いつからだろう。あいつのことを「特別」だと感じるようになったのは。

 ぼんやりとした白い枠に囲まれた中で、赤い帽子と白いポロシャツ、紺色の半ズボンを履いたたくさんの幼稚園児が走っている。外遊びの時間になり、靴を履き替えた園児たちが一斉に園庭へと駆け出していくところだった。

 そう。この頃からだ。

 はしゃぐ園児たちの背中を、僕だけがぼーっと見つめている。靴はとうに履き終えているのに、僕は走り出すことができなかった。

 いいなぁ。
 ぼくも、みんなといっしょにはしりたい。

 たかぶる気持ちが抑えられず、僕は走り出そうとした。
 そいつは僕の手を引いて、僕が走ってしまわないよう引き留めてくれた。

 ――すずくん、はしっちゃダメだよ。

 そいつは僕の目を見て言って、それから、当たり前のように笑った。

 ――すずくんは、はしっちゃいけない。だから、ぼくもはしらない。

 僕としっかりと手を握って、そいつは僕と一緒に園庭を歩いた。他の友達と自由に走り回ることが許されていたはずのそいつは、嫌な顔一つせず、動ける範囲の限られた僕とずっと一緒にいてくれた。

 ――だいじょうぶ。

 そいつは僕に、何度でも同じことを言った。

 ――すずくんは、ぼくがまもるから。

 十年以上が経った今でも、僕は、あの頃かけてもらったその言葉をなによりも大切に思っている。


   ***


 またあの頃の夢を見ているな、と思いながら目を覚ました。枕もとに置いているスマートフォンで時間を確認すると、いつもより十分(じゅっぷん)ほど余計に眠ってしまっていた。

「やべ」

 できる限り急いで、出発の準備をする。トイレに行き、顔を洗い、パジャマから制服へと着替える。五月下旬、衣替えまでもう少し時間があるけれど、いい加減ブレザーを羽織って登校するのは暑いなと感じる気候になった。
 一階の自室からリビングへと入ると、仕事用のベージュのスーツを着た母が待ちくたびれた顔で朝食を出してくれた。ごはんと味噌汁とスクランブルエッグとソーセージとミニトマト。毎朝同じ。父も母も姉も、家族全員がまったく同じものを食べているけれど、誰一人文句を言わない。言いたいとも思わなかった。

 歯を磨き、髪の寝癖をようやく直し終えたところでインターホンが鳴った。ギリギリ間に合ったな、と安堵しつつ、母に「行ってきます」と告げ、靴を履いて玄関を出た。

「おはよ」

 いつもどおり、僕よりも先にそいつが朝の挨拶をしてくる。同じ制服、同じバスケットボール部のスポーツバッグを斜めがけにしているそいつの朝から超がつくほどさわやかな笑みを軽く見上げ、僕も遅れて「おはよ」と言った。

「あぶねぇ。寝坊した」

 門を出て、最初に通り過ぎるのは「北浦(きたうら)」という表札を掲げる隣の家だ。高校へ向かう地下鉄の最寄り駅を目指して二人で歩き始めながら、準備が間に合わないのではないかと肝を冷やしたことを正直に告げると、僕の幼馴染みのそいつ――北浦理紀(りき)は「マジ?」と目を丸くした。

「俺も寝坊した、今日」
「おまえも?」
「うん。さすがに疲れてたんだな、お互い」

 ははは、と理紀は軽い調子で笑った。一方で僕は「おまえはわかるけど」と声のトーンを落とした。

「おれは別に疲れてないよ。おまえみたいに試合に出たわけじゃないし」
「変わんないよ。すずだって、ベンチでずっと声出ししてくれてたんだから。緊張もしてただろうし」
「変わるだろ」

 僕は思わず、言わなくてもいいことを言ってしまった。

「おもいっきり走れるおまえと、たった一歩さえ走れないおれとを、同じ天秤ではかるなよ」

 極力明るい声でいい、口もとに笑みを(たた)えてもいた。けれど、理紀の表情を曇らせることは避けられなかった。自分で自分が許せないくらいひどく後悔して、僕はすぐに「ごめん」と言った。

