昼間の明るさの余韻が残る、自宅の最寄り駅からのいつもの帰り道を、いつもどおり、僕は理紀と二人でゆっくりと歩いていた。僕らが降りる駅よりも先まで乗っていく仲間が電車の中では一緒だったので、ようやく二人きりになれた、というセリフを理紀なら言いそうだなと思った。
なにせ僕たちは、かれこれ三時間半ほど目も合わせていないのだ。
「なに怒ってんの」
今日は理紀がその言葉を口にする番だった。僕は「別に」とぶっきらぼうに答える。
「怒ってはいない」
「じゃあなんでこっち見ないの」
「なんとなく」
「なんとなくって何」
「気分じゃない」
「なにが気に入らないんだよ」
いよいよ理紀は足を止め、本格的に語気を強め始めた。
「俺、おまえになにかした?」
僕も理紀の立ち止まった少し先で足を止め、ゆっくりと理紀を振り返る。
なにもされていない。僕が勝手に、理紀の態度に引っかかりを覚えているだけのこと。
僕をじっと見つめてくる理紀の目から視線をはずし、思ったままを口にした。
「実際、どうなの」
「なに?」
「田平が持ってきた話。ほんとはどう思ってんの」
「どうって」
「なに、あの時の悲しそうな顔。本当はかわいい女子から好きって言われて嬉しいけど、素直に喜べない、みたいなさぁ」
どうして僕はイライラしているのだろう、と自分でも不思議に思う。理紀がモテるのなんていつものことだし、今さらどうということはないはずなのに。
理紀は「あれは……」と少し言葉を濁し、目をふらふらと泳がせてから僕の質問に答えた。
「申し訳ないな、と思って」
「は?」
「俺、すずがいるから、絶対誰とも付き合えないのに。ゆりかちゃんも、田平のクラスメイトの子も、俺、みんなの気持ちを突っぱねてばっかりで」
「おれがいるから?」
わかっているのに、意味もなく突っかかってしまうことを止められない。
「おれがいなかったら、素直に喜べたって言いたいのか」
「そうじゃない。俺はおまえが好きだから、他の子の気持ちにはこたえられないってこと」
「あぁ、そう。おれが女子で、堂々と『他に好きな子がいるからごめんね』って言えたらよかったってわけね」
「そんなこと言ってないだろ」
「言ってるよ!」
互いに声を張り合い、夕闇の中でにらみ合う。これまで数え切れないほどくり返してきたケンカは、いつもなら僕がさっさと謝って終わるのだけれど、なぜか今日の僕はどこまでも素直になれなくて、ごめんの一言が出てこない。
「出会わなければよかったのかもな、おれたち」
代わりに出てきたのは、自分でも驚くような言葉だった。
「いや、仮に出会ってたとしても、おれが病気じゃなければよかったんだ。そうすればおまえは、おまえのことを好きになってくれる子と自由に恋愛ができて、おれに気をつかわずにバスケができた。おれという存在から解放されて、好きなように時間が使えた」
「違う!」
叫ぶように紡がれた理紀の声には、苛立ちと、無力感と、悲壮の色がぐちゃぐちゃに入り交じっていた。
「……違うって言ってるのに。ずっと。何回も」
知っている。聞き飽きるほど言われてきたことだ。
なのに僕は、懲りもせずまた理紀を怒らせている。理紀は大きく息をつき、「もういいや」と疲れきった声でつぶやいた。
「おまえが生きてさえいてくれれば、それでいい」
歩き出した理紀の背中が少しずつ遠ざかっていく。いつもなら僕と距離が開くと振り返って待っていてくれるのに、今の理紀が僕に顔を向けてくれることはない。
当たり前だ。僕が彼を怒らせた。
いや、怒っているのは僕のほうか。よくわからなくなってきた。
「……なんなんだよ」
きゅっと拳を握りしめる。自分で蒔いた種だというのに、全部理紀のせいにしてしまいたくなる。今すぐあの大きくて頼れる背中を捕まえて、一言「ごめん」と言えばいいだけのことが、今の僕にはどうしてもできなかった。その理由もわからなかった。
僕もゆっくりと歩き出す。理紀の長い足で紡がれる歩幅になんてとうてい追いつけるはずもなくて、僕が自宅の前にたどり着いた時、そこに理紀の姿はなかった。
理紀に見送られることなく開ける家の扉は、いつもの何倍も重く感じた。それは思わず「あれ、うちのドアってこんなに重かったっけ」と心でつぶやいてしまうほど。
明日になったら、謝れるかな。
いや、謝らなくちゃいけない。だって、僕が悪いのだから。
気持ちが上向かないままリビングで紡いだ「ただいま」に、母から「どうしたの。しんどい?」と心配された。「大丈夫」と答えたけれど、その時は大丈夫だった、という夜が待っていた。
その日の深夜、僕は突然の発作に見舞われ、久々に強い薬を飲んだ。それでも明け方までは苦しくて、ほとんど眠れない夜を過ごした。
