池澤夏樹の『ハワイイ紀行』の分厚い文庫本が、俺の部屋の本棚に置かれている。
 ぼろぼろになったカバーをめくると、カバー裏がハワイ諸島全図の地図になっている。
 そんな、ハワイがまるごと詰まった文庫本。

 母親が買った本を小学生の頃にぱらぱらとめくっていて目を留めたのは、たくさんの写真に混ざって同じ小学3年生の子どもの手書きの手紙が載っていたページだった。
 その箇所だけ拾い読みをしてみると、新潟県の小学生女子が夏休みの自由研究の課題で流した100個の海流瓶のひとつが奇跡的に17年後にハワイのミッドウェー諸島に流れついたと書かれてあって俺は驚いた。

 そんなことがあるんだ。
 17年5か月の歳月。
 直線で4400㌔の距離。
 
 俺の天性のポジティブ思考をさらに強化したのが、この文庫本だったと言えるかもしれない。



「でね、池澤夏樹はその手紙を出した人に連絡を取ってびっくりされたって」
「うん。でしょうね」
「そのあとに続く文章がまたいいんだ」
「へぇ。どんなふうに?」
「この漂着した手紙を見て一日過ごした後、ビーチ・パヴィリオン・バーで夕日を眺めてマルガリータをすするというのはなかなか楽しい…って」
「マルガリータ?」
「そ。テキーラに、ホワイトキュラソーというリキュールとライムジュースを合わせてシェイクするんだって。縁に塩を塗ったグラスに注ぐんだ。 ライムの爽やかさと、ほんのり感じられる甘さがいいみたい」
 俺がそう言ってキーボードの前でうっとりした声を出すと、佐和が斜め前の椅子に座ったまま笑った声で突っ込んできた。
真晴(まはろ)先輩、マルガリータ呑んだことないクセに」
「うん。もちろん」
「なんだかさっきの表情。カクテル飲み慣れてる人みたいでしたよ」
「1滴も呑んだことないよ。でも池澤夏樹の『ハワイイ紀行』読んでさ、大人になったらマルガリータ飲みたい!って小学生だったのに夢想した」
「ウケる。可愛い」
 佐和はエレキギターのチューニングをしながら目を細めた。切れ長の目が優しく弓なりになって、佐和の整った顔が途端に柔らかくなる。
 佐和が大きな手でギターの弦に触れるのを、俺は目で追った。
 佐和を驚かせたりしたくないし、警戒されるのも辛いけれど、俺はどんどん親しみを覚えていく後輩には早目に打ち明けておこうと自分を鼓舞した。

「で、楽しい時間だったからたとえ男ばかり四人でも悪い気はしないって結ばれてたんだけど、当時の俺はその意味が分からなかった」
「あ〜。女がいないのに楽しめたってニュアンス。子どもには伝わらないかも」
「大人になりかけの今も、そんな気持ちが分からない」
「え?」
「まだそんなシチュエーションは体験がないけど。出掛けたりデートしたり、海見ながらお酒飲んだりってのを想像したとき。相手が男でも楽しいだろうって思うんだ」
「…女子じゃなくて?」
「うん」
「そっか」
「正直に言えば相手が女子ってのが逆に想像できなくて」
「うん」
「なんとなくそうかなって高校生になって自覚してたんだけど。ふわっと思うだけにして決定打を先送りにするみたいな感じで」
 俺の言葉に、それまで陽気に応じていた佐和が物静かな空気を纏った。 
「うん。なんか先送りにする気持ちは分かる。答えが出ないことってありますね」
 珍しく目を伏せた佐和が、弦に優しく触れて小さな音で何かのフレーズを奏でた。
 優しい音色が真晴の胸を浸す。
 俺の打ち明け話をさらりと受け取める後輩の優しさがダイレクトに俺の心を温めた。
 そんな優しい気持ちのまま、俺は言葉を続けることができた。
「で、さっきのミッドウェー諸島に届いた手紙の話にまた戻るんだけど。17年5か月の歳月がんばって海を漂っていた手紙から力をもらえて。俺も17歳になったし同じくらいの年月生きてきたじゃんって。好きだなって気持ちがあれば、それをなかったことにせずに大切にできたらなぁって思うようになった」

