僕らのかよう松下高校は、歴史こそ深いものの、学校のつくりはごくありふれた公立高校といった感じだった。校舎が三つに、体育館と武道場。屋外にあるプールは今じゃ水泳部の練習でしか使われていない。グラウンドも文句ない広さが確保され、週末は女子サッカー部が他校を招いての練習試合をよくやっている。
二年生になって、教室が一階から二階へ変わった。三階のクラスもあるけれど、僕はおそらく学校側の配慮で二階に教室があるクラスに編成されたのだろう。
一階と比べて、窓から吹き込んでくる風の通りが良くなったように思う。穂南なんていう苗字だと、番号順に振られた座席はたいてい廊下側に近く、風の恩恵はあまり受けられないのだけれど、今年は授業中に感じる風が気持ちいい。席替えをしてまた廊下側に近い席になった今も、暑さに苦しめられることなく授業を受けることができていた。
体育の授業に参加できない僕だけれど、だからといって特別な勉強をさせられるということはない。見学、という言葉のとおり、同級生たちが競技に取り組む姿を目で見て学び、それをレポートにして提出したり、先生の授業の進行を手伝ったりすることで単位を認定してもらえる。
今もそう。みんなと同じように学校指定の青いジャージに着替え、グラウンドで陸上競技の授業を受けている。といっても、僕は他のみんなが取り組むハードル走のタイムを計って記録するのが仕事だ。器具の準備や片づけも手伝う。男子バスケ部で普段やっていることと同じだった。バスケ部で唯一のマネージャーである僕は、チームの練習を陰から支えるのが与えられた役割だ。
ゴールライン脇に立つ僕の前を、同じ男子バスケ部に所属する仲間が駆け抜けていった。名前は兼丸克哉。あだ名は「かつまる」。誰かが彼の名を間違えてそう呼んだのが由来で、僕よりは大きい一六八センチと小柄ながら、チームで一番の駿足の持ち主だった。
「18秒92。すごいぞ、かつまる。19秒切った」
「マジで! よっしゃあ!」
走る勢いそのままに僕から離れていったかつまるにそう声をかけると、かつまるはその場でぴょこぴょこ飛び跳ねて喜びを表現した。背が低いせいか声が高く、いつまでも中学生みたいな見た目をしているけれど、運動をやらせればたいていのことは他と大差をつけてうまくやれる、運動の神様に見初められた男だった。
かつまるの結果を名簿に記録し、次の走者へ合図を送る。次に走るのは理紀だ。僕は右手にストップウォッチを、左手には肩から提げている拡声器を持ち、「よぅい、」と拡声器を通して言った。
「どん!」
僕のかけ声に合わせ、理紀が猛然と走り出す。彼に陸上競技経験がないことは幼馴染みの僕が一番よく知っているわけだが、理紀はまるで陸上部員と見まがうほどの整ったフォームで次々とハードルを飛び越えていく。
みるみるうちに僕の待つゴールラインへと近づいてきた理紀。風を切って僕の前を駆け抜けていった瞬間、僕はストップウォッチを止めた。
タイムを見て、僕は思わず目を丸くした。
「18秒33」
「うそぉ!」
かつまるが僕の手もとを覗き込みながら悲鳴を上げた。
「マジか! おれより速ぇじゃん、理紀!」
「足が長いからな、あいつは」
「おいぃ涼仁ぉ! 誰がチビだってぇ? あぁん?」
「言ってない、言ってない」
かつまるにふんわりと首を絞められる。お互い笑いながらじゃれ合っていると、理紀が僕らのもとへと近づいてきて僕に尋ねた。
「何秒だった?」
「18秒33」
「やった。新記録だ」
「くっそぉおおお次は絶対理紀に勝つぅうううう!」
ジタバタしながら叫ぶかつまるを連れて、理紀は笑いながらスタートラインへと戻っていく。三人ともクラスは違うから、唯一一緒に受けられる体育の授業の時は互いにウザいほど絡む。陸上を選択したバスケ部員は他にも何人かいて、ここにはいない部員も含め、十一人いるバスケ部の同級生はみんな仲がよかった。
理紀のたたいたタイムを用紙に記入し、僕はまた計測係の仕事へ戻る。今日は最低でも一人三回計測するように、という体育教官の指示どおり、かつまるも理紀も三度目の計測にチャレンジした。
二人とも、二番目の記録が一番よかった。結果として、かつまるは理紀に一度も勝てないままだった。
「もー、なんでー! ハードルなかったらおれのが速いのにー!」
「だから足の長さが」
「言うな、すず! それ以上言うとおれが泣く!」
