駅前の広場に置かれたアップライトは、昼と夜で表情が違った。
昼間は子どもたちが楽しげに鍵盤を叩き、夜は通りすがりの誰かが立ち止まり、短い演奏を残していく。
律にとって、あのピアノは「地図を描くための道具」だった。見えない街の中で、音だけを頼りに方向を探す彼にとって、白鍵と黒鍵は“世界をなぞる指標”のようなものだった。
その日も、律は学校帰りに広場へ足を運んだ。
スマホの読み上げで時間を確かめる。午後四時三十二分。まだ人通りは多い。
鍵盤の蓋を開けると、背後から声がした。
「律」
ミントの香り。あの声。
心臓が、一拍だけ速くなる。
「来てくれたんだ」
「うん。……でも今日は、君にお願いがある」
「お願い?」
「ぼくに、歌わせてほしい」
ユウの声は、どこか怯えていた。
律は首をかしげる。彼の声は舞台で鍛えられたものなのに、なぜかこのときだけは、まだ自分を信用していないように聞こえた。
「歌うのに、許可はいらないよ」
「ちがう。……ぼくが、君に聴いてほしい」
律は、胸の奥があたたかくなるのを感じた。
音楽を「聴いてほしい」と願うのは、誰かに心を差し出すことと同じだ。
「わかった。じゃあ、僕が伴奏するよ」
律は鍵盤に手を置いた。ユウが選んだのは、知らない曲だった。律は和音を探りながら、耳で彼の呼吸を追う。
最初の数小節は震えていた。声が揺れ、外れるたびにユウが小さく舌打ちする気配がある。
律は淡々と和音をつなぎ、外れた音を隠すように響きを厚くした。
「……ごめん」
途中でユウが息を止めた。
「だめだ。舞台では絶対に許されない音だ」
律は首を振った。
「僕には、ちゃんと届いた」
「でも」
「でもじゃない。君の声は、外れたときのほうが、色が見える」
ユウが息を呑む。律は、そっと続けた。
「世界の色は、完璧じゃないと出てこないわけじゃない。壊れたときにしか見えない色もある」
沈黙が落ちた。
ユウはやがて、深く息を吸い込み、もう一度声を重ねた。
今度は、失敗を恐れなかった。掠れた声は、逆に律の世界に強い輪郭を刻んだ。
三分。
それは、ふたりだけの小さな宇宙だった。
演奏を終えたとき、広場には誰も拍手しなかった。
でも律にはわかる。ユウの喉が、震えを収めて安堵の息を吐いたこと。
それが何よりの証拠だった。
その日の夕方、律は家の門扉に手をかける前に、いつもより長く立ち止まった。
玄関の前には小さな植木鉢が三つ並んでいる。妹が育てているハーブだ。葉を撫でると、指先に少し湿った香りが移る。ミント。広場で嗅いだものより優しく、家の温度がした。
「ただいま」
靴を脱ぐと、台所から鍋のふつふつ煮える音がした。湯気の水分が空気の形を変え、廊下に柔らかい膜を張る。
母は振り返り、いつもの調子で言った。「おかえり。今日、ちょっと顔が明るいわね」
「そう?」
「そうよ。歩き方が軽いもの」
妹の澪が、音もなく近づいてきた。
「おかえり。はい、手」
差し出された手のひらは、いつもより少しひんやりしていて、律の手を包むとすぐに温度が混ざった。
「兄ちゃん、ピアノだった?」
「うん。弾いた」
「だれかと?」
律は少し笑って、うなずく代わりに首をかしげた。
「……秘密でもいい?」
「うん。秘密にするかわりに、ミントのお茶いれる」
食卓に三つの湯呑みが置かれ、ぽちぽちと小さな泡が縁を叩く音がした。
父が帰ってくるまでは、三人の静かな時間だ。
母は律の前にそっと湯呑みを置き、香りの方向がわかるように、湯気がまっすぐ立つ位置に少しだけ押しやった。
律は、その配慮に気づいていることを言葉にしない。言葉にせずに、息の調子で伝える。家族の言語は、時々それで十分だ。
「律」
「ん?」
「最近さ、笑う回数が増えた」澪が言った。「いいことだと思う。なんか、前は、ふわふわしてたけど、今は、輪郭がある感じ」
「輪郭?」
「うん。触ったらわかる、って感じ」
律は喉の奥で短く笑った。輪郭という言葉は、今日、何度も心に浮かんだものだ。
世界の輪郭。声の輪郭。誰かの存在の輪郭。
たった三分で、輪郭は変わる。変わった輪郭は、もう元には戻らない。
母が味噌汁の鍋を火から下ろす音。
「ねえ律、明日、学校の先生から電話が来るかも。進路指導の話で」
「うん」
「進学先の設備のこと、また一緒に見に行こうね。点字の資料、学校が取り寄せてくれるみたい」
「ありがとう」
胸が、静かに温かい。
家の会話は、生活のための音で満ちている。食器が触れる音、布巾で拭く音、椅子が床を擦る音。
その音たちは、律にとって見える景色と同じくらいの意味を持つ。——いや、景色より、価値があるのかもしれない。音は、手で触れなくても、触れられる。
食事のあと、父が帰宅する気配がして、玄関が開いた。
律は立ち上がり、靴の音で誰かを確認するいつもの癖が、今日は少し遅れた。
代わりに澪が走っていき、「おかえり」と声を上げる。
家の扉が閉まる音は、外の喧騒と家の静けさを分ける境目だ。
境目を越える音は、いつも律に安心をくれる。今日も、そうだった。
自室に戻ると、机の上のスマホが短く震えた。
読み上げ機能が、そっと言葉を運ぶ。
《AURORA:今夜20時、生配信告知》
《#YU新曲制作舞台裏》
胸の奥に小さな波が立つ。
律はその波に、そっと指を浸した。
——このタグの“YU”は、画面の向こうの大勢の“YU”だ。
自分にとってのユウは、傘の下で呼吸の長さを合わせた“ユウ”で、駅前の三分を一緒に息した“ユウ”だ。
画面の“YU”と、傘の“ユウ”。
どちらも本当で、どちらも本当じゃない。
その曖昧を抱えたまま、律はスマホを伏せて、ピアノの鍵盤に指を置いた。
今日は、音を出さない。鍵盤の表面だけを、指先で撫でる。
木目のわずかな凹凸。黒鍵の、夏の夜みたいな滑らかさ。
