***
「すず」
夢の中でささやかれているのかと思ったら、そうではなかった。
司書さんにかけてもらったブランケットの上から背中に手を当てられている感触がある。溶けていた意識が戻り、薄く目を開けて頭を持ち上げると、左隣に、額に汗をにじませた理紀の心配そうな顔があった。僕が保健室にいなかったせいで、校内を探し回っていたらしい。
「大丈夫? しんどい?」
僕は思わずため息をついてしまった。ごっちのヤツ、僕のお願いを聞いてくれなかったのか。
上体を起こし、借りていたブランケットを机に軽く広げてたたむ。その間僕が口を開かずにいると、理紀は「保健室に行ったんじゃなかったのか」と言った。
「なんでここまで上がってくる必要があったんだよ。保健室でベッドを借りれば……」
「静かにして。ここ、図書室」
立ち上がり、カウンターへ向かう。壁掛け時計は一時十五分を差していた。短い時間とはいえ、ぐっと深く眠れたおかげで頭痛は少し良くなったような気がする。一方で、胸の息苦しさはあまり改善が見られず、どうしても肩で息をするような形になってしまうのがカッコ悪い。気分など上がるはずもない。
ありがとうございました、と司書さんにブランケットと本を返す。「お大事にね」と声をかけてもらい、頭を下げて図書室を出る。
「どうして保健室に行かなかったんだ」
スタスタと廊下を行く僕の背中に、理紀は後ろ手に図書室の扉を閉めながら言った。
「図書室が好きなのはわかるけど、調子が悪い時に来る場所じゃないだろ」
「おまえこそ」
階段の前まで差しかかったところで、僕は理紀を振り返った。
「どうしておれを探しに来た? ごっちに伝えてもらったはずだ、おれは大丈夫だから見に来るな、昼練へ行けって」
「行くつもりだったよ。おまえがちゃんと保健室で休めてるのを確認したら戻るって決めてた」
「そう。おれのせいで行けなかったってわけね」
「すず」
僕は階段を下り始める。理紀が駆けてくる足音が聞こえた。
「すず!」
「ごめんな、理紀」
階段の中腹あたりで、僕はようやく理紀に謝ることができた。
けれどそれは、本当に伝えなければいけない「ごめん」とはニュアンスが少し違っていた。
「おれさえいなければ、おまえはもっと幸せに生きられたのに」
全部そう。部活も、恋愛も。友達と遊ぶ時間だって、これまで僕が全部理紀から奪ってきた。
理紀は僕の心配ばかりしながら生きている。でも、僕がいなければ、僕がいてはできない楽しいことを理紀はめいっぱい楽しめた。
僕がいなければ。
僕さえいなければ、理紀は幸せに生きられる。
理紀には幸せな人生を送ってほしい。
だって僕は、理紀のことが。
階段の一番上で目を大きくしている理紀に再び背を向け、僕は残りの階段を駆け下りた。行き先は決めていない。今の僕が出せる全力のスピードで、僕は走った。
「すず!」
悲鳴のような理紀の声と、僕を追いかけてくる足音が聞こえる。その音に耳をふさいで、僕は階段を下りきり、渡り廊下を駆けた。
息が上がるのは早かった。とても苦しかったけれど、僕は走るのをやめなかった。
「すず!」
理紀に捕まるのも早かった。逃げ切れるとは思っていなかった。二階の渡り廊下を半分ほど渡ったところで、理紀は僕の腕を取って捕まえた。
「バカ野郎、なんで走るんだよ! 走ったら……」
理紀の声は震えていた。当然だ。走ったら、僕は死ぬかもしれないのだから。
ほら、案の定だ。
ドクン、と強烈な痛みが胸に走った。
息を詰まらせ、目を閉じた僕は胸を押さえる。「すず」とすぐに理紀の声が聞こえてきた。
「すず、すず!」
痛い。痛みのあまり、息ができない。
立っていることはできなくて、その場に膝からくずおれる。ダメだ。痛すぎる。昨日の晩よりもずっと苦しい。目を閉じているのに世界が回っていて気持ち悪い。
たぶん理紀は僕の名前を呼んでいると思うのだけれど、声が遠くて、ほとんどなにも聞こえない。肺に空気が入っているような気もしない。
苦しい。水の中で足を取られ、深い海の底へ沈んでいくような重い感覚。
理紀はどこにいるのだろう。こういう時、あいつはいつも、一番に僕のところへ駆けつけてくれて――。
「…………っ」
そうだ。理紀だ。
僕は理紀に、謝らなくちゃいけない。
次第に強まっていく痛みを押して、僕は懸命に目を開ける。ぼやけてよく見えないけれど、顔を上げると、そこに理紀の姿があることは確かめられた。
荒い呼吸ばかりで、声が出ない。僕は力の入らない右手を必死に伸ばし、理紀の着ているカッターシャツにしがみついた。
「すず」
近づいたらようやく理紀の声が聞こえて、安心した。僕は一言、ごめん、と伝えたくて声を絞り出そうとしたけれど、ダメだった。
意識が遠のき、理紀の胸に寄りかかるように倒れ込む。それ以上、僕は動くことはできなかった。
息ができているのか、心臓は動いているのか。
もう、なにもわからなかった。
理紀の声も、また聞こえなくなった。
