雨が上がったばかりの街は、息をひそめているようだった。
アスファルトに残る水の膜、傘の先から滴る音、車のタイヤが切る薄い水煙。世界はまだ濡れているのに、空気の粒だけが透明で、胸の奥に冷たさを残す。
三島律は、横断歩道の端に立っていた。
右手には白杖。靴底から伝わる点字ブロックのざらつきは、足の置き場を確かに示してくれる。信号は赤。音の切り替わりまであと三秒。律の世界にとって、その三秒は特別な静けさだった。
ざわめきが一瞬、引いていく。傘を閉じる音がどこかで重なり、街全体が深呼吸をしたように思える。その“間”を律は好きだった。見えない代わりに、音の輪郭がくっきりと際立つからだ。
その時。
背後で、靴音が二度、規則正しく鳴った。軽やかで、無駄がなく、かかとを落とす角度に音楽的な均整がある。
律は思わず微笑んだ。リズム感のある歩き方だ。
「君、そのテンポで渡るの?」
不意に背中から声がした。
驚いて振り向く代わりに、律は耳を澄ませた。
低すぎず高すぎず、よく通る声。息の置き方が舞台用だ。声帯の震えが空気に余韻を残す。喉の奥を鍛え込んだ声——歌う人の声。
「テンポ?」
「うん。今の、二拍目で出るやつ」
軽口のような調子なのに、どこか舞台袖から響くプロの声色が混じっている。律は小さく笑った。
「あなた、音楽をやってる?」
「……ちょっとだけ」
その返答は曖昧だった。だけど、言葉に重なる息の反響で、彼がマスクをしていることに気づく。街に溶け込むための仮面。律は胸の奥で首をかしげた。
信号の音が変わる。律は白杖を半歩前に出し、足を踏み出した。背後の足音が、ほんのわずか遅れてついてくる。歩幅を合わせるように。
「君、ここの青、短いの知ってる?」
「知ってる。だから二拍目で出る」
「……正解」
横断歩道を渡りきったところで、少年は一歩だけ前に出て、律の行く手をそっと払うように空気を動かした。人混みの中での、さりげない気遣い。
「ありがとう」
「どういたしまして。……あのさ」
声が少し近づいた。呼び慣れている響きだが、名はまだ名乗らない。
「君、呼吸がきれいだね」
「呼吸?」
「うん。青になる前の三秒で、胸が深く下がった。歌う人の呼吸だ」
律は胸の奥がくすぐったくなった。自分の呼吸なんて気にしたことはない。ただ、青になる三秒前に息を整えるのが癖になっていただけ。
「歌は……好き。でも歌えるほどじゃない」
「じゃあ、今度ここで歌ってみない?」
唐突な提案に、律は驚いて笑った。
「……名前は?」
「ユウでいいよ」
「僕は三島律」
「律」
呼ばれた名前が、雨上がりの空に立ちのぼる。
翌週の水曜。
放課後の雑踏に混じって律が歩いていくと、駅前の広場には見慣れないものが置かれていた。小さなアップライトピアノだ。鍵盤の蓋には紙が貼られている。
《誰かの三分を、あなたの三分に》
読み上げアプリが滑らかに文字を告げたとき、律は思わず笑ってしまった。街の片隅に突然現れた小さな舞台。それは、見えない彼にとっても、触れることで音を確かめられる居場所だった。
「律」
声がした。雨上がりのあの日と同じ、よく通る声。隣に立った気配から、ミントのガムの香りがふわりと漂った。
「今日は歌じゃなくて、聴かせて? 君の三分」
ユウはそう言って、軽く腰を掛ける仕草をした。
律は頷き、鍵盤の端から端までを指先で撫でた。木と金属とフェルトが混じる温度差。音の地図を確かめるように。
深く息を吸い、指を落とす。
一音目が広場に響いた瞬間、周囲のざわめきがすっと引いた。
律の音は、目で見る色を持たない。だが彼には、音こそが色であり、形だった。白鍵の清らかさは冬の光のように、黒鍵の深みは水底の闇のように。世界は指先から広がり、彼の胸を満たしていく。
数小節のあと、隣から小さな息が聞こえた。
ユウが、律の旋律に合わせて声を重ね始めたのだ。
