「走らずに、って……」
無茶だ。理紀にディフェンスを鍛えろと進言したのは確かに僕だけれど、理紀は別に、ディフェンスが苦手というわけじゃない。僕のような素人相手に抜かれるような選手ではないし、そもそも僕には理紀という背の高いディフェンダーを抜いてゴール前まで攻め込めるだけの技術がない。
なのに、理紀は本気の目をしていた。本気で僕と勝負をするつもりでいる。
理紀の守りを破り、シュートを決めれば僕の勝ち。シュートまで持ち込めなければ、あるいは放ったシュートを弾かれれば理紀の勝ち。
走らずに、か。
どうやらこの勝負からは逃げられそうにないと悟り、僕はその場で静かにドリブルをし始めた。
僕が動き出したのを皮切りに、理紀も両手を大きく広げて本格的なディフェンス態勢に入る。僕は理紀の長い腕にボールを取られないように、理紀に習ったとおり、軽く足幅を取った姿勢で左右の腕を交互に動かし、時折両足の間にボールを通しながらドリブルを続け、その間になけなしの知識を振り絞って理紀を攻略するための戦術を練った。
走れない、という制約がある以上、一般的な1on1の攻め口である、ディフェンスの選手の脇を縫うように前へ出て、そのままの勢いでレイアップシュートまで持っていくというスピード勝負には持ち込めない。そもそも僕にはスピードが出せないから、ゴールに向かって突き進むという線は最初から存在していないも同然だった。
ならば、その場からシュートを打つか? 無理だ。理紀の高さじゃ僕のシュート軌道なんて右手一本で簡単にブロックできてしまう。
これが3on3、三対三のチーム戦なら、走らずともパス回しの速さだけで相手を攪乱することができるけれど、1on1ではパスに頼ることはできない。
ならば、どうする? 上が抜けないなら、下か。下半身に訴えかけることで、相手の動きを止める。それができれば、勝機はある。相手が一瞬止まった隙に、一気に攻める。
一つ、やってみたい策が浮かんだ。いつだったか、NBAの切り抜き動画で見た攻め方だ。プロ選手の動きをそのまま再現できるとはとうてい思えないけれど、他にいい方法が思いつかない。
試してみるか。覚悟を決めた僕の前に、理紀はお手本どおりのディフェンスフォームでかまえてくる。僕に詰めすぎず離れすぎず、腕を伸ばせば僕に届くくらいの間合いで両手を横に広げている。いい距離感だ。左右どちらへ動いてもまったく抜ける気がしない。
さぁ、行こう。僕はやや大きく右へ動いた。理紀がちゃんと僕についてくるのを確認すると、今度は左へ動きながら少し前へ出る。理紀は僕がそのままゴール方向へ攻めてくることを警戒し、下がりながら右手を高く上げた。
まだだ。まだ早い。僕はもう一度右方向へ動きながら、また少し前へ。理紀はサッと左斜め後ろへ下がりながら、僕の前に壁を作った。僕が右から抜いていくことを想定したらしい理紀の重心が左へ振れているのを、僕は確かに確認した。
今だ。僕はくるりとからだを百八十度反転させ、目の前に立つ理紀に背を向ける。その勢いのままもう半分回り、前を向くと同時に膝を深く曲げ、その場からシュートの体勢に入った。
理紀がハッとした顔をしているのが見えた。慌てて僕の前に手を伸ばしてきたけれど、もちろんそれも想定済み。
僕はゴールから遠ざかるように、後ろへからだを倒しながらジャンプする。対して腕はしっかりとゴール方向へ伸ばし、右の手首をしっかりと返すことを意識してシュートを放った。
フェイダウェイ。からだがゴールから放れていく一方で、ボールは理紀の伸ばした指先を越え、ゴールへと吸い込まれていく。
理紀が振り返り、二人でボールの行方を追う。僕の放ったシュートは、惜しくもゴールポストに当たってはずれた。
「くそっ、はずれた」
「いや、俺の負けだよ」
理紀はコロコロと転がっていったボールを拾いに行きながら白旗を揚げた。
「悔しいな。まさか本当に抜かれるとは思わなかった」
「抜いてないだろ」
「いや、抜かれたよ。俺の頭の上をさ」
ボールを拾い上げると、理紀は僕のはずしたシュートを代わりに入れるかのように、ゴールのすぐ下からジャンプシュートを放ち、スポンときれいに決めて見せた。僕の勝ち、と彼は言いたいようだった。
「どこで覚えたんだよ、あんなフェイント」
僕は軽く弾んだ息を整えながらこたえた。
「NBAの切り抜き動画で見た。『スピードのない選手でも1on1で勝つ方法』みたいなやつ」
「動画見ただけであの再現度?」
「たまたまね」
「たまたま?」
