朝の空気は、いつもより硬かった。
 白杖の先がアスファルトを叩く音が、夏の陽射しに照らされて高く跳ねる。三島律は、信号機の下で立ち止まり、胸の奥で三秒だけ息をためた。青になる前の三秒。世界がいちばん静かになる時間。そこに身を置くと、街のざわめきも、背後で囁く声も、いったんは遠のいた。

 けれど、青になり、二拍目で歩き出せば、また音は戻ってくる。
 「YUの相手って……」「ほら、ニュースで」「駅ピアノの」
 声の断片が、律の背中に小石のようにぶつかっては落ちた。針ほど鋭くはないのに、数が多いぶん、身体のどこかに確実に沈んでいく。

 教室に入ると、机に当たる爪の音が聞こえた。誰かがスマホを伏せる。その気配に律はすぐ気づく。
 見えないはずの視線が、肌を撫でる。
 律は鞄の内ポケットに入れた小さなカードを指で探った。厚紙の角、点字の小さな突起。

《次の三分も、君のもの。》
《青を守る。》

 ユウが書いた、不格好で震える点字。
 文字ではない。けれど、それは確かに言葉だった。
 胸の中で呼吸を整え、律は思った。——今日も、三分を守ればいい。

     ◇

 同じころ。
 都心の高層ビルにある事務所の会議室では、ユウがスタッフの視線を一身に浴びていた。
 机の上に置かれた資料の見出しには《海外フェス出演決定》の文字。
「おめでとう、YU。これで君はさらに光を浴びる」
 スタッフの言葉に、ユウは笑顔をつくった。
「ありがとうございます」
「ただし、私生活の件は厳重に。『友人です』で統一して。相手の名前は出さないように」

 相手。
 その一言が胸の奥を冷やす。
 名前を出さないことは守ることか。隠すことか。
 胸ポケットに忍ばせたカードを指で探る。折り目の数をなぞれば、律の声が蘇る。

《青になる前 二拍目で》

 声にできない言葉を、点に託す。
 小さな点が、光よりも強い道しるべになる。

     ◇

 放課後の音楽室。
 律はひとり、ピアノの前に座っていた。
 今日はユウは来られないと知っている。
 それでも、来られない日のために音を出す。

 鍵盤に指を置き、三秒の静けさを胸で数える。
 息を吐き、音を落とす。
 返ってくる響きは、空間の形を正確に描き出した。天井の高さ、壁の厚み、窓ガラスのわずかな振動。
 律はそこにユウの声を重ねて想像した。
「律」
 実際には誰もいない。
 けれど胸の奥では確かに呼ばれていた。

 三分。
 椅子。
 窓。
 繰り返し弾きながら、律はそれらを音に変えた。

 窓の外で蝉が鳴く。夏の終わりを告げる匂いが風に混ざる。
 音楽室の空気は、切なさで満ちていた。

     ◇

 夜。
 ユウの部屋は暗く、スマホの光だけが白い顔を照らしていた。
 SNSのトレンドに《#YU》《#駅前ピアノ》が並ぶ。
 「友達?」「恋人?」
 「真実を話して」
 見知らぬ言葉は、誰でも触れられる刃だった。

 ユウは画面を伏せ、ベッドに横たわった。
 本当は、世界に向ける声より、律にだけ届く声を選びたい。
 でも、それを言えば——律が傷つく。

 唇を噛み、目を閉じる。
 そのとき、スマホが震えた。録音ファイルの通知。差出人は「律」。
 再生すると、ピアノの音が流れた。
 三分だけ。
 旋律は未完成で、何度も同じ小節を繰り返している。
 けれど、その繰り返しの中に、確かに合図があった。
 ——青になる前の三秒を、音で刻んでいる。

 ユウは涙をこぼしながら、画面を胸に押し当てた。
「……律」
 声に出す。誰にも届かない、小さな声。
 それで十分だった。


 翌朝の校舎は、磨かれた床の匂いがいつもより強かった。ワックスが硬く固まると、靴底の音は半拍だけ高くなる。律はその“高い半拍”を踏まないように、白杖の先で床の継ぎ目を追い、歩幅を小さく整えた。
 昇降口を抜ける前に、袖をつままれる。澪だ。

「兄ちゃん、これ」
 掌に薄い紙。端に小さな穴。昨日ユウが持っていたのと同じカードサイズだ。
「職員室の先生が『預かりもの』って。差出人は……“宛名は空白で”」
 律は指で点を探す。震えの混じった点字が二行。

