平凡という言葉が濁って見える年頃にいる。三浦蒼生はその濁りのなかを、手探りで歩いていた。中学の終わりから高校の半ばまで、成績は右肩下がり、部活もやめ、家では家族の会話が薄く、スマホの光だけが夜の支えになった。目覚ましは鳴るけれど、起きる理由がない。
 ある晩、冬に入りかけの川沿い、欄干の金属がよく冷えている場所で、蒼生は「いま」から降りようとしていた。笑い声も、叱責も、これからの予定も、頭のなかでは全部うまく再生できないのに、欄干の冷たさだけは輪郭がはっきりしている。指先が痺れ、鉄の匂いが皮膚に移る。寒いのか、怖いのか、自分の震えの理由がもうわからなかった。

 そこへ通りかかったのが、黒いエプロンにダウンの少年だった。制服ではない。コンビニのバイト帰りで、肩には廃棄のパンが入った紙袋。眼鏡のレンズが街灯を拾って白く光る。少年は走って来て、蒼生の腕を掴むのではなく、紙袋を欄干の上に置いた。
「パン、落ちるよ」
 拍子抜けした蒼生はむっとし、「関係ないだろ」と吐き捨てる。少年は肩をすくめ、「俺も遅刻できないから」とだけ言い、紙袋から温かい肉まんを取り出して差し出した。蒼生ははねのける。肉まんは欄干に当たり、鈍い音がした。湯気が夜の冷たさにほつれ、たちまち消えた。
 気まずさと怒りが胸の内を交互に叩き、少年の「大丈夫?」の軽さが、蒼生には自分の重さを笑われたように響く。蒼生は「二度と関わるな」と背を向ける。少年は一拍だけ置いて、「じゃあ、また」と場違いな挨拶を残して去った。
 その言葉が耳に残り、夜は薄い氷みたいに割れずに続いた。翌朝、欄干の手の冷たさだけが本物だった気がして、手のひらに残る金属臭を嗅ぐ。「生きる意味」を考えるより先に、意味を持たない一日が始まってしまう。

 朝の台所には、昨夜の味噌汁と、空になったふりかけの袋が転がっていた。電子レンジの中の皿にラップが貼りついて、端が硬くなっている。母はテレビの前で化粧をしながら弁当をつめ、弟はトーストをくわえたまま走り回る。父は早番でとっくにいなかった。
「お皿、流しに置いといて」
 母の声は、湯気と同じ速度で薄くなる。蒼生は頷いたふりをして、コップを空にし、蛇口をひねった。水道の音が、欄干に触れた指先の記憶を洗い流すみたいに均一で、何も考えないためにはちょうどよかった。

 学校の廊下は、いつもより床が硬い気がした。誰かが乱暴に締めた窓の隙間から風が入り、掲示物の角がわずかにめくれている。一時間目の数学は、先生の口の動きだけがよく見えて、言葉が聞こえてこない。黒板のチョークの粉は空中で消え、板書はレンズのピントが合っていない写真みたいに滲んだ。
 授業が終わっても、ノートのページは真っ白で、左上の罫線だけがやけにくっきりしている。そこに日付を書けば、今日が今日として成り立つのかもしれない。けれどペン先は浮いたまま、午前が過ぎた。

 昼休み、屋上へ続く踊り場の窓際に座り、買ったばかりの温かいココア缶を開ける。甘さで舌が少し痺れる。缶の表面に息を吹きかけると、曇りができ、指で線を描ける。小さく「また」と書いて、すぐこすり消した。
 あの少年が言った「また」は、どういう種類の約束なのだろう。世界は明日を前提に回っている。鉄の欄干よりも確かな明日が、目の前に置かれている気がする。でも、それを受け取る手が自分にはない。そんな感じ。

 放課後、靴箱で紐を結び直していると、二人の男子が通りかかって、いつもより少し小声で笑った。自分のことではないと頭で判断しても、笑い声は体のどこかに直接刺さる。蒼生は笑いの針が抜けないまま、駅へ向かった。
 改札を抜けると、冷たい空気が肺の奥に触れた。さっきの「また」が、喉の奥で紙片みたいにひらひらしている。うるさい。捨てたい。電車が来るまでの時間を埋めるみたいに、駅前のコンビニに入った。

