――三浦蒼生

 俺は、今日も授業の黒板を追いきれなかった。チョークの粉が空気の中で薄く散って、先生の口から出る音は届くのに、意味の輪郭だけが掬い損ねた水みたいに指の間を零れていく。ページの余白は白いまま、左上に日付だけが整然と並んで、そこだけ今日が確かに存在する。
 「死にたい」のほうがまだ簡単だ、と時々思う。死にたいは、矢印が一本で済む。けれど俺の口の中に居座るのは「生きる意味がわからない」で、砂みたいにざらざらして、飲みこめないし吐き出せない。飲み込もうとすると咽喉に引っかかって、吐き出せば床に散らばる。掃除のベルが鳴っても残るみたいな、細かい砂だ。

 昼のチャイムが鳴ると同時に、クラスのあちこちで椅子が引かれて、机が寄せられる。弁当を置く音と、ペットボトルのキャップが回る音。俺は鞄からパンを出しかけてやめ、購買の列を見る。背伸びをすれば見える程度の距離にありながら、いつもより列が長く見えるのは、俺の目か、気持ちか。
 伊藤が、指先で机の縁を叩きながら言う。「英表の小テスト、言い換え出るかな」
 俺は曖昧に笑って頷く。言い換え。言いにくいことを別の言葉に置き換える練習。そうやって、みんな、生活を続けているのだろう。俺は上手くない。言い換えようとして、余計に遠ざけてしまう。

 午後になると、窓に雨の影が走った。最初は細い斜線で、やがて太くなって、ガラスの内側にいる自分の輪郭をゆがめる。雨だ、と誰かが言う。雨はいつも、世界の音を少なくしてくれるから好きだ。余計な会話が空気のどこかにもれていって、残った音は統一される。
 ホームルームが終わってからも、教室は雨宿りの人で膨らんだまま動かず、俺は傘を持ってきていなかったことに気づいた。朝、空は灰色だったのに、灰色であることに意味があるとは思えなかったから、持たなかった。意味がないと思ったものが、午後になると急に意味を持つ。そういう日は、俺みたいなやつには多い。

 駅までの道で、一瞬、駆け出すことを考えたけれど、きっと靴の中が濡れて、家に着く頃には体温まで損なわれるだろう。だから、駅前のコンビニに入る。出入口の上で自動ドアが開くと同時に鳴るチャイムの音が、潮の引き際みたいに耳を撫でた。
 中は、蛍光灯の白い海だ。均一で、規則正しくて、商品の面が少しでもずれているとそれがすぐにわかるような明るさ。床のタイルは光を塗ったみたいに薄く光り、冷蔵庫のモーターの音が一定に続く。その海のなかで、人はみんな、決められた動作を繰り返し、決められた言葉を選ぶ。安心は、たぶんその反復にある。

 レジに、その反復を自分の筋肉に染み込ませたみたいな動きの男が立っていた。眼鏡のレンズが蛍光灯を拾って、白く、冷たく、でもどこか柔らかい。篠原律。名札が、昨日から俺の中に居座っていた二文字の音に、漢字を与える。律。りつ。
 律は、やけに手際が良い。良いという言葉は、簡単で、薄い。でも他に言いようがない。彼はどの商品にも同じ力で触れ、同じ速さで袋に入れ、同じ高さで「ありがとうございました」と頭を下げる。誰に対しても。俺にも。昨日、欄干の上で温かいものを差し出し、俺がそれをはねのけたことなど、なかったかのように。
 彼は俺を見ない。俺も彼を見ない。見ないふりをする技術は、ここでは評価される。

