八月の終わり。
律は教室の窓際に座り、蝉の声が薄れていくのを聞いていた。
夏の音は、急に終わる。昨日まで響いていた声が、今日はもう聞こえない。
世界の音が一つ減るたびに、胸の奥で空洞が広がる。
スマホが震えた。
ユウからのメッセージ。
《律、今日だけ、会える》
指が震えた。心臓の鼓動が、点字の突起のように胸の内側を叩く。
行かなければ。最後かもしれない、と直感が告げていた。
◇
駅前の広場。
夕立の後の匂いがまだ残っている。濡れた石畳を白杖で探りながら、律は足を進めた。
ピアノの蓋は閉まっていた。
その横に、人影。
ユウだった。帽子を深くかぶり、声を潜める。
「律」
「……来たよ」
声は掠れていた。舞台の上のあの強さはなく、今にも壊れそうな細い糸のようだった。
二人は並んでベンチに座った。沈黙が流れる。
律は耳で探した。ユウの呼吸が乱れている。いつもより吸う音が深く、吐く音が短い。
「大丈夫?」
問いかけに、ユウは小さく首を振った。
「……だめなんだ」
「何が?」
「会うの、これが最後かもしれない」
胸の奥が冷えた。
蝉の声が、完全に途絶えた気がした。
◇
ユウは両手で顔を覆った。
「海外フェスだけじゃない。もっと先の仕事も決まってる。……事務所から、“これ以上は危険だ”って」
「危険って……」
「君を守れない。僕が隣にいるせいで、君が傷つく」
律は強く首を振った。
「傷ついてない。僕は大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない。ネットに、学校に、もう噂は届いてる。——僕のせいだ」
声が震える。
律は手を伸ばし、ユウの指先に触れた。
温かい。けれど、その温かさが遠ざかろうとしているのを感じた。
「ユウ。……合図は、どうするの?」
「続けたい。続けたいけど、現実が許さない」
律の喉に言葉がつかえた。
何を言っても、彼を縛ることになる。
だから、代わりに手のひらを二度叩いた。タタン。
ユウが同じリズムで返す。コツ、コツ。
それだけで涙が溢れた。
◇
「律」
ユウの声がかすれる。
「僕は……君の青を守れないかもしれない」
「守れなくてもいい」
「でも」
「君がいるって、それだけで僕は歩ける。青になる前の三秒があれば、二拍目で足を出せる」
沈黙。
ユウは両手で律の顔を包んだ。
涙が頬に落ちる。
声にならない母音が、律の耳の前に落ちた。
それは歌でも言葉でもない。
けれど、これまででいちばん強い「さよなら」だった。
◇
夜。
律は机に向かい、点字を打った。
《君の青は、僕の青でもある》
《離れても、二拍目で》
紙を胸に抱え、涙をこぼした。
泣きながら、胸の奥で繰り返す。
——決別は終わりじゃない。合図は消えない。
翌朝。
律は目覚ましより早く目を覚ました。
窓の外からは、まだ始まりきらない街の音。新聞配達のバイク、遠くでトラックのバック音。蝉はもう鳴かない。夏が終わる予感だけが、湿った空気に混じっていた。
机の上には、昨夜打った点字の紙が置かれている。
《君の青は、僕の青でもある》
《離れても、二拍目で》
小さな突起の一つひとつを指でなぞる。
読み返すたびに胸が熱くなる。
昨夜のユウの声、震える呼吸、頬を伝った涙が甦る。
「……離れても」
声に出すと、胸の奥で何かが軋んだ。
ユウがいない現実は、まだ受け入れられない。けれど、その言葉を声にすることでしか、今日を始められなかった。
◇
一方その頃、ユウは空港にいた。
朝のロビーは、ざわめきで満ちている。アナウンスが多言語で繰り返され、スーツケースのキャスターが床を滑る音が絶え間なく響く。
周囲には同じグループのメンバー、マネージャー、スタッフ。
けれど、ユウは一人だった。
心の中で、律の声だけが残響している。
胸ポケットには、折りたたんだ紙。
触れるだけで、律の温度が戻ってくる気がした。
ユウは深呼吸し、声にならない母音を小さく吐いた。
誰にも届かなくてもいい。律にだけ届けばいい。
——でも、届くはずがない。
そう思った瞬間、スマホが震えた。
画面には、律からの録音ファイル。
再生すると、三秒の静寂のあと、ピアノの和音が鳴る。
タタン。
二度だけ。
ユウは口元を押さえた。
空港の騒音にかき消されるほど小さな音だった。
けれど、確かに届いた。
「二拍目で」
律の声が、和音の隙間から聴こえるような気がした。
◇
律は学校を休んで、家で静かに耳を澄ませていた。
ピアノの蓋を閉じたまま、机に頬をつける。
想像する。
ユウが飛行機に乗り込む音。
