自宅の最寄り駅へ降り立つ頃には、空はすっかり昼間の明るさを失っていた。雲はなく、お世辞にも美しいとは言えない不格好な月がぼんやりと輝いていて、僕と理紀はお互い無言のまま夜の通学路を歩いていた。
「なに怒ってんの」
先に痺れを切らしたのは僕だった。謝らなければいけないのなら謝りたい。このまま理紀に不機嫌なままでいられるのは嫌だった。
前だけを見て歩いていたら、右隣にあった気配がふっと消えた。足を止めて振り返ると、理紀がうつむいて立ち止まっていた。
「わかんない」
街路灯の薄ぼんやりとした光の下で、理紀は声を絞り出すようにつぶやいた。
「なんか、嫌だった」
「なにが」
「おまえと田平が、仲よさそうにしてるのが」
「田平?」
モップがけの時のことを言っているのか。「あれは別に」と僕はすぐさま反論した。
「遊んでたわけじゃないぞ、おれたちは。あいつが代わるって言って聞かないから」
「素直に譲ってやればよかっただろ。後輩がやるって言ってるんだから」
「代わる必要がどこにある? もともとおれの仕事だし、休憩時間なんだから選手は休憩するのが仕事だろ」
「でも!」
「なに!」
気づけば僕の声を張り上げていた。理紀は僕ににらまれて、スッと視線を下げた。
「見ていたくなかった。おまえと田平がくっついて歩いてるところ」
「あん?」
「田平って優しいし、目端が利くし、バスケもうまい。だから、だからなんか、不安っていうか」
理紀の声が次第に尻すぼみになっていく。まったく、と僕は小さく息をついた。
理紀の言いたいことはわかった。要するに、ただのヤキモチだ。
ことバスケに関しては誰よりも自信満々なくせに、こうしたことに強くいられないのは昔から全然変わらない。
だから僕はこういう時、無闇にケンカをふっかけたりはしない。理紀を不必要に不安にさせることは僕の望むところじゃないから。
僕はゆっくりと理紀に歩み寄り、彼の下がった顔を見上げた。
「おれ、ここにいるじゃん」
僕を見下ろす理紀の瞳がかすかに揺れた。
「おまえを置いて、田平のところへ行きたいなんて思ったことない。今日のことは、強情だったおれも悪かったって反省した」
ごめん、と僕は理紀の目を見て伝えた。歪んだアーモンドみたいな形をした月の光が、理紀の瞳に乱反射してキラキラと細くきらめく。
理紀は無言のまま僕を静かに抱き寄せた。歩き慣れた通学路には僕らの他にも帰路を急ぐ人の気配がちらほらとあって、けれど理紀はそんなことなどおかまいなしに僕をしばらく抱きしめ続けた。僕も僕で、理紀が満足するまではなにも言わず、理紀のしたいようにさせた。
理紀が不安にならないように、無駄に悲しむことのないようにすること。
それも僕の、マネージャーとしての仕事の一つだと思っている。理紀にはどこまでも晴れ渡った心でバスケを楽しんでほしいから。
「好きだよ、すず」
「うん」
「おまえはかわいいから。誰かに取られそうで、怖い」
「そんなことないって」
「でも」
「理紀」
とてつもなく恥ずかしかったけれど、僕も理紀の背に腕を回した。
「おれには、おまえしかいないから」
他の誰も、理紀以上に僕を想ってくれはしない。
僕は社会のお荷物。僕がいないほうがいろいろとうまく回るように世の中はできているし、みんなが僕の存在から目をそらしていたほうが楽だと思っていることもわかっている。
でも、理紀だけは違った。彼が僕から目を背けたことは一度もない。
それでよかった。それだけで幸せで、ひ弱な僕の生きる意味になった。
理紀が、理紀だけがいてくれればいい。他になにもいらないし、他の誰かを求めようとも思わない。
「すず」
理紀が頭を撫でてくる。好きにすればいい。それで彼が納得できるのなら。
やがて理紀の腕の力が緩むと、「気が済んだ?」と僕は静かに問い立てる。理紀は「うん」と小さくうなずき、二人でゆっくりと歩き出した。
「どうだった、今日の練習は」
理紀がなにかを言い出す前に、僕はバスケ部の話を振った。
「新しく取り入れたメニュー、いい感じ?」
