和の国の近代化は進みつつあれど、夜の闇が消えることはなく。瘴気が淀んだ末に物の怪が生まれ、人を襲う。
朝廷の命を受けて、人の住む都を守護するのが、『護り人』の役目。そして、その護り人が使う刀や弓矢に神力を宿す務めを持つのが『花巫女』である。
花巫女の家系の一つ、出雲家。
由緒ある家であることは、その屋敷を見れば明らかである。瓦屋根の門構えの玄関を抜ければ、廊下が続き、大きめな和室に茶の間、客間を揃え、増築された洋間も備わっていた。この広さでは、掃除をするのにも人手が必要。もちろん出雲家は多くの使用人を抱えている。
「そこの掃除が終わったら洋間を手伝ってちょうだい」
「こちらも手いっぱいです」
今日は体調不良で使用人が二人も休んでいて、手がいつも以上に足りていない。
「わたしが手伝いますから」
腰まである長い黒髪を後ろで一つに結んだ少女が、そう言ってバケツの隣に膝をつく。化粧気もなく、粗末な着物に身を包んでいるが、話す言葉や所作には品があり、使用人たちとは纏う雰囲気が異なっている。
「じゃあ、ここ全部やってください」
手伝う、と少女は言ったはずなのに、使用人頭の女性はこの部屋の掃除のすべてを押し付けた。彼女は立ち上がるとバケツを足蹴にして、少女のほうへ傾ける。バケツは水の重さでそのまま倒れ少女の膝ごと床に水を撒き散らした。
「あっ!」
「何をしているんです、奥様のお気に入りのカーペットが濡れたらどうするんですか」
「申し訳ありません……」
「きちんと掃除くらいは済ませてくださいよ」
彼女はすたすたと去っていく。少女は立ち上がって濡れてしまった着物を両手で挟んで少しでも水を切る。雑巾のように絞っては着物が皺になってしまう。もっとも、身に付けているのは安物だけれど、持っている着物の数が少ないのだ、一枚一枚を大事にしなくては。
「痛っ」
手にできたあかぎれに水がしみて、思わず声を上げた。春先になっても、まだまだ水は冷たい。あかぎれが治るまでには時間がかかりそうだ。
少女――出雲六花は、ため息をつきそうになって、ぐっと飲み込んだ。落ち込んでなどいられない。今に始まったことではないのだから。あかぎれも、使用人から見下されることも。
六花は、出雲家の長女である。だが、その肩書がもはや何の意味も持たないことは六花自身が一番よくわかっていた。
「どこにいるの! お姉様!」
六花が洋間の水浸しと、通常の掃除を終えたころ、屋敷中に響き渡るのではないかと思うほどの甲高い声で呼ばれた。
急いで向かうと、一つ下の妹、牡丹が不機嫌そうな顔をして立っていた。生まれつき茶色がかった髪が、さらりと腰までのびている。口紅は真っ赤なものを付けているが、もう少し淡い色、それこそ牡丹の花の色のほうが似合うと六花は思っている。それを口にすることはできないけれど。
「遅い! 疲れるから、大きな声を出させないで」
「申し訳ありません」
呼びつけた牡丹の自室を見やると、どれを着ていくか悩んだらしく、着物がいくつも広がっている。化粧は済ませているが、髪はまだセットされていないということは……。嫌な予感がする。
「お姉様、あたしはこれから誠二さんとお出かけなの。髪をウェーブにしてちょうだい」
誠二、とは護り人の家系である那智《なち》家の次男であり、牡丹の婚約者である。正確には婚約者候補、らしいがよく二人で出かけているし、出雲家にも頻繁にやってくる。
牡丹は最近、髪をウェーブさせるスタイルを気に入っている。そのためには、電気ゴテを使わなくてはならない。
「急いで、お姉様。遅れたらどうするの」
「はい。すぐに」
電気ゴテは熱したコテを使うため、使用人は皆一様に怖がっている。もしくは六花に押し付けるために怖がるふりをしていた。実際、少し手や腕に触れただけで火傷をしてしまうし、当てる時間が長すぎると髪が焦げてしまうので、扱いが非常に難しい。もちろん、少しでも髪を焦がそうものなら、牡丹が烈火のごとく怒るので、失敗は許されない。
「――熱ッ!」
六花のコテを持っていない手の甲に熱々のコテが触れてしまい、思わず声を上げた。牡丹が急に動いたために、手元が狂ったのだ。意地の悪い笑顔を浮かべて牡丹が振り返る。
「お姉様、ちゃんとしてほしいわ。これくらいのこともできないの?」
