練習が終わり、片づけと簡単なミーティングを経て帰宅する頃にはだいたいいつも午後一時を回っていた。家で遅めの昼食を摂ると、ようやく休日らしい時間がやってくる。
「じゃあ、あとで」
理紀は僕にそう言うと、自宅の門を開け、玄関へと続く短い階段を登っていった。僕は「うん」とうなずきながら彼と別れ、すぐ東側にある隣の家、すなわち僕の家に帰った。
「ただいま」
荷物を背負ったままリビングに顔を出し、ついでにキッチンで手を洗う。家には父と母がいて、それぞれが僕に「おかえり」と言いながらのんびりとくつろいでいる。
僕はそのまま風呂場へ行き、洗濯物を出してシャワーを浴びる。このあとの予定は特にない。高校の宿題をやっつけて、バスケ部の日誌を清書したら、それから先は僕の自由に過ごせる時間だ。
Tシャツとハーフパンツに着替えたら、ようやく昼食にありつける。今日はチャーハンを母が用意しておいてくれた。電子レンジで温め、ダイニングテーブルでノートパソコンを広げ、おそらくは仕事をしている(していないかもしれない)母の斜向かいで食べる。父はソファを陣取って、趣味の釣り用品をご機嫌にいじくり回している。
タイミングを見計らったように、僕が食事を終えると同時にインターホンが鳴った。カメラ付きで、画面には理紀が映っていた。
僕は玄関を開ける。中学時代の練習で着ていたTシャツとバスパン姿でやってきた理紀は、右手に勉強用具一式の入った透明のキャリングケース、左手には彼が愛用している枕、とおなじみのセットを提げていた。
「お邪魔しまーす」
小学生の時からちっとも変わらない調子で理紀は言い、ちゃっかりリビングにも顔を出して父と母に「こんにちは」と挨拶までした。二人とも「はーい、いらっしゃい」と言うだけで、他には特になにもない。このやりとりは毎週末、もう何年も続く光景だった。
一階にある僕の部屋へ二人で入ると、理紀は真っ先に僕の使っているベッドに自分の枕を設置した。そのままどうするのかと彼の動きを見守っていると、「はー、疲れた」と言って理紀は僕のベッドに寝転がった。まるでここが自分の寝床だと言わんばかりのくつろぎぶりだ。
「宿題は」
僕は理紀が来た時にだけ出す折りたたみ式のローテーブルを運びながら言った。天板は学校の机を一回り大きくしたくらいのスペースしかないけれど、譲り合えばどうには二人で勉強することができた。
「んー、先に寝るー」
「そう。何時に起こせばいい?」
返事がない。僕は机の脚を起こす手を止め、ベッドの上の理紀に目をやる。理紀はすでに半分眠りかけていた。
「理紀」
「ん」
「何時に起きる?」
「んー、すずー」
僕の問いにはやはり答えず、代わりに理紀は目をつむって寝転がったまま両腕を広げた。僕は思わず目を眇め、けれどおとなしく彼の要求に従った。
どう考えても男子高校生二人が並んで寝るには狭すぎるベッドの上に乗り、理紀に背を向けて寝転がる。理紀は広げた長い上で僕をがっしりとホールドする。
まもなくして、理紀の健やかな寝息が頭の後ろから聞こえてきた。理紀は僕のことを抱き枕だと思っているらしく、小学生の頃から、部活を終えたあとに僕の家までやってきては、理紀はこうして僕を抱きしめて昼寝をするのが習慣だった。
「お疲れ。新キャプテンさん」
今日の理紀が疲れているのは当然だと思う。新チームになり、練習の指揮を執るのが先代のキャプテンから理紀に代わった。慣れるまでは大変だろう。できる限りサポートしてやりたいけれど、いかんせん僕には動きに制約がありすぎる。今の僕にできることと言えば、そう、理紀の抱き枕になってやることくらいだ。情けない。
理紀が眠ってしまったので、起きるまで僕はこの状態から逃れられなくなった。特にやることもなく、こういう時僕はいつもスマートフォンで録画したバスケ部の映像を見ることにしている。
先日のインターハイ予選のデータは、僕らバスケ部員の間だけで共有されているURLから専用の動画サイトのページにアクセスすることで見ることができる。ミーティングの時間にみんなで見ることもあれば、僕のように、暇な時間を見つけてはぼんやりと眺めている人もいる。理紀とはよく、動画を見ながら改善点を探す話し合いをした。動画の中には、僕が練習風景を撮影したものもあった。