 列から離れて、入口の横の傘立てを見る。金属の棒に、透明のビニール傘がぎっしり寄りかかって、時々誰かの手に引き抜かれるたび、他の傘がからからと小さく鳴る。その音は海の波ではなく、貝殻が擦れる音に似ている。
 傘立ての隅に、折れた骨をガムテープで固定した傘が一本あって、持ち主がもう二度と取りに来ないものみたいに見えた。忘れ物。忘れられた物。忘れることができた物。忘れたいのに忘れられないこと。
 俺は、何もしないでいると、内側のどこかが勝手に騒ぎだすから、棚を一周し、適当にチョコバーを選び、レジに並んだ。俺の番になって、商品の面を上に向ける。律の指がそれを受け取って、バーコードを軽く撫でる。ピッ、という音は、蛍光灯の海の脈拍みたいに規則的だ。

「袋、要りますか」
 昨日、「返さなくていいよ」と言った口が、当たり前の問いを発する。俺は首を横に振る。
「雨、強くなってますね」
 彼は商品を俺の掌に戻しながら言う。声は、ガラスの向こうの雨脚より、わずかに柔らかい。
「……傘、ある?」
 問われて、俺はわざと冷たく返す。「関係ないだろ」
 律はほんの一瞬だけ目を細くして、俺の反射の角度を測るみたいに黙った。それから、バックヤードへ消え、透明のビニール傘を一本持って戻ってきた。
「忘れ物。持っていって」
 柄に薄い傷がいくつも走っている。持ち手の端に、白いマーカーで小さく×が書かれていた。持ち主不明。記号が、所有の糸を切る。
 俺は受け取る。礼は言わない。声が詰まる。
「返さなくていいよ」
 律は笑う。笑い顔というより、笑いの手前にある余裕。俺は頷くこともできなくて、ドアに向かった。あの笑いは、関わる気のない人間の笑いじゃない。それを俺は、なぜか知っている。理由はわからない。

 外に出ると、雨は、俺の想像より音が大きかった。ビニールの膜に粒が当たって、透明な膜の上を小さな白い輪が走る。柄を握る手がじんわり温かくなる。傘の骨が一度だけ逆に反ろうとして、すぐに戻る。そのときの、金属がわずかに悲鳴を飲みこむみたいな音が好きだと思った。
 駅に向かって歩く。人の流れが二つに分かれて、濡れた地面の上で細い川みたいに合流したり別れたりする。電光掲示板は遅延を告げ、ホームからのアナウンスが、雨に吸われて角の丸い声になる。
 俺は階段を降りながら、傘の柄に刻まれた傷の一つずつに指を滑らせた。傷は浅く、色は薄い。誰かが持って、何度も開いて、閉じて、どこかに立てて、忘れて、また誰かが拾って、それでもまだここにある。その連続の気配が、手に残る。
 電車のガラスに映る自分の顔は、蛍光灯の白を背負って、少し青白い。もし俺が昨日、欄干から降りられなかったとしたら、今日のこの白さは、誰の上にも落ちなかった。世界の蛍光灯は、そのことに気づかず同じ明るさを保っていただろう。俺だけがいなくなって、残ったものたちは、別の手順で片づけられ、別の位置に収まっていったに違いない。
 俺は傘の先でホームの線の手前の水たまりをつつき、波紋が広がるのを見た。広がっていく輪の速度は一定で、駅の音に負けない。律の「返さなくていいよ」が、俺の耳のどこかでほどけずに残っている。返さなくていい、ということばは自由で、同時に不安だ。返さなくていい、と言われると、返す場面を奪われた気がして、身の置きどころがわからなくなる。けれど、返さなくていいと言われなければ、俺はきっと返すためだけに彼を探し続ける。
 どちらの不安を選ぶかは、俺の仕事だ。