「も、申し訳ありません」
咄嗟に腕を引いたから、手の甲の火傷はそれほどひどくない。六花は気づかれないようにそっと息をついた。
牡丹は、この精神を削られる用事を頻繁に言いつけてきて、六花の怯える顔を見てにやりと笑う。コテがある状況で、牡丹を逆上させると何が起こるかわからない。六花は慎重に、かつ素早く髪をセットし終えた。
「うん、まあまあね。次は髪飾りを取ってきて」
「わかりました」
「その次は、バッグと靴を。あ、着物も着せてちょうだい」
「はい」
牡丹は、六花に着飾る用意をさせることで優越感に浸っている。六花もそれは分かっている。わかっているが従う以外に道はないし、もう何も感じなくなっていた。すべての用意を終えて、六花は息をついた。
「綺麗だわ、牡丹」
それはほっとして思わず零れた独り言だった。綺麗に支度ができたので誠二もきっと喜ぶだろうと、そう思っただけの小さな小さな独り言。
だが、牡丹の耳にも聞こえてしまったらしく、表情がじわりと影ができる。
「花巫女様、でしょう? ねえ、言葉遣いもちゃんとできないわけ? 『無能な』お姉様?」
「申し訳ありません、花巫女様」
六花は頭を下げたまま、そう言い直した。牡丹をはじめ、使用人に対しても敬語で接するようにと牡丹から強いられている。
「じゃあ、行ってくるわ」
牡丹はすぐに明るい表情に戻り、そのまま出発していった。彼女に連れだっていく使用人からは、残りの仕事をやっておいて、と掃除や片付けを押し付けられた。
無能。それは六花への嫌がらせの言葉ではない。ただの事実だ。
花巫女の家系に生まれた女子は、十五歳になると儀式を行う決まりになっている。巫女装束に身を包み、神楽堂で舞を舞う。
六花も三年前に、儀式を行った。
「六花、緊張しなくていいのよ」
「お姉様は舞がとてもお上手ですもの。大丈夫です」
母と妹にそう励まされて、六花は神楽堂に上がった。父は安心させるように、しっかりと一つ頷いてくれる。六花はぎゅっと扇を握りしめた。やはり緊張はしているけれど、幼いことからずっと舞をやってきた。大好きな舞で、人々を守る務めを果たすことができるのは、誇らしいし、嬉しいことだ。
「よしっ」
花巫女が舞うと、ほのかに光を放つ花が神楽堂の中に浮かびだす。この花を護り人が使う武器に触れさせることで、神力を与えることができる。
自然の神々の力を借りる、神力の種別は五行に対応している。火は赤色、水は青色、木は緑色、金は黄色、土は茶色、と神力と花の色が対応している。古の時代では、五行の色の認識が異なっていたが、時代が下るにつれて今の識別になっていたという。出雲家は代々、火の花巫女の家系であった。
六花が舞いはじめると、ふわりと花が浮かびあがった。六花の手の動き、足運びに合わせて、花も一緒に舞っているようだった。今までで一番体が軽く、楽しく舞うことができた。しかし。
「なんということ……」
「こんなもの見たことがない」
六花の舞に応えて浮かんだ花は、真っ白な花であった。本来は、火の花巫女の証である、赤い花が現れるはずだ。白い花が浮かぶ神楽堂は異様だった。何の色も宿さない無能の巫女だと、落胆され、舞うことを禁じられた。六花への腫れ物に触れるような、戸惑うような扱いが続いた。だが、一年後に牡丹が儀式で赤い花を現してからは、一変した。
「無能なお姉様と違って、あたしは立派に火の花巫女だもの。これが正しい形なのよ! ちょっと舞が上手いからって、調子に乗るなんて馬鹿じゃないの」
「牡丹……」
「一年前のお姉様ならこれくらいできていた、この程度は簡単だろうって、お父様もお母様もあたしの舞に文句ばかり! うんざりよ。でも、あたしが『劣っている』なんて間違いだったの。当然だわ! 神様がそう思し召しなんだもの」
赤い花を現したその日、牡丹は目を見開き、興奮気味にそう捲し立てた。六花は、牡丹の気が触れたかのような、見たことがない異様な笑顔が向けられて、身震いがした。妹にこんなにも恨まれていたのかと。
通常、花巫女の家系は長女が家に残り、次女以降は嫁に出されるのだが、両親の意向により、牡丹が残り、誠二を婿に取って二人で出雲家の主となる予定となっている。『出雲家の娘』は、牡丹一人だという共通認識が刷り込まれた。
