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女学校初日を終えて、六花は気持ちのいい疲れを感じている。両手を頭の上で組んでぐっと背中を伸ばす。
座学も実技もまだまだこれからだけれど、たくさん学べることがあると思うと自然と笑みが零れる。少し前まで、こんな未来は想像さえしていなかった。
「六花さん」
門の近くまで来たところで、声をかけられた。馬車の前に立っているのは昴だった。
「えっ、昴様。どうして」
「今朝は一緒に行けなかったから、帰りくらいはと思ってな」
「そんなわざわざ、申し訳ないです」
「まあ、護衛はいたほうがいいだろう。ほら」
当然のように、馬車に乗り込むときにエスコートをしてくれる。馬車の中で横に並んで座っていると、なんだか落ち着かない気持ちになってくる。気持ちを紛らわそうと外を見ていると、今朝とは違う道を走っていることに気がついた。
「昴様、どこへ向かっているのですか」
「呉服屋だ。六花さんの着物を新調しようと思ってな。俺が選ぶよりも自分で見たほうがいいだろう。家に呼ぶほうが楽ならそうするが」
「い、いえ! 呉服屋で大丈夫です」
呉服屋に家まで訪問させるというのは、上流の家ではよくあることだと聞くが、六花はそのような状況に慣れていないから、恐れ多くて首を横に何度も振る。昴は、わかったとだけ言って特に気を悪くした様子もなかった。
馬車が停まったのは、都で一位二位を争う有名かつ高級店だった。そもそも、この呉服屋も店主と面識がなければ入ることもできないところなのでは、と六花は馬車を降りて固まってしまう。
「こっちだ」
「はい……」
躊躇なく入ろうとする昴を見て、もう昴についていくことだけを考えることにした。安物の着物が数着だけの日常からの差に嬉しさよりも先に困惑してしまう。
「店主はいるか」
「昴坊ちゃん。いらっしゃいませ……おやおや、可愛らしいお嬢さんをお連れで」
人のよさそうな老婦人が店奥の暖簾をかき分けてやってくる。昴に対して慣れた様子で出迎え、そして隣にいる六花のことを見とめて笑顔になった。
「坊ちゃんはもうやめてくれ」
「あらあら、こーんな小さいころからいらしていただいているんですもの。坊ちゃんは、坊ちゃんですよ」
昴は、眉間に皺を寄せて不満げな顔をしていたが、何も言おうとはしなかった。昴が幼いころから来ているなら、店主には敵わないとわかっているのかもしれない。無言の攻防はすぐに終わり、昴は六花を片手で示しながら言う。
「それより、この女性に着物をいくつか頼みたい。日常着と訪問着を一通り」
「承知しました。この方はもしかして」
「俺の婚約者、候補だ」
「あらあら、まあまあ!」
昴がそっぽを向いて、しかも小声で言ったものの店主にはしっかりと聞こえていたようで、楽しそうな声を上げていた。
六花は二人のやり取りを聞いていて、なんだか恥ずかしくなってしまう。婚約者候補と改めて声に出されると落ち着かない気持ちになる。そういう取引だと、わかっているのに。
「お嬢さん、お名前は何というのですか」
「出雲六花といいます」
「まあ、素敵なお名前に、可愛らしいお声だこと。さあさあこちらへどうぞ」
六花は店主に手を引かれるままに店の奥に連れていかれた。この色がいいでしょうか、少し派手な柄もきっとお似合いですねえ、と次々に着物が目の前に並べられていく。
「ああ、きちんと一から仕立ててお渡ししますから、安心してくださいな。一度、形になっているもので着てみて決めるのもいいでしょう?」
「あの、えっと、お任せします」
店主はにこにこの笑顔のままで柔らかい口調なのだが、六花にいろいろと着せてみたいという意思が伝わってくる。六花は任せたほうがいいと判断して大人しく頷いた。
「これも似合いますねえ。ねえ、坊ちゃん」
「ああ」