音がなくても、音はある。
指先が覚える音は、胸の奥に真っ直ぐ落ちていった。
◇
同じ時間、ユウは白い壁の前でライトを浴びていた。
スタッフが小声で確認する。「コメント流れ、いい感じです」
「ありがとうございます」
ユウはカメラに向き、いつもの笑顔を作った。
「やっほー、YUです。今日は少しだけ、制作の話をします」
目の前の小さな画面には、世界が逆さまに映っている。
国籍も年齢もわからない無数の言葉が、雨のように流れていく。
「愛してる」「声を聴かせて」「次のツアーはいつ?」
そのどれもが温かく、ありがたい。
けれど——ユウは、画面の右上に小さな影を見た。
《YU、最近だれかといる?》
《目撃情報:駅前の——》
スタッフの指が画面をさっと上に払う。
ユウは、笑顔の角度を変えない。喉の奥で、ほんの少しだけ息を止める。
「制作は……新しい挑戦をしてます。もう少し、素の声で歌える気がしています」
素の、声。
その言葉が、ユウ自身に刺さって、しばし喉の内側に残った。
配信が終わると、スタッフが軽く拍手をした。「お疲れさま」
「ありがとうございます」
マイクを外し、イヤモニを外す。耳の中がやっと自分の空気で満たされる。
マネージャーが、控えめに声をかけた。「最近、学校帰りに寄り道してる?」
「してません」
「そう。気をつけてね。最近、週刊誌がうるさくて」
「……はい」
嘘ではなかった、とユウは思う。学校に行っていないから。
けれど、誰かに見られているかもしれない、という意識は、肌に細い針を刺すように広がった。
針の向こう側で、傘の下の呼吸が揺れる。
その揺れは、針よりもずっとやさしかった。
◇
次の水曜までのあいだ、律は「世界の濃度が少し濃くなった」ような日々を過ごした。
歩道の段差の高さ、バスの乗り口のゴムの弾力、信号音のわずかな機種の違い。
それらは以前からあったはずのものだが、今週に限って、輪郭がいちいちくっきりと立ち上がる。
ありふれた生活の粒子が、胸の内側で集まって、静かにかたちを作る。
目には見えない何かが、確かに見える。
もちろん、全てが順調というわけではない。
教室では、誰かの笑い声が時々、鋭い刃の形になる。
「駅ピアノ、下手なやつらが集まっててウケる」と誰かが言った。
律は、そこで反射的に笑ってしまい、後で自分に腹を立てた。
笑ってしまったのは、波風を立てないためだ。
波風を立てない笑いは、波より先に自分を切る。
それでも、切れた場所から、何かが染みる。
染みたものは、やがて色になる。
色は、音になる。
音になった色は、誰かの喉を温める。
——そう信じた。
放課後、校門を出ると、背後から足音が追いついた。
「三島くん!」
吹奏楽部の後輩らしい。律は立ち止まり、振り向く代わりに耳を向ける。
「この間、駅で弾いてましたよね。すごく、良かったです」
律は少し驚いた。
「ありがとう」
「なんていうか……見えないものが見えるみたいでした」
律は息を吸った。「それ、嬉しい」
「また、聴かせてください」
足音が遠ざかると、律は胸の奥で小さく笑った。
見えないものが見える。
誰かがそう言ってくれる世界に、自分はいる。
その事実が、何よりも重かった。
◇
水曜。
広場のピアノは、曇り空の下で静かに待っていた。
律が近づく気配に、ピアノはもちろん応えない。けれど、鍵盤の木は、湿度で少しだけ膨らんで、いつもより指に柔らかい面を見せた。
「律」
ユウの声は、先週よりも落ち着いていた。
息の置き方が、律の三秒と同じ長さになっている。
そのことに気づくと、律の胸の中で、何かが小さく灯った。
「今日、お願いがある」
「前回も言ってた」
「前回と、同じお願い。……僕に、レッスンをしてほしい」
律は少しだけ眉を寄せた。
「レッスン?」
「匿名のままでいい。君は僕の名前を呼ばなくていい。僕も、君の先生にはならない。ただ、ここで、三分だけ。君が見てる世界を、僕の声が歩けるように、助けてほしい」
遠くで救急車のサイレンが鳴った。
世界はどこかで何かを失い、どこかで何かが生まれている。
駅前の風は、二人の間だけを温かく通り過ぎた。
「いいよ」
律は言った。「でも、僕のやることは、きっと“レッスン”とは違う。君の声の前に、小さな椅子を置くだけ」
「椅子?」
「座って休める場所。そこに座っていいって、言うだけ」
ユウが笑った。喉の奥で、ほんの少しだけ震える笑い。
「それが、ずっと欲しかった」
律は鍵盤に手を置いた。
今日は、ユウが先に声を置く。律はその後ろで、椅子を並べるように音を置く。
ユウの声は、前よりも少しだけ、素肌に近い。
完璧の皮膚を一枚脱いで、細い血管の通うところが、音として見える。
律は、その声に寄りかかりすぎない距離で伴奏を続けた。寄りかかりすぎると、壊れる。離れすぎると、届かない。
その中間を、音で測る。
曲が終わると、ユウは小さく息を吐いた。
「ねえ、律」
「うん」
「僕さ、いつか、世界中の誰もが聴いてるときに、誰にも届かない声を出したいって思ってた」
「……それは、どういう?」
「誰にも届かない、じゃないか。違う。世界中の誰にでも届く声を出して、同時に、たった一人にしか届かない合図を入れるってこと」
「合図」
「うん。半音を、わざと外すとか。ブレスをひとつ、長めに取るとか。誰にも気づかれなくていい。君にだけ、わかればいい」
律の喉が、乾いた。
傘の下の呼吸。青信号の三秒。
世界中のライトが彼に向いたとき、たった一人の耳に向ける、秘密の合図。
——心臓が、痛い。
「君は、勝手だね」
律は笑った。「世界を全部抱えて、それから僕にだけ分けるなんて」
「勝手だよ。ずっと、勝手でいたい。でも、勝手でいるためには、君が必要だった」
