***

 舞踏会から数日後、六花が女学校へ通う日常へと戻っていた。この日々を日常と思えるほどに慣れてきたことが嬉しい。二か月前では考えられなかったことだ。

 女学校の帰りは、昴が毎回迎えに来てくれている。大丈夫だと伝えても、来てくれて習慣化している。申し訳なく思いつつも、嬉しい気持ちが溢れてしまう。

「週末の女学校帰りは、街を見て歩いて食事に行かないか。恭介に良い店を紹介してもらったんだ」
「はい、ぜひ」
 嬉しくて楽しみで、食事に行く約束をしたと麗奈たちに話して相談に乗ってもらうことにした。

「えー、いいじゃんいいじゃん」
「順調って感じだね」

 琴葉と乙葉は自分のことのようにうきうきして、聞いてくれている。さっきまでは、舞踏会の話を聞いて、楽しそうにしていた。楽しい話を聞くのが楽しいといったところだろうか。

「今週末ですの? もうすぐじゃありませんの」
「そうです。何かしておくこととかありますか。高級なお店なら作法とか……」
「作法なら、ここで学んでいるから大丈夫よ」
 沙良が軽くそう言って、麗奈も頷いていた。

「そうですわね、自信を持つのですわ。そうして不安そうにしているほうが良くないですわ」
「はい。頑張ります」
 琴葉が、そういえばと話し出す。乙葉は何を言うのかわかったらしく、確かにねーと一足先に頷いている。

「服はこの制服のまま行くの? 食事なら訪問着にするの?」
「あ、どうしましょう……」

 六花は言われてから、服装のことを考え始めた。制服でも失礼にはならないと思うけれど、せっかくなら、昴が選んでくれた桜色の着物を着ていきたいとも思う。

「前に一緒に着物を買いに行ったって言ってたでしょ? それ着ていったらいいよ」
「乙葉、それ天才!」
「でしょー」
 二人でにっこりと笑い合って、満足そうにしている。六花も同じことを考えていたけれど、迷うところがある。

「でも、一度帰って着替えていたら時間がかかってしまいますよね」
「あら、持ってきてここで着替えてから行けばいいんですのよ。わたくしもたまにしますわ」
「確かにあったわね。ということで、六花さん、当日は着物を持ってくるように。私たちがさらに可愛くしてあげるわ」




 そして当日、六花は着物を女学校に持ってきていた。授業が終わってからは、四人に囲まれて髪、化粧、着付けまでしてもらって六花は人形のようだった。最初はやってもらって申し訳ない、と思っていたが、ただただ楽しんでしていることがわかり、全面的にお任せすることにした。

「よし、完成ですわ」
 達成感に満ちた声で麗奈がそう言い、三人も大きく頷いている。

 髪はふわふわと軽くウェーブがかかっている下ろし髪で、可愛らしいリボンの髪飾りも付けてくれている。麗奈が貸してくれるそうだ。着物の着付けはきっちりとされていて、さすがは沙良。琴葉と乙葉は、分担しながら化粧をしてくれた。二人がほとんど相談せずにやっていたから、少し不安だったけれど綺麗な仕上がりで、気分も上がる。

「ありがとうございます。麗奈さん、沙良さん、琴葉さん、乙葉さん」
 六花は、ぺこりと頭を下げる。友人とこうしてデイトの準備をすることが楽しい。食事が始まる前から、もう楽しいのだ。

「いいんですのよ、そんな改まって言うほどのことではありませんわ」
「また話を聞かせてほしいわ」
「いってらっしゃーい」
「いってらっしゃーい」
 見送られて、六花は門までやってきた。

 今朝、柴崎からの伝言で、迎えに行くのが遅れるかもしれないから、待っていてほしいと聞いていた。そのため、準備もゆっくりで大丈夫と言って進めてもらった。いつもよりは遅い時間に門に着いたのだが、まだ馬車は来ていないようだった。

 制服ではない恰好でここで待っているのも、目立ってしまうかもしれない。とはいえ、送り出されてすぐに皆のところに戻るのも気恥ずかしい。少し考えて、六花は壱与に質問をしに行こうと決めた。

「方向の制御がまだ難しいから、来週の実技のためにも聞いておきたいわ」
 くるりと振り返って、女学校の中に戻ろうとしたとき、六花の腕が痛いくらいに後ろに引かれた。

「痛っ」
「やあっと捕まえた」

 六花の腕を掴んだのは、牡丹だった。不気味なほどに無邪気な笑顔でそこに立っていた。やっと、と口にしたことに六花は身震いがした。女学校の前で待ち伏せをしていた、ということだ。もしかしたら、何日も待ち伏せされていたのかもしれない。いつも馬車は近くに停めてもらっていたし、昴も一緒にいた。今日は、どちらもまだいない。

「離して、ください」
「だめよ。離したら逃げるでしょう」

 六花は必死に抵抗するが、牡丹の力が強くて腕が振りほどけない。
 昴や、麗奈たちと過ごしてきて、舞踏会でも守ってもらって、もう大丈夫だと思っていたのに。いざ、牡丹を前にすると、本能的な恐怖に襲われてしまう。牡丹の力が強いのではない、六花の力が入らないのだ。

「ほら、来なさい」
「やめて、ください」
「この恩知らず! 恥知らず!」

 牡丹が癇癪を起したようにそう言った。それを聞いたからか、数人の使用人がこちらに駆けてきた。見覚えがある、牡丹付きの使用人たちだ。

 数人がかりで馬車に無理やり乗せられた。助けてと叫ぼうとしたけれど、牡丹に一度口を塞がれて、喉が張り付いて声が出なくなってしまった。無情にも馬車の扉が閉められる。馬車が走り出した方向を見て、出雲家に向かっているとわかった。もう、行くことはないと思っていたのに。六花は何とか声を絞り出した。