ドリブルをしながら僕の前に戻ってきた理紀は、僕の顔に自分の顔をぐぅっと近づけて僕をにらんだ。
「ほんとは?」
射貫かれるような目をする理紀に、今度は僕が白旗を揚げる番だった。
「……少しだけ練習した。ステップだけだけど」
「なにしてんの」
「いいだろ、それくらい」
僕は理紀の手からボールを奪った。
「あんまり動かなすぎるのも良くないって医者からは言われてるんだ」
ドリブルをしながら、ジョグよりももっと遅い、ほとんど歩いているような足取りで僕はゆっくりとゴールを目指した。「おい、すず!」と理紀が僕の背中に叫んでいるのも聞かず、ゴール向かって右サイドから軽く飛び上がり、レイアップシュートを放った。
今度はきれいに自分で入れることができた。バスケをやっている人が心から楽しいと思える瞬間を、ほんの少しだけれど、僕もこの手に感じられた。
「どう、うまい?」
地面に落ちて跳ねるボールをもう一度ドリブルしながら僕は問う。理紀は困ったように息をついたけれど、「うまいよ」と言って褒めてくれた。嬉しかった。
僕は満足して微笑む。でも、そこまでだった。
心拍数が跳ね上がり、呼吸の音が大きくなる。うなだれながら胸を押さえた僕のもとに、理紀が「すず!」と言って飛んできた。
「バカ。レイアップなんてやるから」
理紀にいざなわれ、縁側代わりに置かれた小ぶりのウッドデッキのふちに座らされる。いつもここから理紀の練習を見学している、いわば僕の定位置だ。
隣に腰かけた理紀が優しく背中をさすってくれる。幸い、たいしたことはなくて、しばらくすると乱れた僕の呼吸はほぼ平常と同じリズムを取り戻した。
「ごめん」
いつものように、僕は理紀に謝った。
「おれ、またおまえの邪魔してる」
「してないよ」
理紀は首を横に振った。
「俺のほうこそ、ごめん。今回は完全に俺が悪い」
「違う。おれが調子に乗ったから」
「そうじゃない。俺が1on1なんて誘ったから。走らなくたって、あれだけ左右に大きく動いたら負荷がかかるに決まってるのに」
「理紀」
「バカだ、俺」
理紀は大きな右手で自らの顔の右半分を覆った。
「俺がすずを傷つけてどうすんだよ。全然守れてない、すずのこと」
自分をひどく責めるように、僕よりもずっと苦しそうに、理紀は小さく言葉を紡いだ。夏の足音が日々大きく聞こえるようになってきているというのに、僕らの周りに漂う空気はしんと冷たい。
違う。
僕は下唇をかみしめる。
そんなことはない。理紀はなに一つ悪くないし、僕は、なにより僕は、理紀の苦しそうな顔は見たくない。
僕はすくっと立ち上がり、ゴールポストの前に無防備に転がっているバスケットボールを拾いに行く。背後で理紀が顔を上げる気配を感じた。
ボールを拾い上げ、僕は理紀を振り返った。
「やろう、練習」
「すず」
理紀が今考えていることは手に取るようにわかる。またこいつは、僕のためにバスケから遠ざかろうとしている。
だから僕は、精いっぱい理紀に笑いかけた。
理紀にはこの先もずっと、バスケを続けてほしいから。
「おれ、バスケしてる時のおまえが一番好きだからさ」
嘘じゃない。バスケと真剣に向き合っている理紀の姿が、僕のお気に入りの風景だ。
だからこそ理紀には、僕のためじゃなくて自分のためにバスケをしてほしいのだけれど、この際、理紀がどう考えようがかまわない。バスケさえ続けてくれれば、やめたいと思わないでいてくれれば、それでよかった。
「ほら、早く」
呆けた顔で僕を見ている理紀の手を取り、僕は無理やり理紀を立ち上がらせると、その胸にトンと押しつけるようにボールを渡した。
「おれに1on1で負けてるようじゃあ、キャプテンとして情けないぞ」
そうして発破をかけられると、理紀はようやく「言ってくれるね」と言って笑い、僕に手渡されたボールを持つとゴールに向かって勢いよく走り出した。
理紀は持てる力のすべてをかけてドリブルをしながら走り込む。まるで目の前に相手チームの選手が立ちはだかっているかのように、時折左右へからだを切り返し、フェイントのような動きを入れながら一気にゴール下まで詰める。
さっきの僕とは比べものにならない美しさで、理紀はレイアップシュートを放った。リングに少しも触れることなく、理紀の指先を放れたボールは鮮やかにネットを揺らす。
僕は掲げた両手を打ち鳴らす。ささやかな喝采を浴びた理紀は調子づき、今度は僕がさっき1on1で理紀を出し抜いた動きとまったく同じ動きをしてみせた。当たり前だけれど、理紀のほうが動きにキレがあってうまいし、フェイダウェイからのシュートもきっちり決めてしまうのがちょっと悔しい。