理紀を起こさないように、音声は最小ボリュームで動画を流す。完全に消音しない理由は、僕がバスケの音が好きだからだ。ドリブルの音、シューズの音、みんなの声。ベンチに入ってもスコアをつけることくらいしかできない僕も、この音を聞いていると自分もバスケをしている気持ちになれる。臨場感を味わえてわくわくした。
引退した先輩から理紀にパスが通る。スリーポイントラインでボールを持つ理紀はほぼフリーだ。
理紀がシュートを放つ。リングに触れることなく、ボールは美しい流線型を描いてネットに吸い込まれていく。
シュートを打つ直前から親指、人差し指、そして中指の三本で「三点」を示していた審判が笛を鳴らす。この試合の序盤は特に、取って取られてのシーソーゲームが続いていた。
先日の準々決勝は、惜敗したもののいい試合だったと僕は思っている。その理由は他でもない。理紀の調子がよかったからだ。
メンタルの仕上がっている時の理紀は、他を寄せ付けない圧倒的なオーラをまとってコートに立つ。一度彼にボールが渡ってしまえばもう誰にも止められないというある種の狂気さえ感じさせ、シュート決定率は九割を超える。
動画の中で時計は進み、また理紀がシュートを決める。基本に忠実で、長い腕から放たれるボールの軌道はうっとりとしてしまうほど美しい。
試合の行方などどうでもよかった。僕はただ、画面の中で躍動する理紀の姿だけを見つめる。
カッコいい。小学生の時からずっと、理紀はカッコいい男だった。
理紀の家の庭には、理紀のお父さんが取りつけたバスケットゴールがある。そこで毎日のように理紀はシュート練習をして、僕はその姿を見守っていた。
少しずつシュートの精度が上がっていく日々を、僕は理紀とともに過ごした。心臓の調子が悪くて寝込んでいる時も、理紀が庭でシュート練習をし始める音が聞こえると、僕はこっそり外へ出て、理紀のがんばる姿を見た。まともに息もできないから理紀には心配させたけれど、ベッドの上にいるよりも、理紀と一緒にいたほうが元気になれるような気がした。そう伝えると、理紀はとてもいい顔をして笑ってくれた。
単純に、好きなのだ。理紀がバスケに一生懸命になっている姿が。
カッコよくて、見ていて飽きない。僕のお気に入りの風景だった。
――俺とすず、五本ずつ連続でシュートが決まったら終わりね。
練習の終盤になると、理紀はいつもそんなことを言った。まずは、自分の分を五本。そのあと、これはすずの分、と言いながら五本。
さらっと決められる日もあれば、何度やり直しても終われない日もある。なかなか終われないと理紀は次第にイライラしてきて、けれど僕はその怒った顔ですら見ていて飽きなかった。ガキっぽくて、かわいらしい。素直で、純粋で、大人びた見た目と正反対で。
スマホを持っていないほうの左手で、僕は僕を抱きしめている理紀の腕にそっと触れる。
理紀だけじゃない。きっと僕も、根本的に理紀のことが好きなのだ。まだ一度も口に出して理紀に伝えたことはないけれど、理紀と一緒にいたいから僕はバスケ部に入ったし、毎日理紀と顔を合わせられると安心する。来ないかもしれない明日がちゃんと来たんだと思えるから。
だからこそ、ふと不安になる時がある。
僕はいつまで、理紀と一緒にいられるのだろう、と。
「どうした」
唐突に理紀の声が聞こえ、僕はぴくりと肩を震わせた。
「めずらしいじゃん、おまえから触れてくるなんて」
「起きてたのか」
「今起きた」
理紀はもぞもぞとからだを動かし、よりきつく僕を抱きしめた。
「また、怖くなった?」
さすが、幼馴染み歴十六年。僕はなにも言わず、理紀の腕にしがみついた。
怖かった。僕と同じ病気を持つ人の死因は、急性心不全が五割以上を占めると言われている。なんの前触れもなく、唐突に心臓が動かなくなって死ぬ。僕にはそんな未来が待っているかもしれないのだ。
考えれば考えるほど、想像すれば想像するほど怖くなる。死にたくない。まだ死にたくない。
理紀とずっと、まだまだ一緒にいたいから。
「すず」
理紀に促されるまま、僕は上体をゆっくりと起こす。理紀がそうするように、僕も壁に背を預け、狭いベッドの上に理紀と並んで座った。