言葉ではなかった。ただのハミング。けれど、響きは澄んでいて、律の世界に色を注いだ。
青い、と思った。見えたことはないのに、胸の奥で確かに青の輪郭が広がる。
——ああ、この声は。
舞台の光を浴びるために鍛えられ、観客の海を越えて届くために磨かれた声。
それなのに、隣で聴くと震えるほど孤独で、どこか壊れそうに細い。
曲が終わった瞬間、街は日常を取り戻した。車のクラクション、アナウンス、誰かの笑い声。拍手はなかった。けれど律の耳には、ユウが小さく「ありがとう」と呟いた声が残った。
「すごいよ、律。……君の音、世界が見えるみたいだった」
「君の声こそ、僕には見えたよ」
ユウはしばらく黙っていた。声帯に熱を残したまま、息だけが夜気に散っていく。
「また、来週。ここで」
律は頷いた。
その夜。
帰り道のバス停で、律のスマホが読み上げる広告に新しい言葉が滑り込む。
《AURORA 新曲『POLAR NIGHT』配信開始》
《Main Vocal:YU》
律は笑った。知っていた。ずっと気づいていた。けれど口にはしない。
交差点の青を渡るときのあの声だけで、もう十分だった。
律の部屋の窓は、通りに面していた。
外から差し込む街灯の明かりは、彼には“色”として見えることはない。それでもカーテンの向こうを流れる空気の揺れ方で、夜が深まっていくことを知る。
机の上には点字の教科書と、音声読み上げ機能のついたスマホ。
今日の出来事を思い返しながら、律は胸の奥にじんと残る感覚を抱えていた。
——あの声。
ただ隣にいるだけで、世界の輪郭がくっきりとするような、不思議な力。
舞台の光を浴びているに違いない、という確信。
「律、ご飯よー」
母の声が台所から響いた。
「はーい」
食卓に座ると、父と妹も揃っていた。家族との食事は温かいけれど、ときどき律はふとした孤独を覚える。みんなが当たり前のように「画面を見て」話す話題に、自分だけ取り残される瞬間があるからだ。
「律、今日ピアノ弾いた?」妹が楽しそうに訊く。
「うん。ちょっとだけ」
「誰か聴いてくれた?」
「……うん」
律はそこで言葉を濁した。まだ説明できない。まだ自分の中で確かめたい。
一方その頃。
都内の高層マンションの一室。
ユウはイヤモニを外し、深く椅子に沈み込んでいた。
撮影帰り。グループのメンバーやスタッフに囲まれ、笑顔を作り続けた数時間のあと、やっと一人きりになれた部屋。
壁に掛けられた鏡には、自分が笑う顔のまま固まっている姿が映る。
「……はぁ」
ため息を吐き、喉に手を当てる。
今日も完璧に歌った。笑顔を崩さずに。ファンの歓声も、海外から届くメッセージも、確かに自分を支えてくれている。
それなのに。
あの交差点で、律に言われた言葉がずっと残っていた。
——君、呼吸がきれいだね。
誰もそんなことを言ってくれなかった。
誰も、自分の「準備の三秒」に気づいたことなどなかった。
ユウはそっと目を閉じた。
あのピアノの音が、耳に蘇る。見えない世界を、音で描く律。
彼の隣にいると、自分の声がただの“声”として存在していいような気がする。
完璧じゃなくてもいいと、初めて思えた。
翌日。
学校の昼休み。律は友人に誘われて購買へ向かう。
ざわめく生徒たちの中で、突然後ろから話しかけられた。
「三島、昨日どこ行ってた?」
「……ちょっと、駅の方」
「お、噂になってたぞ。駅ピアノで誰か歌ってたって!」
律は一瞬足を止めた。
噂はすぐ広がる。この街の雑踏は秘密を隠してはくれない。
「へぇ……誰だろ」
律は笑ってごまかした。
本当は答えを知っているのに。
ユウもまた、次の約束のことを考えていた。
事務所から渡されたスケジュール表。海外公演の準備、収録、撮影——ぎっしりと並ぶ予定の中で、水曜の夕方だけが奇跡のように空いている。
「……行ける」
彼はスケジュール帳に小さく印をつけた。
誰にも見せられない、たった一つの秘密。
