いつものバスケ部の準備風景に、いつもとは少し違う風を拭かせたのは、一年生の田平航大だった。
「あの、北浦先輩」
ボールの空気の入り具合を確かめている僕らのもとへ、田平はフロアにかけ終えたモップを手にしたまま近づき、少し遠慮がちな声で理紀に話しかけた。
「ん?」
「すいません。こんなこと、部活の前に聞くことじゃないと思うんスけど……」
田平は少し言葉を切り、モップの柄をきゅっと握りしめて理紀に尋ねた。
「北浦先輩って、カノジョいます?」
田平があまりにも真剣な目をして言うものだから、理紀はもちろん、僕までなにごとかと目を丸くしてしまった。
理紀はぽかんとした表情のまま、けれど田平に対しどこまでも誠実な態度で答えた。
「いや、いないけど」
「あ、そうなんスね」
田平は驚くでもなく喜ぶでもなく、なぜか少しショックを受けたような顔をした。そのことに目敏く気づいたかつまるが「えー、なになにー」と率先して話を広げようと声を上げた。
「なんでそんなこと訊くわけ?」
「オレと同じクラスの子に訊いてほしいって頼まれたんスよ」
「へぇ。理紀のファンの子? かわいい?」
「かわいいっス、かわいいっス! めっちゃかわいい」
「マジか。え、どういう系?」
「清楚系ッスね。背がちっちゃくて、髪は染めてるけどサラサラで」
「ほほう。田平はそういう子がタイプなんだ?」
「そうなんスよー。マジでかわいくて、その子。……って、え?」
ニヤ、と悪い笑みを浮かべたかつまるを見て、田平はようやく自らの失言を悟ったようだった。「あ、いや、違う違う」と慌てふためいた時にはすべてが遅きに失していた。
「オレは別に……っ」
「ダメじゃぁん、田平くぅん」
調子づいたかつまるは、背伸びをして田平の肩に腕を回した。
「そこは『わかった、訊いてくるよ』じゃなくて、『オレじゃダメか?』って耳もとでささやかなくちゃ」
「言えるわけないじゃないっスか、そんなこと!」
「なんでよ。ごっちはそうやって今のカノジョをゲットしたのに?」
「え、マジっスか、後藤先輩」
少し離れたところで別の部員と話をしていたごっちが、田平の声に振り返った。田平はつぶらな瞳をキラリと輝かせてかつまるを見る。
「後藤先輩のカノジョさんって、女バレのマネさんっスよね?」
「そうそう、ゆりかちゃんね。あの子ももともと理紀が好きだったのよ。で、告ったけどフラれて、当時同じクラスだったごっちが慰めてあげてさ。そん時よ。ごっちが『オレじゃダメか』って、ゆりかちゃんに」
おぉ! と田平がさらに目を輝かせてごっちを見る。そのごっちはというと「そんなことは言ってない」とかつまるの発言を否定した。
「勝手に話を盛るな」
「えぇ? でも、そんなようなことを言ってあげたから、今付き合ってるわけでしょ」
「まぁ、それはそうだが」
「なんて言ったの」
かつまるに詰め寄られ、ごっちは少し照れたようにかつまるから目をそらした。
「『少なくとも理紀よりは、ゆりかのことを大切にできる自信がある』……とは言ったかもしれん」
ふぅぅぅ! とその場にいた多くの部員から、ごっちの勇気に称賛(?)の声が上がった。
「聞いたか、田平! これだよ!」
「はい! ガチでカッコいいっス、後藤先輩! 一生ついていきます!」
「おまえがごっちに落とされてどうするっ」
まるでコントのようなやりとりに、部活が始まる前からコートの外はすっかり温まっていた。そう言えば声が聞こえないな、と理紀のほうを見やると、困ったような、そして少し悲しんでいるような笑みを無理やり作って貼りつけている理紀の顔がそこにはあった。
「理紀」
理紀は僕の声に反応してこっちを見たけれど、すぐに僕から目をそらし、「田平」と話しかけに行ってしまった。
「その子に言っといてよ。俺、カノジョ作る気ないから、って」
「え、そうなんスか?」
「うん。なぁ、すず?」
「いや、おれに訊かれても」
なぜ僕に話を振る。確かに僕は理紀の気持ちを知っているけれど、そうかと言えど、この場ではどう反応すればいいのかわからない。
「そういうことだから」
理紀は改めて田平と向き合い、どこか申し訳なさそうに言った。
「悪いな、手間かけさせて」
「いえ、大丈夫っス。オレのほうこそ、なんかすいません」
「もし言いにくかったら、俺が直接その子と話してもいいし。その時は教えて。時間作るから」
「はい。ありがとうございます」
「応援してるよ。うまくいくといいな、その子と」
「あ、いや、オレなんて全然……っ」
がんばれ、と理紀に肩をたたかれ、かつまるには冷やかされ。先輩たちからの洗礼を浴びた田平は「もー!」と耳を赤くしながら叫び、それを見た部員たちが笑う。
その中で、僕一人だけが波に乗り遅れてしまった。どうしてかうまく笑えなくて、みんなの声が入ってこない。
さっきの理紀の表情が頭から離れない。なんだったのだろう、あの悲しげな顔は。なにに対して悲しいと思ったのだろう。つらいと感じたのだろう。
「さぁ、始めるぞ!」
理紀が号令をかける。部活の開始時間になった。
僕はみんなと一緒にエンドラインに整列する。さっきまでの盛り上がりはどこへやら、みんなの表情はバスケと向き合う真剣なものへと変わっている。
けれど僕は、いや、きっとコートに立てない僕だけが、気持ちの切り替えに失敗したのだろうと思う。
なんとなく理紀の顔を見るのが嫌で、その日は帰り道で二人きりになるまで、僕は理紀と一言も口をきかなかった。
