涼やかな風が、後宮の庭をやさしく撫でている。
 瑶光は、寝所の帳の中で静かに息を整えていた。一生続くのかという痛みに堪えながら、ひたすら呼吸に集中する。
 産声が上がったのは、夜が明ける直前。白狐が寝台の傍らに寄り添い、目を細めていた。

「男児でございます」

 侍女の声が震えていた。
 老女がそっと布を広げ、赤子を瑶光の胸元に抱かせる。
 その瞬間、瑶光の胸の奥に、何かが流れ込んだ。温かく、力強く、そして――澄んでいた。

(この子が、私の子……。あぁ、無事に生まれてきてくれて良かった)

 白狐が鼻先を赤子に寄せ、静かに尾を揺らす。
 その動きは、まるで祝福の儀式のようだった。



 出産の報せは、すぐに皇帝のもとへと届けられた。彼は書を閉じ、静かに立ち上がる。

「柳瑶光、皇子を産んだか」
「はい。母子ともに健康でございます」

 侍従が頭を下げる。
 皇帝はしばらく黙っていたが、静かに口を開いた。

「柳瑶光を皇后に昇格させよ。神獣に選ばれ、我が子を宿し、男児を産んだ。皇后にふさわしい」

 その命は、後宮に波紋を広げた。だが、誰も異を唱えることはできなかった。

『白狐に選ばれし妃が、皇后となった』というそれは、もはや神話のように語られ始めていた。



 皇后となった瑶光は、静かに政務の傍らに立つようになった。皇帝の側で、文書を読み、民の声を聞き、土地の気を感じ取る。
 出産を経て、彼女の『気』の感覚はさらに研ぎ澄まされていた。


 ある日、瑶光は庭園の回廊を歩いていた。白狐が足元に寄り添い、柔らかな風が静かに感じている。
 ふと、空気の流れが乱れた。風が止まり、草の匂いが重くなる。
 瑶光は立ち止まり、目を閉じた。

(何かが、滞っている。嫌な気配だわ)

 その夜、瑶光は皇帝に進言した。

「陛下、南の倉庫に気の淀みを感じます。何か問題が発生しているのかもしれません……」

 皇帝は眉をひそめた。

「報告はないが、念のため調べさせよう」


 翌日、皇帝の命で調査をしていた侍従が報告に戻ってきた。

「南の倉庫にて、穀物の一部が湿気で傷んでおりました。例年より湿気を含む風が吹いていたことが要因だろうとのこと。幸い傷んでいたのは少数で、現在、選り分け完了したそうです」
「ご苦労。早急に管理体制の見直しも進めよ」

 玄明は関心したように瑶光を見つめた。

「お前は、風の中の気を読んだのか。以前よりも力が増しているな」

 瑶光は静かに頷いた。

「どうやらそのようです。……ですが、早くに問題が見つかって安心しました。小さなことですが、放置すれば民に届く食が減りますものね」

 皇帝はしばらく黙っていた。だがほんの少しだけ表情が和らいでいた。

「お前の力はもはや偶然ではない。白狐とともに我が国を護るために尽くしてくれるか?」

 瑶光は頭を下げた。

「もとよりそのつもりです。私はこの地の声をもっと聞きたいのです。命を育てるように、この国もお護りいたしましょう。陛下とともに」

 白狐が、小さく伸びをする。ここが気に入っているような仕草だった。



 ある夜、瑶光は赤子の寝所に立ち寄った。
 白狐が枕元に身を丸めている。その姿は、まるで守護神のようだった。

「ありがとうございます。この子のこと、守ってくれているのですね」

 瑶光はそっと囁いた。
 白狐は目を細め、尾を揺らした。

 瑶光は赤子の額に手を添えた。その中に宿る気は、まだ小さく、柔らかい。瑶光はしばらく赤子に触れたままでいた。