今、六花が着ているのは桜色の着物だった。肩口や裾に花の柄があしらわれていて、可愛らしい。さっきは、緑色の地に白い花がたくさん咲いているもの、青色の地で縞模様のもの、淡い黄色の無地でシンプルなもの、藤色の枝垂れ花のもの、たくさん着せてもらっていた。もはや六花は着せ替え人形状態になっていた。
「そうそう、流行りの銘仙も取り扱うようになったんですよ。これなんていかがでしょう」
そう言った店主によって次に六花が着たのは、格子に蝶の柄が大きく描かれた着物だった。
「これは、少し派手すぎませんか」
「銘仙は経糸と緯糸をずらして、色が滲む手法で織ったものですよ。比較的安価だから、派手すぎるということもないと思いますけどねえ」
「あの、柄が少し大きくて、わたしには似合わないのかなと、思いまして」
六花は、着物全体にいくつもの蝶が大きく羽ばたいているのを見下ろしながらそう言った。こんなに華やかなのは、麗奈でないと着こなせない気がする。
「そうですかねえ、坊ちゃん似合っておりますよね」
「ああ」
昴は頷いてくれたけれど、やはりこれは似合っていないと思う。あと、昴は六花が着替えるたびに見てくれているが、ああ、と頷くばかりだ。退屈させてしまっているのではないかと不安になる。
「坊ちゃん、どれを見ても頷くだけじゃあないですか」
六花の不安が顔に出てしまっていたのか、店主がそんなことを言う。昴は、当然のように返した。
「どれも似合っているのだから、仕方がないだろう」
「えっ」
本当に似合うと思って言ってくれている。嬉しいような恥ずかしいような気持ちで六花は自分の頬を両手で包む。店主はその答えにも納得していないようでさらに問いただしていく。
「特にどれがいいか、というのを言うもんですよ。六花さんはどれがお気に入りです?」
「どれも素敵で、選べなくて……」
というか、普段着にも使われる銘仙を除いて、どれも着ればすぐに高価なものとわかる品ばかりで、正直選ぶどころではない。
「そうだな、桜色の着物は、可愛らしいが上品で六花さんに合っていた」
「あ、ありがとうございます」
六花は具体的な褒め言葉に、自分の顔が赤くなるのを自覚した。からかうような口調ではなく、自然にそう言っているのが伝わってくる。実は六花自身、桜色の着物は可愛いと思っていた。それを似合うと言ってもらえたのが、素直に嬉しい。
「あらあら、意外とちゃんと見ているんですね」
「意外とはなんだ」
昴は店主の言葉に不満そうな顔をしつつも、桜色の着物と他にも数点の注文をてきぱきと伝えていた。
六花はその間に女学校の制服に着替え直した。
「仕上がったら、またお届けにまいりますからね」
「よろしくお願いいたします」
六花と昴は、呉服屋を後にした。長居をしたわけではなかったけれど、六花は一仕事終えたような気持ちでほっと息をついた。
「その制服も似合っている。柴崎が褒めちぎっていたから、気になっていた。確かに六花さんによく似合う」
「あ、ありがとうございます。あの昴様、この女学校を勧めていただいたこと、本当に感謝しています」
「花風女学校は、六花さんにとって良いところだったんだな」
「はい」
六花は今日の女学校であったこと、出会った人のことを昴に一つずつ話した。昴は静かに、そうか、と言いながら聞いてくれている。どれほど六花が感謝をしているか、嬉しい気持ちでいるか、伝えても伝えきれないくらいだった。
その冷水のような声が聞こえたのは唐突なことだった。
「あらー、お姉様?」
真っ赤な着物を身に纏った牡丹が、行く手を阻むように立っている。馬車をとめられる場所の関係で、呉服屋から馬車まで少し距離があった。女学校のことで談笑していた六花は、一瞬にして血の気が引いていくのがわかった。反射的に体がこわばってしまう。動けない。
「へえ? 女学校に行っているの。ああ、そういえば床に這いつくばってそんなこと言っていたわね」
