それから白狐の体調はあっという間に回復していった。
 そしてあの一件以降、白狐は瑶光の手から餌を食べるようになったのだ。
 今では檻の外に出されても、瑶光の足元から離れようとしない。

(なんだか高貴な感じだったけど、可愛らしくなってきちゃった)



 その日、庭園には柔らかな陽が差していた。
 瑶光は白狐を連れて、動物舎の裏手にある小さな芝地へと出ていた。白狐が檻の中ばかりでは気が滅入るだろうと、老女が許可してくれたのだ。

 瑶光は布の上に腰を下ろし、餌を手のひらに乗せて差し出した。
 白狐は鼻をひくつかせ、彼女の手から餌を食べる。その姿は、まるで長年連れ添った相棒のようだった。

「……よく食べるようになったわね」

 瑶光は微笑みながら、白狐の毛並みをそっと撫でた。白狐は目を細め、彼女の膝元に身を丸める。

 ――その様子を、遠くから見つめる視線があった。



◇◇◇

「……あれは?」

 庭園の回廊から、皇帝・玄明が足を止めていた。侍従が慌てて頭を下げる。

「陛下、あれは動物舎の者かと。白狐を外に出しているようですが……」

 玄明は目を細めた。白狐は他国から献上された神獣。
 誰にも懐かず、檻の中で暴れたこともある。正直扱いに困っていたのだ。
 それが今や、ひとりの娘の膝元で穏やかに眠っている。

「人と戯れるなど……まるで神話の再来だな」

 皇帝は興味深そうに呟いた。

「神獣が王の女に懐く――そんな話を、昔聞いたことがある」
「誰も懐かなかった神獣が、確かにあの下女にだけ懐いております。あの者は……確か、名は柳瑶光。蔡貴妃の元侍女です。少し前に下女として動物舎へ移ったそうです」

 従者の言葉に皇帝は眉をひそめる。

「そうか……だが、あの娘は蔡貴妃の色とは違うようだ」
「確かに雰囲気が違いますね。蔡貴妃の侍女は皆、妃になれるほどの者たちばかりですし」
「……」

 蔡貴妃は侍女の待遇改善や教育にも熱心。
 それは宮中の人間なら皆が知っている。

 しかし、皇帝の目は誤魔化せない。彼はそれが真実でないことを知っていた。瑶光の服装や肉付きを見て、皇帝は自分の考えを強くした。

(蔡貴妃に皇后の器はない。身分や後ろ盾のおかげで、今の立場にいるに過ぎないというのに……)

 皇帝は蔡貴妃の性質に気がついていたのだ。だが後ろ盾が強すぎて、今はどうすることも出来ない。
 視線の先で白狐が瑶光に寄り添う姿を見つめながら、皇帝は小さく息を吐いた。

「あの者、調べさせましょうか?」
「そうだな。素性を調べておけ。……あの白狐が選んだのなら、何かあるのかもしれん」

 愛おしそうに白狐を眺める瑶光。
 皇帝はしばらくそれを眺めていた。



◇◇◇

 その日の午後、蔡貴妃の居室には、苛立ちが満ちていた。

「白狐が……あの子に懐いたですって?」

 蔡貴妃は扇を握りしめたまま侍女の報告に目を細めた。

「は、はい。庭園で、柳瑶光が白狐に餌を与えていたところを、陛下がご覧になったそうで……」
「陛下が?」
「はい。しばらく立ち止まって見ておられたとか」

 蔡貴妃は扇を閉じると、ゆっくりと立ち上がった。
 その動きは優雅だったが、瞳の奥には冷たい光が宿っていた。侍女たちに緊張が走る。

「ふふっ、面白いわね。あの子、泥まみれのドブネズミだったはずなのに。白狐に懐かれて、陛下の目に留まるなんて。……高貴な者にしか懐かない白狐にかみ殺されると思っていたのに」

 侍女たちは黙って頭を下げる。誰も蔡貴妃の機嫌を損ねたくはないのだ。

「でも忘れないで。あんたは私の侍女だったのよ。私が連れてきたの。つまり、あんたが何を得ようと、私の影は消えない」

 蔡貴妃は鏡の前に立ち、自らの姿を見つめた。
 白く美しい肌、艶やかな髪、華麗な衣。そこには美しい自分が映っている。それでも、胸の奥に渦巻く苛立ちは、隠しきれない。

(陛下が、あの子に興味を持つなんて……)

 その思いは静かに、しかし確実に、彼女の心を蝕んでいった。

「様子を調べなければいけません。私の愛しい元侍女が、皇帝の寵愛を受けることになるなら……贈り物をしなくては、ね」