 黄色い光。棚の商品の並びの正確さ。床のタイルの模様の規則性。ここでは何もかもが、決められた場所に収まっている。蒼生は陳列の前で立ち止まり、適当なパンを手に取った。そこに、聞き覚えのないのに知っている声がした。
「割引シール、貼り直していい?」
 バックヤードの方から店長らしい男の声が返る。「ああ、律、頼む」。
 律。律――。
 あの声がまた近づく。眼鏡が蛍光灯を拾う、夜の橋の少年が出てきた。黒いエプロン。名札には「篠原」とある。その下に小さく、「研修中」と。
 蒼生は棚に目を戻すふりをしながら、視界の端で彼を追った。彼――篠原律は、棚の端から端へ等間隔で歩き、同じリズムでシールを貼り、同じ角度で商品を直す。動作にムダがない。さっきまで蒼生の中で騒いでいた「また」は、いつの間にか静まっていた。

 レジに並ぶ。順番が来る。パンを差し出すと、律は昨日と同じトーンで「温めますか」と訊いた。
 蒼生は首を振る。声が出ないから、振る。
「袋、別にします?」
 また首を振る。
 ピッ、ピッというスキャナの音が一定で、安心する。レシートを受け取りながら、名札をもう一度見た。篠原。篠の原。読みは知っている。でも、名前の方は見えない。
 袋を持って出ると、外気がまた肺の奥に刺さる。交差点の信号が変わる。誰かが笑う。風がビニール傘の骨を鳴らす。蒼生はふと振り返った。店の中で、律が客に頭を下げる姿が小さな四角の中に収まっている。そこだけ、世界の明るさが違って見えた。

 家に帰ると、リビングのテーブルの上に、チラシと未開封の封筒が重なっていた。電気代。母はテレビの音量を少し上げ、弟は宿題をやっているふりをしてゲームの画面を隠す。
「帰ったなら、さっさと手洗い」
 声は命令というよりルーティンの一部だ。蒼生は言われたとおりに手を洗い、タオルで拭いた。手の甲に残っていた欄干の匂いは、もうほとんど消えている。石鹸の匂いと混ざって、別のものになっていた。
 自室に入ってドアを閉める。机の端には、いくつも付箋を貼った参考書が置いてある。貼ったのは自分だが、中身は白紙のまま時間が過ぎた。開かないページは、開かないまま積み重なって、重しになるだけだ。蒼生は椅子に座り、参考書の表紙を人差し指で撫でた。マットな手触り。そこに自分の指紋が薄く残る。

 スマホを開くと、クラスのグループラインにどうでもいい連絡が積もっている。誰かが「今度の小テスト、英表範囲どこだっけ」と訊き、別の誰かが「配られた紙にある」と返す。蒼生は画面をスクロールし、入力欄を開いて、何も打たずに閉じた。
 通知音が鳴る。見慣れない番号からのミスコールだった。留守電はない。胸の奥がざわつく。このざわつきは、欄干に指をかけたときのものとは違う。もっと湿っていて、小さくて、逃げ道のないざわつきだ。
 窓の外で、誰かの笑い声がする。さっき学校で聞いた笑いと似ている。笑いは針だ。針は、一度刺さると、抜いても形を残す。蒼生はベッドに倒れこみ、天井の白い塗装の小さな凹凸を数えた。目を閉じると、欄干の上でほつれる湯気と、「パン、落ちるよ」の声が浮かぶ。あれは救いの言葉ではない。なのに、なにかを救うふりをしない、その言い方に、救われた部分がある。

 翌朝は、昨日より少し冷えた。駅までの道、歩幅を意識しないと足が勝手に小さくなる。学校の正門には、推薦をもらった先輩たちの名前が掲示され、紙の白さとマジックの黒さが目に刺さる。
 一時間目の古文で、先生が板書の冒頭に楷書で「こころ」と書いた。黒板の上の丸い時計がほんの少し遅れていて、誰も直さない。蒼生はノートを開き、左上に日付を書いた。数字が並ぶ。たったそれだけで、ページはいくらか重さを持つ。
 休み時間、隣の席の伊藤が、コンビニの新作のホットスナックの話をしている。「あれ、辛いのに、うまい」。蒼生は曖昧に笑って頷く。話が脇を通り過ぎていく感覚は、悪くない。自分の中の静けさが守られている感じがする。