 長い語りを終えても、佐和は黙っていた。
 黙っているのにしっかりと心を寄せてくれているのを感じる。
 爪弾いていたメロディーが終わって佐和が顔を挙げた。
 そして唐突に話しはじめる。
「こんなこと言っても、後輩の俺の言葉なんて響かないと思うんですけど」
 佐和は見た目爽やかなのに、言い方がかなりネガティブになるのは癖なのだろうか。
 俺は前にも何度か思ったことをこの瞬間にも感じ、不思議に思った。
 佐和が呟く。
「どうせ人は死ぬじゃん」
 …は?
 今、このコ何て言った?
 人はいつか死ぬ。
 それはそうだけどさ。
 フツーのDKが言う言葉の対極にある言葉じゃない?
「…うん」
「だから好きに生きたらいいって思う。誰にも遠慮なんてしないで」
「ふはは。何その励まし方」
「いや本気でそう思ってるんです。だから好きな男が出来たら真晴先輩は世間体なんて気にせずに突き進んだらいいですよ」
「うん。ありがとう」
 俺は「ふふふ」と笑い続けてしまった。
 笑いが止まらない俺を見て、珍しく佐和が眉をしかめて仏頂面になる。

 可笑しい…。
 好きになった男、その本人から励まされてる。

 俺が先送りにしていた自分の性自認を自覚したのは、佐和に耳元で「マハロ」と言われた時に鼓動を高めた、あの四月の放課後だ。
 あの後、何度も佐和の低い声が脳内再生されて俺を苦しめた。
 その苦しさが今まで経験のない、甘さと苦さと切なさを滲ませた不思議な感情だったので俺は心を揺さぶられた。
 毎日のように放課後に会えるのが嬉しい気持ちと鼓動の高鳴り。それを素直に認め、あぁこれは恋だな…と俺なりに答えを出した。
 すっごく恥ずかしくて照れくさいアンサー。
 恋っていうのはマイノリティに関わらず、自分の思うようにはいかないものなんだから。
 誰にとっても切なくて、甘くて、苦しいものだろう。
 だから。
 きっと大丈夫。
 同性が好きな俺で大丈夫。

 こんな風に自分を励ましていたけれど。
 まさか当の本人からも励まされるとは思わなかったな。

(笑ってる俺、自虐的すぎる…?脈無しってことだよね)

 もし佐和も同じような性指向だったら、俺の恋心には気付くんじゃないかなと感じていた。
 俺は顔に出やすいから。
 気付かないから、こんな風に言うんだ。優しい心遣いで、好きな男が出来たら突き進めばいいって応援してくれてるんだろうなぁ。
 切ないけれど。
 それが、いい。

 俺は仏頂面になっている佐和を笑顔にしたくて、立ち上がった。
 目を閉じて、深呼吸をする。傷付いている自分の恋心をそっと手のひらで包むイメージを心の中でした。
「よし!片想い上等。矢でも鉄砲でも持ってきやがれ」
「真晴先輩…?…誰に言ってんの?」
「自分にだよ」
「片想いなの?」
「たぶん」
「相手には何も言わないの」
「今は温めておきたいんだ」
「波照間島って南十字星が見えるらしいんだけど」
「…ん?…うん」
「真晴先輩にとって17年海を漂った手紙が心の御守りになってるみたいに、俺にとっては南十字星ってのが御守りになってる。見たことないのに」
「そうなんだ?」
「海を航海する人は星が羅針盤の替わりになったりするよね。GPS衛星がなかった時代には特に」
「だろうね」
「人生って海みたいなものでしょう?」
「さわ君って意外と哲学的」
「うん。だからふらふらしそうな時、俺は星空を見たら落ち着くんです」
「そうなんだ」
「そう。真晴先輩も家のベランダで見てみて。矢とか鉄砲とか物騒なこと言ってないで」
「うん。そうしてみる」
「今日は城戸先輩は?」
「来るって言ってた。何から練習しよかな」
「 go!go!vanillas のサクラサク」
「お!いいね」
 俺は歌詞を口ずさみ始めた佐和を横目で盗み見て、少しだけ頬が熱くなった。
 なんで、今、この曲を選ぶんだよ!

― 声に出そう。君が好きなんだ。

 告白しろよって俺を煽ってんの?
 もしかして。気付いてる?
 あ、気付いてない中での俺へのエール?
 どっちなんだよ。
 さわ君。