「降ろしてください」
「家に帰るだけじゃないの」
「せめて、昴様にお伝えさせて、お願いします」
「うるさいわね、騒がないでよ! 夜叉に媚びなんか売って、取り入って、こんな高価な着物を買わせて、おぞましいことだわ!」

 牡丹の吐き捨てるような言い方が、出雲家の日々を思い出させる。怖くない、怖くないと言い聞かせても、体はどんどん縮こまる。




 家に着くと、広間に連れていかれた。両親が待ち構えていて、歓迎の様子なんて微塵もない。六花が座布団もなしに畳に座らされると、その途端に机がバンっと大きく音が出るほど叩かれた。

「お前は無能なだけでなく、恩知らずだ! この恥知らず」

 父がそう声を荒らげた。牡丹が馬車に乗る前に言っていたのは父の言葉をそのまま繰り返したものだったらしい。

「一体、何のために嫁入りさせたと思っている」
 理由なんて、六花を追い出したかっただけだろうに、もったいぶってそう聞いてくる。何を答えても、六花の言葉は届かない。いつもそうだった。

「出雲家に還元させるためだろうが。金や地位、護り人筆頭の宗像家であれば、自由自在だろう。牡丹に着物の一つでも送ってやるのが筋だろう、姉なのだからな、当然だろう」

 家にいたころは、姉なんて言わなかったというのに。嫁ぐ側が持参金や嫁入り道具を持っていくことすらせず、宗像家に出せと言うのはお門違いだ。

「舞踏会でも、牡丹をわざと転ばせて、ワインをかけて、恥をかかせたのでしょう? かわいそうに……。牡丹が泣きながら教えてくれたわ。なんてことをするの」
「そんなことは――」
「口答えするな! そんなことをして恥ずかしくないのか」

 舞踏会でのことは、昴が支えてくれなければ、牡丹は本当に転んでいたのに。そもそも、ワインをかけようとしたのは牡丹だ。だが、弁解しようとしても、遮られる。ここに、六花は存在していないも同然じゃないか。ただ、言葉で殴られるだけの砂袋みたいだ。

「無能は何をしても無能だったか。やはり牡丹が宗像家に……いや、宗像昴を出雲家に婿入りさせればいい」
「そうですよ。婚約者の座を牡丹に渡しなさい。そして、あの夜叉を出雲家に連れてくるのよ」

 六花の顔が引きつる。一体、何を言っているのだろうか、この二人は。あまりにも無茶苦茶な理論だ。止める人がいないからこうして暴走していくのだと、外の世界を見た後だからこそ、よくわかる。この家は、異常だ。
 だが、この家では両親が基準そのもの。いつものように、牡丹がそれに乗っかって、六花に当たってくる、そういう流れだと思った。

「あたしは嫌よ!」
「え、牡丹、どうして?」
 母が困惑した様子で牡丹の機嫌を取るように話しかけている。

「あんな恐ろしい夜叉の婚約者なんて、絶対に嫌よ。舞踏会でも腕を掴まれて恐ろしかったわ……。それに、あたしは出雲家を継いで守らなきゃいけないもの」

 そういえば、以前、昴が六花を婚約者候補にと、家にやってきたときにも、牡丹が婚約者候補にという話が出ていた。その際も、牡丹は嫌だと、出雲家を背負うと言った。

「まあ! 立派な志だわ。さすがは牡丹ね」
 母は、いつものように牡丹のことを褒めそやしている。父も、牡丹が嫌と言うことを無理に進める気にはならないのだろう。腕を組んで黙っている。

 てっきり、牡丹は両親の言葉に賛同すると思っていたが、前回も今回も拒否をしていることが、少し気にかかった。実現できるかは置いておいて、宗像家のほうが、父の言う地位や贅沢な暮らしが手に入りやすいはずだ。……出雲家を出たくない、ということだろうか。

 ふいに、六花の口元に笑みが零れた。こんな状況で、一生懸命に考えて理解しようとしていることが、おかしくなってしまった。わかり合うなんて、無理なのに。

「おい! 何を笑っている。全く、話にならない。反省しろ!」
「……申し訳ありません」

 六花は、頭を下げてただただ謝った。謝罪の言葉くらいしか、聞いてもらえない。牡丹が父に何かを耳打ちしている。父は一つ頷いて、使用人たちに指示を出した。

「蔵に入れておけ」
「待っ、お願いします。やめてください。帰してください」
「おかしなことを言うのね。ここはお姉様の家よ?」

 牡丹がにやりと意地の悪い、楽しそうな笑みを浮かべている。抵抗しても、数人で運ばれて、六花は蔵に放り込まれてしまった。床に投げられた勢いで、埃が舞い上がって咳き込んでしまう。

「ちょっともう! 汚いわね」
 使用人の後ろからついてきていた牡丹が顔をしかめている。

「この後、誠二さんをお招きしてのお食事会なのよ。無能がいたら邪魔でしょう。そこで大人しくしておいてね、お姉様?」
「嫌っ、待って!」

 六花の訴えも虚しく、蔵の扉は閉ざされた。きっと六花が出雲家を出てから掃除をしていないのだろう。埃っぽいうえにじめじめとしている。ここにいては、六花は『無能の姉』にされしまう。もう、空がだんだんと暗くなってきている。

「昴様……」