あぐらを掻く理紀と、小さく膝をかかえる僕。理紀はコツンと壁に頭を預け、誰にともなくつぶやいた。
「俺、どうしたらもっとバスケがうまくなれるかな」
僕はちらりと理紀に目を向ける。理紀も僕と目を合わせ、ふわりと笑った。
僕は少し考えて、こう答えた。
「ディフェンスじゃない?」
「ディフェンス」
「うん。シュートは入るから、ディフェンスが強くなると、理屈上最強になれる」
「自分たちは点を取って、相手には点を取らせない、か」
理紀はまるで羽根のような軽さでベッドから降り立ち、軽く屈伸運動をしてから僕を振り返った。
「練習、付き合ってよ」
無言のまま理紀を見上げる。理紀が手を差し伸べてくれて、僕はそれを取って立ち上がった。
理紀はいつもそうだった。大丈夫だよ、とか、怖くないよ、とか、そんな無責任なことは言わない。僕の生活が常に死と隣り合わせで、まったく大丈夫じゃないことを知っているから、変に期待を持たせるようなことはしないのだ。
その代わり、理紀は僕が今日という日をできる限り楽しく、前向きに過ごせるようにしてくれる。明日が来ないかもしれない僕が、後悔のない人生を送れるように。
だから今も、理紀は僕を気晴らしに連れ出そうとしてくれている。この狭い部屋の中で見えない不安と戦うより、限りある時間を大好きなバスケに使ったほうがいい。理紀はそう考えたようだ。
靴を履き替え、今度は理紀の家に行く。玄関は通らず、僕と理紀の家の隙間に細くある抜け道を行けば、理紀の家の庭に出られる。
理紀は倉庫からバスケットボールを一つ引っ張り出し、僕に「はい」とバウンドパスを出した。
「えっ」
不意を突かれ、あやうくボールを取りこぼすところだった。
「おれ?」
「すずがオフェンスね」
「はぁ?」
オフェンス? 僕と1on1、一対一の勝負をするつもりなのか、理紀は。
「無理だって。おれは……」
「走るなよ、絶対」
理紀は僕の言葉を遮り、僕の手を引いてゴールの真正面に立たせた。
「走らずに、俺を抜いてみて」
対する理紀は僕の目の前にゴールを背にして立ち、スッと膝を曲げてディフェンスの構えを取った。どうやら本気で、僕にオフェンスをやらせるつもりらしい。
「じゃあ、あとで」
理紀は僕にそう言うと、自宅の門を開け、玄関へと続く短い階段を登っていった。僕は「うん」とうなずきながら彼と別れ、すぐ東側にある隣の家、すなわち僕の家に帰った。
「ただいま」
荷物を背負ったままリビングに顔を出し、ついでにキッチンで手を洗う。家には父と母がいて、それぞれが僕に「おかえり」と言いながらのんびりとくつろいでいる。
僕はそのまま風呂場へ行き、洗濯物を出してシャワーを浴びる。このあとの予定は特にない。高校の宿題をやっつけて、バスケ部の日誌を清書したら、それから先は僕の自由に過ごせる時間だ。
Tシャツとハーフパンツに着替えたら、ようやく昼食にありつける。今日はチャーハンを母が用意しておいてくれた。電子レンジで温め、ダイニングテーブルでノートパソコンを広げ、おそらくは仕事をしている(していないかもしれない)母の斜向かいで食べる。父はソファを陣取って、趣味の釣り用品をご機嫌にいじくり回している。
タイミングを見計らったように、僕が食事を終えると同時にインターホンが鳴った。カメラ付きで、画面には理紀が映っていた。
僕は玄関を開ける。中学時代の練習で着ていたTシャツとバスパン姿でやってきた理紀は、右手に勉強用具一式の入った透明のキャリングケース、左手には彼が愛用している枕、とおなじみのセットを提げていた。
「お邪魔しまーす」
小学生の時からちっとも変わらない調子で理紀は言い、ちゃっかりリビングにも顔を出して父と母に「こんにちは」と挨拶までした。二人とも「はーい、いらっしゃい」と言うだけで、他には特になにもない。このやりとりは毎週末、もう何年も続く光景だった。
一階にある僕の部屋へ二人で入ると、理紀は真っ先に僕の使っているベッドに自分の枕を設置した。そのままどうするのかと彼の動きを見守っていると、「はー、疲れた」と言って理紀は僕のベッドに寝転がった。まるでここが自分の寝床だと言わんばかりのくつろぎぶりだ。
「宿題は」