「あぁ、ランからのフリースロー?」
そう。あの練習は僕と理紀が新チームになったら取り入れてみようと以前から計画していた新メニューだったのだ。インターハイ常連校で実践されている練習法で、テレビ番組で特集されていたのを見た僕が理紀に「これ、いいんじゃない」と提案したものだった。
「うん、なかなか好評だったよ」
理紀もまんざらではないといった風にこたえた。
「ごっちなんて『地獄だ』とか言ってたし」
「そう。それはなにより」
「かつまるはけっこう平気そうだったけどね。フリースローもしっかり二本決めてたし」
「ほんと、さすがだよ。先発のポイントガードはあいつで決まりかな」
「いや、俺もPGがいい」
「おまえはSGでいいだろ。かつまるに切り込ませて、外で待ってるおまえに振る。ボールを中心にマークがつく中で、おまえは外からスリーを量産して点を稼ぐ。理想の攻撃パターンじゃないか」
「うん、それもハマるだろうな。けど、ボールを運ぶほうが楽しいんだよ、バスケはさ」
「まぁ、おまえみたいなタイプはそうかもしれないな。味方も相手も、おまえは自分の手の上でいいように転がしたいだろうから」
「そういうこと」
しばらくぶりに、理紀がいい顔をして笑う姿を見た。その顔を見て、僕も不安だったのだとようやく気づく。
理紀には笑っていてほしい。暗い顔をしてほしくない。
理紀と過ごす時間が楽しいから。バスケの話をしている時も、他のことをしていても。
「……おれも」
結局のところ、僕も理紀の隣にいることで安心できるのだ。ただそれだけで、心穏やかな日々を過ごせる。決して大きくはない、けれど確かに存在する小さな幸せを感じられる、そんな時間が過ごせることが嬉しいのだ。
「ん?」
理紀は僕のひとりごとを聞き逃さなかった。
「なに?」
「いや、別に」
「なんだよ。今、なんか言ったろ」
「言ってない」
「言った」
「言ってない」
「言った」
僕は声を立てて笑う。「ねぇ」と理紀は怒って僕の首に腕をかけた。
これでいい。いつもどおりの、理紀と僕。
僕はこういう時間が好きなのだ。
なんでもないことで笑い合える、理紀と過ごす日常が。
「なに怒ってんの」
先に痺れを切らしたのは僕だった。謝らなければいけないのなら謝りたい。このまま理紀に不機嫌なままでいられるのは嫌だった。
前だけを見て歩いていたら、右隣にあった気配がふっと消えた。足を止めて振り返ると、理紀がうつむいて立ち止まっていた。
「わかんない」
街路灯の薄ぼんやりとした光の下で、理紀は声を絞り出すようにつぶやいた。
「なんか、嫌だった」
「なにが」
「おまえと田平が、仲よさそうにしてるのが」
「田平?」
モップがけの時のことを言っているのか。「あれは別に」と僕はすぐさま反論した。
「遊んでたわけじゃないぞ、おれたちは。あいつが代わるって言って聞かないから」
「素直に譲ってやればよかっただろ。後輩がやるって言ってるんだから」
「代わる必要がどこにある? もともとおれの仕事だし、休憩時間なんだから選手は休憩するのが仕事だろ」
「でも!」
「なに!」
気づけば僕の声を張り上げていた。理紀は僕ににらまれて、スッと視線を下げた。
「見ていたくなかった。おまえと田平がくっついて歩いてるところ」
「あん?」
「田平って優しいし、目端が利くし、バスケもうまい。だから、だからなんか、不安っていうか」
理紀の声が次第に尻すぼみになっていく。まったく、と僕は小さく息をついた。
理紀の言いたいことはわかった。要するに、ただのヤキモチだ。
ことバスケに関しては誰よりも自信満々なくせに、こうしたことに強くいられないのは昔から全然変わらない。
だから僕はこういう時、無闇にケンカをふっかけたりはしない。理紀を不必要に不安にさせることは僕の望むところじゃないから。
僕はゆっくりと理紀に歩み寄り、彼の下がった顔を見上げた。
「おれ、ここにいるじゃん」
僕を見下ろす理紀の瞳がかすかに揺れた。
「おまえを置いて、田平のところへ行きたいなんて思ったことない。今日のことは、強情だったおれも悪かったって反省した」
