休日の練習は、午前中か午後のどちらか半日は入っていることがほとんどだった。今日は午前中いっぱい、朝は八時半から午後十二時半までの四時間、基礎をみっちりとたたき込む練習を中心に汗を流す予定になっている。

 僕はコートの外から、仲間たちが各種トレーニングに勤しむ姿を眺めていた。一試合四十分間を走りきるための体力。相手との身体的接触が避けられないコンタクトスポーツであるバスケに必要な、相手にぶつかられても倒れない、あるいは自分から積極的に当たりに行き、より良いポジショニングを叶えるための強靱な上半身。膝を曲げ、腰を落とした低い姿勢で常にボールをキープできるどっしりとした下半身。より強いチームになるために、選手一人一人が鍛えなければならない箇所は多い。

「はーっ、キツい!」

 各種トレーニングを順にこなしていくサーキットトレーニングという形式の練習は、すべての種目を予定数終えられた者から休憩を取っていいルールで進められていた。いつものことではあるけれど、一番最初にトレーニングを終えて水分補給にやってきたのはかつまるだった。

「お疲れ」

 僕はドリンクのボトルとタオルをかつまるに手渡す。かつまるは「さんきゅー」と余力を感じさせる声で言いながら水分を摂り、タオルで顔を拭いた。

「速いな、相変わらず」
「うん。こればっかりは負けられないからね」
「誰に?」
「理紀」

 予想どおりの答えが返ってきて、僕は思わず理紀の姿を探してしまった。理紀も最後のトレーニングに入っていて、まもなく終えそうだというところだった。

「オレ、チビだからさ」

 いつも強気なかつまるが、めずらしく僕の前で弱音を吐いた。

「ちょっとやばいなって思ってんの。田平が入ってきて、デカいの五人でスタメン固められる状況が揃っちゃったから」
「誰がどこの想定?」
「理紀、田平、河瀬(かわせ)喬久(たかひさ)、ごっち」

 なるほどな、と僕は頭の中でかつまるの思い描くスターティングメンバーの顔を並べてみた。
 五人一チームで戦うバスケのポジションにはそれぞれ番号が振られていて、ポジション名ではなく番号で把握されることもしばしばだ。1番がポイントガード、2番がシューティングガード、3番がスモールフォワード、4番がパワーフォワード、そして5番がセンター。かつまるはおそらくその番号順に名前を挙げていて、田平と河瀬は一年生、同級生の山之内(やまのうち)喬久は一七九センチの長身フォワードだ。
 気になったのは、理紀がかつまると同じ1番、ポイントガードのポジションで試合に臨むことをかつまるが想定しているらしいことだった。要するにかつまるは、理紀とのポジション争いを意識しているわけだ。

「それはどうだろうな」

 僕は素直な感想をかつまるに伝えた。

「おまえが1番、理紀は2番、田平が3番でいいんじゃないか。河瀬は確かにデカいけど、まだ荒削りって感じだし」
「でも理紀のヤツ、ほんとはポイントガードがやりたいんでしょ」
「小、中でやってたからな。でもおれは、あいつには黙ってシュートを打たせておけばいいと思ってる」
「どうして」
「メンタルのコントロールが苦手だから」

 どんなことでもそつなくこなす完璧くんに見えて、理紀にもそれなりの弱点はあった。
 僕はもう一度理紀に目を向けながら話した。

「勝ってる時はいいけど、試合が劣勢に傾いた時のあいつは本当にひどいよ。ちょっと連携がうまくいかないだけでイラ立つし、視野が狭くなるし」
「まぁ、それはそうかも」
「覚えてるだろ、一年生大会の時のあいつ。点差が開きすぎて、途中で明らかに嫌になっちゃってたから」
「うん、そうだったそうだった」

 今となっては笑い話だけれど、高校生になってはじめてキャプテンとしてチームを率いて臨んだ試合の決勝戦で、理紀は自らの感情の波に振り回され、本来彼の持つ力の半分程度しか出せないままベンチへ下げられ、結果として試合にも負けたのだった。理紀の場合、怒りの矛先はたいてい自分自身のふがいなさで、自分でもわかっているからこそ余計に悔しいのだとのちに彼は語っていた。
 もちろん、そこで終わる理紀じゃない。ダメだった分を取り返せるだけの練習を重ね、実際に上級生と交じって試合に出られる力をつけた。メンタルのほうも、まだ少し不安は残るものの、昔と比べれば劣勢でも落ちついて試合に臨める時間が長くなったように僕には見える。彼なりに自分の弱点を克服しようとしているのがわかるから、やっぱり理紀はバスケが好きなんだなと思う。

