***
フリースローが、二本連続ではずれた。
虚しい音を立ててフロアを弾むバスケットボールを、理紀は呆然と見つめた。
「わお、めずらし。理紀が二本もはずすなんて」
一緒に昼練のために体育館へ来たかつまるが、シュートの決まらなかった理紀に冷やかしの言葉をかけた。けれどその声は理紀の耳に届かず、理紀の頭は感じている指先の震えに集中していた。
イヤな予感がした。
あり得ない。二本連続ではずすなんて。
なんの前触れだ。まさか。まさか。
背中に冷や汗をかくのを感じたと同時に、副キャプテンのごっちが姿を見せた。理紀は生唾を飲み込んだ。
いつも彼と一緒に来るはずの幼馴染みがいない。どうして。どうして。
声が震えそうになりながら、理紀はおそるおそるごっちに尋ねた。
「すずは?」
「遅れるって。教室に水筒忘れてさ」
戻ったのか、忘れ物を取りに。
一人で? ごっちを先に行かせて?
理紀は飛び出す勢いで走り出した。「おい」と声をかけてきたごっちに「見てくる。先に始めてて」と返し、バスケットボール用のハイカットシューズを脱ぎ捨てて体育館を出た。
なんでもなければ、それでいい。
でも、もし。もし、あいつの身になにかあったら。
「すず」
我知らず、理紀は幼馴染みの名をつぶやく。
目指す場所は、あいつの通りそうな道。
***
膝から廊下にくずおれた。胸を押さえ、背中を丸めると、立っているよりはからだが楽になった気がした。
ハァ、ハァ、と呼吸がさらに荒くなる。廊下には誰もいなくて、僕の情けない喘ぎ声が無駄に響いた。
想定よりも状態が悪い。午後からの授業までに治まるだろうか。バスケ部の昼練に参加することはとうにあきらめていた。最悪だった。
「すず!」
誰かが僕を呼ぶ声が背中越しに聞こえた。幻聴かと思ったけれど、そうではなかった。
その人は僕のすぐ隣に片膝をついてしゃがみ、僕の背中を包み込むように腕を回した。
「バカ、なんでこんなところに一人で……!」
理紀だった。どうしてここにいるのだろう。連絡しようとして失敗したような気がしたけれど。
「理紀」
「いい。しゃべるな」
理紀の声はかすかに震えていた。理紀は僕を抱きかかえるように僕の両脇に腕を入れ、僕がちゃんと壁にもたれて座れるように体勢を整えてくれた。ぴったりと僕にからだを寄せ、静かに背中をさすってくれる。
「薬は? 飲まなくていい?」
僕はうなずく。幼い頃から僕の心臓の治療をしてくれている先生には、今のように突然苦しくなったり、胸が痛くなったりした時にはとにかく安静にすることが一番の薬になると指導されている。ヘタに強い薬を服用するとかえって心臓に負担がかかったり、副作用がキツかったりするため、いちおう万が一の時に備えて持ち歩いているものの、飲まずにやり過ごすことができるならそれに越したことはないと、僕はいつも、こうなってしまった時にはひたすら休むことにしている。理紀もそれを知っているから、僕の背中を黙ってさすってくれているのだった。
理紀のおかげで、息苦しさはだいぶよくなった。胸の痛みも引いてはきたけれど、まだ少し違和感があった。
「落ちついてきたな」
背中に当てられていた理紀の手が離れる。いつもそうだけれど、理紀はその手で今度は僕の手を握った。
ふぅ、と僕は気持ち大きめに息を吐き出して呼吸のリズムを整えると、自分でも情けないくらいにか細い声で理紀に言った。
「ごめん」
本当に、自分がどんどん嫌いになる。また理紀に迷惑をかけてしまった。呼んでもいないのに彼がここで僕を見つけた理由はわからないけれど、なぜか理紀はいつも僕を見つけてくれた。そして僕のために、彼は自分の時間を惜しみなく使う。
「おれ、またおまえの時間を」
「わかった。そのセリフはもう聞き飽きたよ」
こっちを見ろと言わんばかりに、理紀に無理やり顔を上げさせられた。
うっすらと開けた僕の瞳に、理紀の怒った色の目が映った。
「走っただろ、すず」
あぁ、いつもの説教だ、と理解できるまでには脳も回復してきたらしい。僕は理紀の問いに対し、首を横に振って答えた。
理紀はもっと怒った顔になった。
「うそだ」
「うそじゃない」
僕も声を絞り出す。
「ちょっと急いだだけ」
「バカ。それを走ってるって言うんだよ」