約束の水曜は、昼から雲が低かった。
放課後、律が広場に着くと、アップライトの前には誰もいなかった。蓋の上に、薄い紙包みが置かれている。ミントのガム。律は指で角を確かめ、小さく笑った。
「律」
背後で呼ぶ声に、胸があたたかくなる。
ユウが腰をかがめ、律の隣に立つ気配がした。息は少し速い。走って来たのだろうか。
「今日は、君に頼みたいことがある」
「なに?」
「ぼくの……失敗を聴いてほしい」
言葉は軽かったが、喉の奥で震えるものがあった。
律は静かに頷く。鍵盤の端に触れ、蓋を開ける。空気が入れ替わり、木と金属の匂いがわずかに濃くなる。
「三分で足りる?」
「足りないかもしれない。でも、三分からでいい」
律は低音を一音だけ鳴らし、世界の輪郭を確かめる。ユウの気配が左肩の少し後ろ、声帯の高さがわかる距離に立つ。
最初の一小節。律の指が、慎重に音を並べる。ユウはそれに重なるように、声を細く出した。震えのあるA。ほんの少し、掠れている。
「……っ」
ユウの息が、途中で折れた。
律は弾くのをやめない。低音を保ち、拍の底を厚くする。左手でゆっくり拍を打ち、右肩の近くで指先を二度、軽くテーブルに触れるような仕草で合図する。——ここが吸う場所、ここが吐く場所。
「吸って、止めて、落として」
律は小声で言う。ユウにだけ聞こえるように。
ユウは一度黙り、もう一度、同じ高さのAを狙った。今度は少しだけ当たる。ほんの少しだけ。
律は和音を増やす。黒鍵に触れ、半音の狭さで遠さを作る。ユウの喉が、それを追いかける。追いかけきれない。外れる。
——いい。
律は心の中で頷く。失敗の音は、ここにいていい。ここには、居場所がある。
「もう一回」
ユウがささやく。
律は返事の代わりに、導く音型を短く置く。小さな廊下を渡るように、二歩、三歩。
ユウの喉が、ふっと軽くなった。
声が真っ直ぐに出る。響きが前に進む。
その瞬間、律の胸の中に、あの青が広がった。見えないはずの色が、確かに灯る。喉の震えと一緒に光が進む。
ユウが二度目のフレーズを歌い終えたとき、広場の空気がほんの少しやわらいだ。足を止めた誰かがいる気配。スマホの画面をタップする小さな音。信号の切り替わりを告げる電子音。
「……ねえ、律」
「うん」
「ぼく、怖いんだ。完璧じゃないと、ぜんぶ壊れる気がする。名前も、居場所も、ぼくっていう輪郭も」
律は和音を薄くしていく。なおも進みたいのを抑え、音の幅を縮める。
ユウの声は、律の音が細くなるのに合わせて、逆にほんの少し太った。
——空いたところに、入ってくる。
音楽の最初の法則。その通りに、二人は歩幅を合わせる。
「壊れていいところもあるよ」
律は言う。「壊れないで残るところを探すために、壊していいところがある。……君の声は、壊れたあとも残るところがある」
ユウがうっすら笑った気配がした。笑うと、喉ぼとけの上の皮膚が一瞬だけ平らになる。
「どこ?」
「今、僕の左耳のすぐ手前」
「耳の前って、どこ……」
「ここ」
律はためらい、けれど思い切って、ユウの指先に触れた。骨ばって、温かい手。指をそっと導き、空中の一点を示す。
「声が抜ける窓。君の声は、そこが綺麗に開いてる」
ユウの息が詰まる。次の瞬間、彼は短く笑い、喉の奥でかすかにしゃくり上げた。
「なんか、泣きそう」
「泣いていいよ。音、止めないから」
律は拍を数え直す。二、三、四。
ユウの声が、今度は泣き声の色を含んで出た。
完璧でない高さ。完璧でない音程。完璧でない息。
でも、真っ直ぐだった。
律はその真っ直ぐを支えるだけの柱になり、低音を置き続けた。
三分。
街は、三分だけ二人のものだった。
終わりの和音が空気に溶け、ユウはゆっくりと息を吐いた。
広場のどこかで、控えめな拍手が一度だけ起きて、すぐ散った。
「ありがとう」
ユウが言う。
「こちらこそ」
少しの沈黙。
