタイミングを探す。切り出す必要のない会話も、世の中にはある。それでも、人はなぜか、切り出したがる。
「今日、紙は軽かった?」
律が言う。
「真ん中あたりが重かった」
「真ん中が重いのは、いいね」
「どうして」
「端から端へ移動しようとしてる証拠」
俺は笑って、笑った自分に少し驚いた。俺の笑いは、相手の言葉の意味に対してではなく、言葉の置き方に反応する。律の言葉は、いつも置き方がうまい。
「宿題、測ってみた」
「何で?」
「キッチンのはかり」
「いくつ」
「四百三十グラム」
律がふっと笑う。
「それは、持ち歩くにはちょっと重いね」
「だろ」
俺は、昨日家のキッチンで宿題の束を本当に測ったことを言いながら、自分で少し可笑しくなった。測った数字が、俺の手の中で急に現実になった気がして、重さを理由に逃げられる時間が少し減った。
駅の前で、律が足を止めた。
「蒼生」
名前を呼ばれて、心臓が一拍だけ、別の場所に落ちた。
「……呼ぶなよ」
「呼ばないほうがいい?」
「わからない」
「わからない、っていいね」
昨日も言われた言葉だ。俺は舌の手前に溜まった何かを飲み込んで、「また」と言いそうになった唇を指で押さえた。
「じゃあ、また」
先に言われた。俺は頷いた。頷くことのほうが、今は合っている。
その夜、家に帰って、俺はキッチンのはかりの上に今度はノート一冊だけを置いた。九十グラム。軽い。軽いものは、すぐに遠くへ行ける。俺はノートを鞄に戻し、ベッドにひざを立てて座った。ピントを合わせる練習が必要だと思った。練習はきらいだ。けれど、練習は、上手くなるためじゃなくて、思い出すためにあるのかもしれない。合い方を思い出すために。
俺は部屋の壁の一点を決め、そこに視線を固定し、そこから少しだけ外し、また戻す。焦点の輪がキュッと縮む瞬間の感覚を、体のどこかで覚える。目のほかの場所、例えば肩とか、舌の付け根とか、膝の内側とかで。
*
――篠原律
図書館の帰りに、俺は自販機の前で立ち止まり、缶コーヒーと水を買う。コイン投入口に硬貨を入れる角度が、今日は二度ずれていた。二度のずれは、俺の中では充分に大きい。俺は歩きながら、そのずれを正すように、足首の角度を少し変えた。
家に着く直前、また非通知。出ない。出ないを選ぶと、向こうの声は増幅する。悪い夢みたいに。俺は玄関の前で鍵を持ち替え、鍵穴に入れる前に一度深呼吸した。深呼吸は、俺のピント合わせだ。
部屋に入って灯りをつける。狭い。狭いから、ものの位置は一定で、そこは安心だ。机の上に今日の付箋を三枚並べる。黄色に「学校」、青に「店」、緑に「寄り道」。書くことはない。色を置くだけ。色を置くと、頭の中の都市計画が少しだけ整う。
スマホにメッセージ。店長から明日のシフトの確認。〈木曜、遅番でいいか〉。木曜。俺の生活で一番、音が増える曜日。
〈大丈夫です〉と返す。大丈夫は、便利な言葉だ。便利な言葉を便利なままにしておくには、使う回数を決める必要がある。俺は一日に三回までと決めた。今日の大丈夫は、これで二回目。
机に座り、問題集を開く。数字は裏切らない、という言い方は嫌いだ。数字は裏切る。裏切らないのは、手順だ。手順を踏めば、間違いは浅い。浅い間違いは、修正のための余白を残す。
ペン先を紙に置く。さっき図書館で蒼生が指で押さえていた唇の形を、思い出す。名前を呼んだあとの、言葉の渋滞。俺は人の渋滞に息を合わせるのが下手だ。だから、先に一歩引く。引いて、相手が前に出られるスペースを作る。前に出ないなら、出ないままでいい。出ないのを責める権利は、俺にはない。
脳裏で、蒼生の声が「紙は重い」と言う。俺は笑ってしまう。紙が重いと言う人を、俺は初めて見た。初めて見るものは、だいたい怖い。でも、少し嬉しい。俺はコーヒーを飲み、舌に苦さを貼り付けた。
*
――三浦蒼生
三日目。図書館へ向かう途中、俺は階段で足を滑らせた。転ぶほどではない。靴底が濡れていたのだろう。体の中の何かが半歩遅れて転びかけて、足首の内側がぎゅっと縮む。俺は手すりに軽く触れて、呼吸をやり直した。やり直す、という行為が、昨日よりすこしだけ短い動作で済むことに気づく。
席につく。律は先に来ていた。今日の付箋は二色しか見えない。黄色と青。緑がない。俺は勝手に、寄り道の色が今日は机の上にないことに、少しだけ肩の力が抜けた。寄り道は色がなくてもできる。俺の頭の中での話だ。
「ここ、空いてた?」
「空いてる」
律のペンの音が、雨の日の傘立ての音とよく似ていることに、今さらながら気づいた。軽く当たって、鳴って、やんで、また鳴る。