《君の時間を、君に返す。》
《今日の放課後、図書室。静かな椅子を用意した。》

 図書室。
 椅子。
 心臓が、音にならない拍をひとつ落とした。

     ◇

 放課後、図書室は紙の匂いで満ちていた。背表紙の列は見えなくても、背の高いものと低いものが並ぶ“静かな壁”の気配が伝わる。
 受付のカウンターには誰もいない。館内放送が、小さく「閉館まで三十分」と告げる。
 奥の閲覧席に、ひとつだけ、背もたれの布が新しい椅子があった。座面の縫い目が他より柔らかく、指先に糸の微かな起伏が触れる。

「律」
 声は、本の匂いに溶けて低く響いた。
 席の向かい、棚の陰からユウが現れる。ミントではない、インクと木の混じった匂いがした。帽子のつばが光を遮る角度。息は落ち着いているが、喉の奥に小さな緊張が残っている。

「来てくれて、ありがとう」
「椅子、柔らかいね」
「君のために、借りた。『誰かの三分を休ませたい』って言ったら、司書の人が笑ってた」

 律は笑い、座面に指先を置いた。
「三分、ここで使おう」
「うん。でも、今日は歌わない。……話を、聞いてほしい」

 ユウは声を整え、言葉を選ぶように口を開いた。
「今日、学校に記者が来た。校門の外で待っていた。誰かが“盲目の子はどんなふうに歩くんですか”って訊かれて、うまく答えられなかったって」
 律の胸が静かに縮む。
「怖かった?」
「怖い。……怖いのは、君の世界を“説明”されること。僕がうまく守れなかったら、君の三分が削られてしまう。君の椅子が奪われてしまう」

 図書室の時計が、分針を一目盛り送る小さな音を立てた。
 律は、椅子の肘に指を置き、二度、軽く叩く。タタン。
「返すよ。君がくれた言葉、もう返す。——『君の時間は君のもの』」
 ユウの息が揺れ、笑いと泣きの境目が喉を擦る。
「ずるい。すぐそうやって返す」
「返すのは約束だよ。借りっぱなしは苦しくなるから」

「……ねえ、律」
「うん」
「海外のフェス、決まった。本当に。来月。長くはないけど、しばらく日本を離れる」
 言葉は淡々としているのに、その下で水が騒ぐ音がした。
「おめでとう」
「ありがとう。——でも、合図は続けたい。世界のどこにいても、青になる前の三秒は同じだから」

 律は頷くかわりに、掌を上に向けて机の上に置いた。
 ユウは躊躇い、そして指先をそっと重ねる。
 図書室の空気は、拍手もしないし口笛も吹かない。ただ、静かにふたりの輪郭を保つ。
「君の声、今日は出さないの?」
「出すよ。……出すけど、言葉じゃないほう」
 ユウは、胸の奥で息を転がし、発音にならない母音をひとつだけ落とした。
 律の掌が、その温度を受け取る。
 声が空気に変わる直前の熱。
 ありふれた午後の、誰にもわからない地点が、ふたりのためにだけ明るくなった。

 静けさに紛れて、遠くで台車の車輪が鳴る。司書が閉館準備をしている。
「戻ろう。——その前に」
 ユウが指を離し、鞄から小さな紙片を取り出す。
「覚えたてで恥ずかしいけど、点字、練習した」
 律は受け取り、触れる。
 いびつで真っ直ぐな点が並んでいる。

《君が立つ場所が、世界の中心。》
《僕はそこへ、半音遅れて行く。》

 喉の奥が熱くなり、息が短くなる。
「半音、遅れて?」
「うん。舞台の上で、僕は世界の中心をしょっちゅう奪ってしまう。……でも、君の前では、半音遅れて着く。合図に遅れて、ちゃんと君を見つけるために」
 律は笑って、涙を拭った。
「ずるい。完璧よりずるい」
「ずるい練習をしてるから」

 扉のほうから足音。司書の柔らかい声。「そろそろ閉館です」
「はい」
 立ち上がるとき、椅子の脚が床を擦る音が一度だけ鳴った。
 短い余韻が、今日の三分を区切る線になった。