遠くで、風鈴のような音がした。
商店の店先に吊るされた小さな鈴。季節外れの音は、風の気まぐれで鳴ったのだろう。
律はその音を、胸の中の引き出しにしまった。
合図は、いくつあってもいい。
いくつあっても、足りない。
◇
その夜、ユウのマンションの前に、見慣れない影が二つあった。
雨上がりの湿気を含んだ夜気の中で、影はカメラを持って、息を潜めている。
ユウはそれに気づいていた。気づかないふりをして、車寄せからすばやくエレベーターに乗る。
心臓の拍は、舞台前みたいに早かった。
エレベーターの鏡に映る自分は、完璧に整った顔をしている。
完璧の顔は、体温を奪う。
ユウは、目を閉じた。
傘の下の湿度。ミントの香り。
耳の前に開けた小さな窓。
そこから抜けていく声は、体温を奪わない。
奪わないどころか、戻してくれる。
部屋に入ると、携帯が震えた。
マネージャーのメッセージ。
《マンション前に張りがいる。外出は控えて》
《あと、学校関係はできるだけ避けて》
ユウは、返事を打ちかけて止めた。
学校関係——駅前。広場。
言葉は刃だ。
だが、言葉は橋にもなる。
ユウは代わりに、別のメッセージを打った。
《来週の水曜、三分。行けます》
宛先はない。
送る相手がいないメモに書いて、自分の中に送った。
——覚えておけ。
そう自分に言って、スマホを伏せる。
◇
週末、律は澪に頼まれて、一緒に商店街へ出かけた。
手を引かれるのは嫌いではないが、今日は自分の白杖の先に重さが乗らないように、少しだけ前を歩く。
澪は律の半歩斜め後ろで歩幅を合わせるのがうまい。
「兄ちゃん、ミントの他に何育てたい?」
「ローズマリー」
「肉に強いね」
「うん。強い香りは、音が濃い」
八百屋の前で、店主が声を上げた。「お、律くん。今日は妹ちゃんと?」
「はい」
「ピアノ聴いたぞ。あれ、よかったな。店の奥まで音が入ってきてさ。野菜が新鮮に見えたよ」
澪が嬉しそうに笑う。律も笑った。
「ありがとうございます」
ふと、人の流れが変わった。
空気が、スマホの画面の方向に引っ張られる。
若い女性たちが、同じ方向で息を短く吸う音。——何か、出た。
澪が律の腕をちょんとつついた。「兄ちゃん、立ち止まって」
律は従い、澪の小さな肩越しに世界の気配を聴く。
読み上げの音が、どこかで漏れた。
《YU、謎の少年と?》
《交差点の目撃談、真偽は——》
胸が一度だけ硬くなる。
次の瞬間、澪が律の手を握った。
「大丈夫」
その言葉が、どこに向けられているのか、律は尋ねない。
自分に。ユウに。あるいは、世界に。
どれでもよかった。手の温度が、言葉を選んでくれる。
家に戻ると、律は机に向かって、小さなカードを一枚取り出した。
罫線のない白いカード。
そこに、点字で短く打つ。
《三分、椅子、窓》
自分だけが読める言葉。
この三つがあれば、世界は立つ。
三分——時間。椅子——居場所。窓——声の抜け道。
この三つを、誰かと共有できるなら、その誰かは、名前がなくても、もう名前だ。
◇
月曜の朝、ユウは事務所に呼ばれた。
会議室は、冷房の風がまっすぐ降りる場所に椅子が置かれていて、背筋を伸ばすと首の後ろがやや冷たかった。
マネージャーと、広報の担当者がいる。
「YU。最近、ひとりで動くことが増えた?」
「いいえ」
「そう。ならいい。ちょっと噂が出たけど、すぐ消えると思う。ただ、しばらくは用心して」
「わかりました」
用心。
その言葉は、ユウの内側で粘る。
用心は、感情の幅を削る。音域を狭める。
狭まった音域で歌うには、体のどこかを強くしなければならない。
強くする場所を間違えると、声はすぐ壊れる。
ユウは、わざと喉ではなく、足の裏に力を入れた。
椅子の足が床を押す音で、今ここにいることを確かめる。
「YU」
広報が、柔らかい声で続けた。「君は強い子だから大丈夫。君の仕事は、世界に夢を見せること。大丈夫ね?」
「……はい」
夢は、時々、誰かの現実を踏む。
そのことも、ユウは知っている。
だからこそ、三分でいい。
三分だけは、誰の現実も踏まずに、誰かの現実に触れたい。
——律の現実に。
◇
火曜の夜、律は眠りが浅かった。
夢と現の間に薄い布が垂れていて、指でつまめば破れる。
破った先に広がるのは、雨上がりの交差点。
青になる前の三秒。
律は視界のない世界で、なぜか青を“見た”気がして、はっと目を開けた。
天井のない暗さが、胸に静かに降りてくる。
枕元のスマホに触れ、時間を聞く。午前二時十二分。
水を飲もうと起き上がり、窓のところで立ち止まる。
外の空気が、わずかに動いた。
誰かが道を渡るときの、あの一瞬の静けさだけが、夜の中で輪郭を持っていた。
——明日。
律は息を吸う。
明日、三分。
明日、椅子。
明日、窓。
◇
水曜。
広場に着いた律は、鍵盤の蓋にそっと指をかけた。
その前に、小さな紙袋が置かれている。
軽い。持ち上げると、角で音がした。
中には、薄いメトロノームが一つと、折り畳まれた紙が入っていた。
紙は香りでわかる。新しいインクの匂い。
律は指先で触れ、紙の厚さと折り目の数だけを確かめてから、胸ポケットにしまった。
ユウの足音が、一歩、二歩。
「律」
「うん」
「今日は、最後に一つ、試したいことがある」
「どんな?」
「君の耳の前の、窓。……それを、僕が見つける」
律は、笑った。
「それは、君のほうが得意だと思う」
「どうして?」
「だって、君は世界中の窓を開ける声を持ってる。だったら、一つの小さな窓くらい、開けられるよ」
ユウは、なにかを飲み込むようにして息を吸った。
その息の震えは、律の指先に伝わる。
律は、鍵盤に手を置き、ユウの声を待った。
ユウが最初の音を出す。
律は、和音で廊下を作る。