翌朝になり、胸の痛みは治まったものの、気道の閉塞感と薬の副作用である軽い咳が残ってしまった。このまま理紀に会うのは嫌だなと思ったけれど、今日だけはどうしても、たとえ気持ちが向かなくても、彼に会わなければいけないと思った。
なにせ僕たちは、かれこれ三時間半ほど目も合わせていないのだ。
「なに怒ってんの」
今日は理紀がその言葉を口にする番だった。僕は「別に」とぶっきらぼうに答える。
「怒ってはいない」
「じゃあなんでこっち見ないの」
「なんとなく」
「なんとなくって何」
「気分じゃない」
「なにが気に入らないんだよ」
いよいよ理紀は足を止め、本格的に語気を強め始めた。
「俺、おまえになにかした?」
僕も理紀の立ち止まった少し先で足を止め、ゆっくりと理紀を振り返る。
なにもされていない。僕が勝手に、理紀の態度に引っかかりを覚えているだけのこと。
僕をじっと見つめてくる理紀の目から視線をはずし、思ったままを口にした。
「実際、どうなの」
「なに?」
「田平が持ってきた話。ほんとはどう思ってんの」
「どうって」
「なに、あの時の悲しそうな顔。本当はかわいい女子から好きって言われて嬉しいけど、素直に喜べない、みたいなさぁ」
どうして僕はイライラしているのだろう、と自分でも不思議に思う。理紀がモテるのなんていつものことだし、今さらどうということはないはずなのに。
理紀は「あれは……」と少し言葉を濁し、目をふらふらと泳がせてから僕の質問に答えた。
「申し訳ないな、と思って」
「は?」
「俺、すずがいるから、絶対誰とも付き合えないのに。ゆりかちゃんも、田平のクラスメイトの子も、俺、みんなの気持ちを突っぱねてばっかりで」
「おれがいるから?」
わかっているのに、意味もなく突っかかってしまうことを止められない。
「おれがいなかったら、素直に喜べたって言いたいのか」
「そうじゃない。俺はおまえが好きだから、他の子の気持ちにはこたえられないってこと」
「あぁ、そう。おれが女子で、堂々と『他に好きな子がいるからごめんね』って言えたらよかったってわけね」
「そんなこと言ってないだろ」
「言ってるよ!」
互いに声を張り合い、夕闇の中でにらみ合う。これまで数え切れないほどくり返してきたケンカは、いつもなら僕がさっさと謝って終わるのだけれど、なぜか今日の僕はどこまでも素直になれなくて、ごめんの一言が出てこない。
「出会わなければよかったのかもな、おれたち」
代わりに出てきたのは、自分でも驚くような言葉だった。
「いや、仮に出会ってたとしても、おれが病気じゃなければよかったんだ。そうすればおまえは、おまえのことを好きになってくれる子と自由に恋愛ができて、おれに気をつかわずにバスケができた。おれという存在から解放されて、好きなように時間が使えた」
「違う!」
叫ぶように紡がれた理紀の声には、苛立ちと、無力感と、悲壮の色がぐちゃぐちゃに入り交じっていた。
「……違うって言ってるのに。ずっと。何回も」
知っている。聞き飽きるほど言われてきたことだ。
なのに僕は、懲りもせずまた理紀を怒らせている。理紀は大きく息をつき、「もういいや」と疲れきった声でつぶやいた。
「おまえが生きてさえいてくれれば、それでいい」
歩き出した理紀の背中が少しずつ遠ざかっていく。いつもなら僕と距離が開くと振り返って待っていてくれるのに、今の理紀が僕に顔を向けてくれることはない。
当たり前だ。僕が彼を怒らせた。
いや、怒っているのは僕のほうか。よくわからなくなってきた。
「……なんなんだよ」
きゅっと拳を握りしめる。自分で蒔いた種だというのに、全部理紀のせいにしてしまいたくなる。今すぐあの大きくて頼れる背中を捕まえて、一言「ごめん」と言えばいいだけのことが、今の僕にはどうしてもできなかった。その理由もわからなかった。
僕もゆっくりと歩き出す。理紀の長い足で紡がれる歩幅になんてとうてい追いつけるはずもなくて、僕が自宅の前にたどり着いた時、そこに理紀の姿はなかった。
理紀に見送られることなく開ける家の扉は、いつもの何倍も重く感じた。それは思わず「あれ、うちのドアってこんなに重かったっけ」と心でつぶやいてしまうほど。
明日になったら、謝れるかな。
いや、謝らなくちゃいけない。だって、僕が悪いのだから。
気持ちが上向かないままリビングで紡いだ「ただいま」に、母から「どうしたの。しんどい?」と心配された。「大丈夫」と答えたけれど、その時は大丈夫だった、という夜が待っていた。
その日の深夜、僕は突然の発作に見舞われ、久々に強い薬を飲んだ。それでも明け方までは苦しくて、ほとんど眠れない夜を過ごした。
翌朝になり、胸の痛みは治まったものの、気道の閉塞感と薬の副作用である軽い咳が残ってしまった。このまま理紀に会うのは嫌だなと思ったけれど、今日だけはどうしても、たとえ気持ちが向かなくても、彼に会わなければいけないと思った。