律は鍵盤の蓋を下ろす。指先に木の温度が戻る。
「来週も、水曜に」
ユウは即座に頷いた。「うん。水曜。……この角」
「あと」
律は、言うべきか迷った末に、そっと言葉を置いた。
「君の名前、知ってる。でも、呼ばない」
ユウが息を呑む。
ガムの香りが、ふっと濃くなる。
「どうして」
「君が“ユウ”でいる時間が、一番きれいだから。誰かのための名前じゃなくて、君が自分で決めた音だから。……僕が勝手に、そう思っただけだけど」
ユウは何も言わなかった。
けれど、靴底がアスファルトをそっと擦る気配が、返事の代わりになった。
——ありがとう、の音。
律には、そう聴こえた。
小雨が落ち始めた。
最初の一粒は、手の甲。次は頬。
律が顔をあげると、冷たい雫がまつ毛の代わりに瞼を打った。世界の輪郭が、いっそうくっきりする。
「傘、持ってる?」
「持ってない」
「じゃあ、入る?」
二人の頭上で、小さな屋根が開いた。ユウの香りと、雨の匂いが混ざる。
傘の下は狭い。肩が触れる。
律は白杖を短く持ち替え、傘の骨に当たらない位置を探した。ユウが、さりげなく柄の角度を調整する。互いの呼吸が、同じ長さになる。
「律」
「なに」
「泣いてる?」
「わからない。雨かもしれない」
言いながら、喉の奥があたたかかった。泣きたいときの、あの熱。
ユウは笑って、同じ熱をひとつ吐き出す。
「ぼくも、雨かもしれない」
駅前の喧騒に紛れて、二人はしばし、傘の下の静けさに身を寄せた。
遠くで救急車のサイレン、すぐ横で信号の電子音。
青になる前の三秒だけ、世界はまた静かになった。
「じゃあ、また来週」
「また来週」
傘が離れると、雨はあっけらかんと二人の頭上に戻ってきた。
ユウの足音が遠ざかる。律はその背中に、白杖で縁石を二度、軽く叩いた。タタン。
返ってきたのは、同じリズムの靴音。タタン。
約束の合図。
律は胸の内で、そっとそれをしまった。
バス停へ向かう途中、スマホがポケットの中で震えた。読み上げ機能が淡々と広告を告げる。
《AURORA 新曲『POLAR NIGHT』ビデオ公開》
《Main Vocal:YU——世界初披露、今夜20時》
律は立ち止まらない。
知っていた。ずっと前から。今日、傘の下で並んだ呼吸の長さのほうが、よほど確かなことだ。
画面の輝きではなく、声の温度を信じられる夜がある。
今夜は、そういう夜だ。
家の近くの交差点で、信号の音が変わる。
青になる前の三秒。
律は胸を深く下げ、そっと息をためた。
遠くで、誰かが同じテンポで靴を鳴らす幻を、耳が探す。——いない。いるはずがない。
それでも、足は二拍目で出た。
雨は優しく、頬の熱を冷ましていく。
部屋に戻ると、机の上にミントの包み紙が置かれていた。広場で拾って、ポケットに入れたまま忘れていたやつだ。
律は指先で角を折り、真四角に整える。鳴らない楽器を、きちんとしまうみたいに。
スマホの読み上げを切り、部屋の明かりを落とす。——明るさは、律にとって意味を持たない。それでも、暗くすることで夜の気配が整う。
耳の前の空中に、ユウの声が残っている。
吸って、止めて、落として。
その順番どおりに呼吸を重ねると、胸の奥がゆっくりほどけていった。
涙は、静かに来た。
悲しいからではない。誰かの弱さが、自分の弱さとぴたりと重なって、壊れない芯だけが手のひらに残る感じ。
泣きながら、律は笑った。
——三分じゃ足りないや。
そう思った。来週の水曜が、遠くて近い。
窓の外、雨音が薄くなっていく。
やがて、どこかの交差点で、誰かが二拍目で踏み出す靴音がした気がした。
きっと幻だ。
でも、いい。
世界は見えなくても、合図は聴こえる。
青になったよ。
誰かが、そう言った気がして、律は静かに目を閉じた。
――第1話 終/第2話「匿名のレッスン」へ続く。
・・・
コンテストに応募しています。よかったらいいねをお願いします。
