1
飛行機雲がひとすじ、まだ朝の色を引きずった空に残っていた。
ニュースは一日中、海外フェスの成功を繰り返していた。観客十万人。無数のライト。世界の中心で歌う少年——YU。
その映像のどこにも、三島律はいない。けれど、画面のこちら側にいる律の胸には、確かな合図が反復していた。
——青になる前の三秒。
——二拍目で。
祭りが終わる頃、街はなぜか静かになる。歓声の残響は、遠い波のように遅れてやって来て、そして急に消える。
律は机の上に並べた紙片を、指で順に撫でた。点字の突起は、幾度読み返しても掠れない。《君の時間を、君に返す》《半音遅れて行く》《青を守る》。
窓の外では、夏の名残りの風が、見えない葉の裏を鳴らしている。
スマホが震えた。メッセージは短い。
《今夜、世界に向けたラスト配信をする。君の三分を、借りる。》
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
借りる——その言い方が、律には嬉しかった。奪うでも、与えるでもなく、たしかに「借りる」。返す相手がいると判っている人の言葉だ。
「借すよ」
律は小さく呟き、ピアノの蓋に両手を置いた。
音は出さない。
ただ、木の温度に世界を合わせる。
2
海外のスタジアムは、夜を飲み込んでいた。
ライトは星より多く、歓声は海より深かった。
YUはセンターステージの端に立ち、客席の波を見渡す。
耳にはイヤモニ。喉には適切な湿度。足元には、世界のために整えられた床。
——でも、今夜だけは、世界のための前に、ひとりのために。
スタッフから「最後の曲、行けるか」と親指が立つ。
YUは頷かず、小さく息を吐いた。
吸って、止めて、落として。
律の順番どおりに、胸の中で呼吸を並べる。
「ラスト。……これは、約束の曲です」
画面の向こうの何億に向けられた言葉を、彼は心の中でたった一人に向けて言い換えた。——律へ。
イントロ。
予定では、完璧に仕上げた新曲をフルで、光と映像とともに披露する段取りだった。
YUは最初の四小節を歌い、その五小節目で——わざと外した。
半音、遅れて。
世界に向けては“事故”に見える外し。
律にだけは“到着の合図”。
歓声が、わずかにざわつく。
しかし曲は崩れない。
むしろ、全体がその一ミリのために正しい位置を探し直す。
YUはそこで、イヤモニを半分外した。
舞台の音ではなく、夜の音を聴くために。
聴こえたのは、十万人分の呼吸。
そして、そのさらにずっと遠く——東京で、蓋の上に置かれた掌の温度。
(いる)
(——いるよ)
言葉では届かないやり取りが、一瞬だけ空を明るくした。
YUはマイクを下ろし、オーケストレーションの上に自分だけの息を置く。
三秒。
青になる前の三秒。
ライトが意図せずに遅れて落ちた。まるで世界じゅうが、合図を待つように。
二拍目で、YUは踏み出した。
大画面の彼は歩く。だが、律の胸の中では——一緒に歩いた。
3
東京。
律は配信の音をスピーカーに広げず、スマホの小さなスピーカーから直接、耳の前の“窓”に当てるようにして聴いていた。
雑音も、遅延も、圧縮で抜け落ちる倍音も、今日は心地よい。
削れてしまうものがあるからこそ、最後に残る芯がわかる。
半音の“ずらし”が来た瞬間、律は笑って泣いた。
来た。
到着した。
世界の中心から、半音遅れて。
胸の奥で三秒を作り、指で机を二度叩く。タタン。
家族は隣の部屋にいる。
誰にも聞こえない。
聞こえなくていい。
これはふたりの練習で、ふたりの式典だ。
YUの歌が、予定調和から外れていく。
完璧に積み上げたはずの装飾音を削ぎ落とし、ハミングへ、呼吸へ、そして——声そのものへ。
律には見えた。
見えないはずの光景が、確かに見えた。
声が空気に変わる直前の熱が、ユウの喉元から掌へ、その掌から世界へ溶けていく様が。