 そういう意味でも、理紀には理紀に、かつまるにはかつまるに合ったポジションがあるのではないかというのが僕の意見だった。

「シュートならはずしても誰かにリバウンドを取ってもらえればまだ修正がきくけど、ポイントガードは司令塔、パス回しの起点になる大事なポジションだろ。感情的になって、パスがめちゃくちゃになったらおしまいだ。収集がつかなくなる」
「理紀には向いてないって言いたいわけ?」
「そこまでは言ってない。このチームには、理紀以上の適任者がいるって話」
「それが、オレ?」

 僕はうなずき、トレーニングメニューを記しているホワイトボードの前に移動した。空いているスペースに小さなバスケットコート半面を描き、その中に十人の選手を配置する。味方は○、敵は▲と印を分けて、僕らがオフェンス側、攻撃しているという状況を想定して話をした。

「かつまるが真ん中でボールを持つ。みんなの意識はボールからゴール方向へと集中する。ゴール下にはごっちと喬久が待ってて、スリーポイントラインの外には理紀、逆サイドに田平。かつまるはまず、田平へパスを出す。田平からボールが返ってくる。戻ってきたら、中へ切り込んでいくモーションを見せる。目の前の一人を抜くか抜かないかというタイミングで、後ろで待ってる理紀にパスを回す。ゴールから遠く、敵側の意識がもっとも薄い場所にいる理紀は、その場からスリーを打つ。あいつがここでしっかり決める。これで三点は確実にもらえる。この攻撃パターンを何度か見せておくと、今度は相手が理紀の存在を意識し始める」
「そうなったら、今度こそ本当に中へ攻め込むチャンスってわけか。外側の守りに人を割くようになるから」
「うん。中が手薄になってきたら、あとはおまえの裁量次第。田平に回してジャンプシュートを打たせても良し、喬久やごっちにゴール下で勝負させても良し。もちろん、おまえが自分で突っ込んでいっても良しだ。こういう駆け引きを成功させるためにも、外側からの決定率が高い理紀はシューターのポジションに置いておいたほうがいい、とおれは思うわけ」

 おぉ、とかつまるは目を輝かせた。少しは彼のかかえる不安を払拭できたようだ。

「まぁ、実際に誰がどこのポジションに入るか決めるのは先生だけどな。今のはおれの勝手な妄想だから」
「いやいや、すごいよ。オレ、そこまで深く考えたことなかった」
「そう?」
「うん。オレはいつも、なんとなく空いてそうなところにパス出して、なんとなく自分で行けそうだったら行く、みたいな、そんな感じで試合してるから」
「わかる。かつまるは、感性(センス)で戦うタイプだよな」
「そう。でも、わかってるの。本当はおまえが今言ったみたいに、ちゃんと計算して、ちゃんと練習したとおりの攻撃ができないとダメなんだって」
「できるよ、おまえなら。できなきゃいけない、って意識できてる時点で、あとは練習して身につけるだけってとこまで来てるんだから」
「簡単に言ってくれるねぇ」
「ごめん。ウザいよな、走れないおれに言われても」
「いや、そういうわけじゃないけど」

 かつまるは少し言葉を切り、まだトレーニングを続けている仲間たちに目を向けながらつぶやいた。

「すずもオレたちと一緒に、バスケができたらいいのにな」

 病気とは関係なく、僕は胸に小さな痛みを感じた。
 彼の言葉に悪気がないことはわかっている。けれど、現実を突きつけられるとやっぱりきつい。

 僕だって、できることならみんなと一緒にバスケがしたい。でもそれはどうしたって叶わない。
 あきらめるしかないのだ。誰のせいでもない。弱いからだに生まれてきた僕が悪い。

 一度静かに目を閉じて、僕は悲しい気持ちを振り切った。悲しんだところで誰一人得をしないことはとうに学んだ。

「いいのか、おれにバスケをやらせて」

 景気づけのつもりで、僕はかつまるにちょっとしたケンカをふっかけた。

「やるとしたら、おれもポイントガードがやりたいなって思ってるけど」
「マジ? ライバルじゃん」
「そうだよ。シュートはヘタかもしれないけど、パス回しなら、おまえよりうまくできるかも」
「やば。おまえが言うと、本当にそんな気がしてくるから怖いんだけど」
「試してみる?」
「やだやだ。マジで負けそうだもん、オレ」

 アハハ、と僕らの笑い声が立つ中、理紀をはじめ、トレーニングを終えた部員たちが続々と休憩に入り始めた。僕はマネージャーの仕事に戻り、みんなにドリンクやタオルを配って歩いた。

