白狐に選ばれた下女、皇后となりて

 動物舎は、後宮の奥まった一角にひっそりと存在していた。華やかな庭園や絢爛な回廊からは遠く離れ、湿った空気と獣の匂いが漂う場所。
 柳瑶光は、古びた木戸を押し開けて中へ足を踏み入れた。

 中は薄暗く、干し草の山が積まれ、檻が並んでいる。うっすらと獣のにおいがする――後宮の誰もが避けたがる場所だった。だが、瑶光は眉ひとつ動かさず、黙って奥へと進んだ。

「お前が新しく来た子かい」

 声をかけてきたのは、腰の曲がった年老いた下女だった。
 灰色の衣を纏い、手には餌桶を抱えている。その目は濁っていたが、瑶光を見つめる視線には、どこか鋭さがあった。

「蔡貴妃の命で、今日からここで働くことになりました」

 瑶光は静かに頭を下げた。

「ふん、あの方の命令なら仕方ないね。まあ、ここは静かだよ。誰も来やしない」

 下女はそう言って餌桶を瑶光に手渡した。

「奥の檻だ。白狐の世話をしておくれ。誰も触れられないから、餌だけでも入れておくんだよ」
「え?」

 白狐――その名を聞いた瞬間、瑶光は足を止めた。
 他国から献上された神獣。真っ白な毛並みと金色の瞳を持ち、王の象徴として扱われる存在。
 後宮でも話題になったが、誰も世話ができず檻の奥に隔離されていると聞いていた。

 瑶光は餌桶を抱えたまま、奥の檻へと向かった。その檻は他のものよりも一回り大きく、鉄格子には細かい彫刻が施されていた。中は薄暗く、干し草が敷かれているだけで、獣の姿は見えなかった。

「白狐が懐くのは、王の女だけさ」

背後から、年老いた下女がぽつりと呟いた。

「だから誰も世話が出来ないんだ。……お前はどうかねえ」

 瑶光は振り返らず、檻の中をじっと見つめた。

(王の女……? 何を言っているの?)

 自分は蔡貴妃の玩具として後宮に連れてこられ、今では泥まみれの下女。王の女など、遠い世界の話だ。
 よく分からぬ老女の戯言だろう。

 瑶光はとにかく言われた仕事をするために白狐を探した。
 すると檻の奥で、何かが動いた。干し草の陰から白い影がゆっくりと姿を現す。真っ白な毛並み。金色の瞳。
 その瞳が、まっすぐに瑶光を見つめていた。

 柳瑶光は息を呑み、足を止めた。
 白狐の視線は獣のものとは思えなかったのだ。
 冷たくもなく、鋭くもなく――ただ、静かに、確かに、彼女を見ていた。

「……餌を、置いておきます。食べられますか?」

 瑶光はそっと餌桶を檻の前に置いた。手を伸ばせば届く距離。
 だが、檻の中に手を入れることはしなかった。白狐には誰も触れられないから。
 襲われた者がいるとか、世話係が逃げ出したという噂も聞いたことがある。

 だが瑶光は白狐を見ても恐れを感じなかった。

(白くて美しい……。それになんだか懐かしいような? 古い友人のような感じがする)

 金色の瞳に見つめられていると、心の奥に眠っていた何かが、静かに揺れ始める。
 先ほどの年老いた下女の『王の女だけさ』という言葉が耳の奥で反響する。

『だから誰も世話が出来ないんだ。……お前はどうかねえ』

 王の女など、ただの下女となった瑶光にとっては夢でも幻でもあり得ないことだ。それでも、白狐の瞳は彼女を見つめ続けていた。

「……わたしはただの下女ですよ」

 瑶光は思わず呟いた。
 その言葉は、干し草の香りに紛れて消えていった。

「白狐さん、私が世話をしても構わないでしょうか?」

 瑶光の言葉に反応するように、白狐はゆっくりと立ち上がった。細くしなやかな体を伸ばし、檻の中を歩く。
 そして鉄格子のすぐ前まで来ると、瑶光の目の前で静かに座った。

 その距離は、わずか一尺。金色の瞳が、まっすぐに彼女を見つめている。
 まるで、何かを確かめるように。
 まるで、何かを選んでいるように。

 瑶光は動けなかった。恐れではない。ただ、その視線に何かを預けられたような気がした。


 小屋のなかにすきま風が吹き抜ける。その風を受けて、白狐の毛並みが光を受けてきらめいた。
 その瞬間、瑶光の胸の奥に、小さな灯がともった気がした。

 それは希望でも夢でもない。ただ――予感だった。

 自分の運命が、今、静かに動き始めたのかもしれない。
 そう思ったとき、白狐が一度だけ、尾を揺らした。――まるで肯定しているように。