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 ――俺、バスケ部辞める。

 病院のベッドの上で横たわる僕に、理紀は泣きながらそう言った。
 小学四年生の頃。部活へ行った理紀と学校で別れ、通学分団の集合場所から一人で家に帰る途中、心臓の調子が悪くなってしまった時のこと。這いずって家まで帰り、そのまま救急車でいつもの大学病院に運ばれた。この時は確か、三日ほど入院したような記憶がある。

 ――なんで。

 僕は理紀の言葉を聞き入れなかった。僕の調子が悪くなったのはたまたまで、理紀がバスケ部に入ったせいじゃなかったからだ。
 一方で、理紀も僕の言葉に耳を貸してくれなかった。俺がすずと一緒に帰っていれば、と僕が入院することになったのがまるで自分のせいだと言わんばかりの口ぶりで、たぶんこの時、理紀は自分自身のこととバスケが心から嫌いになってしまっていたのだと思う。

 病室で、しばらくもめた。僕がなにを言っても、理紀はバスケ部を辞めるの一点張りだった。僕の母も、理紀のお母さんも困っていた。僕と理紀の話し合いはいつまでも、どこまでも平行線をたどるだけだった。

 ――ありがとうね、理紀ちゃん。

 その時僕の母が理紀に言った言葉を、僕はこれまで一度も忘れたことがなかった。

 ――理紀ちゃんだけなの、すずとずーっと一緒にいてくれるのって。すずがいると、どうしても遊び方が限定されちゃうでしょう。だから他のお友達は、すずとは少し距離を置きたがる。でも理紀ちゃんは、そういうのを嫌がらずにすずと一緒にいてくれるじゃない。すずはね、それがすっごく嬉しいの。理紀は優しいから、って家でいつも言ってる。だからこそ、部活くらいは理紀ちゃんの好きなようにやってほしいと思ってるんじゃないのかな、すずは。すずが一緒だとできないことに、理紀ちゃんにはもっといろいろチャンレンジしてほしいんだと思う。心配してくれるのはありがたいけれど、すずもすずなりに、理紀ちゃんが理紀ちゃんらしく人生を楽しめるように考えているんだと思うよ。

 この時の母の言葉が、僕のすべてだった。
 理紀の存在だけが、僕の心の支えだった。誰かが「おにごっこしよう」と言いだし、他の誰かが「でもすずがいるからできないじゃん」と言う。僕が「おれはいいよ」と言う前に、理紀は「みんなでやって。俺がすずと遊ぶから」と言って、僕の手を引いて輪を離れた。
 いいの、と僕は理紀に尋ねた。理紀はなんでもない顔をして「すずと一緒に遊べないほうが嫌だから」と答えた。
 嬉しかった。すごく嬉しかったから、そんなことがあるたびに僕は母に「今日も理紀が一緒に遊んでくれた」と報告した。からだの調子が悪くて、明日が来ないかもしれないと泣いた日も、理紀は精いっぱい僕を励ましてくれた。理紀はいつだって、僕の味方をしてくれた。

 一方で、僕は心配もしていた。僕だけが嬉しくて、理紀は我慢ばかりしているのではないかと感じていた。
 遊びはいい。僕が学校を休んでいる間、理紀はみんなとおにごっこができる。缶けりも、サッカーも、僕に遠慮することなくなんでも自由にできる。
 でも、部活は違う。辞めてしまえば、僕が学校に行くと行かないとにかかわらず理紀はバスケをすることができない。
 僕にとって、それはどうしても許せないことだった。たとえ理紀がかまわないと言っても、僕が納得できなければダメだった。

 ――だったら、おれがバスケ部に入る。

 だから、僕の出した結論はこうだった。
 僕が理紀のそばにいれば、理紀はバスケを辞めずに済む。

 ――なに言ってんだよ、すず。

 当たり前のように反対された。それはそうだろう。僕は走ることができないのだ。
 でも、僕は折れなかった。

 ――おれもバスケの勉強する。走れなくても、おまえの役に立てることがなにかあるかもしれないから。

 僕にできることなんてきっとない。でも、これ以上理紀の足を引っ張りたくなかった。理紀と、理紀の好きなものとを引き離したくなかった。
 理紀は僕のために一生懸命になってくれる。だから僕も、理紀のためにできることがあるならしたいと思った。
 たとえ自分の無力感に毎日絶望しようと、理紀のためなら乗り越えられる。理紀が一緒にいてくれるから、つらくない。

 そう。結局僕は、理紀が一緒にいてくれることが嬉しいのだ。
 理紀さえ隣にいてくれれば、他に欲しいものなんてない。

 ――じゃあ俺が、すずの分まで走る。

 やがて理紀は、力強い笑みを浮かべて僕と約束してくれた。

 ――俺が二人分走って、試合に勝って、一緒に喜ぶ。俺たちは、二人で一つだ。

 理紀が差し出してくれた拳に、僕はコツンと自らの拳をぶつけに行く。「別におれの分まで走ってくれなくていいんだけど」とぼやいたけれど、どうやら理紀の耳には届かず、理紀は満足そうに笑っていた。

 それから、僕の無力なバスケ部生活が始まって。
 朝から晩まで、ずっと理紀と一緒に過ごして。
 たくさん笑って。ときどき泣いて。

 僕たちは、二人で一つ。
 理紀のかけてくれたその言葉を、僕は心から信じていた。

 信じていた、はずだった。