 放課後、またコンビニに寄った。昨日と同じ、蛍光灯の海。律はレジにいた。
「いらっしゃいませ」
 声が、昨日より少し低く聞こえた。気のせいかもしれない。蒼生は、棚から牛乳を一本取り、レジに置いた。
「温めますか?」
 牛乳を温めるかどうか、いちいち訊く必要があるのか。蒼生は首を横に振った。
「ストローは要ります?」
 首を横に振る。言葉が出ないのは、恥ではなく、たぶん習慣だ。
 会計を終え、袋を受け取ろうとしたとき、バックヤードの方から男の声が飛んだ。
「律、補充終わったらレジもう一本開けてくれる?」
「はい」
 律。やはり、律。耳の奥で、その二文字がぴたりと居場所を見つけたみたいに収まる。蒼生は、礼を言いそびれたことに気づいて、ドアを押しながら小さく会釈をした。律は見ていたのかどうか、わからない。

 川沿いの道を歩く。昨日の欄干は同じ場所にあり、同じ冷たさを持っているだろう。確かめたかったけれど、確かめないことにした。確かめてしまうと、昨日の続きに入り込む気がして怖かったからだ。
 家に戻ると、母が玄関にしゃがみ込んで靴の泥をこすっていた。ふと顔を上げ、「あ、牛乳買ってきてくれたの、助かる」と笑った。笑い方に、昔の写真の中の母が重なる瞬間がある。薄く、短い。蒼生は頷き、冷蔵庫に牛乳を入れる。冷蔵庫のモーター音が、胸のざわつきを撫でるように一定だった。

 夜、布団に入っても眠れない。スマホの光を顔に近づけたり遠ざけたりして、画面に映る自分の影の濃さを変える。通知は来ない。静かだ。静かすぎる。
 気づいたら、靴を履いて外に出ていた。時計は十一時を過ぎている。家の前の道は人がいない。街灯が等間隔に並び、影が等間隔に落ちる。川沿いに出ると、白い息が見えた。昨日の場所へ近づくほど、足音がわずかに大きくなる。
 欄干の前で立ち止まる。手を伸ばさない。昨日と違う選び方を、体に覚えさせたい。ポケットから、コンビニのレシートを取り出す。そこには、小さく「担当:篠原」と印字されていた。
 篠原。律。
 レシートは軽く、風にあおられて、欄干の外へ落ちていった。白い紙は、暗闇の中で早く小さくなって、すぐに川の黒に混ざった。
 蒼生は、その小さくなる速度に、安堵とも寂しさともつかない気持ちになった。軽いものは、簡単に遠くへ行ける。重いものは、ここに残る。どちらが正しいのかは、わからない。
 そのとき、背後で足音がした。振り向くと、黒いダウンにエプロンの少年が立っていた。
「また」
 律が言った。声の高さは昨日と同じで、温度だけが少し違った。
「また、ですか」
 自分の声が出ることに驚いた。声は思ったより低くて、空気に馴染まず、少し浮いた。
「うん。通り道だから」
 律は欄干のところまで来て、紙袋を置いた。中身は廃棄のパンだろう。袋の口は固結びにされ、端が小さくちぎれている。
「パン、落ちない?」
 昨日の続きみたいな冗談を言うと、律は小さく笑った。「落ちないように結んだ」。
 沈黙が来た。沈黙は、避けようと思えば話題で埋められる種類のものではなく、ともに立っていられるかどうかをはかる種類のものだった。
「……昨日は、すみませんでした」
 蒼生はやっと言った。謝る内容が何なのか、自分でもよくわかっていない。肉まんをはねのけたことか、関わるなと言ったことか、欄干に立っていたことか。どれも、どれでもない。
「大丈夫」
 律は、最も短くて、最も便利な言葉を選んだ。けれど、その言い方は軽くはなかった。
「さっき、店にいましたよね」
「いた」
「……あの、名前」
「篠原。篠原、律」
 律。自分でその二文字を口にするのを想像し、喉がこそばゆくなる。
「三浦、です。三浦蒼生」
「知ってる」
「え」
「レシートに名前が出るから。こっちは、ね」
 律は紙袋の口をもう一度確かめ、手袋をこすり合わせた。彼の息も白かった。
「ここ、寒いね」
「はい」
「でも、音が少ない」
「……音」
「コンビニはずっと、何かが鳴ってる。冷蔵のモーター、レジのビッ、電子レンジのピー、スリッパのぺたぺた、袋のシャカシャカ。ここは、水の音だけ」
 川の水は、見えないのに、確かにいた。暗さの中に、音で輪郭を作っていた。
「店、戻らなくていいんですか」
「戻る。五分だけ寄り道したかった」
「寄り道」
「うん。寄り道の場所って、あったほうがいい」
 律の声は、教科書に引く波線みたいにまっすぐで、少しだけ弾力がある。
「蒼生くんは、ここに来る?」
「……わかりません」
「わからないって、いいね」
 律はそう言って、紙袋の結び目をほどいた。袋の口から、やわらかな匂いがした。パンは、冷えきった夜にも、体の内側のことを思い出させる匂いを持っている。
「一個、食べる?」
 差し出されたのは、小さなバターロール。蒼生は、昨日とは違う選び方をした。受け取る。
「ありがとうございます」
 言ってから、驚いた。ありがとう、が出た。
 パンは少し固くなっていて、でも口の中でほどけた。嚙む音が自分でも聞こえるほど静かだった。
「じゃあ、戻る」
 律はそう言って、紙袋を肩にかけた。
「また」
 この「また」は、約束ではなく、挨拶だった。だからこそ、蒼生はその軽さを受け取れた。
「また」
 自分の口から同じ言葉が出た。橋の向こうで、赤いテールランプが二つだけ流れた。