コツン、と理紀にげんこつを落とされる。「痛いなぁ」と言いながら僕が膝をかかえると、理紀は小さくため息をついた。
「いつから調子悪かったの」
まるで母親のような口の利き方を理紀はする。
「朝から?」
「いや、朝は全然」
「じゃあ、体育の時か」
「そうかも」
「ほらぁ。だからあの時言ったのに、俺。計測係代わろうかって」
「あん時は大丈夫だと思ったんだよ」
「あぁ、おまえの『大丈夫』を信じた俺がバカだった。無理にでもおまえを日陰に引きずっていくべきだった」
「うるさい」
少ししゃべっただけなのに、また胸が締めつけられる。顔が歪むのをこらえきれず、理紀に「大丈夫か」と心配された。
「まだ痛む?」
「少し」
「保健室へ行こう。ベッドで休んだほうがいい」
理紀が先に立ち上がった。その時ようやく、理紀は僕の取り落としたスマホが廊下に転がっていることに気がつき、拾って僕に手渡してくれた。
「苦しすぎてぶん投げちゃった?」
肩をすくめる理紀の手からスマホを受け取ると、僕は反対の手を壁につき、腹に力を入れて立ち上がった。
「おまえに連絡しようと思ったんだよ。昼練休むって」
「そこは違うだろ。素直に『俺を呼ぼうとして』って言ってくれなくちゃ」
「違わねぇよ。おれは本当に……っ」
不意に立ちくらみがして、からだが揺らいだ。理紀がとっさに腕を取ってくれて、もう一度床に倒れてしまうことは免れた。
「歩けるか」
「わからん。もう少し休めば、たぶん」
スマホをスラックスのポケットに戻しながら答えると、今度はふわりとからだが宙に浮いた。
「えっ」
目を丸くした時には足が完全に床から離れ、僕は空中で横倒しにされていた。理紀が僕をひょいと抱き上げたせいだ。
「おい、理紀!」
「参りましょう、姫」
「だれが姫だっ」
いわゆる姫抱き、お姫様だっこの形で、僕はこれから保健室まで運ばれようとしているらしい。実はこの格好で抱きかかえられることははじめてではなく、じたばたと暴れると危険で、理紀に余計な力をかけさせてしまうことを知っている。
こうなったら最後、僕は理紀が下ろしてくれるまで抱き上げられ続けるのだ。慣れた理紀は軽々と廊下を渡り、階段を下る。
すれ違う生徒たちの視線が痛かった。特に女子たちからの、まるでアイドルを見るような目がつらい。理紀がイケメンすぎるせいだ。
「なぁ、ハズいんだけど」
「なにが」
「なにがって」
そして一番つらいのは、本人に自分が視線を集めているという自覚がないことである。さらに悪いことに、理紀はなぜか保健室のある一階をスルーして、一直線に体育館へと向かっていた。
「なんで。保健室は?」
「行くよ。体育館に寄ってからな」
よっ、と掛け声をかけながら僕を抱き直し、理紀は体育館へと入る。そこには昼練に参加していたバスケ部の同級生たちがずらりと顔を揃えていて、理紀に抱かれた僕を見た瞬間、みんなが一斉に練習していた足を止めた。
「すず!」
一番に僕らのもとへ駆け寄ってきたのはかつまるだった。
「なに、大丈夫? 倒れた?」
「平気。ちょっと理紀が大袈裟なだけ」
「すまん、涼仁」
ごっちが体格のいいからだで小さく僕に謝った。
「一人で戻らせるべきじゃなかったか」
「いや、おれもこうなるとは思ってなくて」
「そういうわけだからさ、ごっち」
理紀が僕らの会話に割って入った。
「俺たち、このまま保健室行くから。あと頼むな」
「待て、理紀」
今度は僕が割り込む番だった。
「おまえは残れよ。おれは一人で行けるから」
「ダメ。おまえ、さっき歩けるかわからんって言ったもん」
「さっきはさっきだよ。もう大丈夫だから」
「信じない。おまえの『大丈夫』は信じない」
「あのなぁ」
「あー、お二人さん?」
ごっちが半ば呆れ顔で声を上げた。
「事情はわかった。とりあえず、その体勢をなんとかするところから始めたらどうだ?」
僕らは揃ってポカンとした顔をしてごっちを見た。ごっちの隣で、かつまるが悪い顔をして笑っていた。
「すずは顔がかわいいからなぁ。理紀みたいな王子様系イケメンにだっこされてると本物のお姫様みたい」
「ばっ……!」
「見てみ、ギャラリー。みんなおまえをうらやましがってるよ」
