一日に3便しか運航が無い定期船の揺れは、俺の予想以上に穏やかだった。
 海上のシケでよく欠航になると聴いていたので、俺は念の為に酔い止め薬を飲んでいたくらいだったのに。

「波照間島に無事に行けても予定通り帰って来れなくなることが起きるのも波照間あるある…って書かれてる」
「そうみたいですね。俺が見たブログには最近就航した飛行機の直行便は週に3日で一日一便だし、もはや波照間島に呼ばれた人しか行けない島…って書かれてましたよ」

 島に呼ばれた人?
 俺たちは波照間島に呼ばれてるんだろうか。
 南十字星。
 見ることできるかな。
 さわ君が御守りにしてる星。


 ターミナルに着くと、民宿のオジィが迎えに来てくれていた。
 笑わないオジィが、手に【民宿にーふぁいゆー】と書かれたボードを持って車の前で立っていた。
 俺たちが小走りで近づくと、オジィは頷いてHONDAの車を指差してから運転席に乗った。
「よろしくお願いします!」 
「1日お世話になります」
 俺たちが挨拶すると、オジィが運転席から二人を見返して「おぉ」と短く返事した。
「でもさぁ。たぶん1日じゃ済まないわ」
 オジィが淡々と言う。
「…え?」
「たぶん明日の朝は波が6メートルになるからさ」
「そうなんですか」
「あんたら急いでんの?船は明日出ないよ」
「急いではいません」
「じゃあゆっくりしたらいいさ。せっかく来れたんだもの」
「でも一泊しか予約してなくて」
「何泊でもしてったらいいさぁ」
 笑わないオジィに言われた言葉を聞いて、俺と佐和は静かに顔を見合わせた。



 真っ白な砂浜と透明度の高い海。
 八重山でも屈指の美しさと言われるニシハマに来て、俺は言葉を失った。
 脳内でまた、la la la la la la…と小田和正の声が切なく甘くリフレインする。
「ねぇ。ここ天国?」
「ほんと綺麗ですね」
「俺…死んでないよね?」
「生きてます。大丈夫!」
 佐和が笑いながら俺の黒髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。
 俺は水着で泳ぐ気持ちにはならなかったから、半ズボンになって足を海に浸していたけれど、波照間ブルーに魅了されて浅瀬をどんどん歩いてしまう。
 ビーチサンダルを履いたまま、俺は青い世界を突き進んでいた。
「この世じゃないみたいだ」
「ねぇ真晴先輩。服が濡れちゃうじゃん」
「いいよ濡れても」
「急に深くなるかも」
「大丈夫」
 さっきまで真横にいた佐和の声が離れていく。俺は遠浅の波の中をスピードを緩めずに歩いていった。
「真晴先輩?セイレーンに魅了されちゃたの?」
「ん?さわ君。何?」
「海ばかり見てさ。目がキラキラしてる」
「目?」
「そ。真晴先輩すぐ顔に出るから。俺は」
 そう言ったまま、残りの言葉を盗まれてしまったように佐和が背後で黙りこんだので俺は歩みを止めた。
 もう既に腰まで海水に浸されてしまっている。
 水平線ばかり見て真っ直ぐ進んでいた俺は、振り返って3㍍ほど真後ろにいる佐和を見つめた。
「さわ君?」
「また後で」
「ぇえ?気になる」
「気になるのはこっちです。そんなに海好きでした?」
「にーふぁいゆー」
「え?」
「波照間島の海に連れてきてくれてありがとう」
「あぁ。ウチナー語」
「さっきオジィに教えてもらった」
「Mahaloと同じですね」
「うん。偶然?」
「いや。真晴先輩と同じ名前だって思って、この民宿を選びました」
 そう言って笑った佐和の顔が、いちばん波照間ブルーに相応しい。
 俺はそう思った。