     ◇

 図書室を出ると、廊下の窓から夕立の前触れの匂いが入ってきた。
 玄関の外で、小さなシャッター音が遠くに散る。
 律は足を止めない。ユウも、並んで歩幅を合わせた。
「送るよ」
「いい。ここからは、僕の世界」
 同じ台詞を、二人ともが言えるようになっていた。言い合うことで、守り合える形が増えていく。

 校門の手前で、ユウが耳の前に小さな空気を置く。
「——青になったら、メッセージ送る」
「待ってる。二拍目で開く」
 笑い声が、蝉の声に溶けていく。
 別れ際、律は白杖の石突きで地面を二度叩いた。タタン。
 ユウの靴が、同じリズムで返す。コツ、コツ。
 それだけで、夕立の湿った風が少し軽くなった。

     ◇

 夜。
 律の部屋。
 机にカードと紙片を並べ、指先で順に読み直す。
《君の時間を、君に返す。》
《君が立つ場所が、世界の中心。僕はそこへ、半音遅れて行く。》
 言葉は点になり、点は胸の奥で音になった。
 鍵盤の蓋は閉じたまま、律は手の甲をそっと蓋に当てる。
 木の冷たさが、ゆっくりと温度を変える。
 青になる前の三秒を、寝る前にもう一度だけつくった。
 ——明日も、守れる。
 そう思えるだけで、眠りは優しくなる。

     ◇

 同じころ、ユウはマンションのベランダで、スマホの画面を胸に当てて立っていた。
 通知の明滅を見ないように、画面をうつ伏せにする。
 遠くに救急車のサイレン。近くで電車のブレーキ。
 都市の音が層になり、夜を厚くする。
 胸ポケットから点字の紙を出し、指先でなぞる。

《半音遅れて行く》

 声にしない約束は、点のままでも強い。
 ユウは深く息を吸い、吐く。
 吸って、止めて、落として。
 律に教わった順番で呼吸を並べると、胸の内側で夜がほどけた。
 メッセージを開き、短く打つ。

《青》

 送信。
 数秒もしないうちに、画面が震えた。
 律から。

《二拍目》

 その二文字で、胸の痛みは“歩き方”の形に変わる。
 歩いていける。
 光にさらされても、歩いていける。
 ユウは空を仰ぎ、目を閉じた。
 目を閉じても、合図は消えない。
 消えないものがある限り、世界は怖くない。


 数日後。
 YUの海外フェス出演のニュースは、ますます大きく取り上げられていた。
 テレビのスタジオで、芸能リポーターが明るく言う。
「世界に羽ばたく十七歳! ただ、プライベートでの目撃談も……」
 画面に、駅前の広場の映像が映し出される。
 ピアノの蓋の前に立つユウの背中。
 傍らには、白杖を持った少年の影。
 顔は映っていない。それでも、律の心臓は強く跳ねた。

 澪が心配そうに兄を見た。
「兄ちゃん……見ちゃダメだよ。変なこと言ってる人もいる」
「うん。大丈夫。……僕は、知ってるから」
 知っている。あの映像の中で、ユウがどんな呼吸をしていたか。
 どんな震えを隠すために、ピアノの横に立っていたか。
 世界が知らなくても、律は知っている。

     ◇

 その日の夜。
 ユウから「会えない」と短いメッセージが届いた。
 律は机に向かい、返事を打たずに点字の紙を広げる。
《君の時間を、君に返す》
《青になる前 二拍目で》
《君が立つ場所が世界の中心》

 どれも、不格好な点の列。
 けれど、世界中のどんな活字よりも、確かな言葉。
 律は小さく呟いた。
「僕も、返す。君の時間は、君のものだよ」

 そうして、録音アプリを開き、ピアノに指を置いた。
 三分だけ。
 誰にも聴かせるつもりはなかった。
 けれど、送信ボタンに指が触れたとき、不意に胸の奥で声が響いた。
——青になる前。
——二拍目で。
 それは、呼吸と一緒にユウの声が蘇るようだった。

 送信。
 数秒後、既読の印が灯り、ただ一言が返ってきた。

《守る》

 その一言に、律は目を閉じ、涙を堪えた。
 堪えた涙は、胸の奥をあたためる灯になった。

     ◇

 週末、駅前の広場。
 夕立の後の濡れた石畳は、街灯をぼんやりと映していた。
 人影は少ない。遠くで電車のブレーキ音。
 ピアノの蓋は開いている。

「律」
 背後から声。ミントの香り。
 ユウが、帽子を深くかぶって立っていた。
「危ないんじゃない?」
「危ない。でも、会いたかった」

 律は頷き、鍵盤に手を置いた。
「三分、ここで使おう」
「うん。世界中に見られてもいい。……君に聴いてほしい」

 ユウが歌い始めた。
 声は震えていた。外れもした。
 けれど律は、和音を厚くして寄り添った。
 外れた声の隙間に、ピアノの音を置いた。
 失敗ではなく、余白に変える。

