白狐に選ばれた下女、皇后となりて

 それは白狐が瑶光の膝元で眠るようになってから三日後のこと。
 動物舎の朝はいつも通り静かだった。瑶光は餌の準備を終え、白狐の毛並みを整えていた。金色の瞳が細まり、白狐は気持ちよさそうに喉を鳴らしている。

「……あんた、呼ばれたよ」

 干し草の山から老女が顔を出した。その声はいつもより少し低かった。

「呼ばれた……?」
「夜伽さ。陛下がお前をお召しになったのさ」
「へ、陛下が!?」

 瑶光は手を止めた。白狐が目を開け、彼女を見上げる。その瞳はどこか満足げだった。

「あんたが白狐に選ばれた時から分かっていたことさ。昔から言うだろ? 神獣は王の女を見抜くってな」
「そんな……」
「断れば不敬罪で打ち首さ。覚悟を決めな」

 瑶光は何も言わず、白狐の額にそっと手を添えた。白狐の温かい熱が、手にじんわりと伝わってきた。



 日が暮れた頃、瑶光は皇帝のもとへと向かっていた。なぜか侍女は途中まで案内するとどこかへ行ってしまい、瑶光は一人で歩いていた。
 絹の衣を纏い、髪を整えられ、香を焚かれた身体は、どこか自分のものではないように感じられる。

(本当に、私が呼ばれたの……?)

 その戸惑いを抱えたまま、回廊を進んでいた時だった。
 曲がり角の陰から数人の侍女が現れたのだ。蔡貴妃の侍女たちだ。

「まあ、ずいぶんと着飾っているわね。動物の世話係のくせに」

 瑶光は足を止めた。侍女たちは笑いながら近づいてくる。

「夜伽に呼ばれたんですって? すごいじゃない。蔡様から贈り物を預かっているのよ」
「な、なにを? ……っ!」

 直後、瑶光の首元に鋭い痛みが走った。
 背後にいたもう一人の侍女に何かで首を切られたのだ。

「……獣の世話って、生傷が絶えなくて大変ね。ふふっ、そうでしょう?」

 侍女たちはそう言い残して去っていった。

 瑶光は壁に手をつき息を整える。首元がじんわりと熱い。かすり傷のようだが、場所のせいで血がだらだらと流れ落ちる。血は穢れだ。夜伽に血をつけて向かうなど、不敬だ。それでも引き返す時間はない。

(仕組まれていたのね。……仕方ない)

 瑶光は装飾用につけられていた絲帯(したい)を外し、首に巻き付けた。

(陛下の不敬を買うかもしれないわね。そうしたらあの人の思惑通りってわけか)

 蔡貴妃の顔が思い浮かんで消えていく。
 彼女の思い通りになるのは癪だが、これ以上どうすることも出来なかった。



 星たちの輝きが増した頃、瑶光は皇帝の居室へと通された。
 香が焚かれ、静かな音楽が流れている。皇帝は、帳の奥で書を読んでいた。

「柳瑶光か」

 その声は、思ったよりも柔らかかった。

「はい……陛下」

 瑶光は頭を下げた。首元の痛みがじんじんと響く。

「その傷は?」
「……申し訳ありません。ですが、ご心配には及びません」

 薄暗い部屋のなかで皇帝はすぐに怪我に気がついたようだ。
 瑶光は殺される覚悟でひれ伏した。

 皇帝は黙って立ち上がり、瑶光の前に歩み寄った。

「顔をあげろ」

 その瞳は、白狐と同じようにまっすぐだった。

「痛みはないか?」
「だ、大丈夫です」
「こちらへ。薬がある」
「でも……」

 皇帝は瑶光の傷に薬を塗り、包帯を巻いた。そして、帳の奥へと瑶光を導いた。
 信じられない出来事に瑶光の頭は破裂しそうだった。

「へ、陛下……?」
「玄明(げんめい)と呼べ」
「げ、玄明、様」

 おずおずと皇帝を見上げると、彼は柔らかく微笑んだ。

「白狐がお前を選んだと知り、この数日お前を見ていた。……選ばれた理由が分かる気がするな」
「それは、どういう……」

 その言葉の続きは、紡がれることはなかった。

 皇帝はともに過ごす夜は、瑶光にとって何もかもが初めてだった。



◇◇◇

 翌日、瑶光は自分の身体の変化に気がついた。
 空気の動き、気配の変化、遠くの音――すべてが、肌に触れるように伝わってくる。

「……これは?」


 動物舎に戻った瑶光を、老女が待っていた。
 白狐も嬉しそうに瑶光の足元に寄り添ってきた。

「あんた……もう『読める』ようになったんだね。動物も人も、はっきり『気』の流れが分かるだろう?」
「え? あっ……!」

 老女の言葉に瑶光はハッとした。
 その通りだったのだ。目を凝らすと、老女の周囲にも、白狐の周囲にも、淡い色の靄が見える。

 瑶光は、白狐の瞳を見つめた。白狐は静かに瑶光を見つめ返していた。