 佐和の祖母だという人の家に行ったのは8月13日の昼間。
 アポイントも何もせず、住所だけを頼りに二人で突撃する。庭にヤギが繋がれていて、俺は驚いた。
「庭に犬みたいにヤギがいる」
「ほんとだ…」
 二人が左側の庭に心を奪われていると、玄関が開いてオバァが出てきた。
 佐和がお辞儀をする。
城間唯(しろま ゆい)の息子の嘉手苅佐和です。唯さんのお母さんがいたらご挨拶したいです」
 そう佐和が言うとオバァが小さく息を呑んだ。
「さわ…」
「はい。俺が佐和です」
「唯があんたを産んだんか」
「はい」
「さわって名前なんか」
「はい。唯さんは今どこにいるかは知りませんが」
 珍しく佐和が迷子になった幼子のような声を出したので、俺は右隣にいる佐和の左腕をギュッと掴んだ。
 佐和が見下ろしてきて、俺と視線を絡ませた。
 大丈夫だよ。
 俺は無言でメッセージを伝えた。
 佐和が頷いて、少しだけ口角を上げた。
「えっと俺のおばあちゃんですか?」
 そう言った佐和の顔をオバァがガン見して、黙っていた。
 30秒ほど。真夏の波照間島の片隅で三人だけが音を見失っているみたいだった。

「そうさぁ。おーりとーり」

 オバァがゆっくりと口を開いた。
「ちゅらかーぎな子が二人も来てさ。ここはニライカナイか?…私は死んだんか」
 笑いながら泣いているオバァを見て、俺は同じセリフを口にした昼間の自分を思い出した。
「生きてます。大丈夫!」
 あの時と同じ言葉で、佐和が初めて会った祖母に爽やかな笑顔を向けた。




 レンタルした自転車で民宿に帰る途中、またヤギを見た。
 木に繋がれている犬みたいな格好。俺が近づくと見上げてきた。
「波照間島の人はヤギをペットにしてるのかな」
「波照間島では、島民よりヤギの数が多いって」
「そうなの?」
 大きな木が枝を広げていたので、日陰になっていて涼しい。俺は佐和の祖母宅を出る時に、また佐和の手で直接サングラスをかけてもらっていたので淡い青の世界に沈んでいる。
(自分のサングラスを買って、これを返さなきゃ。さわ君眩しいだろうなぁ)
 俺たちは自転車を脇に停めて、ヤギの側の木陰に並んで腰を降ろした。

「さわ君のおばあちゃん、喜んでたね」
「…はい。思いきって訪ねて良かった」
「お母さんに亡くなったお兄さんがいた話は、さっき初めて聴いたの?」
「はい。母親と何話したかも覚えてなくて」
 オバァが涙を流しながら話してくれた言葉は、静かに俺の胸に沈みこんできた。

 佐和の母親である唯が小学生の低学年のとき、大好きな兄が海で溺れて亡くなった。
 心の均衡を失い、海を怖がるようになった唯は高校生になって石垣島を出ていった。
 オバァは息子を亡くして、娘を失くした。
 連絡をしてこない娘が、今は海のない街で暮らしているんだろうと心を寄せながらオバァが波照間島に戻ってきたのが阪神大震災があった年。
 未曾有の地震で日本中が混乱している中で、オバァが個人的な辛さと悲しみを語れるのは夫と故郷の仲間だけだったから。
 オジィが亡くなった今は、ヤギと暮らしながら南十字星と共に生きていたと語っていた。
 今は何処にいるか分からない唯が、七年ほどは神奈川県の海の見える街で生きていたと分かっただけでじゅうぶんだと笑ったオバァの瞳が美しかった。

「さわ君の名前。お母さんの大切なお兄さんと同じ名前だったんだなぁ」
「俺。おばあちゃんに明日も会いにいきたい」
「そうしよう。会いにいこう」
「佐和って自分の名前が女子みたいじゃんって嫌になったこともあったけど。今は好きです」
「うん」
 佐和が左隣の俺にもたれかかってきて小さな声で、さらに続けて言った。
「好きです」
「うん」
「好き」
「うん」
「真晴先輩が」

 俺は右横にいる佐和を見上げた。
 佐和は優しく笑っていた。
 俺はゆっくりサングラスを外す。
 ちょっぴり青い世界から、クリアな波照間島の片隅に戻ってきた。
 ゆっくりと俺は唇を開いた。

