理紀はどうするかと思ったけれど、次の日にはいつもどおり、僕の家まで迎えに来た。今日の部活は午後だけで、母親には学校を一日休んで病院に行けと言われた。
僕はどうしても理紀に会いたかった。いつものように迎えに来てくれてよかったと思っていた。咳は出るし、寝不足で頭も痛いけれど、明日必ず受診するから、とどうにかこうにか母親を説き伏せ、僕は学校へ行くことを許された。「まぁ、理紀ちゃんもいてくれるしね」という母のセリフがいつもの何倍も重く僕の肩にのしかかったけれど、そんなことはどうでもよかった。僕は理紀と話をしなければならない。
まだ咳が残っているからマスクをして家を出ると、門の前で待っていてくれた理紀は顔色を変えた。
「どうした。大丈夫?」
「平気。副作用」
「飲んだのか、薬」
うん、と言ったら咳が出た。ひどくはないけれど呼吸もほんの少しだけ乱れ、歩き出した僕の背中を理紀はすぐにさすってくれた。
それが純粋な優しさだと知っていながら、僕は背を捩るようにして理紀の手を取り、そっと下ろした。
「ありがとう。大丈夫だから」
いつもなら理紀が飽きるまで自由にさすらせておく僕にNOを突きつけられたからか、理紀は目を大きくし、唇を薄く開いたままなにも言わなかった。僕自身、なんでこんなことをしたのかわからなかった。理紀に会いたくて、昨日のことを謝りたくて、無理を押して家を出たはずなのに、どうして朝からまたケンカをふっかけるようなことをしているのだろう。理紀から先に謝れ、とでも思っているのか。僕が圧倒的に悪いのに。
歩いたせいか、なかなか治まらない咳と僕はしばらく格闘する羽目になった。ぜんそくのような重苦しい音ではなく、痰の絡まないコホコホという小さな音ではあったものの、謝るどころかしゃべることすらままならなくなった僕のことを理紀は黙ったまま時おり見ては、心配そうな顔をした。謝るタイミングを逃した反抗期の子どもみたいで、僕は自分自身が恥ずかしくてたまらなかった。
昼休みを迎える頃には、副作用の咳は完全に治まっていた。一方で、朝はたいしたことのなかった息苦しさが明らかに増しているのは気になった。咳のしすぎかもしれない。平時よりも少しがんばらないと息が吸えず、痛みはないけれど心臓の鼓動が大きくなっているのを肌で感じられるのも気持ち悪かった。結局理紀とは話せていないし、やっぱり病院に行けばよかったかな、と今さらながら後悔した。
「しんどそうだな」
やっとの思いで昼食を終え、肩で息をしながら弁当のふたを閉めた僕に、クラスの同じ輪で弁当を食べていたごっちが心配して声をかけてくれた。
「理紀を呼ぶか」
「いい」
「どうして。オレじゃあおまえのことはわからんぞ」
「大丈夫。昼練も行けるから」
ごっちが小さくため息をつく。僕が意地を張っているように見えたらしい。
「理紀とケンカでもしたのか」
僕は我知らず手を止めた。まったく、この人の勘の良さはどうなっているのか。
僕が黙っていると、ごっちは「ま、そういう日もあるか」とひとりごとのようにつぶやいた。
「もめるのはかまわんが、ほどほどにしておいてくれよ。理紀のヤツ、自分で起こした感情の波に平気でのまれて溺れるからな」
そのとおりだ。理紀が穏やかにバスケと向き合える環境を整えてやるのも、マネージャーの僕の仕事。
それなのに、僕はなにをしているのだろう。
ごっちに指摘され、改めて気づく。早く理紀に謝らなくちゃいけない。理紀が普段どおり、今日の練習に臨めるように。
「わかってるよ」
ぶっきらぼうにこたえると、ごっちは穏やかに微笑んだ。席を立ち、「そろそろ行くか」と昼練へ向かう素振りを見せる。
「すず! ごっち!」
その矢先、教室後方の扉からかつまるの高い声が教室じゅうに響き渡った。僕らが振り返るよりも早く、水筒とタオルを担いだかつまるは嬉しそうな顔をして机と机の間を器用に縫い、僕らのもとへと駆けてきた。
「ニュースニュース! 昨日の部活の時に田平が言ってた後輩の女の子、今から理紀と二人で会うって!」
なんだって? 僕が表情を変えた隣で、ごっちが「ほう」と口の片端を上げた。
「勇気のある子だな。フラれるとわかっていても、自分の気持ちを直接伝えなきゃ納得できないか」
「みたいだね。ほら、行くよ!」
かつまるはからだを教室の扉に向けた。すでに立ち上がっているごっちに倣い、僕も椅子から腰を上げた。
