朝の空気は、紙をちぎるときの音に少し似ていた。
 雲の端が裂ける気配がして、光はまだ地面に届かない。
 三島律は、校門をくぐる前に立ち止まり、胸の奥で三秒だけ息をためた。青になる前の三秒——世界がもっとも静かになる場所を、身体の内側でつくる。

 噂は、音より早く広がる。
 教室に入ると、誰かがスマホの画面を伏せる気配がし、机に当たる爪の音が小さく跳ねた。
「駅前でさ……」「見たってやつ」「YUの“相手”」
 声は刃ではなかった。どれも鈍い。けれど、その鈍さが一番やっかいだ。傷は浅いのに、広がる。

 律はノートの端に、点字で三つの点を打った。《・ ・ ・》
 三分。椅子。窓。
 それがあれば、いまは大丈夫だと、自分に言い聞かせる。

     ◇

 放課後。
 夕立の気配がする空の下、律は白杖を短く持ち替え、駅前の広場へ向かった。
 アップライトピアノの蓋は閉まっている。金属の蝶番に湿気が滲んで、触れると冷たい。
 ベンチに腰をおろすと、後ろから軽い足音。あの足音ではない。——スタッフの靴。
「今日は……すみません、管理の都合で」
「わかっています。雨、きますよね」
「ええ。お足元、気をつけて」

 礼を言って立ち上がり、屋根のある高架下へ向かう。
 人通りはまばらだ。遠くで、看板のビニールが鳴る。
 ポツ、と一滴。頬に冷たい指が置かれたような感触がして、律は顔を上げた。
 ——降る。

「律」

 風の向きが変わるみたいに、名前が届いた。
 彼の声は、今日いつもより低かった。喉を守るために息を多めに含んだ声。
「来なくていい日なの、わかってた。でも、来た」
「来てくれて、よかった」

 ユウは、笑う代わりに短く息を吐いた。
 ミントの香りは薄い。雨が匂いを分解してしまうからだ。
「今日は、歌えないかもしれない」
「歌わなくていいよ」
「それでも、君の三分を、ここで」

 二人は高架下の柱に寄り、肩が触れない距離に立った。
 律は内ポケットから薄いメトロノームを取り出し、親指でテンポを二回叩く。タタン。
 ユウが、同じリズムで靴底を二度鳴らした。
 ——始まる。

 最初の三十秒は、雨の強さを測る時間になった。路面を叩く音の粒が大きくなる。
 ユウは喉を開きも閉じもしない場所で、小さく声を転がした。母音だけ。音程を持たない、体温だけの声。
 律はそれに拍を与える。指先で、空気の上に目に見えない譜面を描く。
 「吸って」「止めて」「落として」
 小さな命令。命令と言っても、お願いに近い。
 ユウの息が従い、雨の粒がテンポから外れていく。外れていっても、邪魔にはならない。外れたものが、むしろ余白を広げる。

「……律」
「うん」
「こわい」
「うん」
「見つかるのが、じゃなくて。君を“説明される”のが」
 律は首をわずかに振った。
「説明させないよ」
「できる?」
「できる。合図で守る」

 ユウの喉が、かすかに笑った。
「ずるいな」
「ずるくていい。僕ら、ずっとずるいって決めたじゃない」

 そのときだった。
 空気の層が一枚、違う音を連れて来る。
 ——足音。
 靴底が濡れた路面を切る音。二人分。いや、三人。
 律は白杖を握り替え、肘を少し引いた。
 ユウが一歩だけ前に出る。律の肩の手前で、空気が防波堤のように立った。

「すみません、YUさんですよね?」
 知らない男の声だった。押し殺した親しさ。仕事の声。
「少しだけ、お話——」
 次の瞬間、空が光った。
 雷ではない。シャッターの光。
 稲妻の逆再生みたいに、光が音より早く二人に触れる。

 ユウが、律の手を掴んだ。
 反射だった。
 指と指が重なる。骨と骨が、ぴたりと噛み合う。
 その瞬間、律は——見た。
 視界ではない。
 手のひらに、声が落ちるのを“見た”。
 ユウの喉から出た声の端が、彼の指を通り、手の甲へ、手首へと渡っていく。
 色はなかった。光もなかった。
 それでも、それは確かに“見える”のと同じ強さで、律に届いた。

「離してください、未成年の——」
 男の声が言いかけて、もう一つのシャッター音が重なる。
 ユウは、律の手を引いた。
「行こう」
 躊躇のない声だった。
 律は頷き、足を出す。
 二拍目で。
 青になっていないのに、二拍目で。