「余計なこと言った。今のは忘れて」
「すず」
「カッコよかったよ」

 理紀が気を取り直せるように、僕は話の軌道を元に戻した。

「試合には負けたし、先輩たちにはこんなことを言って申し訳ないけど、ひいき目なしに、昨日はおまえが一番いい動きをしてた。パスが通らなかったのはおまえのせいじゃない。先輩たちのほうが焦って、ポジショニングが悪かっただけだ」

 昨日、僕たち県立松下(まつした)高校男子バスケットボール部は、インターハイ出場をかけた県大会の決勝トーナメントに挑んでいた。結果は惜しくも準々決勝敗退だったが、創部以来過去二番目に優秀な成績を残すことができた。
 目標としていた決勝トーナメント進出は、間違いなく理紀の実力に寄るところが大きかった。一八三センチの長身と駿足、広い視野からくり出される精度の高いパスセンスはチーム内でも群を抜いていて、入部間もない一年生の頃からレギュラーの一角を担っていた。基本的にシュート一本につき二点が入るバスケのルールの中で、例外的に三点が入るゴールから遠い位置から打つスリーポイントシュートの決定率も理紀の場合はかなり高い。本来理紀はパス回しの起点となるポイントガードというポジションが得意だけれど、今のチームではシューティングガード、その名の通りシュートセンスを求められるポジションでの出場が多く、昨日も期待どおり、チームの得点は理紀のスリーポイントシュートが大きな比重を占めていた。
 それでも、試合には勝てなかった。僕たちに勝ったチームはそのままの勢いをたもって優勝し、全国大会に出場する。敗北した僕らの夏は終わり、三年生の先輩たちは昨日をもってバスケ部を引退した。

「ありがと」

 僕が褒めたにもかかわらず、理紀の笑顔は冴えなかった。

「でも、負けたんだ。悔しいよ。もう少しで逆転できそうだったのに」
「確かにな。でも、データを取ってたおれが言うんだから間違いない。おまえはいつもどおりのいいプレーができてたよ」
「わかってる。だから余計に悔しいんだろ」
「自分の仕上がりが良かっただけに、か」
「そう。あーもう、思い出すとやっぱり悔しくてうわああああってなる」
「叫ぶな。近所迷惑だ」

 僕にいなされると、理紀は不服そうに表情を歪めながらも叫ぶのをやめた。理紀とは0歳の頃からの付き合いだけれど、素直で聞き分けのいいところは昔から全然変わらない。ある意味では、素直すぎて自分の気持ちにも正直なところは彼の良くない部分でもあった。バスケをしていても、時折感情的なプレーに走ってしまうところがある。

「頼むぞ、新キャプテン」

 僕は理紀の背中をポンとたたいた。先輩たちが引退した男子バスケ部を、今日からは理紀が率いていくことが決まっている。

「昨日の悔しさを誰よりも知ってるのがおまえだ。いいチームにして、来年の夏はベスト4以上に残ろう」

 県内有数の進学校でありながら、僕らのかよう高校は部活動が盛んなことで有名だった。特に野球部と女子サッカー部、そして僕ら男子バスケ部は全国大会出場にもっとも近い公立高校と言われ、文化部では合唱部が合唱コンクール全国大会の常連だった。
 理紀だけじゃない。同じ学年の他の部員にもいいところを持っている仲間が揃っている。今年以上の成績を狙えないメンバーではない以上、一つでも上を目指すのはごく自然な流れと言えた。