シートベルトのバックルが閉まる音。
機体が滑走路を走る低い振動。
世界の光にさらされても、ユウが胸ポケットの紙を握っている姿を。
想像することでしか、彼のそばにいられなかった。
想像が、唯一の再会だった。
◇
出発ロビー。
ユウはマネージャーに肩を押され、搭乗ゲートへ進んだ。
周囲にはカメラを持った人影がいくつかある。
シャッター音が響く。
振り返らなかった。
振り返れば、律がいない現実に押し潰されるから。
代わりに、心の中で強く繰り返す。
——青になる前。
——二拍目で。
それだけで歩ける。
それだけで、離れても一緒にいられる。
◇
飛行機が空へ浮かび上がったとき、律は机に手を置いていた。
木の冷たい感触が、ゆっくりと体温を吸い取る。
指先で蓋を二度叩く。タタン。
答える声はない。
それでも、胸の奥に確かに返事が響いた。
「コツ、コツ」
涙が零れ、紙の上に落ちた。
点字の突起が濡れても、消えない。
涙で滲んだほうが、かえって強く感じられる。
「ユウ……」
名前を呼ぶ。
返事はない。
けれど、呼ぶことでしか繋がれない。
呼ぶことが、合図になる。
◇
ユウは空の上で、窓の外の白い雲を見ていた。
眠る乗客たちの中で、ただ一人、目を閉じずに呼吸を整える。
三秒、息を吸い、止め、落とす。
律に教わった呼吸法。
胸の奥に、律の姿が浮かぶ。
彼の白杖の音、ピアノの響き、触れた指先。
すべてが合図に変わる。
「離れても……」
口の中で呟いた。
声は客席のざわめきに紛れて消える。
それでも、律に届いていると信じた。
◇
夜。
律は夢を見た。
交差点の信号が赤から青に変わる瞬間。
青になる前の三秒。
静寂の中で、ユウの声が聴こえた。
「離れても、僕は君の二拍目にいる」
律は夢の中で泣いた。
目が覚めても、頬は濡れていた。
泣きながら笑った。
合図は、消えていなかった。
◇
翌朝。
ニュースが流れる。
「ワールドワイドアイドルグループAURORA、海外フェスで大成功」
画面に映るユウの姿。
強い光を浴びて、観客の歓声に包まれている。
その声は届かない。
けれど、律は信じている。
——ステージの裏で、誰にも聞こえない小さな声で、必ず合図をくれる。
青になる前の三秒。
二拍目で。
それだけで、律は歩けた。
律は教室の窓際に座り、蝉の声が薄れていくのを聞いていた。
夏の音は、急に終わる。昨日まで響いていた声が、今日はもう聞こえない。
世界の音が一つ減るたびに、胸の奥で空洞が広がる。
スマホが震えた。
ユウからのメッセージ。
《律、今日だけ、会える》
指が震えた。心臓の鼓動が、点字の突起のように胸の内側を叩く。
行かなければ。最後かもしれない、と直感が告げていた。
◇
駅前の広場。
夕立の後の匂いがまだ残っている。濡れた石畳を白杖で探りながら、律は足を進めた。
ピアノの蓋は閉まっていた。
その横に、人影。
ユウだった。帽子を深くかぶり、声を潜める。
「律」
「……来たよ」
声は掠れていた。舞台の上のあの強さはなく、今にも壊れそうな細い糸のようだった。
二人は並んでベンチに座った。沈黙が流れる。
律は耳で探した。ユウの呼吸が乱れている。いつもより吸う音が深く、吐く音が短い。
「大丈夫?」
問いかけに、ユウは小さく首を振った。
「……だめなんだ」
「何が?」
「会うの、これが最後かもしれない」
胸の奥が冷えた。
蝉の声が、完全に途絶えた気がした。
◇
ユウは両手で顔を覆った。
「海外フェスだけじゃない。もっと先の仕事も決まってる。……事務所から、“これ以上は危険だ”って」
「危険って……」
「君を守れない。僕が隣にいるせいで、君が傷つく」
律は強く首を振った。
「傷ついてない。僕は大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない。ネットに、学校に、もう噂は届いてる。——僕のせいだ」
声が震える。
律は手を伸ばし、ユウの指先に触れた。
温かい。けれど、その温かさが遠ざかろうとしているのを感じた。
「ユウ。……合図は、どうするの?」
「続けたい。続けたいけど、現実が許さない」
律の喉に言葉がつかえた。
何を言っても、彼を縛ることになる。
だから、代わりに手のひらを二度叩いた。タタン。
ユウが同じリズムで返す。コツ、コツ。
それだけで涙が溢れた。
◇
「律」
ユウの声がかすれる。
「僕は……君の青を守れないかもしれない」
「守れなくてもいい」
「でも」
「君がいるって、それだけで僕は歩ける。青になる前の三秒があれば、二拍目で足を出せる」