配信のコメント欄は騒いでいる。
「外した?」「泣きそう」「息、長い」「何が起きた」
どれも正しい。
けれど、正確ではない。
真実はたったひとつ、“合図が届いた”ということだった。
4
アンコール。
YUはスタッフの制止を視線で謝り、ピンマイクを外した。
スタジアムの中心で、まるで駅前のピアノの前にいるときのように、素の声で言う。
「誰にでも届く声の練習を、ずっとしてきました。
でも、今日は——たった一人にだけ届く合図を置いて、終わりにします」
客席が静かになった。
十万人分の沈黙。
世界最大の“青になる前の三秒”。
YUは目を閉じ、口を開いた。
言葉にならない母音。
母音だけで描かれる、遠い街の交差点。
駅前の鍵盤に落ちる最初の音。
防音室の丸いスツール。
図書室の新しい椅子。
避難扉の薄い金属が鳴らしたタタン。
——全部がそこにあった。
そして、最後にたった一語。
「律」
小さかった。
けれど、マイクのないその声は、なぜか画面のこちら側で大きくなった。
律はスマホを握りしめ、息を止めて、そして落とした。
二拍目で。
5
フェスは大成功で終わり、熱狂と祝福と誤解と称賛が入り混じった情報が夜空を飛び交った。
けれど律には、静けさだけが残った。
静けさは空洞ではない。
静けさは、音を抱く器だ。
窓の外で風が変わった。
季節が半歩、移動した。
律は白杖を持ち、玄関の靴を探る。
出かける理由は要らない。
出かける合図だけがあればいい。
——青になる前。
角を曲がるたび、街の粒子が変わる。
パン屋は小麦の湯気で朝を作り、クリーニング屋は糊の匂いで昼を伸ばす。
それらの間を、律は世界の中心として歩く。
ユウが、半音遅れてそこへ来ると信じながら。
交差点。
雨上がり以来、何度も何度も三秒を数えた場所。
信号音は赤。
律は胸の奥で三秒を用意する。
吸って、止めて——
「律」
胸の時間が、落ちた。
あの日と同じ——いや、あの日よりも柔らかい呼吸の長さで。
声の高さは、そのままだった。
息の置き方は、彼らの練習どおりだった。
ミントではない、飛行機の乾いた空気が混ざった匂い。
靴底の角度は、海外のステージでは身につかない、日本の歩道の癖をちゃんと覚えていた。
律は笑って、泣いた。
「——いつ帰ってきたの」
「いま」
「いま?」
「いま帰った。まっすぐ来た」
信号音が青に変わる。
世界が、三秒を終える。
律は二拍目で足を出した。
隣で、ユウも。
肩が触れるか触れないかの距離。
傘はない。
光だけがある。
横断歩道を渡り切るまで、何も話さない。
話さないことが、いちばん多くを話していた。
6
駅前のピアノは、今日は鍵がかかっていた。
けれど、鍵盤の蓋の表面は、いつもと同じ木の温度をしている。
律は手を置き、ユウはその手のすぐ横の空中に、声の“窓”を置いた。
「世界のどこにいても、半音遅れて行く練習をした」
ユウが笑う。
「ねえ、ちょっと聞かせて」
「なにを?」
「合図だけで、三分」
ユウは頷き、息を吸い、止め、落とした。
律は、蓋の上を左から右へ撫で、境目で拍を刻む。
声と拍だけ。
言葉は添えない。
三分。
世界でいちばん簡素な音楽。
世界でいちばん複雑な約束。
終わったとき、何も起きなかった。
拍手もない。
歓声もない。
ただ、空が少しだけ深くなった。
それで十分だった。
「……返す」
ユウがポケットから、折り畳んだ紙片を取り出した。
見覚えのある厚さ。
律が指で触れると、点字の列が胸へ流れ込む。
《君の時間を、君に返す。
そして、君の青は、僕の青でもある。》
涙が、また落ちた。
ユウは笑って、泣いた。
「ごめんを、ありがとうに変えたくて戻ってきた」
「戻ってきたら、もう“ごめん”は言えないよ」
「うん。“ただいま”しか言えない」
「“おかえり”しか返せない」
それで十分だった。