俺は、単語帳の二枚目に進んだ。二枚目に進むのは、なぜか一枚目に戻るより怖い。戻る場所がどんどん薄くなるからだ。俺は二枚目の単語を見て、意味を見て、もう一度単語を見て、目を閉じて、頭の中に文字を置く。置いた文字は、すぐに崩れる。崩れるたび、少しだけ太くなる線がある。
今日も律が眼鏡を外す。目頭を押さえる。俺はティッシュを出さなかった。出さないことが、出した昨日と同じくらい正しいと思えたから。
閉館のアナウンス。俺たちは無言で立ち上がり、無言で階段を降りる。外は風。風は音を奪う。
「蒼生、宿題、今日何グラム?」
俺は笑う。
「二百八十グラム」
「軽い日だ」
「持って帰れる」
「いいね」
駅の手前で、律が信号と同じタイミングで足を止める。
「暇、作れた?」
「十分」
「十分か」
「缶ココアを買って、蓋を開けないで持って帰るくらいの十分」
「それは、良い十分だ」
良い十分。俺は、そんな単位で時間を見たことがなかった。俺の時間はいつも、授業の五十分、休み時間の十分、電車の三分、電子レンジの三十秒。良いはどこにもつかない。ただの数字。そこに形容詞を貼る方法を、今日初めて見た。
律は改札の前で、俺を見ずに言った。
「また」
俺は今日も、喉の奥で言って、出さない。出さないことの居心地が、昨日より少し良い。
帰宅して、机に向かう。ノートの余白に、小さく円を描く。焦点の輪のつもり。外側から内側へ、ゆっくり線を寄せる。合う、ということばの形を紙にしてみる。丸が小さくなって、最後は点になって、そこに点があることが怖くなって、消しゴムで消す。消したあとの薄い跡が、今日のほうが好きだ。
寝る前、窓の外に目をこらす。街灯の橙色の輪郭が、昨夜よりくっきりしている。ピントが合うというのは、対象が変わるのではなく、俺のほうが少しだけ近づくことなのかもしれない。
*
――篠原律
木曜。音が増える日。図書館に向かう前に、俺は店のバックヤードで在庫の缶を数え、ガムテープで段ボールの口を閉じ、店長の愚痴が耳に入らないふりをした。耳に入らないふりは、耳を閉じることではない。別の音に焦点を合わせることだ。
図書館への道で、俺の携帯が震える。非通知。いつもより長く鳴る。出ない。出ないことを責める声は、非通知の向こうにしかいない。出ないを選び続ける俺は、いつか別の誰かに出るために、耳を残しておく。
席につくと、蒼生は眠っていた。額の位置が昨日より机の中央に寄っている。眠りの深さの違い。俺はペンを取り、教科書を開く。今日の付箋は三色。黄色、青、緑。緑が机の上にある日は、寄り道をしてもよい日、と俺は勝手に決めた。
蒼生が起きる。目の焦点が戻るまで、三秒。三秒で戻る日は、いい日だ。
「ここ、空いてた?」
「空いてる」
いつものやりとりを、いつもの高さで。
俺は、ふと、眼鏡を外すのをやめた。わざと、外さない。外さないと、目の前の文字はわずかに滲む。滲んだまま読む。滲んだままでも読めることを、体に思い出させる。ピントを合わせるだけが正解じゃない。ピントが外れている状態で生きられる時間を、延ばす。
閉館のアナウンス。俺たちはまた階段を降りる。
「律」
蒼生が小さく言った。
「……呼ぶなよ」
「呼ばないほうがいい?」
「わからない」
「わからない、って、やっぱりいい」
今日三度目の会話の同じ結論に、俺は内心で笑う。人は同じ場所に同じ言葉で戻ってこれるとき、少しだけ安心する。
「宿題、今日は」
「ゼロ」
「ゼロか」
「ゼロの日は、紙が軽い」
「そうだね」
駅の前で、俺は足を止める。缶ココアを買わない。缶を買わないことが、今日は正解だと思った。何かを足すと壊れる均衡がある。今日は、何も足さないで、均衡を保つ日。
「また」
言って、背を向けた。歩きながら、背中に視線を感じた。振り返らない。振り返らないという選択肢を、自分に残しておく。
夜、部屋に帰って、俺は付箋の緑を指でつまみ、机の端に貼った。緑は、目に優しい。目に優しい色は、ときどき心に厳しい。優しくされると、弱いところが露出する。露出したところを、俺は数だけ覚える。場所は覚えない。場所を覚えると、狙われる。
スマホにまた非通知。通話は切れるまで鳴らせておく。鳴っている間、俺は呼吸の数を数える。十まで数えたら、窓を少しだけ開ける。冬の匂いが入ってくる。紙が乾く匂い。今年の冬は、失敗の跡がくっきり残る。
*
――三浦蒼生
週の終わり、俺は図書館に向かう階段を一段飛ばしで上がった。体の中の何かが、今日は前に出たがっている。席につくと、律は少し遅れてきた。眼鏡のレンズに水滴の跡。外で風が吹いたのだろう。