「今まで聞いたことなかったけど。聴くの怖くて先延ばしにしてたけど。さわ君も俺と同じ性指向だった?」
「たぶん違う。でも」
「…でも?」
「真晴先輩が好きだと思う気持ちに、欲が滲むから」
「…うん」
「世間体とか自分の中の偏見や抵抗感と戦いながら考えないようにしたりしていて」
「うん」
「ふわっと思うだけにして決定打を先送りにするみたいな感じってコレかと後で思った。俺もまさにふわっと好きだなぁって日々想っていて」
「…ふわっと想ってくれてたんだ」
 俺は佐和の言葉に胸が突かれた。今まで言葉にしなかった3ヶ月ぶんくらいの甘い気持ちを、佐和が形にして手渡してくれていた。
「ふわっと想ってたのに。真晴先輩がマルガリータの可愛い話のあとにガチな(ハナシ)してきたから煩悶しました。ふわっとではいられなくなった」
「同性を好きだという気持ちをなかったことにしたくないって話…だよね。どうして俺の好きな相手がさわ君だって気付いた?」
「いや、だから真晴先輩は顔に出るんですよ」
「よく言われる。どんな風に?」
「目」
「目?…あ。海で言いかけて止めた話だ」
「そう。真晴先輩が俺を見てくれる時だけ目が光るから。好意持ってくれてるんだって自惚れることができた」
「え?光る?…えっと。今も?」
 佐和は頷いた。笑顔で語り出した佐和がどんどん真面目な表情に切り替わっていくのを、俺は砂浜に打ち寄せる波の形のようだと思った。
「真晴先輩が朝にニシハマの海見て目を輝かせてたから。俺は波照間ブルーに嫉妬した」
「…」
「嫉妬してるのに俺はこの気持ちが恋心だと自覚するのが実は怖かった」
「そっか」
「でも、どうせ人は死ぬじゃん」
「出た!ドーセ君!本領発揮だ」
「だから好きに生きたらいいって俺自身にも思った。誰にも遠慮なんてしないで」
「うん。遠慮しないで」
 俺が笑って言うと、佐和が珍しく怒ったような表情をして俺の目の中をじっと見た。
 俺は佐和に言われた自分の目について考える。

 目の光って星みたいなものだろうか。
 俺の目の中にも南十字星があったらいいのに。

 心を飛ばしていると、佐和が座ったままの姿勢で荒々しく覆いかぶさるようにして俺を抱きしめてきた。
 力強いのに、優しい抱擁。
 互いの首筋が触れあって、汗で少し冷えた体温と高められた鼓動を交換する。
 俺からも佐和の背中に両手を廻し、ギュッと抱きついていった。

「 “さわ” はラウンドな形でクリアなブルー」

 俺が小さな声で呟くと、佐和が体をそっと離して15㌢の距離で見下ろしてきた。
「…よく覚えてますね」
「好きって言葉の音は何色に感じるの?」
「…それは変換したことなかったなぁ」
「じゃあ言ってみるから目をつぶって感じてみて」
 俺は佐和の瞳が閉じられたのを見て、心を込めて囁いた。

「さわ君。好きだ」

 佐和がゆっくりと目を開けて爽やかに笑った。
「真晴先輩。感じた」
「何色だった?」
「波照間ブルーだった」

 
 佐和が静かに額を寄せてくる。
 さっきからくっついたり離れたり。俺たちは寄せては返す波のようだ。
 波が高くなると言われていた言葉通り、強めの風が吹いて二人の頭上の木がざわわと揺れる。
 額だけくっつけ合って、互いの目を見た。これから起こることを二人は同じように確信していて、希求していて、なおかつまだ至らない最後のひとときを愛しく味わっていた。
 俺は目を閉じて、そっと想う。
 
 ヤギ君が見てるよ…。
 まぁいいか。
 今日の夜は、このヤギ君が毎晩見ている本物の南十字星を二人で見上げよう。


 俺は心の中でマルガリータを手にした未来の自分たちを浮かべ、そう優しく想った。
 マルガリータのグラスの冷えを想像したタイミングで、佐和の唇が俺の唇に優しく触れた。


 冷えたグラスが唇にそっと当たったみたいに。