ユウは、廊下の途中で立ち止まり、視線の代わりに声を巡らす。
——ここだ。
ユウの声が、律の耳の手前でわずかに広がる。
窓の位置を、声が見つけた。
律の胸に、光が落ちる。
見えない光。
けれど、確かに温度を持つ光。
三分が終わる頃、二人は同じ場所にいた。
名前ではなく、呼吸で、場所を共有する。
それは、世界でいちばん静かな、所有だった。
「ねえ、律」
「うん」
「君は、僕がどんな名前でも、僕のこと、ユウって呼ぶ?」
「呼ぶよ」
「どうして?」
「合図だから。……君が、君であるっていう、合図」
ユウは、笑ったのか泣いたのか、どちらともつかない声を漏らした。
「ずるいな」
「ずるいよ」
律も笑った。「僕ら、ずるいままでいい」
「うん。ずるくて、優しくて、弱くて、強い」
「うん」
小さな風が吹いた。
風は、季節をひとつ運んでいった。
まだ、夏の終わりの匂い。
まだ、終わらない。
別れ際、ユウが言った。
「来週の水曜も」
「来週の水曜も」
律は、白杖で縁石を二度、軽く叩いた。タタン。
返ってきた靴音は、たしかに、同じリズムだった。
◇
家へ向かうバスの中で、スマホが震えた。
読み上げ機能が、次の言葉を運ぶ。
《速報:AURORA、海外ステージ決定。来月》
《YUコメント「最高の夜にする」》
胸の中で、潮の満ち引きのように感情が揺れた。
最高の夜。
画面の向こうの“YU”が、世界に向けて約束する夜。
傘の下の“ユウ”は、誰に向けて約束するのだろう。
——約束の相手が、自分であってもいいのだろうか。
胸が痛い。
痛みは、嫌いじゃなかった。
痛みは、輪郭をくれる。
輪郭は、触れることを許す。
窓の外、交差点。
青になる前の三秒。
律は、息を深く下げた。
そして、次の水曜までの距離を、胸の中の指で測った。
遠い。近い。遠い。近い。
その繰り返しが、恋の歩幅に似ていることを、まだ、言葉にはしない。
その週末、律の耳に、ざわつく噂が届いた。
教室の隅、誰かがスマホの画面を覗き込み、低い声で囁いていた。
「YU、彼女いるらしいって」
「いや彼氏じゃね? 男と一緒にいたって」
「駅前で見たっていう目撃談、上がってるぞ」
笑い混じりの声が、律の背中に薄い針を刺す。
律は表情を変えずにノートに手を動かす。黒板の音は聞こえない。クラスのざわめきも、遠い。
ただ、その針の向こう側で、ユウが小さく息を止める気配が聞こえた気がした。
聞こえるはずがない。けれど、胸の奥で確かにそう響いた。
放課後、スマホが短く震えた。
読み上げが告げる。
《AURORA関係者「YU、私生活に関する事実なし」》
《SNSで憶測拡大、ファン動揺》
律は歩道橋の上で立ち止まり、胸の奥を握りつぶされるような思いに駆られた。
名前が世界に晒されるとき、それは祝福と同時に、呪いにもなる。
ユウの声は、誰よりも多くの人に届いている。
けれど、その声を「たった一人にだけ届かせたい」と願った秘密は、簡単に奪われてしまう。
夜。
部屋の灯りを落とし、律はピアノの前に座った。
鍵盤に触れるだけで、ユウの喉の震えが思い出される。
青になる前の三秒。
律は胸を深く下げ、息を止めた。
その三秒を過ごすときだけ、針のような言葉も、外のざわめきも、遠ざかる。
指が自然に旋律を紡ぐ。ユウと交わした三分の記憶をなぞるように。
音は、声と違って誰にも奪えない。たとえ間違えても、次の音を置けば続いていく。
律はそう信じて、目を閉じた。
◇
同じ夜、ユウはマンションの部屋でマネージャーと向かい合っていた。
机の上には週刊誌の見出しが並んでいる。
《YU、謎の少年と駅前でピアノ?》
《恋人疑惑浮上——事務所は否定》
「YU、しばらくは単独での外出は控えて」
「……はい」
「ファンは敏感なんだ。ひとつの噂が一瞬で炎上する。君の価値を守るためにも」
守る。
その言葉が、ユウの胸に重く沈む。
守られる代わりに、失うものがある。
交差点の合図。傘の下の呼吸。駅前の三分。
ユウは机の端を握った。爪が食い込む。
「……でも、あの場所は」
「だめだ。理解して」
マネージャーの声は冷たくも優しかった。
「君の声は、世界のものだ。世界を裏切るな」
ユウは、目を閉じた。
脳裏に浮かんだのは、律の声だった。
——君の声は、壊れたあとも残る。
その言葉だけが、胸の奥に残った。
◇
次の水曜。
広場には、雨が降っていた。
律は傘を持ち、白杖を短く持ち替えて、ピアノの前に立った。
鍵盤の蓋は濡れていて、指先に冷たかった。
ユウは来ないかもしれない。そう思いながらも、律は待った。
十分。二十分。
人の気配が薄くなり、雨音だけが強くなったころ。
足音が一つ、近づいてきた。
律の胸が跳ねる。
「……律」
息が荒い。走ってきたのだ。
傘も持たず、濡れた髪から滴が落ちている気配がする。
「来ちゃ、だめだって言われた。でも、来た」
律は、声の震えを聴きながら、静かに言った。
「よかった」
ユウは笑い、そして、少し泣いた。
「もう会えないって、言わなきゃいけないんだ」
「じゃあ、最後に」
「最後に?」
「歌ってよ。ここで」
雨が、拍を刻んでいた。
律はピアノの蓋を開け、濡れた鍵盤に指を置く。
ユウの声が重なった。
雨と、音と、震え。
三分が過ぎても、誰も止めない。
世界が、二人の音を包んでいた。
曲が終わり、ユウは小さく呟いた。
「青になったよ」
律は、雨の向こうの信号音を聴いた。
「じゃあ、一歩を」
二人は同時に、踏み出した。
◇
その夜。
律のスマホが告げる。
《速報:AURORA、YU、海外公演決定。来月》
《インタビュー:「この声を世界に届けたい」》
律は笑った。
世界に届く声。
たった一人に届く声。
どちらもユウの声だ。
だから、自分は待つ。青になる前の三秒を。
