三時間目の体育、四時間目の数学と授業をこなすと、待望の昼休みがやってくる。今日はバスケ部の朝練がなかったから、そういう日には代わりに昼休みの半分、およそ三十分間を練習に当てることが慣習だった。部としての正式な練習時間ではないため、自由参加で、半分は遊びのような気軽な時間だ。
同じクラスのバスケ部員に、「ごっち」こと後藤草平がいる。僕はたいてい毎日彼と弁当を食べ、同じ輪にいる他のクラスメイトたちを残してごっちと二人で昼練に向かう。僕の役割は主に練習風景の撮影、記録とボール拾いで、時間が短いため制服のまま練習する都合上、みんなの貴重品の管理も任されていた。
今日も今日とて、弁当箱を空にした僕はごっちとともに体育館へ向かうべく廊下に出た。ごっちは今期のバスケ部の副キャプテンで、ポジションはセンター。守りの要だ。
くだらない会話を交わしながら、二人で校舎の階段を下る。一階まで下りきった時、ふと、ごっちが僕の手もとを見て言った。
「おまえ、水筒は?」
「あ」
しまった。弁当箱と一緒に教室へ置き忘れた。
「ごめん、先行ってて」
「わかった。理紀にはオレから伝えておく」
「ありがとう、助かる」
「ゆっくり来いよ。焦らなくていい」
ごっちにもからだを気遣われ、少し恥ずかしさを覚えつつ「ありがとう」ともう一度告げてから、僕は再び階段を上り、もと来た道をたどり始めた。
「もう、最悪」
自分自身にイラついた。ただでさえノロマなのだから、忘れ物なんてしたら取り返しのつかないロスになることくらいわかっているはずなのに。
気持ちが急き、自然と早足になる。駆け上がってはいけないとわかっているのに、僕はほんの少しだけジャンプするように階段を上った。
それがいけなかった。僕にとって、息が弾むような運動は御法度だ。
制御に失敗した。あと一段で二階に戻れるというところで、心臓が暴れ出した。
胸が急激に締めつけられる。呼吸が乱れる。やばい、と心の声でつぶやきながら、僕は右手で胸もとを押さえた。
休憩しなくちゃ。僕は重い足を引きずり、最後の一段を昇りきる。
教室に戻るか。いや、そうするとクラスメイトたちに無駄な心配をかけてしまう。はぁ、はぁとマラソンのあとみたいな呼吸をしながらも頭は比較的冷静に動かせているのは、こういう非常事態に慣れすぎているせいだ。
この感じなら、少し休めば回復できそうだ。僕は教室とは反対方向、目の前にある渡り廊下へ向かってゆっくりと歩き始める。
渡り廊下の向こうは特別教室の集まる校舎で、人の出入りはほとんどない。静かで、北側だから比較的涼しい。もう一つ階を上がると図書室がある。図書室はいい。よく知る司書さんがいるし、本のにおいが心地いい。運動のできない僕は、昔から本を読むのが好きだった。今はとても読む気分じゃないけれど。
さっさと立ち止まれば容態は落ちつくとわかっているのに、誰かにこの姿を見られるのがイヤで、ついどこまでも歩いていこうとしてしまう。渡り廊下を渡って一つ北側の校舎へたどり着いた頃、ついに足が動かなくなり、僕は廊下の壁にもたれかかった。
「……っ、……」
うめく声は声にならなかった。座り込んでしまうと二度と立てないような気がして怖くて、壁にもたれかかったまま、僕は必死に息を吸おうとした。
やっぱり、体育の授業の時のアレが予兆だったんだな。そんなことをふと思う。今日はあまり調子のいい日じゃないらしい。理紀の言ったとおり、僕も昨日の大会のおかげで少しは疲れていたようだ。
理紀の顔が頭に浮かんだおかげで、大切なことを思い出した。
ごっちから僕が昼練に遅れることは伝わっているだろうけれど、この調子じゃあ遅れていくことも叶いそうにない。
理紀に連絡しなくちゃ。僕は乱れた呼吸に肩を上下させながらスラックスのポケットに右手を入れ、スマートフォンを取り出した。
でも、ダメだった。
手に力が入らなくて、握ったつもりでいたスマホは僕の手からすべり落ちた。
カツン、と廊下が音を立てる。僕には床に転がったスマホを見る余裕はない。
痛い。苦しい。深い海に足を取られ、無様に沈んでいくような感覚。
膝に力が入らない。目がかすみ、自分がどこにいるのかわからなくなる。