 三分。
 曲が終わると、雨粒のような拍手が遠くで一度だけ響いた。
 振り返ると、誰もいなかった。
 それでも、二人は笑った。

「光にさらされても、消えないものがある」
 ユウが呟く。
「合図?」
「そう。……君の三分は、誰にも奪えない」

 律は指で机を叩くみたいに、ピアノの木をタタンと叩いた。
 ユウが同じリズムで返す。
 二人の間に、それだけで十分な合図があった。

     ◇

 別れ際。
「来月、海外に行く」
「うん」
「でも、君と青を数える練習、続ける」
「僕も」

 駅前の信号が変わる。
 青になる前、律は深く息を吸い、二拍目で足を出した。
 隣でユウも、同じリズムで歩き出す。

 街の光は強かった。
 でも、その光にさらされても、二人の合図は消えなかった。

 八月の夜風は、昼間の熱をまだ抱えていた。
 律はベランダに出て、空を仰いだ。見えない夜空は、匂いで季節を告げる。アスファルトが冷める匂い、隣家の夕飯の名残り、遠くの花火の火薬の残り香。
 耳の奥で、かすかな靴音が蘇る。——タタン。
 二拍目で歩き出す音。
 胸の中で小さく呟いた。
「青になる前の三秒は、僕のものだ」

 ポケットの中には、いくつもの紙片が折りたたまれている。
《次の三分も、君のもの》
《半音遅れて行く》
《青を守る》
 不格好な点字は、かえって力強い。読み返すたびに、ユウの指先の震えまで伝わってくる。

     ◇

 一方その頃。
 ユウはマンションの部屋でスーツケースを開いていた。
 海外フェスの準備。衣装と譜面と、喉を守るための蜂蜜キャンディ。
 その隙間に、彼は迷わず紙片を忍ばせた。
 点字で綴られた律の言葉。
《君の時間は君のもの》
 触れるだけで、胸の奥に静けさが広がる。

 スマホを手に取り、短い録音を始める。
 三秒、何も言わずに呼吸を置く。
 その後、小さく歌を添える。
 歌と言っても、旋律にはならない母音だけ。
 でも、それは律のためだけの歌。
 送信。

 数分後、既読が灯る。
 そして、返ってきたファイル。
 ピアノの和音が三回。タタン、タタン、タタン。
 ユウは涙を流した。
「……届いた」

     ◇

 渡航前日。
 ふたりは、最後の時間を図書室で過ごした。
 静かな椅子に並んで座り、何も喋らない。
 話さないことが、いちばん多くを語っていた。

 閉館のチャイムが鳴る前、ユウが律の手に小さな紙を押し込んだ。
「最後に、もう一つだけ覚えた」
 律は触れ、指で点をなぞった。

《君の青は、僕の青でもある》

 涙が頬を伝った。
 律は声を震わせて答えた。
「僕の二拍目は、君の二拍目でもある」

 ふたりの手が重なる。
 拍も時間も言葉も、もう説明はいらなかった。

     ◇

 翌日。
 空港のゲート前、ユウは胸ポケットの中身を確かめる。
 いくつもの紙片と、律から届いた最新の録音。
 三秒の静けさと、二拍目で鳴るピアノ。
 それだけで十分だった。

 「世界に羽ばたく十七歳」
 アナウンスが呼ぶ肩書きは、重い。
 でも、その重さを抱えても、胸の奥にある点字の突起は消えない。

 飛行機に乗り込む前、ユウは深呼吸し、指でポケットを二度叩いた。タタン。
 遠く離れた街の律も、同じ瞬間、机を二度叩いていた。
 説明も、写真も、記事もいらない。
 合図は届いていた。

     ◇

 夜。
 律の夢の中で、交差点の信号が変わる。
 青になる前の三秒。
 その静けさの中で、ユウの声が確かに届く。

「光にさらされても、君の青は守る」

 律は笑い、涙を零した。
 夢の中でも、現実でも、二拍目で歩き出す。
 その足音が、世界のどんな光にも負けないと知っていた。