7
図書室の椅子は、あの日と同じ場所に置かれていた。
司書は多くを尋ねず、ただ静かに頷いた。
二人で座る。
何も読まず、何も聴かず、何も撮らない。
指先で、机の木目を一つ覚え、もう一つ忘れる。
忘れることと覚えることの間に、三分を置く。
「ねえ、律」
「なに」
「これからも、世界には出て行く。でも、半音遅れて着く練習は、ずっと続ける」
「僕は歩く。君のいない日も三秒を作って、二拍目で出る」
「負けない?」
「負けない」
「写真にも?」
「うん、写真にも」
「光にも?」
「光にも」
沈黙。
それは、敗北ではない。
沈黙は、ふたりが一緒に持てる最大の贅沢だった。
8(終)
交差点の音が、夕方の色に変わる。
赤信号。
三秒。
世界中の誰かが、それぞれの街で青を待っている。
どこの青も、青であることに変わりはない。
だが、律の青は、律の青で。
ユウの青は、ユウの青だ。
「青になったよ」
ユウが言う。
律は頷く。
「二拍目で」
踏み出す。
白い線を渡る音が、ふたり分だけ重なる。
写真はその音を写せない。
記事はその温度を載せられない。
世界がどんな光で満ちても、この合図は、小さく確かにここにある。
歩きながら、律はふと思う。
泣くことは、敗北ではなかった。
泣くことは、合図だった。
——ここにいる。
——ここにいて、よかった。
渡り切った先で、ユウが笑った。
笑い声は、もう舞台のそれではない。
傘の下で、図書室で、防音室で、避難扉の前で、何度も練習した“ふたりの笑い方”だった。
律は白杖を軽く二度叩く。タタン。
ユウが靴で返す。コツ、コツ。
その往復は、誰にも邪魔できない。
ふたりの世界は、見えないから壊れない。
声は光にさらされても、青になる前の三秒が、必ず守ってくれる。
そして物語は静かに閉じる。
閉じるたびに、どこかでまた始まるように——。
青になったよ。
二拍目で。
―― 完。
飛行機雲がひとすじ、まだ朝の色を引きずった空に残っていた。
ニュースは一日中、海外フェスの成功を繰り返していた。観客十万人。無数のライト。世界の中心で歌う少年——YU。
その映像のどこにも、三島律はいない。けれど、画面のこちら側にいる律の胸には、確かな合図が反復していた。
——青になる前の三秒。
——二拍目で。
祭りが終わる頃、街はなぜか静かになる。歓声の残響は、遠い波のように遅れてやって来て、そして急に消える。
律は机の上に並べた紙片を、指で順に撫でた。点字の突起は、幾度読み返しても掠れない。《君の時間を、君に返す》《半音遅れて行く》《青を守る》。
窓の外では、夏の名残りの風が、見えない葉の裏を鳴らしている。
スマホが震えた。メッセージは短い。
《今夜、世界に向けたラスト配信をする。君の三分を、借りる。》
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
借りる——その言い方が、律には嬉しかった。奪うでも、与えるでもなく、たしかに「借りる」。返す相手がいると判っている人の言葉だ。
「借すよ」
律は小さく呟き、ピアノの蓋に両手を置いた。
音は出さない。
ただ、木の温度に世界を合わせる。
2
海外のスタジアムは、夜を飲み込んでいた。
ライトは星より多く、歓声は海より深かった。
YUはセンターステージの端に立ち、客席の波を見渡す。
耳にはイヤモニ。喉には適切な湿度。足元には、世界のために整えられた床。
——でも、今夜だけは、世界のための前に、ひとりのために。
スタッフから「最後の曲、行けるか」と親指が立つ。
YUは頷かず、小さく息を吐いた。
吸って、止めて、落として。
律の順番どおりに、胸の中で呼吸を並べる。
「ラスト。……これは、約束の曲です」
画面の向こうの何億に向けられた言葉を、彼は心の中でたった一人に向けて言い換えた。——律へ。
