少し時を戻して、瑶光が皇后の座について間もない頃。
皇帝は蔡貴妃の偽装出産騒動に関わった者たちの処罰について、正式に決定していた。
太医は資格剥奪となり流刑。蔡貴妃は――。
◇◇◇
玉座の前に、静寂が満ちている。皇帝は冷ややかな視線を蔡貴妃に向けた。
彼女は正装のまま、膝をついていた。
その顔に生気はなく、死人のようだった。
「蔡貴妃。妃としての位を保ちながら、偽りの懐妊を企て、皇后を害そうとした罪――重い」
皇帝の声は低く、冷静だった。だがその言葉は、刃のように鋭く蔡貴妃の胸を貫いた。
「皇后……? この国に皇后はおりません」
蔡貴妃がポツリと零した言葉に、皇帝は目を吊り上げる。
「言い訳は不要! 本来ならば、命をもって償わせるところ。だが蔡家の面目を考慮し、冷宮への幽閉を命ずる」
「ゆうへい? 私が……?」
「お前は一度、白狐を見に行ったことがあったな? 激しく威嚇され、檻を壊す勢いだったとか……。だから虐げていた瑶光を送り込んだのだろう。……全て自らが蒔いた種だ」
その言葉に、蔡貴妃の顔がひどく歪んだ。死人のようだった瞳に、燃え盛る怒りの炎が宿った。
侍従が近づき、彼女の腕を取る。
「冷宮へ」
蔡貴妃は無理やり歩かされ、ふらふらと身体が揺れていた。それでも振り返りざまに皇帝を睨みつけた。
その瞳には、恐ろしいほどの憎しみが宿っていた。
(私が冷宮に? あの子が皇后で、私が……?)
彼女の中で何かが崩れ、何かが芽生えた。それは、静かで、しかし確実な憎しみだった。
(このままで終わるものか! 瑶光……必ず、引きずり下ろしてやるわ)
蔡貴妃は、絹の裾を引きずりながら、冷宮へと連れて行かれた。その背に、かつての栄華はもうなかった。
残っていたのは、呪いのような執念だけだった。
それから数ヵ月。
冷宮の空気は、常に湿っていた。
陽の光は届かず、風も通らない。かつて豪華絢爛なものに囲まれていた蔡貴妃は、今や粗末な寝台と冷たい壁に囲まれていた。
「瑶光……あの子が……皇后に……許せない」
蔡貴妃は、もう何ヶ月もこの冷宮で同じ言葉を呟いていた。その声は、かすれていて、しかし怨念だけは濃く残っていた。
ただ一人彼女のもとに残された侍女は、彼女の命令に従うふりをしながら、目を合わせようとはしなかった。
冷宮に送られてからというもの、蔡貴妃は日に日に気が荒れ、言葉も鋭くなっていたからだ。
「そうだわ! 毒よ。あの子に飲ませるの。白狐の邪魔が入らないように…!」
ある夜、蔡貴妃は侍女の腕を掴み、目を見開いて言った。
「あんたは私に恩があるはず。誰のおかげで良い生活が出来たと思っているの!? いいこと、皇后の夜食に毒を混ぜなさい。皇帝と過ごす時には白狐もいないはず。やらなければ、私の親族があんたの家を潰すわよ!」
「……かしこまりました」
侍女は震えながら頭を下げた。
だが、その言葉は、冷宮の壁の向こうに届いていた。蔡貴妃の居所には、皇帝の密命を受けた者が常に目を光らせていた。
◇◇◇
蔡貴妃の言動は、すぐに皇帝のもとへ届けられた。
彼は静かに耳を傾け、何も言わずに帳を閉じた。
「再び毒を企てたか」
侍従は頭を下げた。
「はい。瑶光様への膳に混ぜるよう、侍女に命じたとのことです」
「……もはや赦す理由はない」
彼は筆を取り、短く命を記した。それは、表には出されない暗号で書かれた命令だった。
静かに、確実に、終わらせるための――。
「自らの手で終わらせる。……それを最後の礼とする」
侍従は目を伏せた。