アスファルトに残る水の膜、傘の先から滴る音、車のタイヤが切る薄い水煙。世界はまだ濡れているのに、空気の粒だけが透明で、胸の奥に冷たさを残す。
三島律は、横断歩道の端に立っていた。
右手には白杖。靴底から伝わる点字ブロックのざらつきは、足の置き場を確かに示してくれる。信号は赤。音の切り替わりまであと三秒。律の世界にとって、その三秒は特別な静けさだった。
ざわめきが一瞬、引いていく。傘を閉じる音がどこかで重なり、街全体が深呼吸をしたように思える。その“間”を律は好きだった。見えない代わりに、音の輪郭がくっきりと際立つからだ。
その時。
背後で、靴音が二度、規則正しく鳴った。軽やかで、無駄がなく、かかとを落とす角度に音楽的な均整がある。
律は思わず微笑んだ。リズム感のある歩き方だ。
「君、そのテンポで渡るの?」
不意に背中から声がした。
驚いて振り向く代わりに、律は耳を澄ませた。
低すぎず高すぎず、よく通る声。息の置き方が舞台用だ。声帯の震えが空気に余韻を残す。喉の奥を鍛え込んだ声——歌う人の声。
「テンポ?」
「うん。今の、二拍目で出るやつ」
軽口のような調子なのに、どこか舞台袖から響くプロの声色が混じっている。律は小さく笑った。
「あなた、音楽をやってる?」
「……ちょっとだけ」
その返答は曖昧だった。だけど、言葉に重なる息の反響で、彼がマスクをしていることに気づく。街に溶け込むための仮面。律は胸の奥で首をかしげた。
信号の音が変わる。律は白杖を半歩前に出し、足を踏み出した。背後の足音が、ほんのわずか遅れてついてくる。歩幅を合わせるように。
「君、ここの青、短いの知ってる?」
「知ってる。だから二拍目で出る」
「……正解」
横断歩道を渡りきったところで、少年は一歩だけ前に出て、律の行く手をそっと払うように空気を動かした。人混みの中での、さりげない気遣い。
「ありがとう」
「どういたしまして。……あのさ」
声が少し近づいた。呼び慣れている響きだが、名はまだ名乗らない。
「君、呼吸がきれいだね」
「呼吸?」
「うん。青になる前の三秒で、胸が深く下がった。歌う人の呼吸だ」
律は胸の奥がくすぐったくなった。自分の呼吸なんて気にしたことはない。ただ、青になる三秒前に息を整えるのが癖になっていただけ。
「歌は……好き。でも歌えるほどじゃない」
「じゃあ、今度ここで歌ってみない?」
唐突な提案に、律は驚いて笑った。
「……名前は?」
「ユウでいいよ」
「僕は三島律」
「律」
呼ばれた名前が、雨上がりの空に立ちのぼる。
翌週の水曜。
放課後の雑踏に混じって律が歩いていくと、駅前の広場には見慣れないものが置かれていた。小さなアップライトピアノだ。鍵盤の蓋には紙が貼られている。
《誰かの三分を、あなたの三分に》
読み上げアプリが滑らかに文字を告げたとき、律は思わず笑ってしまった。街の片隅に突然現れた小さな舞台。それは、見えない彼にとっても、触れることで音を確かめられる居場所だった。
「律」
声がした。雨上がりのあの日と同じ、よく通る声。隣に立った気配から、ミントのガムの香りがふわりと漂った。
「今日は歌じゃなくて、聴かせて? 君の三分」
ユウはそう言って、軽く腰を掛ける仕草をした。
律は頷き、鍵盤の端から端までを指先で撫でた。木と金属とフェルトが混じる温度差。音の地図を確かめるように。
深く息を吸い、指を落とす。
一音目が広場に響いた瞬間、周囲のざわめきがすっと引いた。
律の音は、目で見る色を持たない。だが彼には、音こそが色であり、形だった。白鍵の清らかさは冬の光のように、黒鍵の深みは水底の闇のように。世界は指先から広がり、彼の胸を満たしていく。
数小節のあと、隣から小さな息が聞こえた。
ユウが、律の旋律に合わせて声を重ね始めたのだ。
言葉ではなかった。ただのハミング。けれど、響きは澄んでいて、律の世界に色を注いだ。