 家に着く頃、傘から垂れた雫が靴の甲を濡らして、靴下にまで冷えが移った。勝手口に傘を立てて、雫がコンクリートの床を打つ音に耳を澄ます。ぽた、ぽた、ぽた。規則的で、ゆっくりで、やがて消える音。
 台所のテレビから、ニュースキャスターの声が流れて、母は頷いて、頷いたことに理由があるのかないのか自分で確かめない顔をしている。父は今日も不在。温かいものは電子レンジの中だけ。プラスチックの蓋を少しだけ持ち上げると、蒸気が一筋、頬に当たる。
 食べながら、玄関のほうに耳を向ける。傘から雫が落ちる音は、さっきよりも間隔が長くなった。最初の十個は数えられるのに、その先は数えられない。指で追うことができない。そういうところで、いつも俺は失う。
 眠る前、横になって、天井の模様を目でなぞる。ふいに、欄干の上の紙袋の温もりが蘇る。紙袋は、自分より軽いものを抱えているふりで、実は外側のほうがあたたかい。律の「また」が、からかいじゃなくて、奇妙な約束のように思えてしまう。約束というより、按配。俺の呼吸に対して、世界の側が呼吸を合わせてくるみたいな、弱い、けれど確かなリズム。

 翌朝、傘は乾いていた。柄についた傷に、昨日と同じ光が差す。俺は柄にそっと触れて、返さない、と心の中で繰り返した。返せない、でもいい。返したい、でもない。返さない。そう選んでいる俺が、少しだけ、自分の体に戻ってきた気がした。

 *

――篠原律

 雨の日の蛍光灯は、晴れの日と違う波をつくる。冷蔵ケースのモーター、レジのスキャナ、電子レンジのピー音、床のモップの軋み――同じ音の並びでも、雨はそれをひとつの音楽にまとめる。俺はそういう日が好きだ。音がひとつにまとまると、誰かの声が急に刺さらなくなる。
 レジの前に立つとき、俺は顔の筋肉の置き場所を決める。口角を少し上げて、眉間を緩める。客の目線の高さに自分の視線を合わせ、紐のような言葉をひとつずつ結ぶように話す。早すぎるとほどけるし、遅すぎると絡む。
 昨日、橋で見た子が来た。そう確信する前に、身体が先にわかった。顔全体の白さじゃない。白さのなかで色のある箇所――爪の縁や唇の内側――が、少し遅れて変わるタイプの白。欄干の鉄の匂いをそのまま持っていそうな指。
 俺は彼を見ないふりをした。見ないふりは、無関心の演技じゃない。距離の演算だ。近づけば何かが助かるとは限らない。俺は何度もそれを学習した。手を伸ばして引き上げようとして、一緒に落ちたことがある。落ちてから人を責めるのは簡単だが、落ちる前の演算を人はなかなか見てくれない。

 彼の番になって、俺はいつも通りに問う。「袋、要りますか」。答えは要らない。頷きか、首の動きか。俺は彼の「要らない」を受け取って、商品を手に戻し、つい、余計な一言を言ってしまう。「雨、強くなってますね」。余計だとわかっていて、それを入れるのは、俺の甘えだ。関係ない会話は、後で後悔する。
 「傘、ある?」と口が勝手に動いた。彼は「関係ないだろ」と返す。正しいと思う。俺もそう返すだろう。関係なんてない。寄り道に関係性は要らない。必要なのは、今ここで濡れないこと。ただそれだけ。
 バックヤードに戻って、忘れ物の傘の箱をあける。透明のビニール傘が何本もあって、そのうち一本の柄の端に、俺が先週×印を入れたやつがまだ残っていた。持ち主不明。保管期間経過。返還不要。
 ルールに従って、それを渡す。ルールは、俺にとっては防波堤みたいなものだ。誰かが大声で押し寄せてきても、ルールの壁に当たって波が砕ける。だから俺は、なるべく壁の内側で暮らす。壁の向こう側の海は、本当に広いから。
 「返さなくていいよ」と言ったのは、俺のためでもある。返却の約束があると、約束の時間が俺の部屋の空気を変える。約束は灯りになるけれど、影も作る。俺の影は、いつだって床に貼り付いていて、ちょっとやそっとでは剥がれない。だから、返さなくていい。返すために来なくていい。来てもいいけど、来なくてもいい。そういう隙間を残しておきたい。
 それでも、彼の背中を目で追ってしまう。自動ドアが開くとき、外の雨の音が一気に入り込み、蛍光灯の海がざわっと揺れる。彼はビニールの膜の下で、最初の一歩を迷って、踏み出した。