「あぁ」

 僕の鼓舞に、理紀はようやくシャキッとした顔を上げ、僕に言った。

「それがおまえの望みなら、なにがなんでも叶えなくちゃな」

 理紀の目はどこまでも真剣だった。またこいつはそういうことを、と僕はついため息をついてしまう。

「言ったろ、おれのためにバスケをするなって」
「聞こえないね。俺は俺の心に忠実なだけだ」
「あのなぁ」
「約束したよな、昔」

 急に理紀は立ち止まり、熱のこもった目をして僕に言った。

「俺たちは二人で一つ。おまえが走れない分、俺がおまえの代わりに走るって。走らなきゃ手に入らない感動を、おまえにも味わわせてやるんだって」

 熱弁する理紀の姿が、朝の穏やかな陽射しに照らされてキラキラと輝く。そうでなくてもこの幼馴染みはただ立っているだけでカッコいいのに、こうして誰かのために、とりわけ僕のために自分の人生を全力で捧げてくれようとする姿勢は特にカッコよく見えてしまう。
 一方で、嬉しい反面、僕にとっては自分のダメなところを嫌と言うほど自覚させられることでもあった。理紀には謝るなといつも言われてしまうけれど、謝罪の言葉を口にせずにはいられなかった。

「ごめん、理紀」

 僕は自分の胸もとを右手できゅっと握りしめた。

「おれの心臓がこうじゃなきゃ、おまえはもっと、自由にバスケができてたのに」

 悔しい。僕のからだが弱いばかりに、理紀にはたくさんの苦労をかけてしまう。

 僕が走ることのできない理由。
 それは、生まれつき心臓に病をかかえているせいだった。

 現代の医療では完治のできない、心臓移植でしか治せない病気だ。投薬治療で症状を抑えることによって学校にかようことはできるけれど、運動制限はもっとも重い、体育の授業および運動部の活動には一切参加不可という区分に該当した。

 重いものを持って動くとか、少し長い階段を昇るとか、そんな些細なことでも僕の心臓は悲鳴を上げる。心拍数が異常に上昇し、息切れに始まり、次第に胸が痛み出す。運が悪い日は痛みが強すぎて意識が飛ぶ。そうなったら即入院で、出席日数が足りなくなると留年だ。今のところ、高校最初の一年はあまり休むことなく切り抜けてきた。今後もこの調子が続けば無事卒業できるのだが、未来は誰にもわからない。

 そんなわけで、僕はみんなと同じように走ることができない。
 走ったらきっと、僕はこの世界から消えることになる。

「関係ない」

 顔を伏せて謝った僕に、理紀はまるでいつもどおりの明るい口調で言った。

「おまえの病気なんて関係ないよ。仮におまえが元気に生まれてたって、俺の行動は変わらない。俺はただ、好きな人と同じ時間を共有したいだけ。同じ景色を見て、同じ気持ちになって、同じ時間を、いつまでもずっと過ごしていたい。それだけだから」

 すず、と理紀に優しく呼ばれ、僕はおそるおそる顔を上げた。
 そこには、理紀の優しい微笑みがあった。

「俺は別に、おまえが病気だから、おまえのことを好きになったわけじゃない。どんな形で出会ってたって、俺はきっと、おまえのことを好きになってた。すずと一緒がいいって気持ちは、今も昔も変わらない」

 理紀、と我知らずつぶやいていた。僕の声に反応したのか、理紀はすぅっと僕に顔を寄せ、僕の左頬に軽く唇を押し当てた。
 僕は目を見開く。どくん、と心臓が大きな音を立てて鳴る。
 キスをされた左頬に手を添えながら、僕は素知らぬ顔で僕を嬉しそうに見つめてくる理紀に詰め寄った。

「ばっ、おまえ……!」
「好きだよ、すず」

 僕の反論など受け付けないとでも言いたげに、理紀は僕の手を取って歩き出した。

「行こう。電車に乗り遅れる」
「誰のせいだよ! おまえが余計なことをするから……!」
「怒らない怒らない。心臓がびっくりしちゃうだろ」

 ご機嫌な理紀と、イラッとして不機嫌な僕。
 同じ制服に、同じバスケ部のスポーツバッグを背負う僕らには、他のチームメイトは誰も知らない秘密がある。

 そう。僕の隣を歩くこの男は、僕のことが好きなのだ。
 友達としてのそれではなく、恋愛対象として。