青い、と思った。見えたことはないのに、胸の奥で確かに青の輪郭が広がる。
——ああ、この声は。
舞台の光を浴びるために鍛えられ、観客の海を越えて届くために磨かれた声。
それなのに、隣で聴くと震えるほど孤独で、どこか壊れそうに細い。
曲が終わった瞬間、街は日常を取り戻した。車のクラクション、アナウンス、誰かの笑い声。拍手はなかった。けれど律の耳には、ユウが小さく「ありがとう」と呟いた声が残った。
「すごいよ、律。……君の音、世界が見えるみたいだった」
「君の声こそ、僕には見えたよ」
ユウはしばらく黙っていた。声帯に熱を残したまま、息だけが夜気に散っていく。
「また、来週。ここで」
律は頷いた。
その夜。
帰り道のバス停で、律のスマホが読み上げる広告に新しい言葉が滑り込む。
《AURORA 新曲『POLAR NIGHT』配信開始》
《Main Vocal:YU》
律は笑った。知っていた。ずっと気づいていた。けれど口にはしない。
交差点の青を渡るときのあの声だけで、もう十分だった。
律の部屋の窓は、通りに面していた。
外から差し込む街灯の明かりは、彼には“色”として見えることはない。それでもカーテンの向こうを流れる空気の揺れ方で、夜が深まっていくことを知る。
机の上には点字の教科書と、音声読み上げ機能のついたスマホ。
今日の出来事を思い返しながら、律は胸の奥にじんと残る感覚を抱えていた。
——あの声。
ただ隣にいるだけで、世界の輪郭がくっきりとするような、不思議な力。
舞台の光を浴びているに違いない、という確信。
「律、ご飯よー」
母の声が台所から響いた。
「はーい」
食卓に座ると、父と妹も揃っていた。家族との食事は温かいけれど、ときどき律はふとした孤独を覚える。みんなが当たり前のように「画面を見て」話す話題に、自分だけ取り残される瞬間があるからだ。
「律、今日ピアノ弾いた?」妹が楽しそうに訊く。
「うん。ちょっとだけ」
「誰か聴いてくれた?」
「……うん」
律はそこで言葉を濁した。まだ説明できない。まだ自分の中で確かめたい。
一方その頃。
都内の高層マンションの一室。
ユウはイヤモニを外し、深く椅子に沈み込んでいた。
撮影帰り。グループのメンバーやスタッフに囲まれ、笑顔を作り続けた数時間のあと、やっと一人きりになれた部屋。
壁に掛けられた鏡には、自分が笑う顔のまま固まっている姿が映る。
「……はぁ」
ため息を吐き、喉に手を当てる。
今日も完璧に歌った。笑顔を崩さずに。ファンの歓声も、海外から届くメッセージも、確かに自分を支えてくれている。
それなのに。
あの交差点で、律に言われた言葉がずっと残っていた。
——君、呼吸がきれいだね。
誰もそんなことを言ってくれなかった。
誰も、自分の「準備の三秒」に気づいたことなどなかった。
ユウはそっと目を閉じた。
あのピアノの音が、耳に蘇る。見えない世界を、音で描く律。
彼の隣にいると、自分の声がただの“声”として存在していいような気がする。
完璧じゃなくてもいいと、初めて思えた。
翌日。
学校の昼休み。律は友人に誘われて購買へ向かう。
ざわめく生徒たちの中で、突然後ろから話しかけられた。
「三島、昨日どこ行ってた?」
「……ちょっと、駅の方」
「お、噂になってたぞ。駅ピアノで誰か歌ってたって!」
律は一瞬足を止めた。
噂はすぐ広がる。この街の雑踏は秘密を隠してはくれない。
「へぇ……誰だろ」
律は笑ってごまかした。
本当は答えを知っているのに。
ユウもまた、次の約束のことを考えていた。
事務所から渡されたスケジュール表。海外公演の準備、収録、撮影——ぎっしりと並ぶ予定の中で、水曜の夕方だけが奇跡のように空いている。
「……行ける」
彼はスケジュール帳に小さく印をつけた。
誰にも見せられない、たった一つの秘密。
約束の水曜は、昼から雲が低かった。
