朝の教室は、鉛筆の芯が紙を削る乾いた音と、窓の向こうを走るトラックの低い唸りで満ちていた。
 三島律は、ノートの端に点字で小さな突起を打っていた。指先でなぞれば、自分にしか読めない印が見つかる。《三分》《椅子》《窓》——先週から、彼の胸の真ん中に置かれ続けている三つの言葉だ。

 ホームルームが終わると、吹奏楽部の後輩がそっと近づいてきた。靴底を鳴らさない歩き方で、律の机の横に立つ。
「三島先輩、あの……これ、渡してって頼まれて」
「誰から?」
「えっと……『駅前のピアノのひと』から、です」

 律は指先で封筒を受け取った。厚紙の手触り、真ん中に浅い押し跡。開けると、硬いカードが一枚入っている。角が丸く、片側に微かな切り込み——カードホルダーに通すための穴だろう。
 浮き上がるロゴのエンボスは、指の腹で読めた。《SO-NO-REI STUDIO》。
 そして、点字の行が一行だけ、慎ましく打たれていた。

《宛名は、空白で。来られたら来てください。水曜、十九時。無観客配信。》

 息が少し熱くなる。
 「ありがとう」と言うと、後輩は「はい」とだけ返し、誰にも気づかれないように去っていった。

 宛名は空白——つまり、名を呼ばれないままで来てほしい、ということだ。
 律は封筒を胸ポケットにしまい、背筋を伸ばす。机の木目が服越しにもわかるほど、身体は軽くなっていた。

     ◇

 放課後。
 スタジオの建物の前は、夕方の空気が少しだけ濃かった。ガラスの自動扉が開く風の音、受付の機械的なビープ音、床材が変わるたびに靴の音の高さが変わる。
 律は白杖を短く持ち替え、案内の人に声をかける。

「無観客配信の見学で、招待です。宛名は……空白で」
「承っております。GUESTカードをおかけしますね」
 首にカードが載り、ひんやりした重みが喉の前に落ちる。
 受付の女性は、歩幅と速度を律に合わせ、階段の手前で「右に二段、踊り場、左に三段」と要点だけを告げた。
 こういう言葉の簡潔さは、律にとってありがたい。「見てください」「こちらです」では掴めない距離が、言葉でだけ埋まる瞬間がある。

 ドアの向こう、音が広がった。
 広い空間特有の反響。天井が高い。コードをひくスタッフの靴音、金属のスタンドが床を擦る乾いた線。
 そして——喉の高さでわかる、ひとつの気配。

「律」
 呼ばれた名は、小声でもすぐに見つかった。
 ユウが一歩近づく。ミントの香りは、今日は薄い。代わりに、遠くから温められた照明の匂いが微かに混ざっている。

「来てくれて、ありがとう」
「招待、ありがとう」
 言葉のすぐあと、ユウは耳の前にそっと空気を置くような声で続ける。
「ここ、足場にケーブルが這ってる。僕、左側につくから、右手を少しだけ前へ。……そう、その高さ」

 律が右手を伸ばすと、ユウの指先が一瞬、手の甲に触れた。導く、というより、支えるための触れ方だ。
 手と手が離れる。けれど、触れた温度だけが皮膚の上に残り、そこが目印みたいに確かだった。

「配信、すぐ始まるの?」
「ううん。まだリハが少しある。……そこ、よかったら座って。背もたれが低いから、楽だと思う」

 椅子の位置が丁度よく、膝裏に当たる高さが、律の身体の線とぴたりと合った。
 座ると、セッティングの音がひとつ、またひとつ消えていく。
 スタッフの声が「二分前」と告げ、場内の空気が少しだけ重く変わった。

 ユウの靴音がステージの中央へ向かう。
 マイクが位置を確認する低い“ポン”という音。
 イヤモニを耳に入れるときの薄い擦過音。
 律は自分の両手を膝の上で組み、深く息を吸った。青になる前の三秒に似た静けさが、スタジオの中央に生まれる。

「本番、五、四——」

 赤いランプの点灯音は鳴らない。だが、赤の存在は、音のないまま空気を染めた。
 ユウが、笑う。画面越しの笑顔でも、傘の下の笑顔でもない、ほんの少しだけ肩の力が抜けた笑い。