「行くって、どこへ」
「決まってんじゃん、二人がいるところ! で、そのまま昼練!」
なるほど、だから水筒とタオルを持っているわけか。ごっちもかつまるに倣って必要なものを手にし、二人揃って駆け出した。
「あ、ちょっと……!」
その背中を追いかけようとしたけれど、すんでのところで自制が働き、立ち止まった僕は一人教室の中に取り残された。しかしかつまるは廊下側の窓から僕の姿を覗き込み、「おまえはゆっくり来いよ、すず!」と言った。
「ビデオ通話してやるから! 絶対走っちゃダメだからな!」
それだけ言うと、二人は風のごとく廊下を駆け抜け、やがて足音も聞こえなくなった。ビデオ通話って、それは立派な隠し撮りというやつでは、と思ったけれど、その電話は思ったよりもずっと早くかかってきた。出ようか迷って、僕はビデオ通話の開始ボタンを押した。
「はい」
『こちら現場の兼丸です、どーぞ』
「なにが『どーぞ』だ」
テンションが高すぎる。警察ごっこじゃあるまいし。
ようやく水筒を担いで歩き出そうとしていた僕だったけれど、スマホ画面を見ながら歩くのはどうかと思い、もう一度席に座り直して画面の中の様子を見守ることにした。そうすれば当然、他のクラスメイトたちが寄ってきて、ギャラリーの多さはまるで映画でも観ているかのような状況だった。
『どう、見える?』
かつまるがカメラの向きを切り替え、中庭の木陰を映し出した。かつまるとごっちはどうやら、体育館へと続く一階の渡り廊下から理紀と例の後輩女子の様子を撮影しているらしい。
画面に映っている後輩の女の子は、田平の前情報どおり、可憐な感じのするかわいらしい子だった。背は一五〇センチほどしかないようだ。向かい合って立つ理紀との差が三〇センチ以上あるように見える。
『うーん、声まではさすがに聞こえないな』
『もう少しズームにできないのか』
『えぇ、こう?』
ごっちがかつまるにあれこれ指示を出しているようだ。クールに見えるごっちだけれど、意外とミーハーな一面があることはバスケ部内の共通認識だった。芸能関係の時事ネタには特に詳しい。
画角が決まり、かつまるたちもいよいよ黙って理紀とくだんの後輩女子との一部始終を見守り始めた。僕もいつの間にか目が画面に釘づけになっていて、なぜだかわからないけれど、少し緊張してもいた。
声が聞こえないから詳しい会話の内容は想像するしかないけれど、少なくとも二人の表情を見る限り、後輩の子も理紀もどこか楽しそうに話しているようだった。これまで同様、告白して、撃沈して、がんばって作った笑顔で理紀に「ありがとう」と言う健気な女の子の姿を想像していただけに、僕はすっかり呆気にとられてしまった。
女子側はともかく、理紀があんなにもいい笑顔で話をしていることが意外で仕方がなかった。昨日の帰りに口にしていた「相手の子の気持ちにこたえられないことが申し訳ない」という言葉が本心から出たものなら、そうしたマイナスの感情がもっと表情に出ていてもおかしくないような気がする。しかし、画面の中の理紀にはそんな様子は微塵もない。むしろ会話が盛り上がり、意気投合しているようにさえ見える。
は。
なにが「申し訳ない」だよ。
結局、そういうことなのではないかと思ってしまう。僕さえいなければ、僕という邪魔者さえいなくなれば、理紀は理紀を好いてくれる可愛い女の子との素敵な時間を楽しめる。理紀もそれを望んでいる。現に理紀は、目の前のかわいい女の子との会話に夢中だ。僕が見ているとも知らず。なんの話をしているのか知らないけれど。
次第に苛立ちがこみ上げてきて、僕は無意識のうちに通話終了ボタンを押していた。そのままの勢いでごっちに電話をかける。ごっちはすぐに応答してくれた。
『どうした』
「ごめん、やっぱり体調悪いから保健室行ってくる」
『そうか。一人で平気か?』
「うん。理紀には心配ないから見に来るなって伝えて」
『涼仁』
「お願い」
自分でも驚くくらい、大きな声が出た。
「どんな手を使ってでも、あいつには昼練に行かせて」
まもなく午後一時になる。昼練の開始時刻だ。体育館に僕がいないと理紀は慌てて僕を探しにくるけれど、今は理紀に探されたくなかった。心配されたくもない。
『わかった。努力はしてみよう』