僕は理紀が来た時にだけ出す折りたたみ式のローテーブルを運びながら言った。天板は学校の机を一回り大きくしたくらいのスペースしかないけれど、譲り合えばどうには二人で勉強することができた。
「んー、先に寝るー」
「そう。何時に起こせばいい?」
返事がない。僕は机の脚を起こす手を止め、ベッドの上の理紀に目をやる。理紀はすでに半分眠りかけていた。
「理紀」
「ん」
「何時に起きる?」
「んー、すずー」
僕の問いにはやはり答えず、代わりに理紀は目をつむって寝転がったまま両腕を広げた。僕は思わず目を眇め、けれどおとなしく彼の要求に従った。
どう考えても男子高校生二人が並んで寝るには狭すぎるベッドの上に乗り、理紀に背を向けて寝転がる。理紀は広げた長い上で僕をがっしりとホールドする。
まもなくして、理紀の健やかな寝息が頭の後ろから聞こえてきた。理紀は僕のことを抱き枕だと思っているらしく、小学生の頃から、部活を終えたあとに僕の家までやってきては、理紀はこうして僕を抱きしめて昼寝をするのが習慣だった。
「お疲れ。新キャプテンさん」
今日の理紀が疲れているのは当然だと思う。新チームになり、練習の指揮を執るのが先代のキャプテンから理紀に代わった。慣れるまでは大変だろう。できる限りサポートしてやりたいけれど、いかんせん僕には動きに制約がありすぎる。今の僕にできることと言えば、そう、理紀の抱き枕になってやることくらいだ。情けない。
理紀が眠ってしまったので、起きるまで僕はこの状態から逃れられなくなった。特にやることもなく、こういう時僕はいつもスマートフォンで録画したバスケ部の映像を見ることにしている。
先日のインターハイ予選のデータは、僕らバスケ部員の間だけで共有されているURLから専用の動画サイトのページにアクセスすることで見ることができる。ミーティングの時間にみんなで見ることもあれば、僕のように、暇な時間を見つけてはぼんやりと眺めている人もいる。理紀とはよく、動画を見ながら改善点を探す話し合いをした。動画の中には、僕が練習風景を撮影したものもあった。
理紀を起こさないように、音声は最小ボリュームで動画を流す。完全に消音しない理由は、僕がバスケの音が好きだからだ。ドリブルの音、シューズの音、みんなの声。ベンチに入ってもスコアをつけることくらいしかできない僕も、この音を聞いていると自分もバスケをしている気持ちになれる。臨場感を味わえてわくわくした。
引退した先輩から理紀にパスが通る。スリーポイントラインでボールを持つ理紀はほぼフリーだ。
理紀がシュートを放つ。リングに触れることなく、ボールは美しい流線型を描いてネットに吸い込まれていく。
シュートを打つ直前から親指、人差し指、そして中指の三本で「三点」を示していた審判が笛を鳴らす。この試合の序盤は特に、取って取られてのシーソーゲームが続いていた。
先日の準々決勝は、惜敗したもののいい試合だったと僕は思っている。その理由は他でもない。理紀の調子がよかったからだ。
メンタルの仕上がっている時の理紀は、他を寄せ付けない圧倒的なオーラをまとってコートに立つ。一度彼にボールが渡ってしまえばもう誰にも止められないというある種の狂気さえ感じさせ、シュート決定率は九割を超える。
動画の中で時計は進み、また理紀がシュートを決める。基本に忠実で、長い腕から放たれるボールの軌道はうっとりとしてしまうほど美しい。
試合の行方などどうでもよかった。僕はただ、画面の中で躍動する理紀の姿だけを見つめる。
カッコいい。小学生の時からずっと、理紀はカッコいい男だった。
理紀の家の庭には、理紀のお父さんが取りつけたバスケットゴールがある。そこで毎日のように理紀はシュート練習をして、僕はその姿を見守っていた。
少しずつシュートの精度が上がっていく日々を、僕は理紀とともに過ごした。心臓の調子が悪くて寝込んでいる時も、理紀が庭でシュート練習をし始める音が聞こえると、僕はこっそり外へ出て、理紀のがんばる姿を見た。まともに息もできないから理紀には心配させたけれど、ベッドの上にいるよりも、理紀と一緒にいたほうが元気になれるような気がした。そう伝えると、理紀はとてもいい顔をして笑ってくれた。
