白狐に選ばれた下女、皇后となりて

 ある夜、冷宮に薬湯が届けられた。
 いつもとは違う侍女が器を持ち、蔡貴妃の前に差し出す。

「食事の時間なのに遅いじゃない! 私ごときには食事も出せないってこと!?」
「……。陛下より、薬湯を賜りました」

 侍女が薬湯の器を差し出す。食事はなく、それだけだ。
 蔡貴妃は器を見つめた。どこか知っているような、変わったような香りが漂う。

「……陛下が、私に薬を?」
「はい」

 侍女は短く返事をした。無表情のまま蔡貴妃を見つめている。

「陛下は私を忘れていなかったのね……」

 蔡貴妃は器を手に取り、しばらく見つめていた。そして、ゆっくりと口元に運んだ。
 だが――。

 蔡貴妃は嫌な予感がして口から器を離した。
 何かが違う。これは薬ではない。

「これは……本当に薬湯なの?」

 彼女は器を置こうとした。だが、侍女が一歩前に出た。

「貴妃様。陛下のご命令です。すべて飲み干すようにと。飲まぬようなら、無理矢理飲んでいただきます」

 その言葉に、蔡貴妃の顔が引きつった。

「どうして……」

 侍女は何も答えなかった。ただ器を指し示したまま動かない。

 蔡貴妃は、再び器を口元に運んだ。手が震えて中身がこぼれる。
 その動きは、なにか不穏な儀式のようだった。

「嫌……どうして私がこんな目に……」

 うわ言のように繰り返しながら、彼女は薬湯を飲み干した。器が空になると、手から滑り落ち、床に転がった。

 蔡貴妃はよろよろと寝台に身を沈める。その顔は蒼白だったが、瞳だけは最後までどこかを睨んでいた。

「白狐なんて……神獣なんて……くだらない……。私は、私は、一人で立っていたのに……」

 その言葉が、蔡貴妃の最後だった。



◇◇◇

 蔡貴妃の死は、翌朝、静かに報告された。『冷宮にて、病による急逝』と記された文が後宮の妃たちへ届けられた。

 妃たちは固く口を閉ざした。誰も声を上げなかった。
 だが誰もが知っていた。これは皇帝の裁きだ、と――。


 瑶光は、その報せを知っても何も言わなかった。ただ白狐の背を撫でながら、静かに空を見上げていた。

「……終わったのね」

 白狐は、尾を揺らして瑶光の頬を舐めた。まるで幕が下りたことを告げているようだった。


 後宮の重く淀んだ空気は、徐々に澄んでいった。
 だが蔡貴妃の名は、長く囁かれ続けた。『愚かな妃の末路』。それは、後宮の者たちにとって忘れられない教訓となったのだった。