 その夜は不思議と眠れた。毛布の重さが、体の重さを均してくれる。夢を見た。夢の中で、黒板に大きく「また」と書いている。先生が「それは何の文法?」と訊く。蒼生は答えられず、チョークを握りしめて目を覚ました。指先に粉の感触がある気がして、暗闇の中で手を開いたり閉じたりした。

 翌日、午前の授業の合間に、鞄のポケットから昨日のパンの包み紙が出てきた。小さく丸められて、角が少しだけ立っている。捨てようとしたけれど、戻した。捨ててしまったら、昨日の選び方ごと捨ててしまうみたいで嫌だった。
 放課後、またコンビニへ行く。癖になっていく気配が怖いのに、足は知っている道を選ぶ。
 レジには見知らぬ女性が立っていた。「いらっしゃいませ」。律の姿は見えない。補充か、休憩か。店内を二周して、何も買わずに出るのはみっともない。蒼生は適当にガムを掴み、会計を済ませた。
 ドアを押して出ようとしたとき、バックヤードのカーテンが揺れて、律が顔を出した。手には段ボール。目が合う。
「また」
 律は笑わなかった。ただ、言った。
「また」
 蒼生は同じ高さで返し、外に出た。

 家の前の電柱に、町内会の回覧板がぶら下がっていた。母が帰ってきて、ため息混じりに言う。「また回ってきた」。小さな字でびっしりと書かれたお知らせは、読む前から疲れを帯びている。蒼生はそれを受け取り、玄関の棚に置いた。
 夜、机に向かう。参考書を開き、最初のページに戻る。何度も戻った場所。そこに、今日の日付を書いた。昨日と同じ手つきで。ページの角に、小さく「×」をつけた。「ここから」。
 頭の中で、川の音がした。欄干の冷たさ。パンの匂い。レシートの軽さ。そういうものが、きちんと並ばないまま、でも互いを忘れない距離で並んでいる。
 ペン先が、いつもより少しだけ、紙に沈む。文字が、いつもより少しだけ、線でなく形になる。