「お疲れ」

 僕は理紀にタオルを手渡しながら声をかける。理紀は「さんきゅ」と息を弾ませながらこたえた。

「あっつー……」
「次、どうする? パスラン?」
「あぁ、うん。そうだな」

 僕はうなずき、ボールの入れられたカゴを目指して理紀のもとを離れる。パス&ランとは、二人一組ないし三人一組になって行うオフェンス練習のことだ。仲間と息を合わせること、有効な攻撃につながるポジションへ正確に走り込むことなど、この練習を極めることで実際に試合で使えるスキルをいくつも身につけることができる。

 僕はカゴの中からボールを一つ取り出すと、改めて理紀のほうを向いた。理紀はその場で右手を顔の横へ上げ、僕はそこに向かってボールを投げた。
 パシン、と理紀は片手でボールを受け止める。首にかけていたタオルをベンチ代わりに並べたパイプ椅子の上に放ると、軽快なドリブルでコートの中へと戻り、そのままさらりとレイアップシュートを打った。

 たったそれだけの動作が絵になる。それが北浦理紀というバスケットボールプレイヤーだった。ボールと戯れている理紀を見ている時間が、実は僕のお気に入りの時間でもあった。

 理紀がボールに触りだしたのをきっかけに、かつまるたち二年生を中心にみんながボールを取りに来た。軽い自主練の時間を挟むと、いよいよパス&ランの練習が始まる。

「大丈夫か」

 ボールがフロアを跳ねる音がどんどん増えていく中、少し遅れてごっちがボールを取りに来た。僕は彼にボールを差し出し、「なにが?」と質問に質問で返した。

「さっき、克哉と話していただろう」
「あぁ、理紀にはシューターが合ってるって話?」
「そうじゃない」

 僕は思わず苦笑いした。どうやらごっちは、かつまるが僕にバスケができたら、と言ったくだりを聞いていたらしい。

「平気。もう慣れたよ」
「涼仁」
「変わんないから、今さらなにを言われても」

 ごっちがなかなか受け取ろうとしないボールを、僕はきゅっと胸にかかえた。

「おれはただ、みんなの心に影を落とすだけの存在だよ」

 僕がいなければ、みんなはもっと澄んだ心でバスケを楽しむことができる。
 僕がいるから、みんなは余計な心配をしなくちゃいけない。僕を気づかわなくちゃいけない。

 僕がいなければ、このチームは今よりもっと強くなれる。
 特に理紀は、今よりもっと練習に集中できるようになる。

 そんな話を、僕はごっちにだけ話して聞かせたことがある。
 僕はバスケ部にいないほうがいいのだと。そのほうがみんなのためになるから、と。

「でも」

 けれどその時、ごっちは僕にこう言った。

 ――おまえがバスケ部にいたくないなら、辞めればいい。だが、どんな形であれ、バスケ部(オレたち)と一緒にいたいと思うなら、辞めるな。

 ごっちの言葉は、僕の胸に小さな火を灯してくれた。

 ――大事なのは、おまえがどうしたいか。その気持ちだけだ。辞めたいなら辞めればいい。だが、辞めたくないのに、誰かのために辞めようとするのは間違っている。おまえ以外の誰かのために、おまえの気持ちにふたをする必要はない。少なくともオレは、いや、オレたちの誰も、おまえをバスケ部に不要な存在だと思ったことはない。もちろん、これからも思わない。

 僕もバスケ部にいていいのだと思わせてくれた。

 ――おまえがまだバスケ部にいたいと思うなら、オレがおまえの気持ちを支える。おまえが辞めたくならないように。おまえが安心して、オレたちと一緒にいられるように。

 その時から、僕はバスケに対して後ろ向きになることをやめた。
 僕も、バスケが好きだから。

「辞めないよ、バスケ部は。おれ、まだここにいたいからさ」

 辞めたくない。
 バスケはできないし、みんなには心配ばかりかけるし、本当は、本当は僕なんていないほうがいいに決まっている。
 けれど、僕はこの空間にいられる時間が好きだった。バスケも、このチームの仲間たちも。
 みんなと同じ、体育館のにおいに触れていると、生きていることをより強く実感することができる気がした。なにを残すこともできないけれど、まだここにいたいという気持ちだけはなくしたくない。なくさない。

「そうか」

 ごっちはふわりと優しく微笑み、上向けた右の手のひらを僕の前に差し出した。

「しんどくなったらすぐに言え。助ける」
「うん。ありがとう」

 僕はごっちの手の上にボールを乗せる。受け取ったごっちは僕に背を向け、コートに向かって走り出した。

「よし、始めるぞ!」

 理紀の声が響き、走りっぱなしの厳しい練習が幕を開ける。
 僕も精いっぱい声を出す。休日の練習はまだまだ続く。