その合図が、必ず戻ってくると信じて。
昼間は子どもたちが楽しげに鍵盤を叩き、夜は通りすがりの誰かが立ち止まり、短い演奏を残していく。
律にとって、あのピアノは「地図を描くための道具」だった。見えない街の中で、音だけを頼りに方向を探す彼にとって、白鍵と黒鍵は“世界をなぞる指標”のようなものだった。
その日も、律は学校帰りに広場へ足を運んだ。
スマホの読み上げで時間を確かめる。午後四時三十二分。まだ人通りは多い。
鍵盤の蓋を開けると、背後から声がした。
「律」
ミントの香り。あの声。
心臓が、一拍だけ速くなる。
「来てくれたんだ」
「うん。……でも今日は、君にお願いがある」
「お願い?」
「ぼくに、歌わせてほしい」
ユウの声は、どこか怯えていた。
律は首をかしげる。彼の声は舞台で鍛えられたものなのに、なぜかこのときだけは、まだ自分を信用していないように聞こえた。
「歌うのに、許可はいらないよ」
「ちがう。……ぼくが、君に聴いてほしい」
律は、胸の奥があたたかくなるのを感じた。
音楽を「聴いてほしい」と願うのは、誰かに心を差し出すことと同じだ。
「わかった。じゃあ、僕が伴奏するよ」
律は鍵盤に手を置いた。ユウが選んだのは、知らない曲だった。律は和音を探りながら、耳で彼の呼吸を追う。
最初の数小節は震えていた。声が揺れ、外れるたびにユウが小さく舌打ちする気配がある。
律は淡々と和音をつなぎ、外れた音を隠すように響きを厚くした。
「……ごめん」
途中でユウが息を止めた。
「だめだ。舞台では絶対に許されない音だ」
律は首を振った。
「僕には、ちゃんと届いた」
「でも」
「でもじゃない。君の声は、外れたときのほうが、色が見える」
ユウが息を呑む。律は、そっと続けた。
「世界の色は、完璧じゃないと出てこないわけじゃない。壊れたときにしか見えない色もある」
沈黙が落ちた。
ユウはやがて、深く息を吸い込み、もう一度声を重ねた。
今度は、失敗を恐れなかった。掠れた声は、逆に律の世界に強い輪郭を刻んだ。
三分。
それは、ふたりだけの小さな宇宙だった。
演奏を終えたとき、広場には誰も拍手しなかった。
でも律にはわかる。ユウの喉が、震えを収めて安堵の息を吐いたこと。
それが何よりの証拠だった。
その日の夕方、律は家の門扉に手をかける前に、いつもより長く立ち止まった。
玄関の前には小さな植木鉢が三つ並んでいる。妹が育てているハーブだ。葉を撫でると、指先に少し湿った香りが移る。ミント。広場で嗅いだものより優しく、家の温度がした。
「ただいま」
靴を脱ぐと、台所から鍋のふつふつ煮える音がした。湯気の水分が空気の形を変え、廊下に柔らかい膜を張る。
母は振り返り、いつもの調子で言った。「おかえり。今日、ちょっと顔が明るいわね」
「そう?」
「そうよ。歩き方が軽いもの」
妹の澪が、音もなく近づいてきた。
「おかえり。はい、手」
差し出された手のひらは、いつもより少しひんやりしていて、律の手を包むとすぐに温度が混ざった。
「兄ちゃん、ピアノだった?」
「うん。弾いた」
「だれかと?」
律は少し笑って、うなずく代わりに首をかしげた。
「……秘密でもいい?」
「うん。秘密にするかわりに、ミントのお茶いれる」
食卓に三つの湯呑みが置かれ、ぽちぽちと小さな泡が縁を叩く音がした。
父が帰ってくるまでは、三人の静かな時間だ。
母は律の前にそっと湯呑みを置き、香りの方向がわかるように、湯気がまっすぐ立つ位置に少しだけ押しやった。
律は、その配慮に気づいていることを言葉にしない。言葉にせずに、息の調子で伝える。家族の言語は、時々それで十分だ。
「律」
「ん?」
「最近さ、笑う回数が増えた」澪が言った。「いいことだと思う。なんか、前は、ふわふわしてたけど、今は、輪郭がある感じ」
「輪郭?」
「うん。触ったらわかる、って感じ」
律は喉の奥で短く笑った。輪郭という言葉は、今日、何度も心に浮かんだものだ。
世界の輪郭。声の輪郭。誰かの存在の輪郭。
たった三分で、輪郭は変わる。変わった輪郭は、もう元には戻らない。
母が味噌汁の鍋を火から下ろす音。
「ねえ律、明日、学校の先生から電話が来るかも。進路指導の話で」
「うん」
「進学先の設備のこと、また一緒に見に行こうね。点字の資料、学校が取り寄せてくれるみたい」
「ありがとう」
胸が、静かに温かい。
家の会話は、生活のための音で満ちている。食器が触れる音、布巾で拭く音、椅子が床を擦る音。
その音たちは、律にとって見える景色と同じくらいの意味を持つ。——いや、景色より、価値があるのかもしれない。音は、手で触れなくても、触れられる。
食事のあと、父が帰宅する気配がして、玄関が開いた。
律は立ち上がり、靴の音で誰かを確認するいつもの癖が、今日は少し遅れた。
代わりに澪が走っていき、「おかえり」と声を上げる。
家の扉が閉まる音は、外の喧騒と家の静けさを分ける境目だ。
境目を越える音は、いつも律に安心をくれる。今日も、そうだった。
自室に戻ると、机の上のスマホが短く震えた。
読み上げ機能が、そっと言葉を運ぶ。
《AURORA:今夜20時、生配信告知》
《#YU新曲制作舞台裏》
胸の奥に小さな波が立つ。
律はその波に、そっと指を浸した。
——このタグの“YU”は、画面の向こうの大勢の“YU”だ。
自分にとってのユウは、傘の下で呼吸の長さを合わせた“ユウ”で、駅前の三分を一緒に息した“ユウ”だ。
画面の“YU”と、傘の“ユウ”。
どちらも本当で、どちらも本当じゃない。
その曖昧を抱えたまま、律はスマホを伏せて、ピアノの鍵盤に指を置いた。
今日は、音を出さない。鍵盤の表面だけを、指先で撫でる。
木目のわずかな凹凸。黒鍵の、夏の夜みたいな滑らかさ。
音がなくても、音はある。