「やっほー、YUです。今日は新曲の制作過程を、すこしお見せします」

 配信は、いつも通りの始まりだった。
 語る内容も、ファンが知りたいことを外さない。
 だが律には、その声の底にある、わずかな“空き”が聴こえた。
 座るための椅子を一脚、心の中央に置いてある声。——練習でつけた余裕ではない。疲れでもない。守るための空洞でもない。
 そこは、声が抜けるための窓だった。

 ユウはカメラの赤い目を正面から受け止めながら、ほんの時折、視線の角度を変えた。
 視線が床に落ちる瞬間だけ、律の耳の手前に小さく光が集まる。
 たぶん、あれが合図だ。
 画面の誰もが気づかない、たった一人にだけ見える、光の動き。

 歌に入る。
 一曲目は、まだ歌い慣れていない新曲。
 ユウは、わずかにテンポを落として歌い出した。
 律にはわかる。ブレスの長さ、喉頭の上下の速度、声帯の閉じ方——「壊れないように歌う」ための丁寧さだ。

 一サビ前、ユウは一瞬だけ言葉を落とし、ブレスを長めに取った。
 そこだ、と思った瞬間、それは消えた。
 次の音に、何事もなく繋がっていく。
 カメラのレンズには映らない、誰にも説明できない長さの息。
 律の胸は、その長さの空白で満たされた。

(ここにいるよ)
(——いる)

 言葉では届かないやり取りが、空気にだけ残る。
 曲が終わると、配信のコメントが「やばい」「鳥肌」と流れていく気配が、スタッフの慌ただしさで伝わる。
 ユウは「ありがとう」とだけ言った。
 その一言の裏に、何層もの音が重なっていた。
 「ありがとう、世界」
 「ありがとう、あなた」
 「ありがとう、三分」

 間奏で水を飲む短い時間。
 誰かがスタンドを動かし、別の誰かがコードを束ねる。
 ユウが、そっと、律のほうへ顔を向ける。
 目が合わなくても、わかる向きだ。
 律は膝の上の両手をゆっくり開いて、閉じた。何も持たない掌を見せてから、握る。
 ——持ってるよ。
 言葉のかわりに。

 二曲目。
 ユウはイントロの中程で、半音だけ、狙って落とした。
 それは“外し”ではなかった。
 律の耳には、世界の中心が一ミリだけずれる音として届く。
 ずれた中心に、やさしい重力が生まれ、胸の奥がそちらへ引かれる。
 曲全体は崩れない。むしろ、全体が、その一ミリのために正しい位置を探し直す。
 律は、涙腺の奥が熱くなるのを、喉の奥で受け止めた。

 配信は滞りなく終わり、赤の光が空から退いていく。
 スタジオの空気が、すっと楽屋口のほうへ流れ出す。
 スタッフが「お疲れさま」と言い、拍手が散る。
 ユウの足音が、律のそばまで戻ってきた。

「律」
「うん」
「……ありがと」
「こちらこそ」

 短い沈黙。
 律は手探りで椅子の肘を叩く。二回、軽く。タタン。
 合図は昨日と同じ形で、今日の音に変わる。
 ユウが小さく笑う。

「少しだけ、時間ある?」
「ある」
「じゃあ、防音室。……誰も来ないから」

     ◇

 防音室の扉は重かった。
 手を離すと、空気がすっと密度を増して閉まる。
 部屋の中央に丸いスツールが二脚、隣り合って置かれている。
 ユウがひとつに腰を下ろし、律に隣を示した。

「ここ、僕がよく隠れる場所」
「隠れる?」
「うん。隠れたまま、見つけてもらいたいとき」

 律は笑う。
「わがままだな」
「そう。ずっと、わがままだよ」
「でも、いいわがまま」

 防音室の静けさは、静まり返るためのものではなく、音を抱きとめるための静けさだった。
 空気そのものが、柔らかい布になって、音の輪郭を崩さない。
 いつもの三分を、この小さな箱の中で延ばしていける気がした。