六花は、花巫女はおろか、出雲家の娘でもなくなった。
朝廷の命を受けて、人の住む都を守護するのが、『護り人』の役目。そして、その護り人が使う刀や弓矢に神力を宿す務めを持つのが『花巫女』である。
花巫女の家系の一つ、出雲家。
由緒ある家であることは、その屋敷を見れば明らかである。瓦屋根の門構えの玄関を抜ければ、廊下が続き、大きめな和室に茶の間、客間を揃え、増築された洋間も備わっていた。この広さでは、掃除をするのにも人手が必要。もちろん出雲家は多くの使用人を抱えている。
「そこの掃除が終わったら洋間を手伝ってちょうだい」
「こちらも手いっぱいです」
今日は体調不良で使用人が二人も休んでいて、手がいつも以上に足りていない。
「わたしが手伝いますから」
腰まである長い黒髪を後ろで一つに結んだ少女が、そう言ってバケツの隣に膝をつく。化粧気もなく、粗末な着物に身を包んでいるが、話す言葉や所作には品があり、使用人たちとは纏う雰囲気が異なっている。
「じゃあ、ここ全部やってください」
手伝う、と少女は言ったはずなのに、使用人頭の女性はこの部屋の掃除のすべてを押し付けた。彼女は立ち上がるとバケツを足蹴にして、少女のほうへ傾ける。バケツは水の重さでそのまま倒れ少女の膝ごと床に水を撒き散らした。
「あっ!」
「何をしているんです、奥様のお気に入りのカーペットが濡れたらどうするんですか」
「申し訳ありません……」
「きちんと掃除くらいは済ませてくださいよ」
彼女はすたすたと去っていく。少女は立ち上がって濡れてしまった着物を両手で挟んで少しでも水を切る。雑巾のように絞っては着物が皺になってしまう。もっとも、身に付けているのは安物だけれど、持っている着物の数が少ないのだ、一枚一枚を大事にしなくては。
「痛っ」
手にできたあかぎれに水がしみて、思わず声を上げた。春先になっても、まだまだ水は冷たい。あかぎれが治るまでには時間がかかりそうだ。
少女――出雲六花は、ため息をつきそうになって、ぐっと飲み込んだ。落ち込んでなどいられない。今に始まったことではないのだから。あかぎれも、使用人から見下されることも。
六花は、出雲家の長女である。だが、その肩書がもはや何の意味も持たないことは六花自身が一番よくわかっていた。
「どこにいるの! お姉様!」
六花が洋間の水浸しと、通常の掃除を終えたころ、屋敷中に響き渡るのではないかと思うほどの甲高い声で呼ばれた。
急いで向かうと、一つ下の妹、牡丹が不機嫌そうな顔をして立っていた。生まれつき茶色がかった髪が、さらりと腰までのびている。口紅は真っ赤なものを付けているが、もう少し淡い色、それこそ牡丹の花の色のほうが似合うと六花は思っている。それを口にすることはできないけれど。
「遅い! 疲れるから、大きな声を出させないで」
「申し訳ありません」
呼びつけた牡丹の自室を見やると、どれを着ていくか悩んだらしく、着物がいくつも広がっている。化粧は済ませているが、髪はまだセットされていないということは……。嫌な予感がする。
「お姉様、あたしはこれから誠二さんとお出かけなの。髪をウェーブにしてちょうだい」
誠二、とは護り人の家系である那智《なち》家の次男であり、牡丹の婚約者である。正確には婚約者候補、らしいがよく二人で出かけているし、出雲家にも頻繁にやってくる。
牡丹は最近、髪をウェーブさせるスタイルを気に入っている。そのためには、電気ゴテを使わなくてはならない。
「急いで、お姉様。遅れたらどうするの」
「はい。すぐに」
電気ゴテは熱したコテを使うため、使用人は皆一様に怖がっている。もしくは六花に押し付けるために怖がるふりをしていた。実際、少し手や腕に触れただけで火傷をしてしまうし、当てる時間が長すぎると髪が焦げてしまうので、扱いが非常に難しい。もちろん、少しでも髪を焦がそうものなら、牡丹が烈火のごとく怒るので、失敗は許されない。
「――熱ッ!」
六花のコテを持っていない手の甲に熱々のコテが触れてしまい、思わず声を上げた。牡丹が急に動いたために、手元が狂ったのだ。意地の悪い笑顔を浮かべて牡丹が振り返る。
「お姉様、ちゃんとしてほしいわ。これくらいのこともできないの?」
「も、申し訳ありません」