指先が覚える音は、胸の奥に真っ直ぐ落ちていった。
◇
同じ時間、ユウは白い壁の前でライトを浴びていた。
スタッフが小声で確認する。「コメント流れ、いい感じです」
「ありがとうございます」
ユウはカメラに向き、いつもの笑顔を作った。
「やっほー、YUです。今日は少しだけ、制作の話をします」
目の前の小さな画面には、世界が逆さまに映っている。
国籍も年齢もわからない無数の言葉が、雨のように流れていく。
「愛してる」「声を聴かせて」「次のツアーはいつ?」
そのどれもが温かく、ありがたい。
けれど——ユウは、画面の右上に小さな影を見た。
《YU、最近だれかといる?》
《目撃情報:駅前の——》
スタッフの指が画面をさっと上に払う。
ユウは、笑顔の角度を変えない。喉の奥で、ほんの少しだけ息を止める。
「制作は……新しい挑戦をしてます。もう少し、素の声で歌える気がしています」
素の、声。
その言葉が、ユウ自身に刺さって、しばし喉の内側に残った。
配信が終わると、スタッフが軽く拍手をした。「お疲れさま」
「ありがとうございます」
マイクを外し、イヤモニを外す。耳の中がやっと自分の空気で満たされる。
マネージャーが、控えめに声をかけた。「最近、学校帰りに寄り道してる?」
「してません」
「そう。気をつけてね。最近、週刊誌がうるさくて」
「……はい」
嘘ではなかった、とユウは思う。学校に行っていないから。
けれど、誰かに見られているかもしれない、という意識は、肌に細い針を刺すように広がった。
針の向こう側で、傘の下の呼吸が揺れる。
その揺れは、針よりもずっとやさしかった。
◇
次の水曜までのあいだ、律は「世界の濃度が少し濃くなった」ような日々を過ごした。
歩道の段差の高さ、バスの乗り口のゴムの弾力、信号音のわずかな機種の違い。
それらは以前からあったはずのものだが、今週に限って、輪郭がいちいちくっきりと立ち上がる。
ありふれた生活の粒子が、胸の内側で集まって、静かにかたちを作る。
目には見えない何かが、確かに見える。
もちろん、全てが順調というわけではない。
教室では、誰かの笑い声が時々、鋭い刃の形になる。
「駅ピアノ、下手なやつらが集まっててウケる」と誰かが言った。
律は、そこで反射的に笑ってしまい、後で自分に腹を立てた。
笑ってしまったのは、波風を立てないためだ。
波風を立てない笑いは、波より先に自分を切る。
それでも、切れた場所から、何かが染みる。
染みたものは、やがて色になる。
色は、音になる。
音になった色は、誰かの喉を温める。
——そう信じた。
放課後、校門を出ると、背後から足音が追いついた。
「三島くん!」
吹奏楽部の後輩らしい。律は立ち止まり、振り向く代わりに耳を向ける。
「この間、駅で弾いてましたよね。すごく、良かったです」
律は少し驚いた。
「ありがとう」
「なんていうか……見えないものが見えるみたいでした」
律は息を吸った。「それ、嬉しい」
「また、聴かせてください」
足音が遠ざかると、律は胸の奥で小さく笑った。
見えないものが見える。
誰かがそう言ってくれる世界に、自分はいる。
その事実が、何よりも重かった。
◇
水曜。
広場のピアノは、曇り空の下で静かに待っていた。
律が近づく気配に、ピアノはもちろん応えない。けれど、鍵盤の木は、湿度で少しだけ膨らんで、いつもより指に柔らかい面を見せた。
「律」
ユウの声は、先週よりも落ち着いていた。
息の置き方が、律の三秒と同じ長さになっている。
そのことに気づくと、律の胸の中で、何かが小さく灯った。
「今日、お願いがある」
「前回も言ってた」
「前回と、同じお願い。……僕に、レッスンをしてほしい」
律は少しだけ眉を寄せた。
「レッスン?」
「匿名のままでいい。君は僕の名前を呼ばなくていい。僕も、君の先生にはならない。ただ、ここで、三分だけ。君が見てる世界を、僕の声が歩けるように、助けてほしい」
遠くで救急車のサイレンが鳴った。
世界はどこかで何かを失い、どこかで何かが生まれている。
駅前の風は、二人の間だけを温かく通り過ぎた。
「いいよ」
律は言った。「でも、僕のやることは、きっと“レッスン”とは違う。君の声の前に、小さな椅子を置くだけ」
「椅子?」
「座って休める場所。そこに座っていいって、言うだけ」
ユウが笑った。喉の奥で、ほんの少しだけ震える笑い。
「それが、ずっと欲しかった」
律は鍵盤に手を置いた。
今日は、ユウが先に声を置く。律はその後ろで、椅子を並べるように音を置く。
ユウの声は、前よりも少しだけ、素肌に近い。
完璧の皮膚を一枚脱いで、細い血管の通うところが、音として見える。
律は、その声に寄りかかりすぎない距離で伴奏を続けた。寄りかかりすぎると、壊れる。離れすぎると、届かない。
その中間を、音で測る。
曲が終わると、ユウは小さく息を吐いた。
「ねえ、律」
「うん」
「僕さ、いつか、世界中の誰もが聴いてるときに、誰にも届かない声を出したいって思ってた」
「……それは、どういう?」
「誰にも届かない、じゃないか。違う。世界中の誰にでも届く声を出して、同時に、たった一人にしか届かない合図を入れるってこと」
「合図」
「うん。半音を、わざと外すとか。ブレスをひとつ、長めに取るとか。誰にも気づかれなくていい。君にだけ、わかればいい」
律の喉が、乾いた。
傘の下の呼吸。青信号の三秒。
世界中のライトが彼に向いたとき、たった一人の耳に向ける、秘密の合図。
——心臓が、痛い。
「君は、勝手だね」
律は笑った。「世界を全部抱えて、それから僕にだけ分けるなんて」
「勝手だよ。ずっと、勝手でいたい。でも、勝手でいるためには、君が必要だった」
遠くで、風鈴のような音がした。