かつまるに言われるがまま、僕は天窓のほうを見上げる。人がようやくすれ違えるくらいのスペースが体育館上部をぐるりと囲み、そこから僕らのいるフロアの様子を見学できるようになっているのだが、バスケ部の練習がある昼休みには、主に理紀のファンの女子生徒が練習を見にくることが多かった。
そしてその子たちが今、理紀にお姫様だっこをされている僕に対し羨望の眼差しを注いでいた。
「降ろせ、理紀」
「なんで」
「恥ずかしいだろ」
「やだ」
「『やだ』じゃないっ」
アハハ、と仲間たちから笑い声が漏れる。最終的には理紀が不満げながら折れてくれて、僕はめでたく体育館のフロアに足をつけて立ったのだった。
「ついていかせてやれ、涼仁」
ごっちがもっとも大人な態度で僕に言った。
「理紀をここに残したところで、どうせおまえのことを心配するばっかりで練習には集中できないだろう」
「もう時間もあんまりないしね」
かつまるもごっちの意見に賛成のようで、理紀が脱ぎ捨てたらしいバッシュと水筒、それからタオルを拾い上げ、理紀に渡した。
「午後から本腰入れてがんばればいいんじゃない」
「もちろん。そのつもり」
理紀はかつまるからバッシュを受け取り、「悪いな」と付け加えた。かつまるは「いいよ」と言った。
「妬けちゃうけどね。キャプテンがさ、おれたちとの練習よりすずを選ぶなんて」
二人の会話は、もちろん僕にも聞こえていた。別の意味で僕の心臓は締めつけられ、けれど理紀は顔色一つ変えなかった。
「ごめん。でも」
「わかってるって。ちょっと言ってみただけ」
ポンポンとかつまるは理紀の肩をたたき、「さ、おれたちは練習しよー」とみんなを引き連れてコートへと戻っていく。その姿を見送った理紀は僕に歩み寄り、「行こう」と言って僕を体育館の外へ連れ出した。
理紀が僕の背に腕を回した。僕はなにも言えなかった。ごめんも、ありがとうも。ただひたすらに顔を下げることしかできない。
かつまるの言葉が胸を離れなかった。僕さえいなければ、僕がみんなと同じような健康優良児に生まれていれば。そんなことばかりが頭の中を支配した。
「涼仁」
まもなく体育館を離れようというタイミングで、背中に声をかけられた。
ごっちだった。
「大丈夫か」
振り返った僕に、ごっちは太くて優しい声をかけてくれた。彼が心配しているのは僕のからだのことではない。それに気づいているのは僕だけだろう。
理紀には怖くて言えない話を、僕はごっちにだけ伝えているから。
「大丈夫、大丈夫」
僕の代わりに、理紀が軽快な声で返事をした。
「少し休めば復活するから。午後からの練習には行くよ」
「……おまえに質問した覚えはないんだがな」
ごっちは僕の返事を待たず、練習に戻っていってしまった。僕は彼を呼び止めようとかすかに足を動かしたけれど、理紀に「ほら、行くぞ」と腕を引かれた。僕の反論を許さない、強い力が理紀の手には込められていた。
「理紀」
「なんとでも言えばいいさ」
理紀の声は怒っていた。
「みんなには想像できないんだ。俺がバスケをしている間に、すずが死ぬかもしれないなんて」
僕の左腕をつかんでいた理紀の右手が、今度は僕の左手を握る。痛いくらいに強く。けれどその手は、弱々しく震えていた。
僕にはわかる。今、理紀がなにを考えているか。
昔のことを思い出しているのだ。小学四年生になり、理紀が小学校のバスケ部に入った頃のこと。
いつも二人一緒だった帰り道を、部活をやっていなかった僕は一人で帰る日が増えていた。ある日、一人で自宅を目指していたところ、運悪く心臓が言うことを聞かなくなってしまった日があった。
当時はスマホなんて持ってなくて、僕はひとまず家まで這いずって帰った。その無理がいけなかったのか、その日から僕はしばらく入院することになった。
それ以来、理紀は僕を一人で帰らせることをやめた。最初は理紀がバスケ部を辞めると言ったけれど、僕がそれを許さなくて、二人の意見の間を取る形で、僕がバスケ部に入ることになった。走れないくせに。
そのまま時が流れ、結局僕は走れないバスケ部員として今日まで生きている。それは理紀の望みではなく、僕がそうしたいと思って決めた道だ。なにしろ理紀は、僕と一緒に帰れないならバスケを辞めると平気で言い出すヤツだ。誰よりもバスケが大好きなのに、彼にそんなセリフを言わせたくなかった。
