六花は、押し付けられた仕事をどうにか終えて、裏庭へやってきた。牡丹は出かけていて、この時間は両親も母屋にいる。こっそり袂に入れて持ってきていた扇を取り出す。
「少しだけ」
扇を広げて、頭の中で音を流しながら静かに舞った。儀式の日以来、舞うことは禁止されていたが、早朝や深夜、こうした家事の隙間などの人のいない時間を見つけては舞い続けていた。六花は、舞が大好きで、そして、舞しかもう持っていなかった。
こうして舞っていると心が落ち着いてくる。いろいろなことが削ぎ落されて、音と自分の手足、そして浮かぶ白い花たちと一体になっていく感覚になる。自分の周りに浮かぶ白い花を、六花は嫌いにはなれなかった。この色のせいで蔑まれていることは、もちろん分かっている。だが、嫌うにはこの花は美しすぎる。
ふいに玄関のほうで、馬車が停まる音がした。牡丹が帰ってきたのだ。
「もうそんな時間!」
六花は慌てて裏庭を離れて、母屋へと駆け戻る。出迎えにいないと、花巫女様を軽んじるつもり? と牡丹になじられてしまう。
「おかえりなさいませ」
何とか間に合った。しかし、牡丹は不機嫌な表情を浮かべている。六花を見るとキッと睨みつけてきた。反射的に体が強張る。
「お姉様! ウェーブがすぐに取れたの! ちゃんとしてよ」
「も、申し訳ありません。でも今朝は雨が降っていて、ウェーブがかかりづらくて……」
「言い訳はいらない! こんなことも満足にできないなんて――それって」
牡丹の目線が六花の袂に注がれていることに気がついた。さあっと血の気が引く。隠したつもりだったが、扇の端が見えてしまっていたようだ。ぱっと牡丹に扇を取られてしまう。
「待ってください」
「は? あたしに指図する気? こんなもの、お姉様には必要ないでしょう」
扇が床に叩きつけられる。すぐに拾い上げようとしゃがみ込んで手を伸ばすが、牡丹の靴に踏みつけられてしまう。
「痛っ」
「あら、こんなところに這いつくばっているのが悪いのよ」
牡丹は六花を見下ろして、かすかに笑っている。踏みつけたことで、多少機嫌を直したらしい。
黙って隣で見ていた誠二が、六花へすっと手を差し伸べる。
「大丈夫かい」
その様子を見た使用人たちが、わあっと声を上げる。誠二は、優しげな目元が特徴的で整った顔をしている。日常の外出にもスーツを着こなしていて、その姿で手を差し伸べるのだから、物語の王子様のようだと、使用人たちが黄色い声を上げている。
「放っておいて行きましょう、誠二さん」
「先に行っててくれていいよ」
誠二は、牡丹へ柔らかな笑顔を向けてそう答える。そして六花の手を引いて立たせた。またしても使用人が沸き立つ。
「まあ、誠二様は無能にまでお優しいのね」
「本当に素敵な御方」
「この家に婿入りなさったら、お世話係になれないかしら」
「ずるいわ、私が」
口々に話している様子を誠二が見やる。彼女たちに一瞬、緊張が走る。
「そんな風に言ってもらえて、光栄だよ」
そう言って微笑むから、彼女たちはまた黄色い声を上げながら牡丹のあとに続いて母屋へ駆けていった。
「ふふ、ここの子たちは賑やかだね」
「……はい」
六花は、誠二の手から自分の手を離すと、まだ床に落ちたままの扇を拾おうとする。が、肩に衝撃が来て、後ろに倒れ込んでしまう。誠二に肩を思いきり突かれたのだと、尻餅をついてから、ようやく理解した。
「……ッ」
「今日、牡丹さんの機嫌が悪かったんだ。ちゃんとご機嫌取りしておいてね、君の仕事だろう?」
柔らかな笑みのまま、穏やかな口調のまま、誠二が六花を見下ろしてくる。誠二は、機嫌の悪い牡丹を良しとしない。そしてそれは、すべて六花のせいであった。
誠二は、床に落ちている六花の扇を踵で踏みつぶした。バキッと骨組みが砕ける音がする。
「いやっ!」
「次はきちんとしようね、無能のお姉さん」
「はい……申し訳ありませんでした」
「うん、いい子だね」
誠二は、皆が王子様のようだと言うその笑顔と声のままで、容赦なく六花を蔑む。誰も見ていないところで。牡丹は表情が変わるけれど、誠二は変わらないから何を話していても、常に恐ろしい。
六花は、骨組みが折れてしまった扇を拾い上げて、唇を噛みしめた。泣いてはいけない。泣いてしまったら、きっともう立ち上がれなくなってしまう。
誠二の訪問で浮足立つ使用人たちから、誠二のおもてなしに直接関係のない部屋の掃除や洗濯の残りなどを押し付けられた。正直、今日の二人にこれ以上近付きたくなかったから、都合がいい。
