季節がめぐり、空の色が少しずつ変わり始めた頃。
瑶光は、朝の政務を終えて庭園の回廊を歩いていた。白狐は足元に寄り添い、静かに彼女の歩調に合わせている。
吹いてきた風を全身で感じるように立ち止まると、ふと、いつもとは違う心地がした。
「風が……」
瑶光が呟くと、白狐が耳をぴくりと動かした。その瞳は、北の方角をじっと見つめている。
瑶光は立ち止まり、目を閉じた。気の流れが何かを訴えている。
それは生き物の気ではない。もっと広く、もっと深い――土地の気、国の気。
(北の風が沈んでいる。土の気も滞っているわ)
彼女は目を開け、白狐に視線を落とした。白狐は動かず、ただ静かに風の向こうを見ていた。
その日の夕刻、瑶光は皇帝の居所を訪れた。
忙しい政務の合間に設けられた短い対話の時間。それは、二人にとって日々の中で最も静かで、最も濃密なひとときだった。
「玄明様、少し気になることがございます」
瑶光は、帳の奥で茶を注ぎながら言った。
「北方の地に、気の乱れを感じます。風が重く、土が沈んでいる。……飢饉の兆しかもしれません」
皇帝は茶を受け取り、しばらく黙っていた。彼は、瑶光の言葉をすぐに否定することはなかった。
それは、彼女の気を読む力が、これまで幾度も真実を導いてきたからだ。
「そのような報告はまだない。だが、お前の言葉は信じるに足る」
皇帝は地図を広げ、北方の穀倉地帯を指でなぞった。
「このあたりか」
「はい。風の流れが、そこから滞っているように感じます。空気が重く、嫌なにおいをのせています」
玄明は地図を見つめながら、静かに頷いた。
「昨年の備蓄もあるが、長引けば底を尽きるだろう。いつ頃天候が変わるか分かるか?」
「急に天候が変わることはないでしょう。じわじわと雨量が減り、日照りに変わっていくはず」
「そうか……だが出来る限りの手は打たねば。甘薯の苗を急ぎ配るとしよう」
「私も視察に向かいます。近くで気を読めば、もう少し正確に読み取れるかもしれません」
皇帝は瑶光の手にそっと触れた。
「瑶光は本当に頼もしいな」
その言葉は、瑶光の胸にじんわりと染み込んだ。皇帝としての褒美の言葉ではなく、一人の人間としての信頼。それは何よりも強い絆だった。
翌朝、皇帝は侍従に命じた。
「備蓄を見直せ。北方への流通を優先し、穀物の保管状況を調査せよ。報告は三日以内に」
侍従は頭を下げ、すぐに動いた。瑶光はその様子を見守りながら、白狐の背を撫でた。
「私の言葉を信じて動いてくださり、ありがとうございます」
「お前の目は、国を見ている。私には見えないものを、お前は感じ取る。だからこそ、共に治める意味がある」
瑶光は静かに頷いた。
「私が陛下の目となりましょう。風の流れを、土の声を、民の気配を――すべてを伝えます」
「それができるのは、お前だけだ」
翌日、瑶光は皇帝の侍従とともに視察へと赴いた。
宮中に戻ってこれたのは、七日後のことだった。
瑶光が読んだ通り、北方の一部地域で雨が減少し始め、収穫量の減少が懸念されていた。
「早期の備蓄調整により、今のところ流通は安定しております」
「北方の地に甘薯の苗を届けよ。空いている土地に植えさせるように」
「すぐに用意いたします」
侍従が出ていくと、皇帝は大臣達に目を向けた。
「此度の件、皇后からの進言があったのだ。彼女が気を読まなければ、対策が遅れ、被害は拡大していたであろう」
大臣たちは感嘆の声を上げた。
皇后である瑶光の力を幾度となく見てきたが、遠くの地のことまで読めるというのは、驚きだったのだろう。
瑶光は何も言わなかった。ただ、白狐の背を撫でながら、空を見上げていた。
風はまだ重かった。
だが、心なしか流れは少しずつ整い始めていた。
(陛下と一緒なら大丈夫。この国も、私も、簡単に崩されたりしない。……そういえば、あの人はどうなったかしら? 処遇については陛下にお任せしてしまったのだけれど)
瑶光はふと、蔡貴妃のことを思い出した。だが政務に追われ、また忘れ去ってしまった。