単純に、好きなのだ。理紀がバスケに一生懸命になっている姿が。
カッコよくて、見ていて飽きない。僕のお気に入りの風景だった。
――俺とすず、五本ずつ連続でシュートが決まったら終わりね。
練習の終盤になると、理紀はいつもそんなことを言った。まずは、自分の分を五本。そのあと、これはすずの分、と言いながら五本。
さらっと決められる日もあれば、何度やり直しても終われない日もある。なかなか終われないと理紀は次第にイライラしてきて、けれど僕はその怒った顔ですら見ていて飽きなかった。ガキっぽくて、かわいらしい。素直で、純粋で、大人びた見た目と正反対で。
スマホを持っていないほうの左手で、僕は僕を抱きしめている理紀の腕にそっと触れる。
理紀だけじゃない。きっと僕も、根本的に理紀のことが好きなのだ。まだ一度も口に出して理紀に伝えたことはないけれど、理紀と一緒にいたいから僕はバスケ部に入ったし、毎日理紀と顔を合わせられると安心する。来ないかもしれない明日がちゃんと来たんだと思えるから。
だからこそ、ふと不安になる時がある。
僕はいつまで、理紀と一緒にいられるのだろう、と。
「どうした」
唐突に理紀の声が聞こえ、僕はぴくりと肩を震わせた。
「めずらしいじゃん、おまえから触れてくるなんて」
「起きてたのか」
「今起きた」
理紀はもぞもぞとからだを動かし、よりきつく僕を抱きしめた。
「また、怖くなった?」
さすが、幼馴染み歴十六年。僕はなにも言わず、理紀の腕にしがみついた。
怖かった。僕と同じ病気を持つ人の死因は、急性心不全が五割以上を占めると言われている。なんの前触れもなく、唐突に心臓が動かなくなって死ぬ。僕にはそんな未来が待っているかもしれないのだ。
考えれば考えるほど、想像すれば想像するほど怖くなる。死にたくない。まだ死にたくない。
理紀とずっと、まだまだ一緒にいたいから。
「すず」
理紀に促されるまま、僕は上体をゆっくりと起こす。理紀がそうするように、僕も壁に背を預け、狭いベッドの上に理紀と並んで座った。
あぐらを掻く理紀と、小さく膝をかかえる僕。理紀はコツンと壁に頭を預け、誰にともなくつぶやいた。
「俺、どうしたらもっとバスケがうまくなれるかな」
僕はちらりと理紀に目を向ける。理紀も僕と目を合わせ、ふわりと笑った。
僕は少し考えて、こう答えた。
「ディフェンスじゃない?」
「ディフェンス」
「うん。シュートは入るから、ディフェンスが強くなると、理屈上最強になれる」
「自分たちは点を取って、相手には点を取らせない、か」
理紀はまるで羽根のような軽さでベッドから降り立ち、軽く屈伸運動をしてから僕を振り返った。
「練習、付き合ってよ」
無言のまま理紀を見上げる。理紀が手を差し伸べてくれて、僕はそれを取って立ち上がった。
理紀はいつもそうだった。大丈夫だよ、とか、怖くないよ、とか、そんな無責任なことは言わない。僕の生活が常に死と隣り合わせで、まったく大丈夫じゃないことを知っているから、変に期待を持たせるようなことはしないのだ。
その代わり、理紀は僕が今日という日をできる限り楽しく、前向きに過ごせるようにしてくれる。明日が来ないかもしれない僕が、後悔のない人生を送れるように。
だから今も、理紀は僕を気晴らしに連れ出そうとしてくれている。この狭い部屋の中で見えない不安と戦うより、限りある時間を大好きなバスケに使ったほうがいい。理紀はそう考えたようだ。
靴を履き替え、今度は理紀の家に行く。玄関は通らず、僕と理紀の家の隙間に細くある抜け道を行けば、理紀の家の庭に出られる。
理紀は倉庫からバスケットボールを一つ引っ張り出し、僕に「はい」とバウンドパスを出した。
「えっ」
不意を突かれ、あやうくボールを取りこぼすところだった。
「おれ?」
「すずがオフェンスね」
「はぁ?」
オフェンス? 僕と1on1、一対一の勝負をするつもりなのか、理紀は。
「無理だって。おれは……」
「走るなよ、絶対」
理紀は僕の言葉を遮り、僕の手を引いてゴールの真正面に立たせた。
「走らずに、俺を抜いてみて」
対する理紀は僕の目の前にゴールを背にして立ち、スッと膝を曲げてディフェンスの構えを取った。どうやら本気で、僕にオフェンスをやらせるつもりらしい。