すべて終わらせるころには、誠二は帰っていてほっとした。さすがに夕方となれば疲れが来て、六花は自室で座り込んだ。使用人が使うのと同じ、布団を敷けばほぼ埋まってしまうような小さな部屋。六花は畳んである布団に、もたれかかって息をつく。
「大丈夫、大丈夫よ。今日も一日乗り切ったわ」
ふと、部屋の端に見慣れないものがあることに気がついた。六花の粗末な着物で覆い隠すようにして置いてあるそれは、鮮やかな赤色の着物。六花のものではない。牡丹の着物で間違いない。
「どうしてわたしの部屋に」
このまま持っていてはいけない。六花は着物を綺麗に畳み直すと、急いで牡丹の部屋に向かった。だが、その前に広間にいる牡丹と両親を見つけて、声をかけようとした。
「あの、これが――」
「まあ! お姉様が盗んでいたの!」
「え」
六花の姿を見るや否や、牡丹は金切り声を上げた。手で顔を覆い、崩れ落ちていく。牡丹の背中を心配そうにさする母。父は眉を吊り上げて、六花の手からひったくるようにして着物を取り上げた。
「牡丹が、赤い着物が盗まれたと悲しんでいるから、使用人に探させてみれば、お前の仕業か!」
「違います、わたしは何も」
「現にお前が持っていたではないか。何が違うんだ」
手の隙間からこちらを窺う牡丹と目が合った。牡丹の口元は三日月のように薄く微笑んでいた。わざと六花の部屋に置いて、盗まれたと騒いだらしい。まだ、今日の妹の激情は収まっていないようだ。
「無能を家に置いてやっているだけで感謝すべきところを、嫉妬して妹のものを盗むなど、恥知らずにも程がある!」
「お父様、そんなに怒らないであげてください。あの着物は何度も着ていますし、お姉様に差し上げますから」
牡丹は父の腕を掴み、猫のような可愛らしい声と仕草でなだめている。父は振り上げた拳を下ろした。
「まあ、なんて慈悲深い心なのでしょう。優しいのね、牡丹」
「いいえ、お母様。当然のことです」
褒めそやす母に、凛とした態度で返す牡丹。満足そうに頷く父。
なんという茶番だろうか。
いい子にはご褒美に洋菓子をあげましょう、という話になり、六花は見えない存在にされた。投げ捨てるようにこちらに放られた赤い着物を受け取り、六花は自室に駆け戻った。
「もう、ここにいたくない……」
この家に居続けることは、苦しくつらい。当然叶うと思っていた、大好きな舞で花巫女として人々の役に立つという夢も叶わないのだから。
「少しだけ」
扇を広げて、頭の中で音を流しながら静かに舞った。儀式の日以来、舞うことは禁止されていたが、早朝や深夜、こうした家事の隙間などの人のいない時間を見つけては舞い続けていた。六花は、舞が大好きで、そして、舞しかもう持っていなかった。
こうして舞っていると心が落ち着いてくる。いろいろなことが削ぎ落されて、音と自分の手足、そして浮かぶ白い花たちと一体になっていく感覚になる。自分の周りに浮かぶ白い花を、六花は嫌いにはなれなかった。この色のせいで蔑まれていることは、もちろん分かっている。だが、嫌うにはこの花は美しすぎる。
ふいに玄関のほうで、馬車が停まる音がした。牡丹が帰ってきたのだ。
「もうそんな時間!」
六花は慌てて裏庭を離れて、母屋へと駆け戻る。出迎えにいないと、花巫女様を軽んじるつもり? と牡丹になじられてしまう。
「おかえりなさいませ」
何とか間に合った。しかし、牡丹は不機嫌な表情を浮かべている。六花を見るとキッと睨みつけてきた。反射的に体が強張る。
「お姉様! ウェーブがすぐに取れたの! ちゃんとしてよ」
「も、申し訳ありません。でも今朝は雨が降っていて、ウェーブがかかりづらくて……」
「言い訳はいらない! こんなことも満足にできないなんて――それって」
牡丹の目線が六花の袂に注がれていることに気がついた。さあっと血の気が引く。隠したつもりだったが、扇の端が見えてしまっていたようだ。ぱっと牡丹に扇を取られてしまう。
「待ってください」
「は? あたしに指図する気? こんなもの、お姉様には必要ないでしょう」
扇が床に叩きつけられる。すぐに拾い上げようとしゃがみ込んで手を伸ばすが、牡丹の靴に踏みつけられてしまう。
「痛っ」
「あら、こんなところに這いつくばっているのが悪いのよ」
牡丹は六花を見下ろして、かすかに笑っている。踏みつけたことで、多少機嫌を直したらしい。
黙って隣で見ていた誠二が、六花へすっと手を差し伸べる。
「大丈夫かい」
その様子を見た使用人たちが、わあっと声を上げる。誠二は、優しげな目元が特徴的で整った顔をしている。日常の外出にもスーツを着こなしていて、その姿で手を差し伸べるのだから、物語の王子様のようだと、使用人たちが黄色い声を上げている。