体育館から校舎へとつながる廊下の上で、理紀は静かに立ち止まった。
「すずが死なずに済むなら、誰に嫌われたっていい。すずと一緒にいられるなら、俺は喜んでバスケを辞める。誰になんと言われようと、俺は変わらない。すずのことは、俺が守る」
ほら、やっぱり。僕は小さくため息をついた。
どうしたって、理紀は僕のことをなによりも優先しようとする。僕は理紀にバスケを続けてほしいのに、理紀は僕の話をちっとも聞き入れてくれない。
でも、彼ほどに僕のことを考えて行動してくれる人は他にいない。だいたいみんな、制約の多い僕の存在を煙たがり、一人でいるほうが気楽だなと僕は若すぎる頃に学んでしまった。
だから僕には、理紀の気持ちを無下にすることができないのだ。文句の一つ二つは言いつつも、結局僕は、理紀がいなければまっすぐ歩くことさえままならないのだから。
「重いよ」
いつものように、僕は理紀に苦言を呈す。「そう?」と理紀はとぼけた顔をした。
「気のせいだろ」
「んなわけあるか」
「ひどいな」
僕はふっと鼻で笑い、「でも」といつものように続けた。
「おまえがそうやって言ってくれるから、生きなくちゃ、って思えてるのかも」
理紀の気持ちは重いけれど、嬉しい気持ちがまったくないわけではない。
僕は社会のお荷物だ。人一倍周りに苦労をかけ、だいたいのことで誰の役にも立てない。ただ息をしているだけの、社会に貢献できない存在。
なるべくなにかの役に立てるようにがんばっているつもりだけれど、うまくいかないことばかりで嫌になる。僕ががんばると、どこかで誰かが僕を心配してしまう。その矛盾が歯がゆかった。弱い自分が許せなくて、ときどき理紀に当たってしまうこともあった。
でも、そんな僕を理紀は好きだと言ってくれた。理紀が隣にいてくれなかったら、僕はとうに生きることをあきらめていただろう。
一方で僕は、理紀に好きだと言ったことは一度もない。
なんとなく、なんとなくだけれど、僕がその言葉を口にすると、安っぽく聞こえてしまいそうな気がして。
「ありがとう、理紀」
すぐ隣にある理紀の顔を見上げ、僕は言った。
「これからは、もう少し気をつけて行動するよ」
弱くて、今にも折れてしまいそうなからだだけれど、理紀のためにも、大切にしなければいけない。これ以上理紀に心配させないために。理紀が僕を気づかうことなくバスケに取り組めるように。
理紀は僕を見下ろしながら、どこまでも真剣な目をして僕に言った。
「死ぬなよ、すず」
握られる理紀の手の力が強くなる。
「ずっと俺のそばにいて」
僕はふわりと微笑んで返し、なにも言わないまま歩き出した。
約束はできない。永遠なんてないとか、そんなロマンチックな話じゃない。
他のみんなと僕は違う。明日が来ないかもしれないという大きな不安が僕にはある。意識的に行動しないと、僕はあっという間に天に召されることになるだろう。
理紀に死ぬなと言われた。誰の役にも立たない僕だけれど、唯一無二の親友の頼みくらいは叶えてやらなくちゃいけないと思う。
生きなくちゃ。今日よりも、もっとたくましく。
僕のためじゃなく、理紀のために。
つながれた手を握り返すと、理紀は嬉しそうに笑った。
フリースローが、二本連続ではずれた。
虚しい音を立ててフロアを弾むバスケットボールを、理紀は呆然と見つめた。
「わお、めずらし。理紀が二本もはずすなんて」
一緒に昼練のために体育館へ来たかつまるが、シュートの決まらなかった理紀に冷やかしの言葉をかけた。けれどその声は理紀の耳に届かず、理紀の頭は感じている指先の震えに集中していた。
イヤな予感がした。
あり得ない。二本連続ではずすなんて。
なんの前触れだ。まさか。まさか。
背中に冷や汗をかくのを感じたと同時に、副キャプテンのごっちが姿を見せた。理紀は生唾を飲み込んだ。
いつも彼と一緒に来るはずの幼馴染みがいない。どうして。どうして。
声が震えそうになりながら、理紀はおそるおそるごっちに尋ねた。
「すずは?」
「遅れるって。教室に水筒忘れてさ」
戻ったのか、忘れ物を取りに。
一人で? ごっちを先に行かせて?