「もうちょっと大きく揺さぶったほうがいいか」
理紀は自分で自分にダメ出しをし、同じ動きをやり直した。僕はそれを見ながら「そうだな」と相づちを打つ。
「おれが見た動画の解説でも言ってたよ。スピードを出さなくても、相手の重心が左右どちらかへ完全に偏らせることができれば、目の前の壁はないも同然だって」
「だろうな。理屈はわかるよ。おまえとやった時の俺も、抜かれる直前は左足にほとんど体重がのってた。だから右手が追いつかなかったんだ」
言いながら、理紀はもう一度同じ動きを練習する。僕と違って理紀にはスピードが出せるから、大きな揺さぶりと相手を振り切るだけの速さを組み合わせることで完全にフリーな状況を生み出すことは不可能じゃない。
僕はポケットからスマートフォンを取りだし、集中し始めた理紀の真剣な練習姿を動画に収めた。あとで理紀が自分で見て、どこがよくないかを研究する資料として使うためだ。
小さな液晶画面の中で躍動する幼馴染みの姿を、僕は食い入るように見つめる。カッコよくて、見ていて飽きない。いつの時代も、僕は理紀に憧れていた。
気がつけば時間が経って、理紀が「ちょっと休憩」とウッドデッキに腰かけた。僕は僕らの家の境界線に立てられた低い柵を跨ぎ、「水、取ってくる」と自分の家の庭に帰った。
外からリビングの窓をたたくと、父がカギを開けてくれた。僕は靴を脱ぎ捨てて部屋に入り、冷蔵庫からペットボトルに入ったミネラルウォーターを持って再び理紀の家の庭に戻った。
「お疲れ」
「さんきゅ」
理紀は僕の手渡したペットボトルの封を切り、喉を鳴らしながら水分を補給した。初夏の太陽が額から頬にかけて滴る汗をきらめかせ、理紀のさわやかな横顔はまるでミネラルウォーターのCMのようだった。
理紀はふたを開けたままのペットボトルを僕に手渡す。受け取った僕はそれを飲んで、もう一度理紀に返すと理紀はようやくふたを閉めた。
「動画、見せて」
僕が今し方撮影したものを言っているらしい。僕はスマホを理紀に手渡し、理紀と二人で肩を寄せ合いながら練習動画を見た。
一本の動画を何度も巻き戻して見たり、「これはいい」とすぐに次の動画へ行ったり。画面のスクロールはすべて理紀に一任していたから、僕が動画撮影の合間にこっそりと撮っていた理紀の写真を見られてしまった。
「なにこの写真」
ちょうど理紀がジャンプシュートを打った瞬間を収めたものだった。光の入り方といい、庭の木がもたらす緑のバランスの良さといい、我ながらよく撮れている。僕は素知らぬ顔をして「別に」と言った。
「いいアングルだったから撮っただけ」
「ふぅん」
理紀は僕のスマホを勝手に操作し、カメラを起動してインカメに切り替えた。画面に映った自分の顔を見ながら少し乱れた前髪を直すと、理紀は自分だけにカメラを向け、シャッターボタンに指を伸ばす。
押した瞬間、理紀はおもいきり変顔をした。舌を出し、鼻の穴を広げ、おまけに白目まで剥いている撮りたての写真を画面に表示させ、僕に向けて「はい」と見せた。僕は声を立てて笑った。
「ひでぇ」
「あげる」
「やば。マジでおもろい。待ち受けにしよ」
笑いながら設定して、たくさんのアプリのアイコンの隙間から見える理紀の変顔を見た僕らはまた笑った。理紀はまた僕のスマホを取り上げて、カメラを僕ら二人が映るようにかまえ、僕にそっと顔を寄せた。僕は思わず理紀を見た。
「え、なに」
「撮るよ。こっち」
言われるがまま、僕は理紀のかまえたスマホを見る。きれいに笑っている理紀と、うまく笑い損ねた僕の、なんとも言えないツーショット写真が液晶画面いっぱいに広がっていた。
僕の隣で、理紀はとても嬉しそうに笑った。
「これ、あとで俺のスマホに送っといて」
「えぇ?」
「俺はその写真を待ち受けにする」
だったらせめてもう少しまともな顔をしたやつにしてほしいと言おうとしたけれど、理紀は僕にスマホを渡すなり立ち上がって、バスケの練習に戻っていってしまった。
手もとに残ったスマホの画面に目を落とす。僕だけがぼんやりとした顔をしている、なんとも僕ららしい写真で、僕も我知らず笑みをこぼした。
動き出した理紀の背中を、僕は動画の中に収める。
死ぬのが怖いと思ったことが嘘のように、こうして理紀と一緒に陽の光を浴びていると、生きる気力が湧いてくる。
ありがとう、理紀。
僕の隣にはやっぱり、理紀がいないとダメらしい。