「放っておいて行きましょう、誠二さん」
「先に行っててくれていいよ」
誠二は、牡丹へ柔らかな笑顔を向けてそう答える。そして六花の手を引いて立たせた。またしても使用人が沸き立つ。
「まあ、誠二様は無能にまでお優しいのね」
「本当に素敵な御方」
「この家に婿入りなさったら、お世話係になれないかしら」
「ずるいわ、私が」
口々に話している様子を誠二が見やる。彼女たちに一瞬、緊張が走る。
「そんな風に言ってもらえて、光栄だよ」
そう言って微笑むから、彼女たちはまた黄色い声を上げながら牡丹のあとに続いて母屋へ駆けていった。
「ふふ、ここの子たちは賑やかだね」
「……はい」
六花は、誠二の手から自分の手を離すと、まだ床に落ちたままの扇を拾おうとする。が、肩に衝撃が来て、後ろに倒れ込んでしまう。誠二に肩を思いきり突かれたのだと、尻餅をついてから、ようやく理解した。
「……ッ」
「今日、牡丹さんの機嫌が悪かったんだ。ちゃんとご機嫌取りしておいてね、君の仕事だろう?」
柔らかな笑みのまま、穏やかな口調のまま、誠二が六花を見下ろしてくる。誠二は、機嫌の悪い牡丹を良しとしない。そしてそれは、すべて六花のせいであった。
誠二は、床に落ちている六花の扇を踵で踏みつぶした。バキッと骨組みが砕ける音がする。
「いやっ!」
「次はきちんとしようね、無能のお姉さん」
「はい……申し訳ありませんでした」
「うん、いい子だね」
誠二は、皆が王子様のようだと言うその笑顔と声のままで、容赦なく六花を蔑む。誰も見ていないところで。牡丹は表情が変わるけれど、誠二は変わらないから何を話していても、常に恐ろしい。
六花は、骨組みが折れてしまった扇を拾い上げて、唇を噛みしめた。泣いてはいけない。泣いてしまったら、きっともう立ち上がれなくなってしまう。
誠二の訪問で浮足立つ使用人たちから、誠二のおもてなしに直接関係のない部屋の掃除や洗濯の残りなどを押し付けられた。正直、今日の二人にこれ以上近付きたくなかったから、都合がいい。
すべて終わらせるころには、誠二は帰っていてほっとした。さすがに夕方となれば疲れが来て、六花は自室で座り込んだ。使用人が使うのと同じ、布団を敷けばほぼ埋まってしまうような小さな部屋。六花は畳んである布団に、もたれかかって息をつく。
「大丈夫、大丈夫よ。今日も一日乗り切ったわ」
ふと、部屋の端に見慣れないものがあることに気がついた。六花の粗末な着物で覆い隠すようにして置いてあるそれは、鮮やかな赤色の着物。六花のものではない。牡丹の着物で間違いない。
「どうしてわたしの部屋に」
このまま持っていてはいけない。六花は着物を綺麗に畳み直すと、急いで牡丹の部屋に向かった。だが、その前に広間にいる牡丹と両親を見つけて、声をかけようとした。
「あの、これが――」
「まあ! お姉様が盗んでいたの!」
「え」
六花の姿を見るや否や、牡丹は金切り声を上げた。手で顔を覆い、崩れ落ちていく。牡丹の背中を心配そうにさする母。父は眉を吊り上げて、六花の手からひったくるようにして着物を取り上げた。
「牡丹が、赤い着物が盗まれたと悲しんでいるから、使用人に探させてみれば、お前の仕業か!」
「違います、わたしは何も」
「現にお前が持っていたではないか。何が違うんだ」
手の隙間からこちらを窺う牡丹と目が合った。牡丹の口元は三日月のように薄く微笑んでいた。わざと六花の部屋に置いて、盗まれたと騒いだらしい。まだ、今日の妹の激情は収まっていないようだ。
「無能を家に置いてやっているだけで感謝すべきところを、嫉妬して妹のものを盗むなど、恥知らずにも程がある!」
「お父様、そんなに怒らないであげてください。あの着物は何度も着ていますし、お姉様に差し上げますから」
牡丹は父の腕を掴み、猫のような可愛らしい声と仕草でなだめている。父は振り上げた拳を下ろした。
「まあ、なんて慈悲深い心なのでしょう。優しいのね、牡丹」
「いいえ、お母様。当然のことです」
褒めそやす母に、凛とした態度で返す牡丹。満足そうに頷く父。
なんという茶番だろうか。
いい子にはご褒美に洋菓子をあげましょう、という話になり、六花は見えない存在にされた。投げ捨てるようにこちらに放られた赤い着物を受け取り、六花は自室に駆け戻った。
「もう、ここにいたくない……」
この家に居続けることは、苦しくつらい。当然叶うと思っていた、大好きな舞で花巫女として人々の役に立つという夢も叶わないのだから。