僕だけでなく、一緒にかつまるの話を聞いていた理紀も笑う。二人がスタートラインへと戻っていく背中を見送りながら、僕は今走り終えた理紀のタイムを記入しようと、バインダーの上にペンを走らせようとした。
でも、できなかった。
右手にボールペンを握りしめたまま、僕は誰にも聞こえないくらい小さなうめき声を上げた。
ばくん、と一つ、心臓が大きく鳴る。きゅう、と締めつけられるような痛みが走り、全身がこわばった。
幸い、目をつむってしばらくその場でじっとしていたら脈の乱れはすぐに治まった。痛みをこらえるために無意識に止めてしまっていた呼吸を取り戻そうと、僕はゆっくりと深呼吸した。
「穂南」
僕らが使っているレーンとは別の、もう一列準備されたレーンでタイム測定をしていた体育教官が、僕の異変に気づいて声をかけてきた。
「どうした。調子悪いか」
「いえ、大丈夫です」
「そうか。無理はするなよ。少し暑いし、座っていてもいいんだぞ」
「ありがとうございます。本当に大丈夫ですから」
「すず」
耳敏く先生が僕にかけた声を聞きつけた理紀が、僕のもとへと戻ってきた。理紀は僕の背中に手を添えると、心配そうに僕の顔を覗き込む。
「大丈夫か」
「なにが」
「苦しい? 痛む?」
僕は思わずため息をついてしまう。この幼馴染みは昔から、ちょっと脈が乱れただけで必要以上に大騒ぎするのだ。
「大丈夫」
僕は背中に回されている理紀の右手をそっと下ろした。
「ごめん、心配かけて。たいしたことなかったから」
「本当?」
「うん」
「代わろうか、計測係。日陰で少し休んだら」
「理紀」
過保護だなぁ、なんて文句は言わない。彼が本気で僕を心配してくれていることを知っているから。
だから僕はこういう時、理紀の目を見て微笑むのだ。
「ありがとう。本当にやばい時には、一番におまえを呼ぶから」
お互いに、つらくて苦しい時には支え合おう。一緒にいよう。
何年も前から交わしている、二人の約束。
守らなかったことはない。今よりも体力のなかった小学生の頃、僕はなんども理紀を頼り、理紀はちゃんと僕を助けてくれた。理紀の落ち込んでいる日には、僕が隣にいて励ました。
昔も、今も。そして、これからも。
理紀だけじゃない。僕だって、ずっと理紀の隣で生きていきたいと思っている。
理紀はようやく納得して、「わかった」と言ってかつまるたちのもとへと戻っていった。僕はもう一度彼の背を見送り、今度こそペンを握って理紀のタイムを記録した。
二年生になって、教室が一階から二階へ変わった。三階のクラスもあるけれど、僕はおそらく学校側の配慮で二階に教室があるクラスに編成されたのだろう。
一階と比べて、窓から吹き込んでくる風の通りが良くなったように思う。穂南なんていう苗字だと、番号順に振られた座席はたいてい廊下側に近く、風の恩恵はあまり受けられないのだけれど、今年は授業中に感じる風が気持ちいい。席替えをしてまた廊下側に近い席になった今も、暑さに苦しめられることなく授業を受けることができていた。
体育の授業に参加できない僕だけれど、だからといって特別な勉強をさせられるということはない。見学、という言葉のとおり、同級生たちが競技に取り組む姿を目で見て学び、それをレポートにして提出したり、先生の授業の進行を手伝ったりすることで単位を認定してもらえる。
今もそう。みんなと同じように学校指定の青いジャージに着替え、グラウンドで陸上競技の授業を受けている。といっても、僕は他のみんなが取り組むハードル走のタイムを計って記録するのが仕事だ。器具の準備や片づけも手伝う。男子バスケ部で普段やっていることと同じだった。バスケ部で唯一のマネージャーである僕は、チームの練習を陰から支えるのが与えられた役割だ。
ゴールライン脇に立つ僕の前を、同じ男子バスケ部に所属する仲間が駆け抜けていった。名前は兼丸克哉。あだ名は「かつまる」。誰かが彼の名を間違えてそう呼んだのが由来で、僕よりは大きい一六八センチと小柄ながら、チームで一番の駿足の持ち主だった。
「18秒92。すごいぞ、かつまる。19秒切った」
「マジで! よっしゃあ!」
走る勢いそのままに僕から離れていったかつまるにそう声をかけると、かつまるはその場でぴょこぴょこ飛び跳ねて喜びを表現した。背が低いせいか声が高く、いつまでも中学生みたいな見た目をしているけれど、運動をやらせればたいていのことは他と大差をつけてうまくやれる、運動の神様に見初められた男だった。