咄嗟に腕を引いたから、手の甲の火傷はそれほどひどくない。六花は気づかれないようにそっと息をついた。
牡丹は、この精神を削られる用事を頻繁に言いつけてきて、六花の怯える顔を見てにやりと笑う。コテがある状況で、牡丹を逆上させると何が起こるかわからない。六花は慎重に、かつ素早く髪をセットし終えた。
「うん、まあまあね。次は髪飾りを取ってきて」
「わかりました」
「その次は、バッグと靴を。あ、着物も着せてちょうだい」
「はい」
牡丹は、六花に着飾る用意をさせることで優越感に浸っている。六花もそれは分かっている。わかっているが従う以外に道はないし、もう何も感じなくなっていた。すべての用意を終えて、六花は息をついた。
「綺麗だわ、牡丹」
それはほっとして思わず零れた独り言だった。綺麗に支度ができたので誠二もきっと喜ぶだろうと、そう思っただけの小さな小さな独り言。
だが、牡丹の耳にも聞こえてしまったらしく、表情がじわりと影ができる。
「花巫女様、でしょう? ねえ、言葉遣いもちゃんとできないわけ? 『無能な』お姉様?」
「申し訳ありません、花巫女様」
六花は頭を下げたまま、そう言い直した。牡丹をはじめ、使用人に対しても敬語で接するようにと牡丹から強いられている。
「じゃあ、行ってくるわ」
牡丹はすぐに明るい表情に戻り、そのまま出発していった。彼女に連れだっていく使用人からは、残りの仕事をやっておいて、と掃除や片付けを押し付けられた。
無能。それは六花への嫌がらせの言葉ではない。ただの事実だ。
花巫女の家系に生まれた女子は、十五歳になると儀式を行う決まりになっている。巫女装束に身を包み、神楽堂で舞を舞う。
六花も三年前に、儀式を行った。
「六花、緊張しなくていいのよ」
「お姉様は舞がとてもお上手ですもの。大丈夫です」
母と妹にそう励まされて、六花は神楽堂に上がった。父は安心させるように、しっかりと一つ頷いてくれる。六花はぎゅっと扇を握りしめた。やはり緊張はしているけれど、幼いことからずっと舞をやってきた。大好きな舞で、人々を守る務めを果たすことができるのは、誇らしいし、嬉しいことだ。
「よしっ」
花巫女が舞うと、ほのかに光を放つ花が神楽堂の中に浮かびだす。この花を護り人が使う武器に触れさせることで、神力を与えることができる。
自然の神々の力を借りる、神力の種別は五行に対応している。火は赤色、水は青色、木は緑色、金は黄色、土は茶色、と神力と花の色が対応している。古の時代では、五行の色の認識が異なっていたが、時代が下るにつれて今の識別になっていたという。出雲家は代々、火の花巫女の家系であった。
六花が舞いはじめると、ふわりと花が浮かびあがった。六花の手の動き、足運びに合わせて、花も一緒に舞っているようだった。今までで一番体が軽く、楽しく舞うことができた。しかし。
「なんということ……」
「こんなもの見たことがない」
六花の舞に応えて浮かんだ花は、真っ白な花であった。本来は、火の花巫女の証である、赤い花が現れるはずだ。白い花が浮かぶ神楽堂は異様だった。何の色も宿さない無能の巫女だと、落胆され、舞うことを禁じられた。六花への腫れ物に触れるような、戸惑うような扱いが続いた。だが、一年後に牡丹が儀式で赤い花を現してからは、一変した。
「無能なお姉様と違って、あたしは立派に火の花巫女だもの。これが正しい形なのよ! ちょっと舞が上手いからって、調子に乗るなんて馬鹿じゃないの」
「牡丹……」
「一年前のお姉様ならこれくらいできていた、この程度は簡単だろうって、お父様もお母様もあたしの舞に文句ばかり! うんざりよ。でも、あたしが『劣っている』なんて間違いだったの。当然だわ! 神様がそう思し召しなんだもの」
赤い花を現したその日、牡丹は目を見開き、興奮気味にそう捲し立てた。六花は、牡丹の気が触れたかのような、見たことがない異様な笑顔が向けられて、身震いがした。妹にこんなにも恨まれていたのかと。
通常、花巫女の家系は長女が家に残り、次女以降は嫁に出されるのだが、両親の意向により、牡丹が残り、誠二を婿に取って二人で出雲家の主となる予定となっている。『出雲家の娘』は、牡丹一人だという共通認識が刷り込まれた。
六花は、花巫女はおろか、出雲家の娘でもなくなった。