理紀は飛び出す勢いで走り出した。「おい」と声をかけてきたごっちに「見てくる。先に始めてて」と返し、バスケットボール用のハイカットシューズを脱ぎ捨てて体育館を出た。
なんでもなければ、それでいい。
でも、もし。もし、あいつの身になにかあったら。
「すず」
我知らず、理紀は幼馴染みの名をつぶやく。
目指す場所は、あいつの通りそうな道。
***
膝から廊下にくずおれた。胸を押さえ、背中を丸めると、立っているよりはからだが楽になった気がした。
ハァ、ハァ、と呼吸がさらに荒くなる。廊下には誰もいなくて、僕の情けない喘ぎ声が無駄に響いた。
想定よりも状態が悪い。午後からの授業までに治まるだろうか。バスケ部の昼練に参加することはとうにあきらめていた。最悪だった。
「すず!」
誰かが僕を呼ぶ声が背中越しに聞こえた。幻聴かと思ったけれど、そうではなかった。
その人は僕のすぐ隣に片膝をついてしゃがみ、僕の背中を包み込むように腕を回した。
「バカ、なんでこんなところに一人で……!」
理紀だった。どうしてここにいるのだろう。連絡しようとして失敗したような気がしたけれど。
「理紀」
「いい。しゃべるな」
理紀の声はかすかに震えていた。理紀は僕を抱きかかえるように僕の両脇に腕を入れ、僕がちゃんと壁にもたれて座れるように体勢を整えてくれた。ぴったりと僕にからだを寄せ、静かに背中をさすってくれる。
「薬は? 飲まなくていい?」
僕はうなずく。幼い頃から僕の心臓の治療をしてくれている先生には、今のように突然苦しくなったり、胸が痛くなったりした時にはとにかく安静にすることが一番の薬になると指導されている。ヘタに強い薬を服用するとかえって心臓に負担がかかったり、副作用がキツかったりするため、いちおう万が一の時に備えて持ち歩いているものの、飲まずにやり過ごすことができるならそれに越したことはないと、僕はいつも、こうなってしまった時にはひたすら休むことにしている。理紀もそれを知っているから、僕の背中を黙ってさすってくれているのだった。
理紀のおかげで、息苦しさはだいぶよくなった。胸の痛みも引いてはきたけれど、まだ少し違和感があった。
「落ちついてきたな」
背中に当てられていた理紀の手が離れる。いつもそうだけれど、理紀はその手で今度は僕の手を握った。
ふぅ、と僕は気持ち大きめに息を吐き出して呼吸のリズムを整えると、自分でも情けないくらいにか細い声で理紀に言った。
「ごめん」
本当に、自分がどんどん嫌いになる。また理紀に迷惑をかけてしまった。呼んでもいないのに彼がここで僕を見つけた理由はわからないけれど、なぜか理紀はいつも僕を見つけてくれた。そして僕のために、彼は自分の時間を惜しみなく使う。
「おれ、またおまえの時間を」
「わかった。そのセリフはもう聞き飽きたよ」
こっちを見ろと言わんばかりに、理紀に無理やり顔を上げさせられた。
うっすらと開けた僕の瞳に、理紀の怒った色の目が映った。
「走っただろ、すず」
あぁ、いつもの説教だ、と理解できるまでには脳も回復してきたらしい。僕は理紀の問いに対し、首を横に振って答えた。
理紀はもっと怒った顔になった。
「うそだ」
「うそじゃない」
僕も声を絞り出す。
「ちょっと急いだだけ」
「バカ。それを走ってるって言うんだよ」
コツン、と理紀にげんこつを落とされる。「痛いなぁ」と言いながら僕が膝をかかえると、理紀は小さくため息をついた。
「いつから調子悪かったの」
まるで母親のような口の利き方を理紀はする。
「朝から?」
「いや、朝は全然」
「じゃあ、体育の時か」
「そうかも」
「ほらぁ。だからあの時言ったのに、俺。計測係代わろうかって」
「あん時は大丈夫だと思ったんだよ」