「ここ、空いてた?」
「空いてる」
今日は、自分の声が一言目からちゃんと出た。
俺は単語帳の三枚目に進む。三枚目は、恐怖の峠だ。越えたら、下りになるかもしれない。それを知っていて、足を出せない。俺は手のひらに小さな汗を感じ、膝の内側に力を入れた。
律がペンを止める気配。目の端で、彼の指がスマホの画面を伏せるのが見えた。非通知。俺は何も言わない。言わない沈黙が、今日の俺たちのやり方だ。
閉館のアナウンス。階段を降りる途中で、俺は口を開いた。
「……勉強、嫌い?」
今度は俺が訊く番だと思った。
「嫌いではない」
律は言葉を選ぶ間の時間を、きちんと取る。
「嫌いではない、は好きではない、だろ」
「うん。好きではない」
「じゃあ、なんでやるんだ」
「手順があるから」
「手順」
「手順があると、間違いの深さが浅くなる」
俺は笑って、笑ってから、ちょっとだけ羨ましかった。俺の生活には手順が少ない。あるのは、たいてい、結果だけだ。結果だけが、テレビの画面みたいに明るくて、途中が映らない。
「手順、くれない?」
言ってから、顔が熱くなった。見返りを求めるみたいな言い方を、俺はした。
「手順は、配れるよ」
「配れる?」
「うん。宿題を重さで測るみたいに」
俺は、笑いながら、真面目に頷く。
「暇、作った?」
「今日は三十分」
「大盤振る舞いだ」
「駅まで歩くくらいの三十分」
「それで充分」
青に変わる。俺たちは同時に歩き出し、改札の前で立ち止まる。俺は喉の奥にいつも引っかかる紙片を、今日はゆっくり取り出す。
「……また」
言った。自分の声が、思っていたよりも軽く空に上がり、駅の天井の白に貼りついた。律は少しだけ目を細め、うなずいた。
「また」
同じ重さで返ってきた言葉が、俺の胸の中で転がり、止まる場所を見つけた。「また」は、約束じゃなくて、合図だ。合図は、目印になる。目印があると、ピントは合わせやすい。
帰りの電車で、俺は窓外の街灯の輪郭を眺めた。いつもより、遠くの光がくっきり見えた。近くの広告の文字は、少し滲んでいる。ピントは全体に一度で合わない。誰かの顔に合わせると、背景がぼける。背景に合わせると、顔がぼける。それでいい、と今日の俺は思えた。全部に合焦する視界は、存在しない。合わない場所があるから、合う場所が際立つ。
家に帰って、俺はキッチンのはかりの上に、自分の一日を置くことを想像した。何グラムだろう。測れない。測れないから、今日を持ち帰れた。持ち帰れなかった日は、重すぎる日だ。重すぎる日は、明日に小分けにする。小分けにする手順が、いつか俺にもできるかもしれない。
ベッドに入る前、机に向かい、余白に小さく書いた。「ピントは、合わせる」。その下に、もう一行。「合わないときは、待つ」。さらにもう一行。「待っても合わないときは、外れたままにしておく」。三行目の句点を丸く濃くして、照明を消した。暗闇のなかで、句点だけが目の奥に残って、やがてゆっくり薄れていった。
*
――篠原律
「また」を、彼の口から初めて聞いた。声が軽かった。軽かったのに、軽薄じゃなかった。軽さの中に、持ち運べる重さが折りたたまれていた。
改札を離れてから、俺は振り返らなかった。振り返らないという選択が、今日は合っている。合っているかどうかは、誰かに決めてもらえない。俺が決める。
家に帰る途中、交差点で信号が青になり、車が走る。タイヤが濡れたアスファルトを切る音。俺は、その音の高さで季節を測る。測るやり方を、何年もかけて身につけた。
部屋に着いて、机の上の付箋の緑をはがす。緑は、今日はここで終わり。明日の朝、また貼る。繰り返しは、俺の手順だ。手順は、俺の堤防でもある。
スマホが震える。非通知。鳴動の合間に、俺は窓を数センチだけ開ける。外の空気が入る。紙が乾く匂いの奥に、うすい酒の匂いが混ざる。風向きの問題だ。俺は窓を閉め、机に向かい、ペンを取った。
ピントは、合わせる。合わないときは、待つ。待っても合わないときは、外れたままにしておく。そう書いてあるノートをいつか読むかもしれない彼の姿を、少しだけ想像した。想像は、たいてい間違う。間違いが、支えになることがある。
俺は眼鏡を外し、目頭を押した。今日は、外す日。明日は、外さない日。合う日と、合わない日。どちらも、俺の手の中に置いておく。そこから、暇を作る。忙しい。でも、暇は作れる。そう言い切った口の形を、俺は自分の頬の内側で確かめ、灯りを落とした。