ありがとう、と言って電話を切る。一緒に理紀たちの様子を見守っていたクラスメイトの一人が「付き添おうか?」と名乗り出てくれたけれど、丁重に断り、僕は一人で教室を出た。
保健室へ行こうとして、行き先を変えた。どうしても理紀と顔を合わせたくなくて、体育館から遠いところへ移動することにした。
体育館や保健室のあるほうとは反対側の渡り廊下を渡り、ゆっくりと階段を上りながら、僕は図書室を訪れた。本を守るために常に空調が入れられていて、なおかつ、本のにおいは僕に安らぎを与えてくれる。一人で休むにはうってつけの場所だった。
図書室に来るといつも最初に訪れるのは、カウンターから一番近い司書さん特製のオススメ本コーナーだった。話題の本だったり、季節の本だったり、並べられた本は司書さんと図書委員が独断と偏見で選んでいるのだと聞いたけれど、ジャンルに関係なく、おもしろそうな本ばかりが並ぶその書架が僕は好きだった。
だというのに、今日の僕にはどの本のタイトルもうまく頭に入ってこなかった。文字を追っているようで、実際には目がすべってしまってまるで読めていない。本来なら読者の興味を引く印象的で素敵な表紙のイラストや写真も、色がぐちゃぐちゃに混ざったマーブル模様のパレットを眺めているようにしか見えなかった。
書架から適当に抜き取った一冊を手に、空いている席に座る。六人掛けのテーブルは、テスト前でもない限りまるまる一つ空いていることがほとんどだった。
座った途端、どくん、と心臓が大きく鳴った。一瞬息が詰まったけれど、幸いすぐに落ちついた。
一方で、息苦しさと頭痛は少しひどくなっていた。階段を上ったせいかもしれない。こんなことなら素直に保健室へ行くべきだった。今日は後悔してばかりだ。
「穂南くん」
僕の異変に気づいた馴染みの司書さんが、心配して声をかけに来てくれた。
「大丈夫?」
「はい。すいません」
「そう。少し眠ったら? 起こしてあげる」
僕がそうすると答える前に、司書さんは自分が普段使っているピンク色の膝掛けを持ってきて、僕の背にかけてくれた。「ありがとうございます」と僕は言って、両腕を枕に、机に突っ伏して目を閉じた。
寝不足のせいだろう。僕の意識はすぐに闇の向こう側へと落ちていった。
このまま戻ってこなくてもいいのにな、なんてことを、つい思ってしまったりした。
僕はどうしても理紀に会いたかった。いつものように迎えに来てくれてよかったと思っていた。咳は出るし、寝不足で頭も痛いけれど、明日必ず受診するから、とどうにかこうにか母親を説き伏せ、僕は学校へ行くことを許された。「まぁ、理紀ちゃんもいてくれるしね」という母のセリフがいつもの何倍も重く僕の肩にのしかかったけれど、そんなことはどうでもよかった。僕は理紀と話をしなければならない。
まだ咳が残っているからマスクをして家を出ると、門の前で待っていてくれた理紀は顔色を変えた。
「どうした。大丈夫?」
「平気。副作用」
「飲んだのか、薬」
うん、と言ったら咳が出た。ひどくはないけれど呼吸もほんの少しだけ乱れ、歩き出した僕の背中を理紀はすぐにさすってくれた。
それが純粋な優しさだと知っていながら、僕は背を捩るようにして理紀の手を取り、そっと下ろした。
「ありがとう。大丈夫だから」
いつもなら理紀が飽きるまで自由にさすらせておく僕にNOを突きつけられたからか、理紀は目を大きくし、唇を薄く開いたままなにも言わなかった。僕自身、なんでこんなことをしたのかわからなかった。理紀に会いたくて、昨日のことを謝りたくて、無理を押して家を出たはずなのに、どうして朝からまたケンカをふっかけるようなことをしているのだろう。理紀から先に謝れ、とでも思っているのか。僕が圧倒的に悪いのに。
歩いたせいか、なかなか治まらない咳と僕はしばらく格闘する羽目になった。ぜんそくのような重苦しい音ではなく、痰の絡まないコホコホという小さな音ではあったものの、謝るどころかしゃべることすらままならなくなった僕のことを理紀は黙ったまま時おり見ては、心配そうな顔をした。謝るタイミングを逃した反抗期の子どもみたいで、僕は自分自身が恥ずかしくてたまらなかった。
昼休みを迎える頃には、副作用の咳は完全に治まっていた。一方で、朝はたいしたことのなかった息苦しさが明らかに増しているのは気になった。咳のしすぎかもしれない。平時よりも少しがんばらないと息が吸えず、痛みはないけれど心臓の鼓動が大きくなっているのを肌で感じられるのも気持ち悪かった。結局理紀とは話せていないし、やっぱり病院に行けばよかったかな、と今さらながら後悔した。