「——律」
「うん」
「今日は、君に教えてほしい」
「何を?」
「君の世界の歩き方。……君は、どうやって世界の形を決めるの?」

 律は少し考え、それから、両手を空中に上げた。
 指先で、目に見えない枠を作る。
「まず、音の高さで天井を決める。広い場所なら、拍手が遅れて戻る。ここは詰まってるから、息を吐くとすぐに返ってくる」
 ふっと息を吐く。柔らかく返ってきた。
「次に、匂いで季節を置く。今日は照明の熱と、ちょっとだけ新しい木の匂い。それで、“今”がここにいるって決まる」
「うん」
「最後に、君の声の位置で、世界の中心を置く。君の声が左なら、世界は少し左に歩き始める。右なら、右に」

 ユウの息が、短く揺れた。
 律は言葉を続ける。
「君がいなければ、世界は僕の胸の中でじっとしてる。君がいると、世界は歩き出す。……僕にとっては、そういう仕組み」

 防音室の静けさが、少しだけ濃くなる。
 ユウが、ゆっくりと、掌を差し出した。
 自分の口元からわずかに離れた位置。
「なら、今日は——君の世界の中心を、僕に預けてみない?」
「どうやって?」
「君の手、貸して。……声の前に置いて。僕はそこに向けて、喉を開く」

 律は、躊躇して、けれど手を伸ばした。
 ユウの声のすぐ手前。空気が、まだ言葉になる前の場所。
 そこに、掌をそっと置く。
 ユウは一度深く息を吸い、吐息の縁で「ありがとう」と呟いた。
 声が出る。
 発音にならない母音だけの、微かな響き。
 掌の皮膚が、その震えを受け止める。
 喉の奥で生まれた音が、発音器官を通り抜け、空気に変わる前の熱。
 律は目を閉じ、頷いた。
「ここにいる」
「——うん」

 ユウの声は、その一点に向かって真っ直ぐ進む。
 歌ではない。
 声。
 それだけだった。
 小さな箱の中で、ふたりは同じ呼吸をする。
 完璧ではない。
 でも、壊れない。
 壊れないで残る芯だけが、掌の上に小さく立った。

 やがて声が止むと、ユウは微笑した気配を見せた。
「律。……君の手、熱い」
「君の声が、熱いんだ」
「そうか」
「うん」

 沈黙は、怖くない。
 防音室の沈黙は、約束の形に似ている。
 名前を呼ばなくても、確かなものがそこにいる。
 呼ぶと壊れてしまうかもしれない何かが、呼ばないことで、はっきりと輪郭を持つ。

「ユウ」
 律は、それでも名前を呼んだ。
 呼んで、確かめたかった。
 呼んで、壊れないことを知りたかった。

「……うん」
 ユウは、同じ長さで返した。
 呼ぶことと呼ばれることの間で、ふたりはひとつ分、近づいた。

     ◇

 帰り際、廊下の角で、ふたりは立ち止まった。
 防音室から一歩外へ出ると、世界がすぐに大きくなる。
 空気の層が増え、音は層ごとに流れていく。
 律は白杖を握り直し、ユウは帽子のつばを指で押さえる。

「送るよ」
「いい。ここからは、僕の世界」
 律が微笑むと、ユウも同じ高さで笑った。
「来週の水曜、また」
「また」

 別れる直前、ユウが何かを言いかけ、言葉を飲んだ。
 飲み込まれた言葉の重さは、声にはならないが、足音の角度に出る。
 靴底が床を押す音が、ほんの少しだけ、ためらった。
 律は気づきながら、何も言わなかった。
 言わないまま、白杖で床を二度叩く。タタン。
 ユウが同じリズムで応える。
 それで十分だった。

     ◇

 夜。
 部屋に戻った律は、封筒からGUESTカードを取り出し、机の上に置いた。
 カードの四隅を指でなぞる。
 角にある小さな切り込みに、爪先が静かに引っかかる。
 ——宛名は、空白。
 誰のものでもない招待状を、今日は自分が受け取った。
 明日は、誰かに渡す日がくるかもしれない。
 それでも、今夜は、ここに置く。