 高架下の出口の手前で、別の影が回り込んだ。
 「待ってください」「危ないですよ」
 危ないのは、世界のほうだ。
 律は白杖の先で地面の縁を探り、ユウの手の力で次の一歩を決めた。
 足音は追ってくる。
 雨は、もう本降りだった。
 誰かが滑って悪態をつく。
 シャッターの光が、一度、二度。
 写真は、声を写さない。
 声は、写真に写せない。
 ——だから、大丈夫だ。
 律は心で繰り返す。写真は何も連れ去れない。僕らの三分は、写らない。

 角をひとつ曲がり、狭い階段を下りる。
 ユウが前で段差を数える。「五段、踊り場」「六段」
 息は上がっているのに、呼吸は乱れていない。
 乱れていないのに、手は震えている。
 震える手の熱だけが、律の世界の中心を指す。
 地上から離れるほど、雨音は遠くなり、かわりに換気扇の低い唸りが近づく。
 地下通路。
 蛍光灯のうなり。
 氷のような空気が、二人の頬を撫でた。

「こっち」
 ユウが、迷わず歩く。
 防音室と同じ、扉の位置を覚えている人の歩き方だ。
 律はついていく。
 連結部分の床の素材が変わるたびに、靴底の音も変わる。
 大理石から、ゴムへ。ゴムから、カーペットへ。
 新しい世界に入るたびに、ユウの手がほんの少し強くなる。
 強くなって、緩む。
 強くなって、緩む。
 それが、合図だった。

 小さな扉がひとつ。
 金属の取っ手が、ユウの手の中で泣く。
 開いた先は、倉庫のように狭い、避難スペースだった。
 非常灯の緑が、空気に薄い色を混ぜる。
 ユウは扉を閉め、背中で押さえた。
 足音は、遠ざかった。
 シャッターの光は、いない。
 雨だけが、遠くで壁を洗っている。

「……ごめん」
 ユウは、言った。
 律は、首を振った。
「ごめんじゃない」
「でも」
「ありがとう、だよ」

 沈黙。
 律は、掴まれた手の甲に、もう片方の手を重ねた。
 ユウの手を、包む。
 手の中に、喉の震えの名残があった。
 握りしめれば消えてしまいそうな小さな火種。
 消さないように、両手で囲う。

「怖かった?」
「うん」
「僕も」
「……声、出ない」
「出さなくていい」
「でも、出したい」

 ユウは、律の手に額を寄せた。
 額の骨と、指の骨が、冷たさの向きで触れ合う。
 小さな声が、手の中で震えた。
 言葉にならない母音。
 律は頷く。
「ここ、窓だよ」
「うん」
「ここから、出して」

 ユウは、声を出した。
 誰にでも届く声ではなかった。
 誰にも聞こえないかもしれない、小さな、小さな声。
 その小ささは、世界のすべてから奪われない場所を、確かに指していた。

 涙は、音を立てない。
 それでも、涙の重さは、手のひらに落ちてわかる。
 ユウの涙が、律の親指の付け根に落ちた。
 熱い。
 雨よりも熱い。
 熱いのに、冷たい地下の空気が、それをすぐに冷ます。
 冷ますのに、熱は残る。

「律」
「うん」
「“距離を置け”って言われた」
「うん」
「置けなかった。置けない」
「置かなくていい。……置いても、合図は届く」
「ほんと?」
「うん。ほら」

 律は、扉の金属に人差し指を軽く当て、二度、叩いた。タタン。
 金属の薄い響きが、避難スペースの空気をまあるく震わせる。
 ユウが、同じリズムで指先を返した。コンコン。
 ——ここにいる。
 ——ここにいる。

 それだけだった。
 それだけで、十分だった。

     ◇

 外に出たとき、雨は細くなっていた。
 路面に残った水が、歩くたびに薄く揺れる。
 空気は洗われ、街の匂いがいくつか剥がれ落ちている。
 新しい匂いが、代わりに流れ込む。
 濡れたアスファルト。
 古い看板の木。
 遠くのパン屋の甘い蒸気。
 そのどれもが、律には“生きている”音を持っていた。

「送るよ」
「いい。ここからは、僕の世界」
 前にも言った言葉を、律はもう一度口にした。
 繰り返しは、約束を強くする。
 約束が強いほど、写真は負ける。
 写真は、約束の強さに写り込めない。

 別れ際、高架の下で、ユウが言った。
「青になったよ」
 信号音は、聞こえない。
 けれど、律は頷いた。
「二拍目で」
 二人は、同じタイミングで足を出した。
 それは、渡るためではなかった。
 ただの、練習だった。
 合図を、身体に覚えさせるための。