「しんどそうだな」
やっとの思いで昼食を終え、肩で息をしながら弁当のふたを閉めた僕に、クラスの同じ輪で弁当を食べていたごっちが心配して声をかけてくれた。
「理紀を呼ぶか」
「いい」
「どうして。オレじゃあおまえのことはわからんぞ」
「大丈夫。昼練も行けるから」
ごっちが小さくため息をつく。僕が意地を張っているように見えたらしい。
「理紀とケンカでもしたのか」
僕は我知らず手を止めた。まったく、この人の勘の良さはどうなっているのか。
僕が黙っていると、ごっちは「ま、そういう日もあるか」とひとりごとのようにつぶやいた。
「もめるのはかまわんが、ほどほどにしておいてくれよ。理紀のヤツ、自分で起こした感情の波に平気でのまれて溺れるからな」
そのとおりだ。理紀が穏やかにバスケと向き合える環境を整えてやるのも、マネージャーの僕の仕事。
それなのに、僕はなにをしているのだろう。
ごっちに指摘され、改めて気づく。早く理紀に謝らなくちゃいけない。理紀が普段どおり、今日の練習に臨めるように。
「わかってるよ」
ぶっきらぼうにこたえると、ごっちは穏やかに微笑んだ。席を立ち、「そろそろ行くか」と昼練へ向かう素振りを見せる。
「すず! ごっち!」
その矢先、教室後方の扉からかつまるの高い声が教室じゅうに響き渡った。僕らが振り返るよりも早く、水筒とタオルを担いだかつまるは嬉しそうな顔をして机と机の間を器用に縫い、僕らのもとへと駆けてきた。
「ニュースニュース! 昨日の部活の時に田平が言ってた後輩の女の子、今から理紀と二人で会うって!」
なんだって? 僕が表情を変えた隣で、ごっちが「ほう」と口の片端を上げた。
「勇気のある子だな。フラれるとわかっていても、自分の気持ちを直接伝えなきゃ納得できないか」
「みたいだね。ほら、行くよ!」
かつまるはからだを教室の扉に向けた。すでに立ち上がっているごっちに倣い、僕も椅子から腰を上げた。
「行くって、どこへ」
「決まってんじゃん、二人がいるところ! で、そのまま昼練!」
なるほど、だから水筒とタオルを持っているわけか。ごっちもかつまるに倣って必要なものを手にし、二人揃って駆け出した。
「あ、ちょっと……!」
その背中を追いかけようとしたけれど、すんでのところで自制が働き、立ち止まった僕は一人教室の中に取り残された。しかしかつまるは廊下側の窓から僕の姿を覗き込み、「おまえはゆっくり来いよ、すず!」と言った。
「ビデオ通話してやるから! 絶対走っちゃダメだからな!」
それだけ言うと、二人は風のごとく廊下を駆け抜け、やがて足音も聞こえなくなった。ビデオ通話って、それは立派な隠し撮りというやつでは、と思ったけれど、その電話は思ったよりもずっと早くかかってきた。出ようか迷って、僕はビデオ通話の開始ボタンを押した。
「はい」
『こちら現場の兼丸です、どーぞ』
「なにが『どーぞ』だ」
テンションが高すぎる。警察ごっこじゃあるまいし。
ようやく水筒を担いで歩き出そうとしていた僕だったけれど、スマホ画面を見ながら歩くのはどうかと思い、もう一度席に座り直して画面の中の様子を見守ることにした。そうすれば当然、他のクラスメイトたちが寄ってきて、ギャラリーの多さはまるで映画でも観ているかのような状況だった。
『どう、見える?』
かつまるがカメラの向きを切り替え、中庭の木陰を映し出した。かつまるとごっちはどうやら、体育館へと続く一階の渡り廊下から理紀と例の後輩女子の様子を撮影しているらしい。
画面に映っている後輩の女の子は、田平の前情報どおり、可憐な感じのするかわいらしい子だった。背は一五〇センチほどしかないようだ。向かい合って立つ理紀との差が三〇センチ以上あるように見える。
『うーん、声まではさすがに聞こえないな』
『もう少しズームにできないのか』
『えぇ、こう?』
ごっちがかつまるにあれこれ指示を出しているようだ。クールに見えるごっちだけれど、意外とミーハーな一面があることはバスケ部内の共通認識だった。芸能関係の時事ネタには特に詳しい。
画角が決まり、かつまるたちもいよいよ黙って理紀とくだんの後輩女子との一部始終を見守り始めた。僕もいつの間にか目が画面に釘づけになっていて、なぜだかわからないけれど、少し緊張してもいた。
