音楽が止むと、また談笑する雰囲気に戻っていく。ドリンクも配られていて、お酒も含まれている。六花はまだ飲めないけれど、昴は飲んでも問題ないはずだが、六花と同じレモネードを口にしていた。

「昴様はお酒は飲まれないのですか」
「酔っていては、正しく刀を振るえないからな。飲まないようにしている」
「お仕事熱心ですね」

 ここは都の中心地で結界も強いところではあるが、いつどこで物の怪がわからないから、警戒を怠らないというその姿勢が単純にすごいと思った。それを当たり前のことと位置付けているところも。花巫女として、今すぐに舞うとなったらできるだろうか。音のない状態で、なんて出雲家ではいつものことだったのに、今や女学校に慣れて、音ありきでの舞になっている。

「もっと頑張らなきゃ」
「六花さん、何か言ったか?」
 小声での決意を昴に聞かれていた。六花は左右に首を振る。

「いえ、何でもないで――」
「そこの花巫女、ちょっと舞ってみろ~、そこのお前だ~」

 呂律が甘い男の声が聞こえて、そちらを振り返る。朝廷の役人らしい、四十代の男が沙良に向かって指を差しながら近付いていくところだった。沙良は、すっと姿勢を正して男へ返答していた。

「ここで舞うことは難しいです、申し訳ございません」
「おいおい、断るってのかよ~、朝廷の勤め人が~わざわざ言ってやってるんだぞ?」

 男の手が、沙良に伸びようとした瞬間、横から別の手がそれを止めた。男が思わずうめき声を上げるほど強く掴む手の主は、恭介だった。

「花巫女の舞は、余興で見せるようなものではありませんよ。神聖な、特別なものであると、朝廷の役人ならば、当然ご存知でしょう」

 当然、という言葉を強調して恭介は、男を見下ろす。男は不服そうな顔をしながらもその場を去っていった。六花は、沙良に何もなくて、ほっと胸を撫でおろした。

「ありがとうございます、恭介さん」
「いいえ。あっ、ちょっと待っていて」

 恭介は、沙良からの礼を受け取るのもそこそこに、別の役人のもとへ挨拶をしに行ってしまった。何を話しているのかは、ここからではわからない。

「沙良さん、大丈夫ですか」
「ええ、恭介さんのおかげで。……でも、助けてくれたのは嬉しいけれど、私を隣には置きたくないってことかしら」

 パートナーを伴わずに挨拶をして回る恭介の姿を見て、沙良は拗ねるというよりも単純に落ち込んでしまっていた。ため息をついて、バルコニーに行く、とフロアから離れてしまった。

「あいつ、俺にどうこう言う前に自分のことをちゃんとすべきだろう」
「昴様?」
「こちらの話だ。だが、パートナーを放っておくことは良くないから、六花さんから恭介に言ってやってくれ」
「わたしがですか」
「ああ、友人の代わりに」

 沙良の代わりに、恭介に伝えること。沙良が本当は何を思っているかは、わからない。だから、六花が恭介に言いたいことは。
 恭介が話を終えてこちらに戻ってきた。きょろきょろと沙良の姿を探しているが、見当たらない。バルコニーはカーテンに隠れていて、見えづらくなっているのだ。

「恭介様の……分からず屋!」
「えっ、なんで」
「六花さんは、友人の代わりに怒っている。放っておいた恭介が悪い」
「ええ……仕事なんだって……」
 責められてしょんぼりとしながらも、恭介は六花たちが教える前にバルコニーに駆けていった。六花は昴を見上げて首を傾げた。

「大丈夫でしょうか」
「まあ、あいつも馬鹿ではないからな」

 恭介のことをよく知る昴が言うのだから、きっと大丈夫なのだろう。六花は、残っていたレモネードを飲む。檸檬の酸味が喉を抜けていくのが、心地いい。空になったグラスを、ちょうどいいタイミングでホテルの職員が回収してくれる。

「六花さん、飲み物は?」
「今は大丈夫です」

 カツカツと音が聞こえて、背筋がぞわりとした。舞踏会は、護り人も花巫女も多く出席しているから、そうひどいことを言われたりされたりはしないと思っていた。そう考えるのは、牡丹を甘く見ていたということだろうか。

「……!」

 牡丹が、ワインを片手に早足でこちらに迫ってくる。そのボルドーの液体を六花の頭からかけようとしているのだと、理解した。頭からワインを被った姿を晒すのは、なかなかに無様だろう。それを見た牡丹が意地悪く笑うところまで、容易に想像できた。
だが、体が動かなかった。六花は、せめて昴の立派なタキシードにはかからないようにと、何とか力を振り絞って数歩横にずれた。

「あっ――」

 不意に腕を引かれて、六花は声を上げる間もなくその場から引き剝がされた。よろめいた先で、逞しい昴の腕の中にすっぽりと収まった。一瞬のことで、六花は何が起こったかわからなかった。それは牡丹も同じだったようで、急に標的を失っても足は止まれなかったようだ。前のめりに倒れかけているのが見えた。

「おっと」
 昴は、空いている片手で倒れかけた牡丹の腕を支えた。牡丹の手からグラスが床に落ちて、パリンと甲高い音を響かせた。ワインが四方に飛び散り、牡丹のドレスにも飛んでいた。足の力が抜けたらしく、牡丹はその場にしゃがみ込んだ。

「すまない、この女性がよろけたようだ」
 職員を呼んで、ワインの片付けを頼んでいる。その間もずっと、昴は六花の肩を抱いたまま、決して離そうとはしなかった。

「牡丹さん!」
 誠二が駆け付けてきて、牡丹に寄り添っているが、牡丹はそれを邪険に振り払っている。相当に機嫌が悪いようだ。

「牡丹さんに何をしたのかな」

 誠二がにこやかな笑顔のまま、六花へ射抜くような視線を向けている。牡丹の機嫌を取るのは君の仕事だ、と何度も言われたことを思い出す。体が強張るけれど、昴がさらに力強く六花を抱きしめる。大丈夫だ、と言うように。

「彼女が転びそうになったところを、俺が支えただけだ。パートナーを放っておいて、何かを言える立場か?」
「僕は、そこのお姉さんに――」
「ものが言える立場か、と聞いている」

 昴の迫力に押されて、誠二は無言で背を向けてもう一度牡丹の傍に行った。牡丹が喚くように誠二に訴えている。が、何を言っているのかよく聞こえない。

 昴の大きな両の手のひらが、六花の頬を包み込むようにして、耳を塞いでくれていた。聞かなくていいと、言ってくれているようだ。六花の頬に、耳に、昴の体温が伝わってくる。やがて手が離れるころには、牡丹も誠二もホールを後にしていた。もう帰る、と牡丹が言い出したのだろう。

「助けていただいて、ありがとうございます」
「六花さんが嫌な思いをせずに済んだだろうか」
「はい。本当にありがとうございます」

 六花は、目の前に立つこの人の役に立てるのなら、隣にいられるのなら、何だってできると思った。昴は、六花に無能ではないと教えてくれて、家から救い出してくれて、女学校へ通う夢も叶えてくれて、一緒に服を選んでくれて、六花のことを守ってくれた。それから、時々見える可愛らしい一面ももっと見せてほしいと思う。恰好よさも頼もしさも、可愛らしさも、そのすべてが愛おしく想う。

 ただの取引上の婚約者候補が、口にする想いではない。だから、六花は流れ出した音楽を聴いて昴を見上げた。

「もう一曲、ご一緒していただけませんか」
「ああ、もちろん」

 今夜は、夢のような一夜だった。