「あの、北浦先輩」
ボールの空気の入り具合を確かめている僕らのもとへ、田平はフロアにかけ終えたモップを手にしたまま近づき、少し遠慮がちな声で理紀に話しかけた。
「ん?」
「すいません。こんなこと、部活の前に聞くことじゃないと思うんスけど……」
田平は少し言葉を切り、モップの柄をきゅっと握りしめて理紀に尋ねた。
「北浦先輩って、カノジョいます?」
田平があまりにも真剣な目をして言うものだから、理紀はもちろん、僕までなにごとかと目を丸くしてしまった。
理紀はぽかんとした表情のまま、けれど田平に対しどこまでも誠実な態度で答えた。
「いや、いないけど」
「あ、そうなんスね」
田平は驚くでもなく喜ぶでもなく、なぜか少しショックを受けたような顔をした。そのことに目敏く気づいたかつまるが「えー、なになにー」と率先して話を広げようと声を上げた。
「なんでそんなこと訊くわけ?」
「オレと同じクラスの子に訊いてほしいって頼まれたんスよ」
「へぇ。理紀のファンの子? かわいい?」
「かわいいっス、かわいいっス! めっちゃかわいい」
「マジか。え、どういう系?」
「清楚系ッスね。背がちっちゃくて、髪は染めてるけどサラサラで」
「ほほう。田平はそういう子がタイプなんだ?」
「そうなんスよー。マジでかわいくて、その子。……って、え?」
ニヤ、と悪い笑みを浮かべたかつまるを見て、田平はようやく自らの失言を悟ったようだった。「あ、いや、違う違う」と慌てふためいた時にはすべてが遅きに失していた。
「オレは別に……っ」
「ダメじゃぁん、田平くぅん」
調子づいたかつまるは、背伸びをして田平の肩に腕を回した。
「そこは『わかった、訊いてくるよ』じゃなくて、『オレじゃダメか?』って耳もとでささやかなくちゃ」
「言えるわけないじゃないっスか、そんなこと!」
「なんでよ。ごっちはそうやって今のカノジョをゲットしたのに?」
「え、マジっスか、後藤先輩」
少し離れたところで別の部員と話をしていたごっちが、田平の声に振り返った。田平はつぶらな瞳をキラリと輝かせてかつまるを見る。
「後藤先輩のカノジョさんって、女バレのマネさんっスよね?」
「そうそう、ゆりかちゃんね。あの子ももともと理紀が好きだったのよ。で、告ったけどフラれて、当時同じクラスだったごっちが慰めてあげてさ。そん時よ。ごっちが『オレじゃダメか』って、ゆりかちゃんに」
おぉ! と田平がさらに目を輝かせてごっちを見る。そのごっちはというと「そんなことは言ってない」とかつまるの発言を否定した。
「勝手に話を盛るな」
「えぇ? でも、そんなようなことを言ってあげたから、今付き合ってるわけでしょ」
「まぁ、それはそうだが」
「なんて言ったの」
かつまるに詰め寄られ、ごっちは少し照れたようにかつまるから目をそらした。
「『少なくとも理紀よりは、ゆりかのことを大切にできる自信がある』……とは言ったかもしれん」
ふぅぅぅ! とその場にいた多くの部員から、ごっちの勇気に称賛(?)の声が上がった。
「聞いたか、田平! これだよ!」
「はい! ガチでカッコいいっス、後藤先輩! 一生ついていきます!」
「おまえがごっちに落とされてどうするっ」
まるでコントのようなやりとりに、部活が始まる前からコートの外はすっかり温まっていた。そう言えば声が聞こえないな、と理紀のほうを見やると、困ったような、そして少し悲しんでいるような笑みを無理やり作って貼りつけている理紀の顔がそこにはあった。
「理紀」
理紀は僕の声に反応してこっちを見たけれど、すぐに僕から目をそらし、「田平」と話しかけに行ってしまった。
「その子に言っといてよ。俺、カノジョ作る気ないから、って」
「え、そうなんスか?」
「うん。なぁ、すず?」
「いや、おれに訊かれても」
なぜ僕に話を振る。確かに僕は理紀の気持ちを知っているけれど、そうかと言えど、この場ではどう反応すればいいのかわからない。
「そういうことだから」
理紀は改めて田平と向き合い、どこか申し訳なさそうに言った。
「悪いな、手間かけさせて」
「いえ、大丈夫っス。オレのほうこそ、なんかすいません」
「もし言いにくかったら、俺が直接その子と話してもいいし。その時は教えて。時間作るから」
「はい。ありがとうございます」
「応援してるよ。うまくいくといいな、その子と」
「あ、いや、オレなんて全然……っ」
がんばれ、と理紀に肩をたたかれ、かつまるには冷やかされ。先輩たちからの洗礼を浴びた田平は「もー!」と耳を赤くしながら叫び、それを見た部員たちが笑う。
その中で、僕一人だけが波に乗り遅れてしまった。どうしてかうまく笑えなくて、みんなの声が入ってこない。
さっきの理紀の表情が頭から離れない。なんだったのだろう、あの悲しげな顔は。なにに対して悲しいと思ったのだろう。つらいと感じたのだろう。
「さぁ、始めるぞ!」
理紀が号令をかける。部活の開始時間になった。
僕はみんなと一緒にエンドラインに整列する。さっきまでの盛り上がりはどこへやら、みんなの表情はバスケと向き合う真剣なものへと変わっている。
けれど僕は、いや、きっとコートに立てない僕だけが、気持ちの切り替えに失敗したのだろうと思う。
なんとなく理紀の顔を見るのが嫌で、その日は帰り道で二人きりになるまで、僕は理紀と一言も口をきかなかった。