「あぁ、おまえの『大丈夫』を信じた俺がバカだった。無理にでもおまえを日陰に引きずっていくべきだった」
「うるさい」
少ししゃべっただけなのに、また胸が締めつけられる。顔が歪むのをこらえきれず、理紀に「大丈夫か」と心配された。
「まだ痛む?」
「少し」
「保健室へ行こう。ベッドで休んだほうがいい」
理紀が先に立ち上がった。その時ようやく、理紀は僕の取り落としたスマホが廊下に転がっていることに気がつき、拾って僕に手渡してくれた。
「苦しすぎてぶん投げちゃった?」
肩をすくめる理紀の手からスマホを受け取ると、僕は反対の手を壁につき、腹に力を入れて立ち上がった。
「おまえに連絡しようと思ったんだよ。昼練休むって」
「そこは違うだろ。素直に『俺を呼ぼうとして』って言ってくれなくちゃ」
「違わねぇよ。おれは本当に……っ」
不意に立ちくらみがして、からだが揺らいだ。理紀がとっさに腕を取ってくれて、もう一度床に倒れてしまうことは免れた。
「歩けるか」
「わからん。もう少し休めば、たぶん」
スマホをスラックスのポケットに戻しながら答えると、今度はふわりとからだが宙に浮いた。
「えっ」
目を丸くした時には足が完全に床から離れ、僕は空中で横倒しにされていた。理紀が僕をひょいと抱き上げたせいだ。
「おい、理紀!」
「参りましょう、姫」
「だれが姫だっ」
いわゆる姫抱き、お姫様だっこの形で、僕はこれから保健室まで運ばれようとしているらしい。実はこの格好で抱きかかえられることははじめてではなく、じたばたと暴れると危険で、理紀に余計な力をかけさせてしまうことを知っている。
こうなったら最後、僕は理紀が下ろしてくれるまで抱き上げられ続けるのだ。慣れた理紀は軽々と廊下を渡り、階段を下る。
すれ違う生徒たちの視線が痛かった。特に女子たちからの、まるでアイドルを見るような目がつらい。理紀がイケメンすぎるせいだ。
「なぁ、ハズいんだけど」
「なにが」
「なにがって」
そして一番つらいのは、本人に自分が視線を集めているという自覚がないことである。さらに悪いことに、理紀はなぜか保健室のある一階をスルーして、一直線に体育館へと向かっていた。
「なんで。保健室は?」
「行くよ。体育館に寄ってからな」
よっ、と掛け声をかけながら僕を抱き直し、理紀は体育館へと入る。そこには昼練に参加していたバスケ部の同級生たちがずらりと顔を揃えていて、理紀に抱かれた僕を見た瞬間、みんなが一斉に練習していた足を止めた。
「すず!」
一番に僕らのもとへ駆け寄ってきたのはかつまるだった。
「なに、大丈夫? 倒れた?」
「平気。ちょっと理紀が大袈裟なだけ」
「すまん、涼仁」
ごっちが体格のいいからだで小さく僕に謝った。
「一人で戻らせるべきじゃなかったか」
「いや、おれもこうなるとは思ってなくて」
「そういうわけだからさ、ごっち」
理紀が僕らの会話に割って入った。
「俺たち、このまま保健室行くから。あと頼むな」
「待て、理紀」
今度は僕が割り込む番だった。
「おまえは残れよ。おれは一人で行けるから」
「ダメ。おまえ、さっき歩けるかわからんって言ったもん」
「さっきはさっきだよ。もう大丈夫だから」
「信じない。おまえの『大丈夫』は信じない」
「あのなぁ」
「あー、お二人さん?」
ごっちが半ば呆れ顔で声を上げた。
「事情はわかった。とりあえず、その体勢をなんとかするところから始めたらどうだ?」
僕らは揃ってポカンとした顔をしてごっちを見た。ごっちの隣で、かつまるが悪い顔をして笑っていた。
「すずは顔がかわいいからなぁ。理紀みたいな王子様系イケメンにだっこされてると本物のお姫様みたい」
「ばっ……!」
「見てみ、ギャラリー。みんなおまえをうらやましがってるよ」