「理紀」
助けて、理紀。
心の中でそうつぶやきながら、僕のからだは、床に向かってずるずると廊下の壁をずり落ちていった。
同じクラスのバスケ部員に、「ごっち」こと後藤草平がいる。僕はたいてい毎日彼と弁当を食べ、同じ輪にいる他のクラスメイトたちを残してごっちと二人で昼練に向かう。僕の役割は主に練習風景の撮影、記録とボール拾いで、時間が短いため制服のまま練習する都合上、みんなの貴重品の管理も任されていた。
今日も今日とて、弁当箱を空にした僕はごっちとともに体育館へ向かうべく廊下に出た。ごっちは今期のバスケ部の副キャプテンで、ポジションはセンター。守りの要だ。
くだらない会話を交わしながら、二人で校舎の階段を下る。一階まで下りきった時、ふと、ごっちが僕の手もとを見て言った。
「おまえ、水筒は?」
「あ」
しまった。弁当箱と一緒に教室へ置き忘れた。
「ごめん、先行ってて」
「わかった。理紀にはオレから伝えておく」
「ありがとう、助かる」
「ゆっくり来いよ。焦らなくていい」
ごっちにもからだを気遣われ、少し恥ずかしさを覚えつつ「ありがとう」ともう一度告げてから、僕は再び階段を上り、もと来た道をたどり始めた。
「もう、最悪」
自分自身にイラついた。ただでさえノロマなのだから、忘れ物なんてしたら取り返しのつかないロスになることくらいわかっているはずなのに。
気持ちが急き、自然と早足になる。駆け上がってはいけないとわかっているのに、僕はほんの少しだけジャンプするように階段を上った。
それがいけなかった。僕にとって、息が弾むような運動は御法度だ。
制御に失敗した。あと一段で二階に戻れるというところで、心臓が暴れ出した。
胸が急激に締めつけられる。呼吸が乱れる。やばい、と心の声でつぶやきながら、僕は右手で胸もとを押さえた。
休憩しなくちゃ。僕は重い足を引きずり、最後の一段を昇りきる。
教室に戻るか。いや、そうするとクラスメイトたちに無駄な心配をかけてしまう。はぁ、はぁとマラソンのあとみたいな呼吸をしながらも頭は比較的冷静に動かせているのは、こういう非常事態に慣れすぎているせいだ。
この感じなら、少し休めば回復できそうだ。僕は教室とは反対方向、目の前にある渡り廊下へ向かってゆっくりと歩き始める。
渡り廊下の向こうは特別教室の集まる校舎で、人の出入りはほとんどない。静かで、北側だから比較的涼しい。もう一つ階を上がると図書室がある。図書室はいい。よく知る司書さんがいるし、本のにおいが心地いい。運動のできない僕は、昔から本を読むのが好きだった。今はとても読む気分じゃないけれど。
さっさと立ち止まれば容態は落ちつくとわかっているのに、誰かにこの姿を見られるのがイヤで、ついどこまでも歩いていこうとしてしまう。渡り廊下を渡って一つ北側の校舎へたどり着いた頃、ついに足が動かなくなり、僕は廊下の壁にもたれかかった。
「……っ、……」
うめく声は声にならなかった。座り込んでしまうと二度と立てないような気がして怖くて、壁にもたれかかったまま、僕は必死に息を吸おうとした。
やっぱり、体育の授業の時のアレが予兆だったんだな。そんなことをふと思う。今日はあまり調子のいい日じゃないらしい。理紀の言ったとおり、僕も昨日の大会のおかげで少しは疲れていたようだ。
理紀の顔が頭に浮かんだおかげで、大切なことを思い出した。
ごっちから僕が昼練に遅れることは伝わっているだろうけれど、この調子じゃあ遅れていくことも叶いそうにない。
理紀に連絡しなくちゃ。僕は乱れた呼吸に肩を上下させながらスラックスのポケットに右手を入れ、スマートフォンを取り出した。
でも、ダメだった。
手に力が入らなくて、握ったつもりでいたスマホは僕の手からすべり落ちた。
カツン、と廊下が音を立てる。僕には床に転がったスマホを見る余裕はない。
痛い。苦しい。深い海に足を取られ、無様に沈んでいくような感覚。
膝に力が入らない。目がかすみ、自分がどこにいるのかわからなくなる。
「理紀」
助けて、理紀。
心の中でそうつぶやきながら、僕のからだは、床に向かってずるずると廊下の壁をずり落ちていった。