放課後、律が広場に着くと、アップライトの前には誰もいなかった。蓋の上に、薄い紙包みが置かれている。ミントのガム。律は指で角を確かめ、小さく笑った。
「律」
背後で呼ぶ声に、胸があたたかくなる。
ユウが腰をかがめ、律の隣に立つ気配がした。息は少し速い。走って来たのだろうか。
「今日は、君に頼みたいことがある」
「なに?」
「ぼくの……失敗を聴いてほしい」
言葉は軽かったが、喉の奥で震えるものがあった。
律は静かに頷く。鍵盤の端に触れ、蓋を開ける。空気が入れ替わり、木と金属の匂いがわずかに濃くなる。
「三分で足りる?」
「足りないかもしれない。でも、三分からでいい」
律は低音を一音だけ鳴らし、世界の輪郭を確かめる。ユウの気配が左肩の少し後ろ、声帯の高さがわかる距離に立つ。
最初の一小節。律の指が、慎重に音を並べる。ユウはそれに重なるように、声を細く出した。震えのあるA。ほんの少し、掠れている。
「……っ」
ユウの息が、途中で折れた。
律は弾くのをやめない。低音を保ち、拍の底を厚くする。左手でゆっくり拍を打ち、右肩の近くで指先を二度、軽くテーブルに触れるような仕草で合図する。——ここが吸う場所、ここが吐く場所。
「吸って、止めて、落として」
律は小声で言う。ユウにだけ聞こえるように。
ユウは一度黙り、もう一度、同じ高さのAを狙った。今度は少しだけ当たる。ほんの少しだけ。
律は和音を増やす。黒鍵に触れ、半音の狭さで遠さを作る。ユウの喉が、それを追いかける。追いかけきれない。外れる。
——いい。
律は心の中で頷く。失敗の音は、ここにいていい。ここには、居場所がある。
「もう一回」
ユウがささやく。
律は返事の代わりに、導く音型を短く置く。小さな廊下を渡るように、二歩、三歩。
ユウの喉が、ふっと軽くなった。
声が真っ直ぐに出る。響きが前に進む。
その瞬間、律の胸の中に、あの青が広がった。見えないはずの色が、確かに灯る。喉の震えと一緒に光が進む。
ユウが二度目のフレーズを歌い終えたとき、広場の空気がほんの少しやわらいだ。足を止めた誰かがいる気配。スマホの画面をタップする小さな音。信号の切り替わりを告げる電子音。
「……ねえ、律」
「うん」
「ぼく、怖いんだ。完璧じゃないと、ぜんぶ壊れる気がする。名前も、居場所も、ぼくっていう輪郭も」
律は和音を薄くしていく。なおも進みたいのを抑え、音の幅を縮める。
ユウの声は、律の音が細くなるのに合わせて、逆にほんの少し太った。
——空いたところに、入ってくる。
音楽の最初の法則。その通りに、二人は歩幅を合わせる。
「壊れていいところもあるよ」
律は言う。「壊れないで残るところを探すために、壊していいところがある。……君の声は、壊れたあとも残るところがある」
ユウがうっすら笑った気配がした。笑うと、喉ぼとけの上の皮膚が一瞬だけ平らになる。
「どこ?」
「今、僕の左耳のすぐ手前」
「耳の前って、どこ……」
「ここ」
律はためらい、けれど思い切って、ユウの指先に触れた。骨ばって、温かい手。指をそっと導き、空中の一点を示す。
「声が抜ける窓。君の声は、そこが綺麗に開いてる」
ユウの息が詰まる。次の瞬間、彼は短く笑い、喉の奥でかすかにしゃくり上げた。
「なんか、泣きそう」
「泣いていいよ。音、止めないから」
律は拍を数え直す。二、三、四。
ユウの声が、今度は泣き声の色を含んで出た。
完璧でない高さ。完璧でない音程。完璧でない息。
でも、真っ直ぐだった。
律はその真っ直ぐを支えるだけの柱になり、低音を置き続けた。
三分。
街は、三分だけ二人のものだった。
終わりの和音が空気に溶け、ユウはゆっくりと息を吐いた。
広場のどこかで、控えめな拍手が一度だけ起きて、すぐ散った。
「ありがとう」
ユウが言う。
「こちらこそ」
少しの沈黙。
律は鍵盤の蓋を下ろす。指先に木の温度が戻る。