商店の店先に吊るされた小さな鈴。季節外れの音は、風の気まぐれで鳴ったのだろう。
律はその音を、胸の中の引き出しにしまった。
合図は、いくつあってもいい。
いくつあっても、足りない。
◇
その夜、ユウのマンションの前に、見慣れない影が二つあった。
雨上がりの湿気を含んだ夜気の中で、影はカメラを持って、息を潜めている。
ユウはそれに気づいていた。気づかないふりをして、車寄せからすばやくエレベーターに乗る。
心臓の拍は、舞台前みたいに早かった。
エレベーターの鏡に映る自分は、完璧に整った顔をしている。
完璧の顔は、体温を奪う。
ユウは、目を閉じた。
傘の下の湿度。ミントの香り。
耳の前に開けた小さな窓。
そこから抜けていく声は、体温を奪わない。
奪わないどころか、戻してくれる。
部屋に入ると、携帯が震えた。
マネージャーのメッセージ。
《マンション前に張りがいる。外出は控えて》
《あと、学校関係はできるだけ避けて》
ユウは、返事を打ちかけて止めた。
学校関係——駅前。広場。
言葉は刃だ。
だが、言葉は橋にもなる。
ユウは代わりに、別のメッセージを打った。
《来週の水曜、三分。行けます》
宛先はない。
送る相手がいないメモに書いて、自分の中に送った。
——覚えておけ。
そう自分に言って、スマホを伏せる。
◇
週末、律は澪に頼まれて、一緒に商店街へ出かけた。
手を引かれるのは嫌いではないが、今日は自分の白杖の先に重さが乗らないように、少しだけ前を歩く。
澪は律の半歩斜め後ろで歩幅を合わせるのがうまい。
「兄ちゃん、ミントの他に何育てたい?」
「ローズマリー」
「肉に強いね」
「うん。強い香りは、音が濃い」
八百屋の前で、店主が声を上げた。「お、律くん。今日は妹ちゃんと?」
「はい」
「ピアノ聴いたぞ。あれ、よかったな。店の奥まで音が入ってきてさ。野菜が新鮮に見えたよ」
澪が嬉しそうに笑う。律も笑った。
「ありがとうございます」
ふと、人の流れが変わった。
空気が、スマホの画面の方向に引っ張られる。
若い女性たちが、同じ方向で息を短く吸う音。——何か、出た。
澪が律の腕をちょんとつついた。「兄ちゃん、立ち止まって」
律は従い、澪の小さな肩越しに世界の気配を聴く。
読み上げの音が、どこかで漏れた。
《YU、謎の少年と?》
《交差点の目撃談、真偽は——》
胸が一度だけ硬くなる。
次の瞬間、澪が律の手を握った。
「大丈夫」
その言葉が、どこに向けられているのか、律は尋ねない。
自分に。ユウに。あるいは、世界に。
どれでもよかった。手の温度が、言葉を選んでくれる。
家に戻ると、律は机に向かって、小さなカードを一枚取り出した。
罫線のない白いカード。
そこに、点字で短く打つ。
《三分、椅子、窓》
自分だけが読める言葉。
この三つがあれば、世界は立つ。
三分——時間。椅子——居場所。窓——声の抜け道。
この三つを、誰かと共有できるなら、その誰かは、名前がなくても、もう名前だ。
◇
月曜の朝、ユウは事務所に呼ばれた。
会議室は、冷房の風がまっすぐ降りる場所に椅子が置かれていて、背筋を伸ばすと首の後ろがやや冷たかった。
マネージャーと、広報の担当者がいる。
「YU。最近、ひとりで動くことが増えた?」
「いいえ」
「そう。ならいい。ちょっと噂が出たけど、すぐ消えると思う。ただ、しばらくは用心して」
「わかりました」
用心。
その言葉は、ユウの内側で粘る。
用心は、感情の幅を削る。音域を狭める。
狭まった音域で歌うには、体のどこかを強くしなければならない。
強くする場所を間違えると、声はすぐ壊れる。
ユウは、わざと喉ではなく、足の裏に力を入れた。
椅子の足が床を押す音で、今ここにいることを確かめる。
「YU」
広報が、柔らかい声で続けた。「君は強い子だから大丈夫。君の仕事は、世界に夢を見せること。大丈夫ね?」
「……はい」
夢は、時々、誰かの現実を踏む。
そのことも、ユウは知っている。
だからこそ、三分でいい。
三分だけは、誰の現実も踏まずに、誰かの現実に触れたい。
——律の現実に。
◇
火曜の夜、律は眠りが浅かった。
夢と現の間に薄い布が垂れていて、指でつまめば破れる。
破った先に広がるのは、雨上がりの交差点。
青になる前の三秒。
律は視界のない世界で、なぜか青を“見た”気がして、はっと目を開けた。
天井のない暗さが、胸に静かに降りてくる。
枕元のスマホに触れ、時間を聞く。午前二時十二分。
水を飲もうと起き上がり、窓のところで立ち止まる。
外の空気が、わずかに動いた。
誰かが道を渡るときの、あの一瞬の静けさだけが、夜の中で輪郭を持っていた。
——明日。
律は息を吸う。
明日、三分。
明日、椅子。
明日、窓。
◇
水曜。
広場に着いた律は、鍵盤の蓋にそっと指をかけた。
その前に、小さな紙袋が置かれている。
軽い。持ち上げると、角で音がした。
中には、薄いメトロノームが一つと、折り畳まれた紙が入っていた。
紙は香りでわかる。新しいインクの匂い。
律は指先で触れ、紙の厚さと折り目の数だけを確かめてから、胸ポケットにしまった。
ユウの足音が、一歩、二歩。
「律」
「うん」
「今日は、最後に一つ、試したいことがある」
「どんな?」
「君の耳の前の、窓。……それを、僕が見つける」
律は、笑った。
「それは、君のほうが得意だと思う」
「どうして?」
「だって、君は世界中の窓を開ける声を持ってる。だったら、一つの小さな窓くらい、開けられるよ」
ユウは、なにかを飲み込むようにして息を吸った。
その息の震えは、律の指先に伝わる。
律は、鍵盤に手を置き、ユウの声を待った。
ユウが最初の音を出す。
律は、和音で廊下を作る。
ユウは、廊下の途中で立ち止まり、視線の代わりに声を巡らす。