声が聞こえないから詳しい会話の内容は想像するしかないけれど、少なくとも二人の表情を見る限り、後輩の子も理紀もどこか楽しそうに話しているようだった。これまで同様、告白して、撃沈して、がんばって作った笑顔で理紀に「ありがとう」と言う健気な女の子の姿を想像していただけに、僕はすっかり呆気にとられてしまった。
女子側はともかく、理紀があんなにもいい笑顔で話をしていることが意外で仕方がなかった。昨日の帰りに口にしていた「相手の子の気持ちにこたえられないことが申し訳ない」という言葉が本心から出たものなら、そうしたマイナスの感情がもっと表情に出ていてもおかしくないような気がする。しかし、画面の中の理紀にはそんな様子は微塵もない。むしろ会話が盛り上がり、意気投合しているようにさえ見える。
は。
なにが「申し訳ない」だよ。
結局、そういうことなのではないかと思ってしまう。僕さえいなければ、僕という邪魔者さえいなくなれば、理紀は理紀を好いてくれる可愛い女の子との素敵な時間を楽しめる。理紀もそれを望んでいる。現に理紀は、目の前のかわいい女の子との会話に夢中だ。僕が見ているとも知らず。なんの話をしているのか知らないけれど。
次第に苛立ちがこみ上げてきて、僕は無意識のうちに通話終了ボタンを押していた。そのままの勢いでごっちに電話をかける。ごっちはすぐに応答してくれた。
『どうした』
「ごめん、やっぱり体調悪いから保健室行ってくる」
『そうか。一人で平気か?』
「うん。理紀には心配ないから見に来るなって伝えて」
『涼仁』
「お願い」
自分でも驚くくらい、大きな声が出た。
「どんな手を使ってでも、あいつには昼練に行かせて」
まもなく午後一時になる。昼練の開始時刻だ。体育館に僕がいないと理紀は慌てて僕を探しにくるけれど、今は理紀に探されたくなかった。心配されたくもない。
『わかった。努力はしてみよう』
ありがとう、と言って電話を切る。一緒に理紀たちの様子を見守っていたクラスメイトの一人が「付き添おうか?」と名乗り出てくれたけれど、丁重に断り、僕は一人で教室を出た。
保健室へ行こうとして、行き先を変えた。どうしても理紀と顔を合わせたくなくて、体育館から遠いところへ移動することにした。
体育館や保健室のあるほうとは反対側の渡り廊下を渡り、ゆっくりと階段を上りながら、僕は図書室を訪れた。本を守るために常に空調が入れられていて、なおかつ、本のにおいは僕に安らぎを与えてくれる。一人で休むにはうってつけの場所だった。
図書室に来るといつも最初に訪れるのは、カウンターから一番近い司書さん特製のオススメ本コーナーだった。話題の本だったり、季節の本だったり、並べられた本は司書さんと図書委員が独断と偏見で選んでいるのだと聞いたけれど、ジャンルに関係なく、おもしろそうな本ばかりが並ぶその書架が僕は好きだった。
だというのに、今日の僕にはどの本のタイトルもうまく頭に入ってこなかった。文字を追っているようで、実際には目がすべってしまってまるで読めていない。本来なら読者の興味を引く印象的で素敵な表紙のイラストや写真も、色がぐちゃぐちゃに混ざったマーブル模様のパレットを眺めているようにしか見えなかった。
書架から適当に抜き取った一冊を手に、空いている席に座る。六人掛けのテーブルは、テスト前でもない限りまるまる一つ空いていることがほとんどだった。
座った途端、どくん、と心臓が大きく鳴った。一瞬息が詰まったけれど、幸いすぐに落ちついた。
一方で、息苦しさと頭痛は少しひどくなっていた。階段を上ったせいかもしれない。こんなことなら素直に保健室へ行くべきだった。今日は後悔してばかりだ。
「穂南くん」
僕の異変に気づいた馴染みの司書さんが、心配して声をかけに来てくれた。
「大丈夫?」
「はい。すいません」
「そう。少し眠ったら? 起こしてあげる」
僕がそうすると答える前に、司書さんは自分が普段使っているピンク色の膝掛けを持ってきて、僕の背にかけてくれた。「ありがとうございます」と僕は言って、両腕を枕に、机に突っ伏して目を閉じた。
寝不足のせいだろう。僕の意識はすぐに闇の向こう側へと落ちていった。
このまま戻ってこなくてもいいのにな、なんてことを、つい思ってしまったりした。