沈黙。
ユウは両手で律の顔を包んだ。
涙が頬に落ちる。
声にならない母音が、律の耳の前に落ちた。
それは歌でも言葉でもない。
けれど、これまででいちばん強い「さよなら」だった。
◇
夜。
律は机に向かい、点字を打った。
《君の青は、僕の青でもある》
《離れても、二拍目で》
紙を胸に抱え、涙をこぼした。
泣きながら、胸の奥で繰り返す。
——決別は終わりじゃない。合図は消えない。
翌朝。
律は目覚ましより早く目を覚ました。
窓の外からは、まだ始まりきらない街の音。新聞配達のバイク、遠くでトラックのバック音。蝉はもう鳴かない。夏が終わる予感だけが、湿った空気に混じっていた。
机の上には、昨夜打った点字の紙が置かれている。
《君の青は、僕の青でもある》
《離れても、二拍目で》
小さな突起の一つひとつを指でなぞる。
読み返すたびに胸が熱くなる。
昨夜のユウの声、震える呼吸、頬を伝った涙が甦る。
「……離れても」
声に出すと、胸の奥で何かが軋んだ。
ユウがいない現実は、まだ受け入れられない。けれど、その言葉を声にすることでしか、今日を始められなかった。
◇
一方その頃、ユウは空港にいた。
朝のロビーは、ざわめきで満ちている。アナウンスが多言語で繰り返され、スーツケースのキャスターが床を滑る音が絶え間なく響く。
周囲には同じグループのメンバー、マネージャー、スタッフ。
けれど、ユウは一人だった。
心の中で、律の声だけが残響している。
胸ポケットには、折りたたんだ紙。
触れるだけで、律の温度が戻ってくる気がした。
ユウは深呼吸し、声にならない母音を小さく吐いた。
誰にも届かなくてもいい。律にだけ届けばいい。
——でも、届くはずがない。
そう思った瞬間、スマホが震えた。
画面には、律からの録音ファイル。
再生すると、三秒の静寂のあと、ピアノの和音が鳴る。
タタン。
二度だけ。
ユウは口元を押さえた。
空港の騒音にかき消されるほど小さな音だった。
けれど、確かに届いた。
「二拍目で」
律の声が、和音の隙間から聴こえるような気がした。
◇
律は学校を休んで、家で静かに耳を澄ませていた。
ピアノの蓋を閉じたまま、机に頬をつける。
想像する。
ユウが飛行機に乗り込む音。
シートベルトのバックルが閉まる音。
機体が滑走路を走る低い振動。
世界の光にさらされても、ユウが胸ポケットの紙を握っている姿を。
想像することでしか、彼のそばにいられなかった。
想像が、唯一の再会だった。
◇
出発ロビー。
ユウはマネージャーに肩を押され、搭乗ゲートへ進んだ。
周囲にはカメラを持った人影がいくつかある。
シャッター音が響く。
振り返らなかった。
振り返れば、律がいない現実に押し潰されるから。
代わりに、心の中で強く繰り返す。
——青になる前。
——二拍目で。
それだけで歩ける。
それだけで、離れても一緒にいられる。
◇
飛行機が空へ浮かび上がったとき、律は机に手を置いていた。
木の冷たい感触が、ゆっくりと体温を吸い取る。
指先で蓋を二度叩く。タタン。
答える声はない。
それでも、胸の奥に確かに返事が響いた。
「コツ、コツ」
涙が零れ、紙の上に落ちた。
点字の突起が濡れても、消えない。
涙で滲んだほうが、かえって強く感じられる。
「ユウ……」
名前を呼ぶ。
返事はない。
けれど、呼ぶことでしか繋がれない。
呼ぶことが、合図になる。
◇
ユウは空の上で、窓の外の白い雲を見ていた。
眠る乗客たちの中で、ただ一人、目を閉じずに呼吸を整える。
三秒、息を吸い、止め、落とす。
律に教わった呼吸法。
胸の奥に、律の姿が浮かぶ。
彼の白杖の音、ピアノの響き、触れた指先。
すべてが合図に変わる。
「離れても……」
口の中で呟いた。
声は客席のざわめきに紛れて消える。
それでも、律に届いていると信じた。
◇
夜。
律は夢を見た。
交差点の信号が赤から青に変わる瞬間。
青になる前の三秒。
静寂の中で、ユウの声が聴こえた。
「離れても、僕は君の二拍目にいる」
律は夢の中で泣いた。
目が覚めても、頬は濡れていた。
泣きながら笑った。
合図は、消えていなかった。
◇
翌朝。
ニュースが流れる。
「ワールドワイドアイドルグループAURORA、海外フェスで大成功」
画面に映るユウの姿。
強い光を浴びて、観客の歓声に包まれている。
その声は届かない。
けれど、律は信じている。
——ステージの裏で、誰にも聞こえない小さな声で、必ず合図をくれる。
青になる前の三秒。
二拍目で。
それだけで、律は歩けた。