「来週も、水曜に」
ユウは即座に頷いた。「うん。水曜。……この角」
「あと」
律は、言うべきか迷った末に、そっと言葉を置いた。
「君の名前、知ってる。でも、呼ばない」
ユウが息を呑む。
ガムの香りが、ふっと濃くなる。
「どうして」
「君が“ユウ”でいる時間が、一番きれいだから。誰かのための名前じゃなくて、君が自分で決めた音だから。……僕が勝手に、そう思っただけだけど」
ユウは何も言わなかった。
けれど、靴底がアスファルトをそっと擦る気配が、返事の代わりになった。
——ありがとう、の音。
律には、そう聴こえた。
小雨が落ち始めた。
最初の一粒は、手の甲。次は頬。
律が顔をあげると、冷たい雫がまつ毛の代わりに瞼を打った。世界の輪郭が、いっそうくっきりする。
「傘、持ってる?」
「持ってない」
「じゃあ、入る?」
二人の頭上で、小さな屋根が開いた。ユウの香りと、雨の匂いが混ざる。
傘の下は狭い。肩が触れる。
律は白杖を短く持ち替え、傘の骨に当たらない位置を探した。ユウが、さりげなく柄の角度を調整する。互いの呼吸が、同じ長さになる。
「律」
「なに」
「泣いてる?」
「わからない。雨かもしれない」
言いながら、喉の奥があたたかかった。泣きたいときの、あの熱。
ユウは笑って、同じ熱をひとつ吐き出す。
「ぼくも、雨かもしれない」
駅前の喧騒に紛れて、二人はしばし、傘の下の静けさに身を寄せた。
遠くで救急車のサイレン、すぐ横で信号の電子音。
青になる前の三秒だけ、世界はまた静かになった。
「じゃあ、また来週」
「また来週」
傘が離れると、雨はあっけらかんと二人の頭上に戻ってきた。
ユウの足音が遠ざかる。律はその背中に、白杖で縁石を二度、軽く叩いた。タタン。
返ってきたのは、同じリズムの靴音。タタン。
約束の合図。
律は胸の内で、そっとそれをしまった。
バス停へ向かう途中、スマホがポケットの中で震えた。読み上げ機能が淡々と広告を告げる。
《AURORA 新曲『POLAR NIGHT』ビデオ公開》
《Main Vocal:YU——世界初披露、今夜20時》
律は立ち止まらない。
知っていた。ずっと前から。今日、傘の下で並んだ呼吸の長さのほうが、よほど確かなことだ。
画面の輝きではなく、声の温度を信じられる夜がある。
今夜は、そういう夜だ。
家の近くの交差点で、信号の音が変わる。
青になる前の三秒。
律は胸を深く下げ、そっと息をためた。
遠くで、誰かが同じテンポで靴を鳴らす幻を、耳が探す。——いない。いるはずがない。
それでも、足は二拍目で出た。
雨は優しく、頬の熱を冷ましていく。
部屋に戻ると、机の上にミントの包み紙が置かれていた。広場で拾って、ポケットに入れたまま忘れていたやつだ。
律は指先で角を折り、真四角に整える。鳴らない楽器を、きちんとしまうみたいに。
スマホの読み上げを切り、部屋の明かりを落とす。——明るさは、律にとって意味を持たない。それでも、暗くすることで夜の気配が整う。
耳の前の空中に、ユウの声が残っている。
吸って、止めて、落として。
その順番どおりに呼吸を重ねると、胸の奥がゆっくりほどけていった。
涙は、静かに来た。
悲しいからではない。誰かの弱さが、自分の弱さとぴたりと重なって、壊れない芯だけが手のひらに残る感じ。
泣きながら、律は笑った。
——三分じゃ足りないや。
そう思った。来週の水曜が、遠くて近い。
窓の外、雨音が薄くなっていく。
やがて、どこかの交差点で、誰かが二拍目で踏み出す靴音がした気がした。
きっと幻だ。
でも、いい。
世界は見えなくても、合図は聴こえる。
青になったよ。
誰かが、そう言った気がして、律は静かに目を閉じた。
――第1話 終/第2話「匿名のレッスン」へ続く。
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