     ◇

 夜。
 律のスマホが、小さく震える。
 読み上げが言う。

《速報:YU、海外大型フェス出演へ。来月》
《SNSでは“彼と目撃”の憶測続くも、所属は否定》

 世界は広がる。
 広がるほど、合図は小さくなる。
 小さくなるほど、強くなる。
 律は、ピアノの蓋を開けず、鍵盤の端に頬を寄せた。
 木の匂いが、今日のすべてを受け止めてくれる。
 ——痛みは、計量できない。
 でも、合図は数えられる。
 今日、二回。
 扉で二回。
 別れ際に一回。
 それで、三回。
 三分の約束みたいに、小さく、美しい数字だ。

 眠りに落ちる直前、律ははっきりと聞いた気がした。
 遠くの交差点で、青になる前の、短い、しかし確かな静けさ。
 そして、誰かが靴を二度、鳴らす音。
 ——タタン。
 ああ、と律は胸の内で笑った。
 今日は、負けていない。
 写真に、負けていない。

     ◇

 同じ夜、ユウの部屋では、窓ガラスに雨の名残がまだ張りついていた。
 マネージャーから、短いメッセージ。
《不用意な行動は控えて。頼む》
 ユウは、了解の返事を打ったあと、送信せずに消した。
 代わりに、メモを開く。
 震える指で、覚えたての点を打つ。

《・ ・ ・》
《三分》
《椅子》
《窓》
《青になる前》
《二拍目で》

 メモを閉じる。
 暗闇の中、ユウは小さく声を出した。
 誰にも届かない、ひとり分の声。
 ——届いてくれ。
 もしも世界のどこかで、同じく小さな声が、今日を終わらせる前に、ほんの少しだけ笑ってくれるなら。
 それだけで、眠れる。

 翌日、学校の昇降口に立ったとき、律は空気の重さでわかった。
 いつものざわめきが、ほんの一歩、遠くにあった。
 誰かがスマホを掲げ、指で画面をすべらせる音。
 その音が、律の足元に集まってくる。

「……あれじゃね?」
「いや、似てるだけ」
「でも白杖……」

 耳に届く断片は、針ではなく小石だった。
 痛みより、重さを与える。
 鞄の肩紐が沈む。呼吸が浅くなる。

「兄ちゃん」
 妹の澪が駆け寄り、律の手に紙を握らせた。
「落とし物だって、職員室に」
 厚紙の感触。角が少し濡れている。
 開くと、点字で二行だけ。

《次の三分も、君のもの。》
《青を守る。》

 震える指でなぞる。
 周囲のざわめきが遠のいた。
 小さな紙切れが、巨大な盾になることがある。
 律は息を整え、澪に小さく「ありがとう」と言った。

     ◇

 午後、ユウは事務所の会議室に座っていた。
 大きな窓の向こう、記者たちのカメラが並んでいる。
 いわゆる「囲み取材」。
 マネージャーが小声で耳打ちする。
「質問が出ても、“友人です”で押し通せ。いいね?」
「……はい」

 扉が開き、フラッシュが一斉に光る。
 その光は、稲妻ではなかった。けれど、ユウには同じに思えた。
 ——また奪われる。
 そう思った瞬間、胸ポケットの紙の重みを思い出す。

《次の三分も、君のもの。》

 ポケットの中で、指先がそっと折り目を探す。
 指先で触れただけで、律の声が蘇る。
「青を守る」
 あの約束が、胸の奥で明滅する。

「YUさん、交際の事実は?」
「……」
 一瞬、喉が乾いた。
 だが、次の拍で、呼吸が律と同じリズムに戻った。
「友人です。僕にとって、大事な人です」

 会場がざわめく。
 けれど、ざわめきは音ではない。
 ユウの中で響くのは、律のピアノの拍だった。
 三分の間だけは、声を守れる。
 三分の合図さえあれば、世界の光にも負けない。

     ◇

 夜。
 律は机の上に紙を広げ、点字で短い返事を書いた。
《ありがとう。僕も守る。》

 折りたたみ、胸ポケットに入れる。
 返すあても、渡す手段もない。
 けれど、持っていることが約束になる。

 ベッドに横たわり、律は呼吸を合わせる。
 三秒。青になる前の三秒。
 耳の奥で、誰かの靴がタタンと鳴った気がした。

 涙が一筋、頬を伝う。
 泣いた理由は説明できない。
 でも、説明できない涙こそが、いちばん確かな答えだった。

     ◇

 ユウもまた、同じ夜に、窓辺で声を出していた。
 音楽でも歌でもない、小さな声。
 誰にも聞かれない声で、三つの言葉を繰り返す。

「三分……椅子……窓……」

 呟くたびに、胸の奥の距離が縮む気がする。
 距離を置けと言われても、置けないものがある。
 写真や噂では測れない、三秒や二拍目の距離。

 夜風が、カーテンを揺らす。
 窓の外で信号が変わる音が、微かに届いた。
 ——青。

「行くから」
 ユウは小さく笑った。
「来週の三分も、君のものだから」