イントロ。
予定では、完璧に仕上げた新曲をフルで、光と映像とともに披露する段取りだった。
YUは最初の四小節を歌い、その五小節目で——わざと外した。
半音、遅れて。
世界に向けては“事故”に見える外し。
律にだけは“到着の合図”。
歓声が、わずかにざわつく。
しかし曲は崩れない。
むしろ、全体がその一ミリのために正しい位置を探し直す。
YUはそこで、イヤモニを半分外した。
舞台の音ではなく、夜の音を聴くために。
聴こえたのは、十万人分の呼吸。
そして、そのさらにずっと遠く——東京で、蓋の上に置かれた掌の温度。
(いる)
(——いるよ)
言葉では届かないやり取りが、一瞬だけ空を明るくした。
YUはマイクを下ろし、オーケストレーションの上に自分だけの息を置く。
三秒。
青になる前の三秒。
ライトが意図せずに遅れて落ちた。まるで世界じゅうが、合図を待つように。
二拍目で、YUは踏み出した。
大画面の彼は歩く。だが、律の胸の中では——一緒に歩いた。
3
東京。
律は配信の音をスピーカーに広げず、スマホの小さなスピーカーから直接、耳の前の“窓”に当てるようにして聴いていた。
雑音も、遅延も、圧縮で抜け落ちる倍音も、今日は心地よい。
削れてしまうものがあるからこそ、最後に残る芯がわかる。
半音の“ずらし”が来た瞬間、律は笑って泣いた。
来た。
到着した。
世界の中心から、半音遅れて。
胸の奥で三秒を作り、指で机を二度叩く。タタン。
家族は隣の部屋にいる。
誰にも聞こえない。
聞こえなくていい。
これはふたりの練習で、ふたりの式典だ。
YUの歌が、予定調和から外れていく。
完璧に積み上げたはずの装飾音を削ぎ落とし、ハミングへ、呼吸へ、そして——声そのものへ。
律には見えた。
見えないはずの光景が、確かに見えた。
声が空気に変わる直前の熱が、ユウの喉元から掌へ、その掌から世界へ溶けていく様が。
配信のコメント欄は騒いでいる。
「外した?」「泣きそう」「息、長い」「何が起きた」
どれも正しい。
けれど、正確ではない。
真実はたったひとつ、“合図が届いた”ということだった。
4
アンコール。
YUはスタッフの制止を視線で謝り、ピンマイクを外した。
スタジアムの中心で、まるで駅前のピアノの前にいるときのように、素の声で言う。
「誰にでも届く声の練習を、ずっとしてきました。
でも、今日は——たった一人にだけ届く合図を置いて、終わりにします」
客席が静かになった。
十万人分の沈黙。
世界最大の“青になる前の三秒”。
YUは目を閉じ、口を開いた。
言葉にならない母音。
母音だけで描かれる、遠い街の交差点。
駅前の鍵盤に落ちる最初の音。
防音室の丸いスツール。
図書室の新しい椅子。
避難扉の薄い金属が鳴らしたタタン。
——全部がそこにあった。
そして、最後にたった一語。
「律」
小さかった。
けれど、マイクのないその声は、なぜか画面のこちら側で大きくなった。
律はスマホを握りしめ、息を止めて、そして落とした。
二拍目で。
5
フェスは大成功で終わり、熱狂と祝福と誤解と称賛が入り混じった情報が夜空を飛び交った。
けれど律には、静けさだけが残った。
静けさは空洞ではない。
静けさは、音を抱く器だ。
窓の外で風が変わった。
季節が半歩、移動した。
律は白杖を持ち、玄関の靴を探る。
出かける理由は要らない。
出かける合図だけがあればいい。
——青になる前。
角を曲がるたび、街の粒子が変わる。
パン屋は小麦の湯気で朝を作り、クリーニング屋は糊の匂いで昼を伸ばす。
それらの間を、律は世界の中心として歩く。
ユウが、半音遅れてそこへ来ると信じながら。
交差点。
雨上がり以来、何度も何度も三秒を数えた場所。
信号音は赤。
律は胸の奥で三秒を用意する。
吸って、止めて——
「律」
胸の時間が、落ちた。