瑶光は、朝の政務を終えて庭園の回廊を歩いていた。白狐は足元に寄り添い、静かに彼女の歩調に合わせている。
吹いてきた風を全身で感じるように立ち止まると、ふと、いつもとは違う心地がした。
「風が……」
瑶光が呟くと、白狐が耳をぴくりと動かした。その瞳は、北の方角をじっと見つめている。
瑶光は立ち止まり、目を閉じた。気の流れが何かを訴えている。
それは生き物の気ではない。もっと広く、もっと深い――土地の気、国の気。
(北の風が沈んでいる。土の気も滞っているわ)
彼女は目を開け、白狐に視線を落とした。白狐は動かず、ただ静かに風の向こうを見ていた。
その日の夕刻、瑶光は皇帝の居所を訪れた。
忙しい政務の合間に設けられた短い対話の時間。それは、二人にとって日々の中で最も静かで、最も濃密なひとときだった。
「玄明様、少し気になることがございます」
瑶光は、帳の奥で茶を注ぎながら言った。
「北方の地に、気の乱れを感じます。風が重く、土が沈んでいる。……飢饉の兆しかもしれません」
皇帝は茶を受け取り、しばらく黙っていた。彼は、瑶光の言葉をすぐに否定することはなかった。
それは、彼女の気を読む力が、これまで幾度も真実を導いてきたからだ。
「そのような報告はまだない。だが、お前の言葉は信じるに足る」
皇帝は地図を広げ、北方の穀倉地帯を指でなぞった。
「このあたりか」
「はい。風の流れが、そこから滞っているように感じます。空気が重く、嫌なにおいをのせています」
玄明は地図を見つめながら、静かに頷いた。
「昨年の備蓄もあるが、長引けば底を尽きるだろう。いつ頃天候が変わるか分かるか?」
「急に天候が変わることはないでしょう。じわじわと雨量が減り、日照りに変わっていくはず」
「そうか……だが出来る限りの手は打たねば。甘薯の苗を急ぎ配るとしよう」
「私も視察に向かいます。近くで気を読めば、もう少し正確に読み取れるかもしれません」
皇帝は瑶光の手にそっと触れた。
「瑶光は本当に頼もしいな」
その言葉は、瑶光の胸にじんわりと染み込んだ。皇帝としての褒美の言葉ではなく、一人の人間としての信頼。それは何よりも強い絆だった。
翌朝、皇帝は侍従に命じた。
「備蓄を見直せ。北方への流通を優先し、穀物の保管状況を調査せよ。報告は三日以内に」
侍従は頭を下げ、すぐに動いた。瑶光はその様子を見守りながら、白狐の背を撫でた。
「私の言葉を信じて動いてくださり、ありがとうございます」
「お前の目は、国を見ている。私には見えないものを、お前は感じ取る。だからこそ、共に治める意味がある」
瑶光は静かに頷いた。
「私が陛下の目となりましょう。風の流れを、土の声を、民の気配を――すべてを伝えます」
「それができるのは、お前だけだ」
翌日、瑶光は皇帝の侍従とともに視察へと赴いた。
宮中に戻ってこれたのは、七日後のことだった。
瑶光が読んだ通り、北方の一部地域で雨が減少し始め、収穫量の減少が懸念されていた。
「早期の備蓄調整により、今のところ流通は安定しております」
「北方の地に甘薯の苗を届けよ。空いている土地に植えさせるように」
「すぐに用意いたします」
侍従が出ていくと、皇帝は大臣達に目を向けた。
「此度の件、皇后からの進言があったのだ。彼女が気を読まなければ、対策が遅れ、被害は拡大していたであろう」
大臣たちは感嘆の声を上げた。
皇后である瑶光の力を幾度となく見てきたが、遠くの地のことまで読めるというのは、驚きだったのだろう。
瑶光は何も言わなかった。ただ、白狐の背を撫でながら、空を見上げていた。
風はまだ重かった。
だが、心なしか流れは少しずつ整い始めていた。
(陛下と一緒なら大丈夫。この国も、私も、簡単に崩されたりしない。……そういえば、あの人はどうなったかしら? 処遇については陛下にお任せしてしまったのだけれど)
瑶光はふと、蔡貴妃のことを思い出した。だが政務に追われ、また忘れ去ってしまった。