牡丹はにやりと意地の悪い楽しそうな笑みを浮かべている。六花は吸い込む息とともに、申し訳ありません、と口にする。音になっていたかはよくわからない。
「無能なお姉様だもの。婚約者に捨てられないように必死なわけね。長女なのに家を追い出されて、宗像家にも捨てられたら行く場所なんてないものね。本当に憐れ」
六花が黙って牡丹の言葉に耐えていると、牡丹がぐっと距離を詰めてきて俯く六花の顔を覗き込んできた。
「ちょっと、あたしを無視する気!? 何とか言いなさいよ」
「も、申し訳あ――」
「六花さんは、前向きな意思で女学校に通っている。失礼な物言いはやめてもらえるか」
昴が、六花を背中に庇うようにして牡丹の前に進み出た。すっぽりと六花を覆い隠してしまうほどの大きな背中に、六花の浅くなっていた呼吸が、少しずつ戻っていく。思わず背中に触れたいと伸ばした手は、すぐに引っ込めた。縋りつこうだなんて、おこがましい。
「やだ、怖い。あたし何も悪いことしてないのに、ひどいわ」
牡丹はまるで自分に非がないのに理不尽に責められているかのような反応をしてみせた。少し声を張り、周りに聞かせるようにしている。周囲にいた数人が何事かと視線をこちらに向けてくる。これでは、昴が悪者にされてしまうかもしれない。
「昴様、行きましょう」
六花は昴にそう声をかけて、足早に馬車へと急ぐ。牡丹の横を通るときにも、昴は間に入って、六花の視界に入らないようにしてくれていた。
「無視するなって言ってんのよ、お姉様! 夜叉なんかに守られていい気になって、馬鹿じゃないの。役立たずの無能のくせに」
背後から浴びせられたその言葉に、六花は足を止めた。牡丹は昴のことを、夜叉なんか、と侮辱した。六花を助けてくれた、こんなにも優しい人のことを、そんな風に言うなんて。六花は、怖いと思う気持ちを両手を握りしめることで何とか堪えて、振り返った。
「……昴様のことを、そんな風に言わないで」
牡丹の目がゆっくり、大きく見開かれていくのが見えた。こうして正面から牡丹の顔を見たのは、いつぶりだろう。
烈火のごとく怒りだすと思った。けれど、牡丹は驚いた表情を引っ込めると、気だるげな顔になった。つかつかと六花に歩み寄ってくると、矢絣の着物を乱雑に掴んだ。
「口答えなんて、何様のつもり? 無能なお姉様のくせに。何を勘違いしているのかしら、無能は何をしても無能なのよ? わかる?」
六花の喉をひゅうっと空気が通り抜けた。目の前に迫る炎を反射的に思い出し、くらくらと眩暈がした。
昴が何かを言う前に、ぱっと牡丹は六花の着物から手を離し、外向きの人懐っこい笑みを浮かべる。このタイミングで昴が何か言えば、周囲には昴が牡丹を害する者と見えてしまう。この子は、周囲の目をよく理解している。
「ねえ、来月の朝廷主催の舞踏会、宗像家は欠席するそうね。まあ、無能のお姉様と夜叉の組み合わせだなんて、とても出られるわけないわよね。ふふっ、あたしはもちろん誠二さんと出席予定よ」
よほど楽しみなのか、優位性を存分に語れるからなのか、牡丹は少し機嫌を直したようにつらつらと話す。
「あ、そうだわ、当日はお姉様が髪を巻いてちょうだい。電気ゴテを使える使用人がいなくなって、困っているのよ。どうせ出席しないのなら、暇でしょう?」
六花は咄嗟に電気ゴテで火傷をした手の甲に触れる。もうほとんど痛みはないが、痕は残っている。
「いいや」
否定を口にしたのは、昴だった。低く地面を這うような声で、六花も思わず身震いをした。
「宗像家も舞踏会には出席する。よって、六花さんにそのような暇はない。行こう、六花さん」
「えっ、はい」
牡丹の返答を待たずに、昴は六花の手を引いて馬車に乗り込んだ。バタンと音を立てて扉が閉まると外の音は聞こえづらくなる。そっと窓から牡丹の姿を窺うと、射抜くような視線とぶつかった。口元だけで、「楽しみにしてる」と伝えてきて、あの蔑みで満ちた笑みを浮かべていた。