——ここだ。
ユウの声が、律の耳の手前でわずかに広がる。
窓の位置を、声が見つけた。
律の胸に、光が落ちる。
見えない光。
けれど、確かに温度を持つ光。
三分が終わる頃、二人は同じ場所にいた。
名前ではなく、呼吸で、場所を共有する。
それは、世界でいちばん静かな、所有だった。
「ねえ、律」
「うん」
「君は、僕がどんな名前でも、僕のこと、ユウって呼ぶ?」
「呼ぶよ」
「どうして?」
「合図だから。……君が、君であるっていう、合図」
ユウは、笑ったのか泣いたのか、どちらともつかない声を漏らした。
「ずるいな」
「ずるいよ」
律も笑った。「僕ら、ずるいままでいい」
「うん。ずるくて、優しくて、弱くて、強い」
「うん」
小さな風が吹いた。
風は、季節をひとつ運んでいった。
まだ、夏の終わりの匂い。
まだ、終わらない。
別れ際、ユウが言った。
「来週の水曜も」
「来週の水曜も」
律は、白杖で縁石を二度、軽く叩いた。タタン。
返ってきた靴音は、たしかに、同じリズムだった。
◇
家へ向かうバスの中で、スマホが震えた。
読み上げ機能が、次の言葉を運ぶ。
《速報:AURORA、海外ステージ決定。来月》
《YUコメント「最高の夜にする」》
胸の中で、潮の満ち引きのように感情が揺れた。
最高の夜。
画面の向こうの“YU”が、世界に向けて約束する夜。
傘の下の“ユウ”は、誰に向けて約束するのだろう。
——約束の相手が、自分であってもいいのだろうか。
胸が痛い。
痛みは、嫌いじゃなかった。
痛みは、輪郭をくれる。
輪郭は、触れることを許す。
窓の外、交差点。
青になる前の三秒。
律は、息を深く下げた。
そして、次の水曜までの距離を、胸の中の指で測った。
遠い。近い。遠い。近い。
その繰り返しが、恋の歩幅に似ていることを、まだ、言葉にはしない。
その週末、律の耳に、ざわつく噂が届いた。
教室の隅、誰かがスマホの画面を覗き込み、低い声で囁いていた。
「YU、彼女いるらしいって」
「いや彼氏じゃね? 男と一緒にいたって」
「駅前で見たっていう目撃談、上がってるぞ」
笑い混じりの声が、律の背中に薄い針を刺す。
律は表情を変えずにノートに手を動かす。黒板の音は聞こえない。クラスのざわめきも、遠い。
ただ、その針の向こう側で、ユウが小さく息を止める気配が聞こえた気がした。
聞こえるはずがない。けれど、胸の奥で確かにそう響いた。
放課後、スマホが短く震えた。
読み上げが告げる。
《AURORA関係者「YU、私生活に関する事実なし」》
《SNSで憶測拡大、ファン動揺》
律は歩道橋の上で立ち止まり、胸の奥を握りつぶされるような思いに駆られた。
名前が世界に晒されるとき、それは祝福と同時に、呪いにもなる。
ユウの声は、誰よりも多くの人に届いている。
けれど、その声を「たった一人にだけ届かせたい」と願った秘密は、簡単に奪われてしまう。
夜。
部屋の灯りを落とし、律はピアノの前に座った。
鍵盤に触れるだけで、ユウの喉の震えが思い出される。
青になる前の三秒。
律は胸を深く下げ、息を止めた。
その三秒を過ごすときだけ、針のような言葉も、外のざわめきも、遠ざかる。
指が自然に旋律を紡ぐ。ユウと交わした三分の記憶をなぞるように。
音は、声と違って誰にも奪えない。たとえ間違えても、次の音を置けば続いていく。
律はそう信じて、目を閉じた。
◇
同じ夜、ユウはマンションの部屋でマネージャーと向かい合っていた。
机の上には週刊誌の見出しが並んでいる。
《YU、謎の少年と駅前でピアノ?》
《恋人疑惑浮上——事務所は否定》
「YU、しばらくは単独での外出は控えて」
「……はい」
「ファンは敏感なんだ。ひとつの噂が一瞬で炎上する。君の価値を守るためにも」
守る。
その言葉が、ユウの胸に重く沈む。
守られる代わりに、失うものがある。
交差点の合図。傘の下の呼吸。駅前の三分。
ユウは机の端を握った。爪が食い込む。
「……でも、あの場所は」
「だめだ。理解して」
マネージャーの声は冷たくも優しかった。
「君の声は、世界のものだ。世界を裏切るな」
ユウは、目を閉じた。
脳裏に浮かんだのは、律の声だった。
——君の声は、壊れたあとも残る。
その言葉だけが、胸の奥に残った。
◇
次の水曜。
広場には、雨が降っていた。
律は傘を持ち、白杖を短く持ち替えて、ピアノの前に立った。
鍵盤の蓋は濡れていて、指先に冷たかった。
ユウは来ないかもしれない。そう思いながらも、律は待った。
十分。二十分。
人の気配が薄くなり、雨音だけが強くなったころ。
足音が一つ、近づいてきた。
律の胸が跳ねる。
「……律」
息が荒い。走ってきたのだ。
傘も持たず、濡れた髪から滴が落ちている気配がする。
「来ちゃ、だめだって言われた。でも、来た」
律は、声の震えを聴きながら、静かに言った。
「よかった」
ユウは笑い、そして、少し泣いた。
「もう会えないって、言わなきゃいけないんだ」
「じゃあ、最後に」
「最後に?」
「歌ってよ。ここで」
雨が、拍を刻んでいた。
律はピアノの蓋を開け、濡れた鍵盤に指を置く。
ユウの声が重なった。
雨と、音と、震え。
三分が過ぎても、誰も止めない。
世界が、二人の音を包んでいた。
曲が終わり、ユウは小さく呟いた。
「青になったよ」
律は、雨の向こうの信号音を聴いた。
「じゃあ、一歩を」
二人は同時に、踏み出した。
◇
その夜。
律のスマホが告げる。
《速報:AURORA、YU、海外公演決定。来月》
《インタビュー:「この声を世界に届けたい」》
律は笑った。
世界に届く声。
たった一人に届く声。
どちらもユウの声だ。
だから、自分は待つ。青になる前の三秒を。
その合図が、必ず戻ってくると信じて。