 シフトを終えて、ゴミ出しに行く。黒い袋を持ち上げると、雨が袋の表面を滑っていく。手が濡れる。冷たい。コンビニの裏口の足元のコンクリートに、誰のものかわからない煙草の吸い殻が濡れて貼りついていた。
 袋を集積所に置いて戻る途中、ポケットの中で携帯が震えた。表示は「非通知」。鳴った回数を数える。三回、四回、五回。出ない。出ない、と決めたときの俺の心拍は、普通のときより少しだけ遅くなる。バイト先の更衣室のロッカーに、黒いダウンを放り込み、眼鏡を拭く。レンズの上で蛍光灯がにじむ。にじみはすぐに消える。
 店長が声をかけてくる。「律、助かったよ」
「いえ」
「雨だと客多いからな」
「はい」
 返事は短く。長い返事は、相手を安心させるが、自分を危うくする。俺は、安い靴の中の靴下が濡れ始めているのを知っている。濡れ始めは快適にさえ思える。冷たさが、体の輪郭を描き直してくれるからだ。けれど、帰りの電車の冷房に当たる頃には、その冷たさは、骨の奥にまで入り込む。そういう未来のことを、今から想像しておくと、今日の自分が持って帰るべき体の体温の量がわかる。
 透明のビニール傘を数本、店の前の傘立てに整える。骨の折れたやつは、ガムテープで固定し直して、×印をつける。×印をつけるのは、勝手だ。勝手だが、俺には必要だ。明日の自分が迷わないように。
 ガラスごしに、駅へ向かう人波を見る。俺は、彼の名前をまだ知らないふりをしている。レシートの印字に「三浦」とあった。名字しか出ない店もあるが、うちはフルネームだ。名前が出たとき、俺はその読みを一度、舌の上で転がした。「蒼生」。あおい。冬の夜に似合う字だと思った。
 名前を知ってしまうと、距離の演算が狂う。だから、俺は知らないふりをする。けれど、知らないふりをしている自分を、ガラスに映る自分が冷たい目で見ている。ずるいな、と。
 店内のBGMが、いつものループに戻る。雨脚は少し弱くなった。蛍光灯の白は変わらない。俺は時計を見て、次の寄り道の時間のことを考える。寄り道は、俺にとっては、仕事だ。ちゃんと戻れる前提で外れる。それが寄り道の条件だ。戻る場所がなければ、それは漂流という。漂流は、経験上、長引く。

 *

――三浦蒼生

 あの夜の、律の「返さなくていいよ」は、結局、俺の中に居座り続けた。返さなくていいものを持ち続けるのは、返せないものを抱えるより難しい。返せないものは、いずれ諦める方向へ傾く。返さなくていいものは、選び続ける方向へ傾く。選び続けるには、毎回、少しずつ勇気か、何かに似たものがいる。
 俺は傘を玄関の内側の壁にもたれさせて、そこが俺の家の中の透明の棒の居場所になった。学校に行くときは空を見て、持つかどうかを決める。傘の選択は天気予報の確からしさじゃなくて、俺の機嫌に左右される。持たないで濡れたい日もある。濡れたくないのに濡れてしまいそうで、それでも濡れないでいられる日が一番難しい。