「かしこまりました」
皇帝は蔡貴妃の偽装出産騒動に関わった者たちの処罰について、正式に決定していた。
太医は資格剥奪となり流刑。蔡貴妃は――。
◇◇◇
玉座の前に、静寂が満ちている。皇帝は冷ややかな視線を蔡貴妃に向けた。
彼女は正装のまま、膝をついていた。
その顔に生気はなく、死人のようだった。
「蔡貴妃。妃としての位を保ちながら、偽りの懐妊を企て、皇后を害そうとした罪――重い」
皇帝の声は低く、冷静だった。だがその言葉は、刃のように鋭く蔡貴妃の胸を貫いた。
「皇后……? この国に皇后はおりません」
蔡貴妃がポツリと零した言葉に、皇帝は目を吊り上げる。
「言い訳は不要! 本来ならば、命をもって償わせるところ。だが蔡家の面目を考慮し、冷宮への幽閉を命ずる」
「ゆうへい? 私が……?」
「お前は一度、白狐を見に行ったことがあったな? 激しく威嚇され、檻を壊す勢いだったとか……。だから虐げていた瑶光を送り込んだのだろう。……全て自らが蒔いた種だ」
その言葉に、蔡貴妃の顔がひどく歪んだ。死人のようだった瞳に、燃え盛る怒りの炎が宿った。
侍従が近づき、彼女の腕を取る。
「冷宮へ」
蔡貴妃は無理やり歩かされ、ふらふらと身体が揺れていた。それでも振り返りざまに皇帝を睨みつけた。
その瞳には、恐ろしいほどの憎しみが宿っていた。
(私が冷宮に? あの子が皇后で、私が……?)
彼女の中で何かが崩れ、何かが芽生えた。それは、静かで、しかし確実な憎しみだった。
(このままで終わるものか! 瑶光……必ず、引きずり下ろしてやるわ)
蔡貴妃は、絹の裾を引きずりながら、冷宮へと連れて行かれた。その背に、かつての栄華はもうなかった。
残っていたのは、呪いのような執念だけだった。
それから数ヵ月。
冷宮の空気は、常に湿っていた。
陽の光は届かず、風も通らない。かつて豪華絢爛なものに囲まれていた蔡貴妃は、今や粗末な寝台と冷たい壁に囲まれていた。
「瑶光……あの子が……皇后に……許せない」
蔡貴妃は、もう何ヶ月もこの冷宮で同じ言葉を呟いていた。その声は、かすれていて、しかし怨念だけは濃く残っていた。
ただ一人彼女のもとに残された侍女は、彼女の命令に従うふりをしながら、目を合わせようとはしなかった。
冷宮に送られてからというもの、蔡貴妃は日に日に気が荒れ、言葉も鋭くなっていたからだ。
「そうだわ! 毒よ。あの子に飲ませるの。白狐の邪魔が入らないように…!」
ある夜、蔡貴妃は侍女の腕を掴み、目を見開いて言った。
「あんたは私に恩があるはず。誰のおかげで良い生活が出来たと思っているの!? いいこと、皇后の夜食に毒を混ぜなさい。皇帝と過ごす時には白狐もいないはず。やらなければ、私の親族があんたの家を潰すわよ!」
「……かしこまりました」
侍女は震えながら頭を下げた。
だが、その言葉は、冷宮の壁の向こうに届いていた。蔡貴妃の居所には、皇帝の密命を受けた者が常に目を光らせていた。
◇◇◇
蔡貴妃の言動は、すぐに皇帝のもとへ届けられた。
彼は静かに耳を傾け、何も言わずに帳を閉じた。
「再び毒を企てたか」
侍従は頭を下げた。
「はい。瑶光様への膳に混ぜるよう、侍女に命じたとのことです」
「……もはや赦す理由はない」
彼は筆を取り、短く命を記した。それは、表には出されない暗号で書かれた命令だった。
静かに、確実に、終わらせるための――。
「自らの手で終わらせる。……それを最後の礼とする」
侍従は目を伏せた。
「かしこまりました」