あの日と同じ——いや、あの日よりも柔らかい呼吸の長さで。
声の高さは、そのままだった。
息の置き方は、彼らの練習どおりだった。
ミントではない、飛行機の乾いた空気が混ざった匂い。
靴底の角度は、海外のステージでは身につかない、日本の歩道の癖をちゃんと覚えていた。
律は笑って、泣いた。
「——いつ帰ってきたの」
「いま」
「いま?」
「いま帰った。まっすぐ来た」
信号音が青に変わる。
世界が、三秒を終える。
律は二拍目で足を出した。
隣で、ユウも。
肩が触れるか触れないかの距離。
傘はない。
光だけがある。
横断歩道を渡り切るまで、何も話さない。
話さないことが、いちばん多くを話していた。
6
駅前のピアノは、今日は鍵がかかっていた。
けれど、鍵盤の蓋の表面は、いつもと同じ木の温度をしている。
律は手を置き、ユウはその手のすぐ横の空中に、声の“窓”を置いた。
「世界のどこにいても、半音遅れて行く練習をした」
ユウが笑う。
「ねえ、ちょっと聞かせて」
「なにを?」
「合図だけで、三分」
ユウは頷き、息を吸い、止め、落とした。
律は、蓋の上を左から右へ撫で、境目で拍を刻む。
声と拍だけ。
言葉は添えない。
三分。
世界でいちばん簡素な音楽。
世界でいちばん複雑な約束。
終わったとき、何も起きなかった。
拍手もない。
歓声もない。
ただ、空が少しだけ深くなった。
それで十分だった。
「……返す」
ユウがポケットから、折り畳んだ紙片を取り出した。
見覚えのある厚さ。
律が指で触れると、点字の列が胸へ流れ込む。
《君の時間を、君に返す。
そして、君の青は、僕の青でもある。》
涙が、また落ちた。
ユウは笑って、泣いた。
「ごめんを、ありがとうに変えたくて戻ってきた」
「戻ってきたら、もう“ごめん”は言えないよ」
「うん。“ただいま”しか言えない」
「“おかえり”しか返せない」
それで十分だった。
7
図書室の椅子は、あの日と同じ場所に置かれていた。
司書は多くを尋ねず、ただ静かに頷いた。
二人で座る。
何も読まず、何も聴かず、何も撮らない。
指先で、机の木目を一つ覚え、もう一つ忘れる。
忘れることと覚えることの間に、三分を置く。
「ねえ、律」
「なに」
「これからも、世界には出て行く。でも、半音遅れて着く練習は、ずっと続ける」
「僕は歩く。君のいない日も三秒を作って、二拍目で出る」
「負けない?」
「負けない」
「写真にも?」
「うん、写真にも」
「光にも?」
「光にも」
沈黙。
それは、敗北ではない。
沈黙は、ふたりが一緒に持てる最大の贅沢だった。
8(終)
交差点の音が、夕方の色に変わる。
赤信号。
三秒。
世界中の誰かが、それぞれの街で青を待っている。
どこの青も、青であることに変わりはない。
だが、律の青は、律の青で。
ユウの青は、ユウの青だ。
「青になったよ」
ユウが言う。
律は頷く。
「二拍目で」
踏み出す。
白い線を渡る音が、ふたり分だけ重なる。
写真はその音を写せない。
記事はその温度を載せられない。
世界がどんな光で満ちても、この合図は、小さく確かにここにある。
歩きながら、律はふと思う。
泣くことは、敗北ではなかった。
泣くことは、合図だった。
——ここにいる。
——ここにいて、よかった。
渡り切った先で、ユウが笑った。
笑い声は、もう舞台のそれではない。
傘の下で、図書室で、防音室で、避難扉の前で、何度も練習した“ふたりの笑い方”だった。
律は白杖を軽く二度叩く。タタン。
ユウが靴で返す。コツ、コツ。
その往復は、誰にも邪魔できない。
ふたりの世界は、見えないから壊れない。
声は光にさらされても、青になる前の三秒が、必ず守ってくれる。
そして物語は静かに閉じる。
閉じるたびに、どこかでまた始まるように——。
青になったよ。
二拍目で。
―― 完。