ごめん、と僕は理紀の目を見て伝えた。歪んだアーモンドみたいな形をした月の光が、理紀の瞳に乱反射してキラキラと細くきらめく。
理紀は無言のまま僕を静かに抱き寄せた。歩き慣れた通学路には僕らの他にも帰路を急ぐ人の気配がちらほらとあって、けれど理紀はそんなことなどおかまいなしに僕をしばらく抱きしめ続けた。僕も僕で、理紀が満足するまではなにも言わず、理紀のしたいようにさせた。
理紀が不安にならないように、無駄に悲しむことのないようにすること。
それも僕の、マネージャーとしての仕事の一つだと思っている。理紀にはどこまでも晴れ渡った心でバスケを楽しんでほしいから。
「好きだよ、すず」
「うん」
「おまえはかわいいから。誰かに取られそうで、怖い」
「そんなことないって」
「でも」
「理紀」
とてつもなく恥ずかしかったけれど、僕も理紀の背に腕を回した。
「おれには、おまえしかいないから」
他の誰も、理紀以上に僕を想ってくれはしない。
僕は社会のお荷物。僕がいないほうがいろいろとうまく回るように世の中はできているし、みんなが僕の存在から目をそらしていたほうが楽だと思っていることもわかっている。
でも、理紀だけは違った。彼が僕から目を背けたことは一度もない。
それでよかった。それだけで幸せで、ひ弱な僕の生きる意味になった。
理紀が、理紀だけがいてくれればいい。他になにもいらないし、他の誰かを求めようとも思わない。
「すず」
理紀が頭を撫でてくる。好きにすればいい。それで彼が納得できるのなら。
やがて理紀の腕の力が緩むと、「気が済んだ?」と僕は静かに問い立てる。理紀は「うん」と小さくうなずき、二人でゆっくりと歩き出した。
「どうだった、今日の練習は」
理紀がなにかを言い出す前に、僕はバスケ部の話を振った。
「新しく取り入れたメニュー、いい感じ?」
「あぁ、ランからのフリースロー?」
そう。あの練習は僕と理紀が新チームになったら取り入れてみようと以前から計画していた新メニューだったのだ。インターハイ常連校で実践されている練習法で、テレビ番組で特集されていたのを見た僕が理紀に「これ、いいんじゃない」と提案したものだった。
「うん、なかなか好評だったよ」
理紀もまんざらではないといった風にこたえた。
「ごっちなんて『地獄だ』とか言ってたし」
「そう。それはなにより」
「かつまるはけっこう平気そうだったけどね。フリースローもしっかり二本決めてたし」
「ほんと、さすがだよ。先発のポイントガードはあいつで決まりかな」
「いや、俺もPGがいい」
「おまえはSGでいいだろ。かつまるに切り込ませて、外で待ってるおまえに振る。ボールを中心にマークがつく中で、おまえは外からスリーを量産して点を稼ぐ。理想の攻撃パターンじゃないか」
「うん、それもハマるだろうな。けど、ボールを運ぶほうが楽しいんだよ、バスケはさ」
「まぁ、おまえみたいなタイプはそうかもしれないな。味方も相手も、おまえは自分の手の上でいいように転がしたいだろうから」
「そういうこと」
しばらくぶりに、理紀がいい顔をして笑う姿を見た。その顔を見て、僕も不安だったのだとようやく気づく。
理紀には笑っていてほしい。暗い顔をしてほしくない。
理紀と過ごす時間が楽しいから。バスケの話をしている時も、他のことをしていても。
「……おれも」
結局のところ、僕も理紀の隣にいることで安心できるのだ。ただそれだけで、心穏やかな日々を過ごせる。決して大きくはない、けれど確かに存在する小さな幸せを感じられる、そんな時間が過ごせることが嬉しいのだ。
「ん?」
理紀は僕のひとりごとを聞き逃さなかった。
「なに?」
「いや、別に」
「なんだよ。今、なんか言ったろ」
「言ってない」
「言った」
「言ってない」
「言った」
僕は声を立てて笑う。「ねぇ」と理紀は怒って僕の首に腕をかけた。
これでいい。いつもどおりの、理紀と僕。
僕はこういう時間が好きなのだ。
なんでもないことで笑い合える、理紀と過ごす日常が。