かつまるに言われるがまま、僕は天窓のほうを見上げる。人がようやくすれ違えるくらいのスペースが体育館上部をぐるりと囲み、そこから僕らのいるフロアの様子を見学できるようになっているのだが、バスケ部の練習がある昼休みには、主に理紀のファンの女子生徒が練習を見にくることが多かった。
そしてその子たちが今、理紀にお姫様だっこをされている僕に対し羨望の眼差しを注いでいた。
「降ろせ、理紀」
「なんで」
「恥ずかしいだろ」
「やだ」
「『やだ』じゃないっ」
アハハ、と仲間たちから笑い声が漏れる。最終的には理紀が不満げながら折れてくれて、僕はめでたく体育館のフロアに足をつけて立ったのだった。
「ついていかせてやれ、涼仁」
ごっちがもっとも大人な態度で僕に言った。
「理紀をここに残したところで、どうせおまえのことを心配するばっかりで練習には集中できないだろう」
「もう時間もあんまりないしね」
かつまるもごっちの意見に賛成のようで、理紀が脱ぎ捨てたらしいバッシュと水筒、それからタオルを拾い上げ、理紀に渡した。
「午後から本腰入れてがんばればいいんじゃない」
「もちろん。そのつもり」
理紀はかつまるからバッシュを受け取り、「悪いな」と付け加えた。かつまるは「いいよ」と言った。
「妬けちゃうけどね。キャプテンがさ、おれたちとの練習よりすずを選ぶなんて」
二人の会話は、もちろん僕にも聞こえていた。別の意味で僕の心臓は締めつけられ、けれど理紀は顔色一つ変えなかった。
「ごめん。でも」
「わかってるって。ちょっと言ってみただけ」
ポンポンとかつまるは理紀の肩をたたき、「さ、おれたちは練習しよー」とみんなを引き連れてコートへと戻っていく。その姿を見送った理紀は僕に歩み寄り、「行こう」と言って僕を体育館の外へ連れ出した。
理紀が僕の背に腕を回した。僕はなにも言えなかった。ごめんも、ありがとうも。ただひたすらに顔を下げることしかできない。
かつまるの言葉が胸を離れなかった。僕さえいなければ、僕がみんなと同じような健康優良児に生まれていれば。そんなことばかりが頭の中を支配した。
「涼仁」
まもなく体育館を離れようというタイミングで、背中に声をかけられた。
ごっちだった。
「大丈夫か」
振り返った僕に、ごっちは太くて優しい声をかけてくれた。彼が心配しているのは僕のからだのことではない。それに気づいているのは僕だけだろう。
理紀には怖くて言えない話を、僕はごっちにだけ伝えているから。
「大丈夫、大丈夫」
僕の代わりに、理紀が軽快な声で返事をした。
「少し休めば復活するから。午後からの練習には行くよ」
「……おまえに質問した覚えはないんだがな」
ごっちは僕の返事を待たず、練習に戻っていってしまった。僕は彼を呼び止めようとかすかに足を動かしたけれど、理紀に「ほら、行くぞ」と腕を引かれた。僕の反論を許さない、強い力が理紀の手には込められていた。
「理紀」
「なんとでも言えばいいさ」
理紀の声は怒っていた。
「みんなには想像できないんだ。俺がバスケをしている間に、すずが死ぬかもしれないなんて」
僕の左腕をつかんでいた理紀の右手が、今度は僕の左手を握る。痛いくらいに強く。けれどその手は、弱々しく震えていた。
僕にはわかる。今、理紀がなにを考えているか。
昔のことを思い出しているのだ。小学四年生になり、理紀が小学校のバスケ部に入った頃のこと。
いつも二人一緒だった帰り道を、部活をやっていなかった僕は一人で帰る日が増えていた。ある日、一人で自宅を目指していたところ、運悪く心臓が言うことを聞かなくなってしまった日があった。
当時はスマホなんて持ってなくて、僕はひとまず家まで這いずって帰った。その無理がいけなかったのか、その日から僕はしばらく入院することになった。