 眠る前、ベランダに出た。空気の粒が細かく、頬に当たる。遠くの線路を電車が通り、振動が遅れて届く。隣の家の洗濯機が終わったらしい音がする。世界の音のすべてが、昨日より少しだけ優しい。
 スマホの電源を落とした。通知が来ないのは、寂しさではなく、静けさの一種だと気づく。目を閉じる。
 欄干の前で、律が「寄り道の場所って、あったほうがいい」と言ったときの声の高さが、耳の奥に残っている。寄り道。寄り道なら、戻る場所もある。戻る場所があるなら、少し遠回りしてもいい。
 蒼生は、枕に顔を半分埋めて、息をゆっくり吐いた。白くは見えない。けれど、吐くたびに胸の底が少し温かくなる。

 週末、昼過ぎに目を覚ますと、机の上に母のメモがあった。
〈牛乳と卵、買ってきて。お金はテーブルの封筒から。ありがと〉
 「ありがと」の丸い字を指でなぞってから、財布を持って出た。買い物リストというのは、世界から渡される最も単純なミッションだ。やることがあるのは楽だ。
 コンビニではなく、少し離れたスーパーに行こうとして、足が勝手に駅前へ向かった。結局、コンビニに入る。律がいたらどうしよう、いなかったらどうしよう、と同じ重さで考えながら。
 レジ前に並ぶ。おばあさんが財布の小銭を全部出して数えている。律は焦らせず、ゆっくり待って、硬貨を受け取る。
「ゆっくりで大丈夫です」
 その言い方に、昨日の欄干の冷たさが溶ける音が重なった。おばあさんが笑い、「律くん、ありがとうね」と言う。名札がなくても、町の人は名前を知っているのだと思った。
 順番が来る。牛乳と卵を置く。
「袋、どうします?」
「二つにしてください」
「了解です」
 透明の袋に牛乳が一本、もう一つに卵。バランスを考えた手つきで分けられる。
「……あの」
 蒼生は声を出した。
「うん」
「このあいだは、ありがとうございました」
 律は首をかしげた。
「どのあいだ?」
「……欄干で。パン」
「うん」
 律は、ひとつ頷いて、目を細めた。笑う直前の、まだ形になっていない笑い方。
「こちらこそ。寄り道、ありがとう」
 寄り道。自分がしているのは寄り道なのか。そうだと思えば、罪ではなくなる気がした。
 店を出る。袋の中で卵がぶつからないように、歩幅を一定に保つ。冬の日差しが薄く、アスファルトの上の自分の影がやけにはっきりしている。影を踏まないように歩く遊びを、久しぶりにした。

 帰宅して卵を冷蔵庫に入れ、牛乳をテーブルに置くと、母が「助かった」と言った。
「ねえ、今夜、カレーにしようと思うけど、いい?」
「いい」
 「いい」と言ってから、自分の声が少し明るかったことに気づいた。母がそれに気づいたかどうかは、わからない。
 夜、カレーの匂いが家の隅々に入り込む。食卓に皿が並び、スプーンが触れる音が鳴る。弟が「辛い」と言い、母が笑う。蒼生は黙って、二杯目をよそった。皿の縁にルーが垂れ、指で拭って舐める。生活の味が舌に残る。

 ベッドに入る直前、窓を開けると、白い息が漏れた。外は静かで、遠くの川の音が細い。欄干の冷たさは、もう思い出になりつつあった。でも、思い出の中で冷たさが消えるわけではない。触れれば、また冷たい。
 スマホを机に置き、電源を切る。目を閉じる。
 「また」という言葉が、今日も喉の奥で紙片みたいにひらひらした。けれど、昨日ほどうるさくない。紙片は、ひらひらしたまま、膝の上に落ち着く。そこに置いておける。
 世界は、明日を前提に回っている。欄干の上に紙袋を置くように、明日は簡単に置かれる。だけど、置かれたものに手を伸ばすかどうかは、自分で選べる。
 蒼生は、布団の中でゆっくり息を吸い、吐いた。音が少ない。音が少ないのは、こわくない。耳のなかで、川の音が小さく続いている。あれは、流れる音だ。止まらない音だ。
 目を閉じたまま、蒼生は小さく口の中で言った。
「また」
 言葉は誰にも届かない。でも、届かなくていい言葉もある。次に会うまでのあいだを、静かに埋めるための言葉だ。
 そう思うと、眠りがすぐ近くまで来ていることに気づいた。指先に、鉄の冷たさではなく、パンの温度が残っている錯覚が、やさしく残った。