 数日後、また雨が来た。前より冷たく、前より音が細かい。放課後、俺はまた駅前のコンビニに向かった。中に入らなくてもいい。ガラス越しに蛍光灯の海を見るだけでもいい。海を見ることは、泳ぐこととは違う。岸から見ている分には、波の高さは一定で、溺れる心配もない。
 けれど俺は、ドアを押して中に入った。チャイムが鳴り、床のタイルが昨日の足の位置を覚えているみたいに靴底を受ける。律はレジにいた。姿勢は昨日と同じで、客の目線の高さに視線を置いている。
 俺は、棚を周回するふりをして、何も選ばないで戻るのはやめて、栄養ドリンクを一本取った。苦い匂いがキャップの外側にしみついている。レジに置くと、律の指が軽く触れた。触れたというより、触れないように軽く滑った。ピッ。
「袋、どうします?」
「大丈夫です」
 言えた。声が出た。
 律は、短く頷いた。
「……傘、ありがとうございました」
 言ってしまってから、自分の声の位置がわかった。喉の奥じゃなくて、舌の手前。そこなら、言葉は滑っていく。
「どの傘?」
 律はわざとらしく首をかしげて、笑いもしなかった。
「忘れ物の」
「よかった」
 それだけ言って、彼は次の客へ向き直った。よかった、という言葉は、便利だ。でも、今日のよかったは、安い言い逃れじゃなくて、体温を見ている人間の口から出るよかっただった。俺はその後ろに、よかった以外の言葉の列があるのを見た気がした。

 外に出ると、雨は弱くなっていて、傘を開くか迷うくらいだった。透明の膜に最初の二粒が当たって、その輪が広がるのを見て、やっぱり開いた。膜の上で水が走る、その経路を目で追っていると、授業の板書よりは、意味の輪郭が掴める。
 電車のなかで、俺は傘の柄の傷を数え直す。一本、二本、三本。数は増えない。昨日と同じ本数だった。安心したのは、傘に対してなのか、自分に対してなのか、わからない。
 家に着いて、勝手口でまた雫の音を聞く。ぽた、ぽた、ぽた。今日の音は昨日よりも響きが短い。コンクリートの乾き具合が違うのかもしれない。俺は勝手口の段差に座って、足首を抱える。雨の日の匂いが、洗剤と混ざって、家の匂いに近づく。
 夜、布団に潜る前に、机に向かってノートを開いた。余白に小さく、傘の絵を描いてみる。透明の膜は、鉛筆では透明に描けない。だから、何も描かない空白を、膜のつもりにする。柄の傷は、鉛筆の先で小さく十字を入れる。俺は、手を止めて、マス目の隅に小さく「また」と書いた。消しゴムで半分だけ消す。残る半分が、ちょうどいい。

 *

――篠原律

 雨の後の日は、蛍光灯の明かりが少しだけ青い。夜の海から朝に戻るときの、藍色みたいな青。俺はその青の中で立ち位置を探し直す。立つ位置は少しずつ変える。変えないと、同じ位置に立ち続ける負担が積もる。
 店の棚、レジ、バックヤード、ゴミ捨て場、集積所、駅の明かり。動線を繰り返しながら、俺は昨日の×印の傘のことを思い出す。彼が持っていった。戻ってこない。その想像に、胸の内側が軽くなる。返ってこない物が、世界のどこかで役目を持ち続けるのは、悪くない。
 彼がまた来た。今日は栄養ドリンクだ。キャップの外側に匂いがしみているやつ。袋を断る声が、昨日よりはっきりしていた。彼の声は、舌の手前で生まれる声だ。喉の奥で生まれる声は、押し出す力が要るけれど、舌の手前は滑る。滑る声は、転んでも擦り傷で済む。
 「傘、ありがとうございました」と言われたとき、一瞬だけ、俺は彼の横顔の骨の位置を確認した。頬骨の角度、顎先の影。橋の上で見たときの、冷えた金属の匂いがふっと戻る。よかった、と言った。言い換える言葉はいくらでもあったのに。けれど、よかったが一番短い。短い言葉は、影が浅い。浅い影は、夜になる前に消える。