かつまるの結果を名簿に記録し、次の走者へ合図を送る。次に走るのは理紀だ。僕は右手にストップウォッチを、左手には肩から提げている拡声器を持ち、「よぅい、」と拡声器を通して言った。
「どん!」
僕のかけ声に合わせ、理紀が猛然と走り出す。彼に陸上競技経験がないことは幼馴染みの僕が一番よく知っているわけだが、理紀はまるで陸上部員と見まがうほどの整ったフォームで次々とハードルを飛び越えていく。
みるみるうちに僕の待つゴールラインへと近づいてきた理紀。風を切って僕の前を駆け抜けていった瞬間、僕はストップウォッチを止めた。
タイムを見て、僕は思わず目を丸くした。
「18秒33」
「うそぉ!」
かつまるが僕の手もとを覗き込みながら悲鳴を上げた。
「マジか! おれより速ぇじゃん、理紀!」
「足が長いからな、あいつは」
「おいぃ涼仁ぉ! 誰がチビだってぇ? あぁん?」
「言ってない、言ってない」
かつまるにふんわりと首を絞められる。お互い笑いながらじゃれ合っていると、理紀が僕らのもとへと近づいてきて僕に尋ねた。
「何秒だった?」
「18秒33」
「やった。新記録だ」
「くっそぉおおお次は絶対理紀に勝つぅうううう!」
ジタバタしながら叫ぶかつまるを連れて、理紀は笑いながらスタートラインへと戻っていく。三人ともクラスは違うから、唯一一緒に受けられる体育の授業の時は互いにウザいほど絡む。陸上を選択したバスケ部員は他にも何人かいて、ここにはいない部員も含め、十一人いるバスケ部の同級生はみんな仲がよかった。
理紀のたたいたタイムを用紙に記入し、僕はまた計測係の仕事へ戻る。今日は最低でも一人三回計測するように、という体育教官の指示どおり、かつまるも理紀も三度目の計測にチャレンジした。
二人とも、二番目の記録が一番よかった。結果として、かつまるは理紀に一度も勝てないままだった。
「もー、なんでー! ハードルなかったらおれのが速いのにー!」
「だから足の長さが」
「言うな、すず! それ以上言うとおれが泣く!」
僕だけでなく、一緒にかつまるの話を聞いていた理紀も笑う。二人がスタートラインへと戻っていく背中を見送りながら、僕は今走り終えた理紀のタイムを記入しようと、バインダーの上にペンを走らせようとした。
でも、できなかった。
右手にボールペンを握りしめたまま、僕は誰にも聞こえないくらい小さなうめき声を上げた。
ばくん、と一つ、心臓が大きく鳴る。きゅう、と締めつけられるような痛みが走り、全身がこわばった。
幸い、目をつむってしばらくその場でじっとしていたら脈の乱れはすぐに治まった。痛みをこらえるために無意識に止めてしまっていた呼吸を取り戻そうと、僕はゆっくりと深呼吸した。
「穂南」
僕らが使っているレーンとは別の、もう一列準備されたレーンでタイム測定をしていた体育教官が、僕の異変に気づいて声をかけてきた。
「どうした。調子悪いか」
「いえ、大丈夫です」
「そうか。無理はするなよ。少し暑いし、座っていてもいいんだぞ」
「ありがとうございます。本当に大丈夫ですから」
「すず」
耳敏く先生が僕にかけた声を聞きつけた理紀が、僕のもとへと戻ってきた。理紀は僕の背中に手を添えると、心配そうに僕の顔を覗き込む。
「大丈夫か」
「なにが」
「苦しい? 痛む?」
僕は思わずため息をついてしまう。この幼馴染みは昔から、ちょっと脈が乱れただけで必要以上に大騒ぎするのだ。
「大丈夫」
僕は背中に回されている理紀の右手をそっと下ろした。
「ごめん、心配かけて。たいしたことなかったから」
「本当?」
「うん」
「代わろうか、計測係。日陰で少し休んだら」
「理紀」
過保護だなぁ、なんて文句は言わない。彼が本気で僕を心配してくれていることを知っているから。
だから僕はこういう時、理紀の目を見て微笑むのだ。
「ありがとう。本当にやばい時には、一番におまえを呼ぶから」
お互いに、つらくて苦しい時には支え合おう。一緒にいよう。
何年も前から交わしている、二人の約束。
守らなかったことはない。今よりも体力のなかった小学生の頃、僕はなんども理紀を頼り、理紀はちゃんと僕を助けてくれた。理紀の落ち込んでいる日には、僕が隣にいて励ました。
昔も、今も。そして、これからも。
理紀だけじゃない。僕だって、ずっと理紀の隣で生きていきたいと思っている。
理紀はようやく納得して、「わかった」と言ってかつまるたちのもとへと戻っていった。僕はもう一度彼の背を見送り、今度こそペンを握って理紀のタイムを記録した。