「すず」
夢の中でささやかれているのかと思ったら、そうではなかった。
司書さんにかけてもらったブランケットの上から背中に手を当てられている感触がある。溶けていた意識が戻り、薄く目を開けて頭を持ち上げると、左隣に、額に汗をにじませた理紀の心配そうな顔があった。僕が保健室にいなかったせいで、校内を探し回っていたらしい。
「大丈夫? しんどい?」
僕は思わずため息をついてしまった。ごっちのヤツ、僕のお願いを聞いてくれなかったのか。
上体を起こし、借りていたブランケットを机に軽く広げてたたむ。その間僕が口を開かずにいると、理紀は「保健室に行ったんじゃなかったのか」と言った。
「なんでここまで上がってくる必要があったんだよ。保健室でベッドを借りれば……」
「静かにして。ここ、図書室」
立ち上がり、カウンターへ向かう。壁掛け時計は一時十五分を差していた。短い時間とはいえ、ぐっと深く眠れたおかげで頭痛は少し良くなったような気がする。一方で、胸の息苦しさはあまり改善が見られず、どうしても肩で息をするような形になってしまうのがカッコ悪い。気分など上がるはずもない。
ありがとうございました、と司書さんにブランケットと本を返す。「お大事にね」と声をかけてもらい、頭を下げて図書室を出る。
「どうして保健室に行かなかったんだ」
スタスタと廊下を行く僕の背中に、理紀は後ろ手に図書室の扉を閉めながら言った。
「図書室が好きなのはわかるけど、調子が悪い時に来る場所じゃないだろ」
「おまえこそ」
階段の前まで差しかかったところで、僕は理紀を振り返った。
「どうしておれを探しに来た? ごっちに伝えてもらったはずだ、おれは大丈夫だから見に来るな、昼練へ行けって」
「行くつもりだったよ。おまえがちゃんと保健室で休めてるのを確認したら戻るって決めてた」
「そう。おれのせいで行けなかったってわけね」
「すず」
僕は階段を下り始める。理紀が駆けてくる足音が聞こえた。
「すず!」
「ごめんな、理紀」
階段の中腹あたりで、僕はようやく理紀に謝ることができた。
けれどそれは、本当に伝えなければいけない「ごめん」とはニュアンスが少し違っていた。
「おれさえいなければ、おまえはもっと幸せに生きられたのに」
全部そう。部活も、恋愛も。友達と遊ぶ時間だって、これまで僕が全部理紀から奪ってきた。
理紀は僕の心配ばかりしながら生きている。でも、僕がいなければ、僕がいてはできない楽しいことを理紀はめいっぱい楽しめた。
僕がいなければ。
僕さえいなければ、理紀は幸せに生きられる。
理紀には幸せな人生を送ってほしい。
だって僕は、理紀のことが。
階段の一番上で目を大きくしている理紀に再び背を向け、僕は残りの階段を駆け下りた。行き先は決めていない。今の僕が出せる全力のスピードで、僕は走った。
「すず!」
悲鳴のような理紀の声と、僕を追いかけてくる足音が聞こえる。その音に耳をふさいで、僕は階段を下りきり、渡り廊下を駆けた。
息が上がるのは早かった。とても苦しかったけれど、僕は走るのをやめなかった。
「すず!」
理紀に捕まるのも早かった。逃げ切れるとは思っていなかった。二階の渡り廊下を半分ほど渡ったところで、理紀は僕の腕を取って捕まえた。
「バカ野郎、なんで走るんだよ! 走ったら……」
理紀の声は震えていた。当然だ。走ったら、僕は死ぬかもしれないのだから。
ほら、案の定だ。
ドクン、と強烈な痛みが胸に走った。
息を詰まらせ、目を閉じた僕は胸を押さえる。「すず」とすぐに理紀の声が聞こえてきた。
「すず、すず!」
痛い。痛みのあまり、息ができない。
立っていることはできなくて、その場に膝からくずおれる。ダメだ。痛すぎる。昨日の晩よりもずっと苦しい。目を閉じているのに世界が回っていて気持ち悪い。
たぶん理紀は僕の名前を呼んでいると思うのだけれど、声が遠くて、ほとんどなにも聞こえない。肺に空気が入っているような気もしない。
苦しい。水の中で足を取られ、深い海の底へ沈んでいくような重い感覚。
理紀はどこにいるのだろう。こういう時、あいつはいつも、一番に僕のところへ駆けつけてくれて――。
「…………っ」
そうだ。理紀だ。
僕は理紀に、謝らなくちゃいけない。
次第に強まっていく痛みを押して、僕は懸命に目を開ける。ぼやけてよく見えないけれど、顔を上げると、そこに理紀の姿があることは確かめられた。
荒い呼吸ばかりで、声が出ない。僕は力の入らない右手を必死に伸ばし、理紀の着ているカッターシャツにしがみついた。
「すず」
近づいたらようやく理紀の声が聞こえて、安心した。僕は一言、ごめん、と伝えたくて声を絞り出そうとしたけれど、ダメだった。
意識が遠のき、理紀の胸に寄りかかるように倒れ込む。それ以上、僕は動くことはできなかった。
息ができているのか、心臓は動いているのか。
もう、なにもわからなかった。
理紀の声も、また聞こえなくなった。