 スマホが小さく震えた。
 読み上げが告げる。

《トレンド:#YU制作配信》《#半音の魔法》
《一部SNSで憶測投稿拡散——事務所はノーコメント》

 胸の奥で、冷たいものと温かいものが混ざる。
 憶測は風だ。
 風はときに火を煽り、ときに煙を散らす。
 律は、窓の外の音に耳を澄ませた。
 遠くの交差点。
 青になる前の、短い——けれど確かな——静けさ。
 その静けさは、誰のものにもならない。
 誰のものにもならない静けさを、ふたりで共有できることが、救いだった。

 ベッドに横になり、喉の奥で小さく、今日の声を反芻する。
 掌に残る熱が、ゆっくりと薄れていく。
 薄れていくほどに、輪郭は内側へ沈み、芯だけが浮かび上がる。
 涙が一筋、耳のほうへ流れる。
 泣く理由は、ひとつではない。
 嬉しさ、痛み、誇らしさ、怖さ。
 それらが混ざり合って、透明になる時、人は泣くのだろう。
 涙は、敗北ではない。
 涙は、合図だ。
 ——ここにいる。
 ——ここにいて、よかった。
 胸の中の誰かに、そう伝えるための、無言の合図。

     ◇

 同じ時刻、ユウはマンションのベランダに出て、夜風を吸い込んだ。
 遠くで鳴るクラクション。下の階の誰かが洗濯機を回す振動。
 世界は、音で確かに生きている。
 室内から、メッセージの通知音がした。
 マネージャーからだ。

《来月の海外、日程確定。追加で二公演。おめでとう》
《噂は沈静化の見込み。ただし、しばらくは“距離を置け”で》

 “距離を置け”
 その四文字は、喉の内側の柔らかい場所をさっと切り、血の代わりに冷たい空気を滲ませた。
 距離——
 置く距離がわからない。
 ゼロと無限の間にどれほどの距離があるか、ステージの上では歌えるのに、日常では急にわからなくなる。

 ベランダの手すりに肘を置き、ユウは目を閉じる。
 掌に、今日の温度が残っている。
 声が空気になる前に触れた、あの一点。
 そこに向けて声を出せば、距離は数字にならない。
 数字にならない距離を、僕らは歩ける。
 ——歩ける、と信じたい。

 ふと、胸ポケットに薄い紙の感触。
 折り畳んだ小さな便箋。
 午前、スタジオへ来る前に、ユウは自分で打った点字を、試しに書いてみたのだ。
 覚えたての稚拙な点で、震える手で。

《三分、椅子、窓。》
《合図の練習。青になる前。》

 目では読めない小さな点。
 けれど、指先で辿れば、確かに“見える”。
 ユウは紙を畳み直し、胸に戻した。
「——来週」
 声に出して言う。
「来週の水曜」
 風が答えない代わりに、どこか遠くで信号が変わる電子音が鳴った気がした。
 幻でもよかった。
 来週までの距離は、ちゃんと合図の数で測れる。
 そうやって、生き延びる。

     ◇

 翌朝。
 校門の前に立つと、澪が駆け寄ってきた。
「兄ちゃん」
「ん?」
「これ、落ちてた」
 差し出されたのは、硬い紙片。昨日のGUESTカードだ。
 律は苦笑した。「ありがとう。忘れ物、久しぶり」
「ううん。兄ちゃん、なんか、昨日の夜から“軽くなった”」
「軽く?」
「抱っこしたら、浮くみたいな」
 澪の比喩はときどきとんでもない方向へ行くが、今日のは妙に合っていた。
「……浮くほど軽くはないけど」
「なら、風船一個ぶんくらい」

 律は笑い、カードの穴に指先を通して揺らした。
 首から下げたわけでもないのに、喉の前に確かに重さを思い出す。
 無数の目の前で、たった一人に向けて落とされた半音。
 届いた。
 届いて、ここに重さとして残っている。

 朝のチャイムが鳴る。
 教室へ向かう廊下の途中、後ろから足音が重なった。
 ユウの足音ではない。
 でも、律は二拍目で歩き出した。
 青になる前の三秒を、胸の奥に抱いて。