 俺は、彼の名前を口に出さない。レシートに印字された「三浦蒼生」を、舌の上で転がすだけにとどめる。名前を呼ぶと、距離が縮む。縮む距離は、熱を生む。熱は、俺の家の壁紙の上で、悪いふうに膨張する。
 誰だって、誰かの名前を呼びたい。呼ばれて立ち上がりたい。教室で、点呼で、出席番号の順番に、名を呼ばれて「はい」と言いたい。それが世界の最小の参加権だ。けれど、参加権はときに借金になる。出席の「はい」が、いつの間にか「はい、行きます」に変わる。行きたくない場所に、身体が返事で引っ張られる。
 だから、俺は今日もルールの内側に立つ。ルールは、俺にとっては、海であり、堤防であり、浮き輪でもある。ルールの隙間から顔を出して「寄り道」をする。寄り道の先に、橋の欄干があるなら、そこに紙袋を一度置く。置いて、「パン、落ちるよ」と言う。助けるためじゃない。俺が落とさないために。

 *

――三浦蒼生

 雨がやんだ翌日の午後、俺は学校の図書室にいた。理由は特にない。席の一つに、教科書とノートを広げて、「何もしない」をしていた。何もしないを図書室ですると、何かしているふうになるから不思議だ。
 窓の外の雲は薄く、校庭の砂はまだ湿っていて、ボールの跡がやわらかく残っている。近くの席で、誰かが参考書をめくる音。ページが空気を切る音は、傘の透明の膜に雨粒が当たる音に似ている。
 俺は、余白に書いた傘の絵の続きを描こうとして、やめる。代わりに、傘の柄の傷の位置を思い出す。上から三センチのところに一本、下から五センチのところに一本。指でなぞる感覚まで思い出せる。紙の上で指が空をつかむ。
 ノートの端に、小さく文字を書く。〈返さない傘〉。言葉にすると、それは俺の側の勝手さになった。勝手でいい。勝手にしていいことを見つけるのは、今の俺には難しいから、一本でも見つかれば上出来だ。

 帰り道、駅前をわざと遠回りして、コンビニの前を通る。中は、相変わらず蛍光灯の海。律はレジの中で、同じ高さの視線を保っている。俺はガラスに映る自分の顔を見て、うっかり目が合いそうになって、少し身を引いた。
 店の前の傘立てが風で鳴る。ビニール傘の骨が一斉に震えて、小さな音の雨がもう一度降る。俺は、その音を背に受けながら、駅の階段を降りた。世界のどこかでまた雨が降るたび、この音は鳴る。律もきっと、この音を聞きながら客の声の高さを測り、袋の枚数を見積もっている。
 家に帰って、夕飯の皿を流し台に運ぶ。水流の音は、コインランドリーの乾燥機の低い唸りに似ていると、ふと思った。俺はまだ、コインランドリーの中の空気を知らない。けれど、あの円い窓の向こうで、布が回る音は、本で読んだことがある。読むことは、たまに、ほんの少しだけ、行ったことのない場所に体温を通わせる。

 夜、眠る前に、机の引き出しから白い封筒を取り出す。以前、学校でもらったカウンセラー室の案内。〈気軽に相談を〉という甘い言葉が印刷されている。甘すぎて、歯が浮く。俺の奥歯は、甘いものに弱い。
 封筒を戻し、引き出しを閉める。蛍光灯の白が、天井で小さく唸る。俺は電気を消し、暗闇の中に目を慣らした。暗闇は優しい。優しいけれど、時々、音を吸いすぎて、俺の呼吸音まで小さくなる。
「また」
 小さく言う。誰にも届かない。届かなくていい。届かない言葉は、俺の中で育つ。育った言葉をいつか誰かに渡すとき、俺は今日の俺よりも少しだけ、自分で選べるやつになっているかもしれない。

 枕に顔を半分埋めて、目を閉じる。傘の柄の傷の感触を思い出しながら、眠りがやってくるのを待つ。その待ち方が、昨日よりもほんの少し具体的だったことに気づいて、俺は自分の小さな進み方を、誰にも言わずに肯定した。遠くで電車が走る音がして、世界の蛍光灯が、海の表面で静かに揺れた。