それ以来、理紀は僕を一人で帰らせることをやめた。最初は理紀がバスケ部を辞めると言ったけれど、僕がそれを許さなくて、二人の意見の間を取る形で、僕がバスケ部に入ることになった。走れないくせに。
そのまま時が流れ、結局僕は走れないバスケ部員として今日まで生きている。それは理紀の望みではなく、僕がそうしたいと思って決めた道だ。なにしろ理紀は、僕と一緒に帰れないならバスケを辞めると平気で言い出すヤツだ。誰よりもバスケが大好きなのに、彼にそんなセリフを言わせたくなかった。
体育館から校舎へとつながる廊下の上で、理紀は静かに立ち止まった。
「すずが死なずに済むなら、誰に嫌われたっていい。すずと一緒にいられるなら、俺は喜んでバスケを辞める。誰になんと言われようと、俺は変わらない。すずのことは、俺が守る」
ほら、やっぱり。僕は小さくため息をついた。
どうしたって、理紀は僕のことをなによりも優先しようとする。僕は理紀にバスケを続けてほしいのに、理紀は僕の話をちっとも聞き入れてくれない。
でも、彼ほどに僕のことを考えて行動してくれる人は他にいない。だいたいみんな、制約の多い僕の存在を煙たがり、一人でいるほうが気楽だなと僕は若すぎる頃に学んでしまった。
だから僕には、理紀の気持ちを無下にすることができないのだ。文句の一つ二つは言いつつも、結局僕は、理紀がいなければまっすぐ歩くことさえままならないのだから。
「重いよ」
いつものように、僕は理紀に苦言を呈す。「そう?」と理紀はとぼけた顔をした。
「気のせいだろ」
「んなわけあるか」
「ひどいな」
僕はふっと鼻で笑い、「でも」といつものように続けた。
「おまえがそうやって言ってくれるから、生きなくちゃ、って思えてるのかも」
理紀の気持ちは重いけれど、嬉しい気持ちがまったくないわけではない。
僕は社会のお荷物だ。人一倍周りに苦労をかけ、だいたいのことで誰の役にも立てない。ただ息をしているだけの、社会に貢献できない存在。
なるべくなにかの役に立てるようにがんばっているつもりだけれど、うまくいかないことばかりで嫌になる。僕ががんばると、どこかで誰かが僕を心配してしまう。その矛盾が歯がゆかった。弱い自分が許せなくて、ときどき理紀に当たってしまうこともあった。
でも、そんな僕を理紀は好きだと言ってくれた。理紀が隣にいてくれなかったら、僕はとうに生きることをあきらめていただろう。
一方で僕は、理紀に好きだと言ったことは一度もない。
なんとなく、なんとなくだけれど、僕がその言葉を口にすると、安っぽく聞こえてしまいそうな気がして。
「ありがとう、理紀」
すぐ隣にある理紀の顔を見上げ、僕は言った。
「これからは、もう少し気をつけて行動するよ」
弱くて、今にも折れてしまいそうなからだだけれど、理紀のためにも、大切にしなければいけない。これ以上理紀に心配させないために。理紀が僕を気づかうことなくバスケに取り組めるように。
理紀は僕を見下ろしながら、どこまでも真剣な目をして僕に言った。
「死ぬなよ、すず」
握られる理紀の手の力が強くなる。
「ずっと俺のそばにいて」
僕はふわりと微笑んで返し、なにも言わないまま歩き出した。
約束はできない。永遠なんてないとか、そんなロマンチックな話じゃない。
他のみんなと僕は違う。明日が来ないかもしれないという大きな不安が僕にはある。意識的に行動しないと、僕はあっという間に天に召されることになるだろう。
理紀に死ぬなと言われた。誰の役にも立たない僕だけれど、唯一無二の親友の頼みくらいは叶えてやらなくちゃいけないと思う。
生きなくちゃ。今日よりも、もっとたくましく。
僕のためじゃなく、理紀のために。
つながれた手を握り返すと、理紀は嬉しそうに笑った。



