「あらあら、こんなところにドブネズミがいるわ。私は髪結いの支度を頼んだはずなのに、どうして這いつくばってるのかしら? そんな姿、『私の侍女』には似合わないわ」
陽の光を受けて輝く衣の裾。金糸で刺繍された牡丹の模様。蔡(さい)貴妃が、侍女たちを従えて立っていた。唇には、慈悲にも似た微笑みが浮かんでいる。
『ドブネズミ』と指差された柳瑶光(りゅう ようこう)は立ち上がってサッと頭を下げた。
(髪結いの支度……? あぁ、また始まったのね)
瑶光は蔡貴妃に仕える侍女の一人だ。しかし、他の侍女とは違う。蔡貴妃のご機嫌を保つために連れてこられた苛立ちの捌け口――つまりは玩具なのだ。
瑶光は諦めにも似た気持ちで「申し訳ありません」とさらに深く頭を下げた。
いつもなら、ここで折檻をされて解放されるのだが、今日は様子が違っていた。
蔡貴妃は絹の衣のように柔らかな声のまま、「もういいのよ」と呟いた。
「言われた仕事もロクに出来ないんだもの。私は失望しました。だからね、あなたには別のお役目を考えてきたの。ふふふっ、あなたは今日から私の侍女でなく、下女に降格よ。それもね、動物舎担当なんですって。家畜の相手ってこと」
楽しそうに微笑む蔡貴妃に同調するように、周囲の侍女たちが口元に笑みを浮かべている。
彼女たちはいつもそうだ。けれど瑶光は彼女たちのことを酷いとも思わなかった。蔡貴妃が瑶光を虐げるのは日常茶飯事。同調しなければ、次の標的は自分かもしれないのだから。
瑶光は頭を下げたまま、自分の指先だけを見つめていた。指先は赤く腫れ、爪の間には土が詰まっている。
「なんとか言ったらどうなの? ショックで声もでないのかしら?」
「……貴妃のお役に立てず申し訳ありません。新しい職を見つけてくださったご慈悲に感謝いたします」
「ふんっ、可愛くないわね。まあいいわ。せいぜい死なないように頑張るのね」
瑶光の反応が気にくわなかったのだろう。蔡貴妃は瑶光を睨みつけると、侍女を引き連れて去っていった。
誰もいなくなったのを確認すると、瑶光は口の端に笑みを浮かべた。
「降格? 最高じゃないの」
瑶光の呟きは誰の耳にも届かない。
瑶光は幼い頃から蔡貴妃――当時は貴妃ではなかった蔡雪瑶(さい せつよう)に仕えていた。
名門家系の彼女は、昔から二面性を持っていた。大勢の前では淑やかで聡明な態度を崩さないのだが、ひとたび「格下」と認定した相手には、執拗に嫌がらせをするのだ。彼女の天女のような振る舞いは、そんな二面性によって保たれているのだろう。
だから彼女が後宮に上がるとき、瑶光を侍女に指名するのは当然のことだった。妃として後宮に迎えられる彼女に選ばれるのは名誉なこと。本来ならば瑶光は選ばれるはずがないのだ。
だが、残念なことに後宮には「格下」がいない。全ての分野において優れた者たちが皇帝の妃になりうるのだ。「格下」なんて存在するはずがない。
そんな環境下に赴くためには、自ら「格下の玩具」を連れいてくしかなかったのだ。
(でも、そんな生活とはもうおさらばね! 動物の世話をするなんて、あの人の相手よりも楽しいもの。……『死なないように』っていうのが少し引っ掛かるけれど)
瑶光は妙な違和感を覚えながらも、内心晴れやかな気持ちで動物舎へと向かった。
陽の光を受けて輝く衣の裾。金糸で刺繍された牡丹の模様。蔡(さい)貴妃が、侍女たちを従えて立っていた。唇には、慈悲にも似た微笑みが浮かんでいる。
『ドブネズミ』と指差された柳瑶光(りゅう ようこう)は立ち上がってサッと頭を下げた。
(髪結いの支度……? あぁ、また始まったのね)
瑶光は蔡貴妃に仕える侍女の一人だ。しかし、他の侍女とは違う。蔡貴妃のご機嫌を保つために連れてこられた苛立ちの捌け口――つまりは玩具なのだ。
瑶光は諦めにも似た気持ちで「申し訳ありません」とさらに深く頭を下げた。
いつもなら、ここで折檻をされて解放されるのだが、今日は様子が違っていた。
蔡貴妃は絹の衣のように柔らかな声のまま、「もういいのよ」と呟いた。
「言われた仕事もロクに出来ないんだもの。私は失望しました。だからね、あなたには別のお役目を考えてきたの。ふふふっ、あなたは今日から私の侍女でなく、下女に降格よ。それもね、動物舎担当なんですって。家畜の相手ってこと」
楽しそうに微笑む蔡貴妃に同調するように、周囲の侍女たちが口元に笑みを浮かべている。
彼女たちはいつもそうだ。けれど瑶光は彼女たちのことを酷いとも思わなかった。蔡貴妃が瑶光を虐げるのは日常茶飯事。同調しなければ、次の標的は自分かもしれないのだから。
瑶光は頭を下げたまま、自分の指先だけを見つめていた。指先は赤く腫れ、爪の間には土が詰まっている。
「なんとか言ったらどうなの? ショックで声もでないのかしら?」
「……貴妃のお役に立てず申し訳ありません。新しい職を見つけてくださったご慈悲に感謝いたします」
「ふんっ、可愛くないわね。まあいいわ。せいぜい死なないように頑張るのね」
瑶光の反応が気にくわなかったのだろう。蔡貴妃は瑶光を睨みつけると、侍女を引き連れて去っていった。
誰もいなくなったのを確認すると、瑶光は口の端に笑みを浮かべた。
「降格? 最高じゃないの」
瑶光の呟きは誰の耳にも届かない。
瑶光は幼い頃から蔡貴妃――当時は貴妃ではなかった蔡雪瑶(さい せつよう)に仕えていた。
名門家系の彼女は、昔から二面性を持っていた。大勢の前では淑やかで聡明な態度を崩さないのだが、ひとたび「格下」と認定した相手には、執拗に嫌がらせをするのだ。彼女の天女のような振る舞いは、そんな二面性によって保たれているのだろう。
だから彼女が後宮に上がるとき、瑶光を侍女に指名するのは当然のことだった。妃として後宮に迎えられる彼女に選ばれるのは名誉なこと。本来ならば瑶光は選ばれるはずがないのだ。
だが、残念なことに後宮には「格下」がいない。全ての分野において優れた者たちが皇帝の妃になりうるのだ。「格下」なんて存在するはずがない。
そんな環境下に赴くためには、自ら「格下の玩具」を連れいてくしかなかったのだ。
(でも、そんな生活とはもうおさらばね! 動物の世話をするなんて、あの人の相手よりも楽しいもの。……『死なないように』っていうのが少し引っ掛かるけれど)
瑶光は妙な違和感を覚えながらも、内心晴れやかな気持ちで動物舎へと向かった。



