放課後の音楽室は、夕焼けに焼かれたような匂いがした。
グランドピアノの蓋は半分だけ開かれ、鍵盤に差す光が白鍵と黒鍵をくっきり分けている。
律はピアノの前に座り、深く息を吸った。
青になる前の三秒を胸の奥でつくり、指先を静かに下ろす。
——そこへ。
背後の扉がそっと開いた。
律は振り返らない。振り返らなくてもわかる。
歩幅の長さ、靴底が床板を押す角度。
「律」
「……来たんだ」
声は、かすかに掠れていた。
ユウは、椅子に腰を下ろすと、しばらく黙ったままピアノの音を聴いていた。
律は問いかけずに旋律を続ける。問いかけてしまえば、ユウは答えを探してしまうから。
曲の区切りで、律が指を離す。
「今日は、声を出さなくてもいい?」
「いいの?」
「いいよ。……声は、出したいときに出すものだから」
ユウは小さく笑った。
「律は、やさしいね」
「ちがう。ただ、君の声が壊れたら嫌だから」
沈黙の中で、ユウは机に額をつけるようにして深く息を吐いた。
「昨日、事務所で言われたんだ。『距離を置け』って」
「……うん」
「でも、ここに来た。だめだってわかってても」
律は迷わず言った。
「来てくれて、よかった」
それは、世界のすべてに逆らう言葉かもしれなかった。
けれど、逆らうことができるのは、たった一人の前だけだ。
律の言葉に、ユウは肩を震わせた。笑ったのか、泣いたのか、わからなかった。
◇
個室——それは、防音室のことではなかった。
ユウが律を連れていったのは、事務所ビルの地下にある小さなリハーサル室だった。
狭い四角い部屋。壁は吸音材で覆われ、蛍光灯の明かりは低く、空気はひんやりしている。
律は扉が閉まる音で、外界と切り離されたことをすぐに理解した。
「ここなら、誰も入ってこない」
「……いい部屋だね」
「世界と僕らを、ちゃんと分けてくれる」
ユウはマイクを持たず、ただ素の声で歌い始めた。
低い音から、高い音へ。
途中で声が震えても、音程を外しても、律は伴奏を止めなかった。
外れた声に和音を寄り添わせ、掠れた息に拍を与えた。
三分。
曲の最後で、ユウは声を切った。
律も鍵盤から手を離す。
その沈黙は、どんな拍手よりも深かった。
「律」
「うん」
「僕ね、ずっと“世界のために”って歌ってきた。でも、今は、君のために歌いたいって思ってる」
律の胸が熱くなる。
目に涙は浮かばない。代わりに、声が震える。
「僕は、君がどんなに世界を相手にしても、最後の三分は僕のものだって思ってる」
ユウが息を呑む気配。
次の瞬間、手が触れた。
指先と指先が、そっと重なる。
それだけで十分だった。
◇
だが、世界は待ってはくれなかった。
数日後、SNSには新しいタグが立った。
《#YUに恋人?》《#駅前ピアノの謎》
マネージャーからユウに連絡が入る。
「……当面、彼と会うのは控えて」
「彼、って誰ですか」
「答える必要はない。君がわかってるなら、それでいい」
ユウはスマホを握りしめた。
通知の光が、まるで自分を照らし出す探照灯のように眩しい。
画面を閉じても、光は消えない気がした。
その夜。
ユウは部屋の隅で膝を抱え、声を出した。
律の耳の前の“窓”を思い出しながら、小さく。
——君にだけ届けば、それでいい。
◇
一方、律は夢を見ていた。
雨上がりの交差点。
青になる前の三秒。
その静寂の中で、誰かが名を呼ぶ。
「律」
目を覚ますと、頬に涙が伝っていた。
泣いた理由はわからない。
けれど、胸の中で確かにひとつだけ残っている。
——次の水曜も、きっと会える。
グランドピアノの蓋は半分だけ開かれ、鍵盤に差す光が白鍵と黒鍵をくっきり分けている。
律はピアノの前に座り、深く息を吸った。
青になる前の三秒を胸の奥でつくり、指先を静かに下ろす。
——そこへ。
背後の扉がそっと開いた。
律は振り返らない。振り返らなくてもわかる。
歩幅の長さ、靴底が床板を押す角度。
「律」
「……来たんだ」
声は、かすかに掠れていた。
ユウは、椅子に腰を下ろすと、しばらく黙ったままピアノの音を聴いていた。
律は問いかけずに旋律を続ける。問いかけてしまえば、ユウは答えを探してしまうから。
曲の区切りで、律が指を離す。
「今日は、声を出さなくてもいい?」
「いいの?」
「いいよ。……声は、出したいときに出すものだから」
ユウは小さく笑った。
「律は、やさしいね」
「ちがう。ただ、君の声が壊れたら嫌だから」
沈黙の中で、ユウは机に額をつけるようにして深く息を吐いた。
「昨日、事務所で言われたんだ。『距離を置け』って」
「……うん」
「でも、ここに来た。だめだってわかってても」
律は迷わず言った。
「来てくれて、よかった」
それは、世界のすべてに逆らう言葉かもしれなかった。
けれど、逆らうことができるのは、たった一人の前だけだ。
律の言葉に、ユウは肩を震わせた。笑ったのか、泣いたのか、わからなかった。
◇
個室——それは、防音室のことではなかった。
ユウが律を連れていったのは、事務所ビルの地下にある小さなリハーサル室だった。
狭い四角い部屋。壁は吸音材で覆われ、蛍光灯の明かりは低く、空気はひんやりしている。
律は扉が閉まる音で、外界と切り離されたことをすぐに理解した。
「ここなら、誰も入ってこない」
「……いい部屋だね」
「世界と僕らを、ちゃんと分けてくれる」
ユウはマイクを持たず、ただ素の声で歌い始めた。
低い音から、高い音へ。
途中で声が震えても、音程を外しても、律は伴奏を止めなかった。
外れた声に和音を寄り添わせ、掠れた息に拍を与えた。
三分。
曲の最後で、ユウは声を切った。
律も鍵盤から手を離す。
その沈黙は、どんな拍手よりも深かった。
「律」
「うん」
「僕ね、ずっと“世界のために”って歌ってきた。でも、今は、君のために歌いたいって思ってる」
律の胸が熱くなる。
目に涙は浮かばない。代わりに、声が震える。
「僕は、君がどんなに世界を相手にしても、最後の三分は僕のものだって思ってる」
ユウが息を呑む気配。
次の瞬間、手が触れた。
指先と指先が、そっと重なる。
それだけで十分だった。
◇
だが、世界は待ってはくれなかった。
数日後、SNSには新しいタグが立った。
《#YUに恋人?》《#駅前ピアノの謎》
マネージャーからユウに連絡が入る。
「……当面、彼と会うのは控えて」
「彼、って誰ですか」
「答える必要はない。君がわかってるなら、それでいい」
ユウはスマホを握りしめた。
通知の光が、まるで自分を照らし出す探照灯のように眩しい。
画面を閉じても、光は消えない気がした。
その夜。
ユウは部屋の隅で膝を抱え、声を出した。
律の耳の前の“窓”を思い出しながら、小さく。
——君にだけ届けば、それでいい。
◇
一方、律は夢を見ていた。
雨上がりの交差点。
青になる前の三秒。
その静寂の中で、誰かが名を呼ぶ。
「律」
目を覚ますと、頬に涙が伝っていた。
泣いた理由はわからない。
けれど、胸の中で確かにひとつだけ残っている。
——次の水曜も、きっと会える。



