神の子を宿した追放巫女は守り神が愛する天縁ノ神花に返り咲く

 目的の邪神が封印された社に着いたのは子の刻近くであった。
 車夫に支えてもらいながら俥から降りた千紘は、社に続く荒れ果てた石段の前に立つ永久の元に向かう。

「ここからもう少し歩きます。夜も深いですがこのまま向かって良いですか?」

 千紘がこくりと頷くと永久は行燈を手に先を歩き、千紘もその後に続く。行燈のほの暗い明かりが生い茂る草木を照らし不気味な陰影を作り、幾つもの生き物の息遣いが聞こえてくる。その度に目の前の永久は肩を震わせて足を止めるので、千紘は永久とぶつからないように歩かなければならなかった。

「邪神様に捧げる祓い詞は僕……私が唱えます。生贄様は社に向かって跪拝したままその場でお待ち下さい」

 そうして到着した邪神が封印されているという社はあちこちが苔むして朽ち果てた廃社も同然の建物であった。参道の石畳はところどころ崩れて雑草が生え、本殿の茅葺屋根は風雨に晒されたことでいつ倒壊してもおかしくないといった状態だった。拝殿の注連縄らしきものは当の昔に切れたのか断面が黒ずんでいた。そんな拝殿の前には真新しい祭壇が供えられていたが、そこだけ荒らされたかのようにいくつもの生々しい傷が走っていた。
 祭壇の両端には獣除けの香が焚かれた形跡があるので、獣以外が荒らしたと考えるべきだろう。人間が踏み入るには人里から離れている。

「ま、まさか、ほっ、本当に邪神様がお目覚めに……」

 引き攣った声を出した永久に釣られるように拝殿の奥には黒い煙を纏う人型が立っていた。獣のようにゆらりと左右に揺れながら近づいてくる様子に千紘まで足が地面に生えたかのように動かなくなるとその場に立ち竦んでしまう。
 そんな千紘を鬼気迫る顔で振り返った永久は千紘の腕を掴んで強引に祭壇まで連れて行くと、突き飛ばすように腕を放り投げる。千紘が祭壇に身体をぶつけると、祭壇の上に残っていた供物らしき米が散らばって酒が入っていたと思しきいくつもの升が音を立てて落下した。
 
「ぐっ……!」
「邪神様、供物の娘です!! 常盤家の血を引く乙女を連れて来ましたっ!! だからだから……僕を喰わないでっ!!」

 祓え詞も唱えずに永久は脱兎の如くその場を後にしてしまう。尻もちをついたまま「待って……!」と蚊の鳴くような声で手を伸ばした千紘にさえ気が付かずに、永久の背はどんどん遠ざかってあっという間に見えなくなったのだった。
 恐怖で腰が抜けて歯の根が合わなくなる。これからどうしたらいいのか何も聞かされていないが、そうこうしているうちに宵闇の中に紛れてしまいそうな黒い煙を纏う邪神が祭壇越しに真上から千紘を覗き込んで舐めるように全身を眺める。千紘は生唾を飲み込むとその場で両足を揃えて深く頭を下げ、寿々葉を真似にして祓い詞を口にしたのだった。

「掛けまくも畏き邪神に常盤家の娘が奏上いたします。御国を脅かす諸々の禍事、罪、穢、有らむをば祓へ清め給えと。(まを)すことを(かしこ)(かしこ)みを(まを)す……」

 拝礼をしたまま次の瞬間を待っていたがしばらく待てど何も起こらず、恐る恐る顔を上げた千紘だったが息が掛かる距離に邪神の顔を見付けて反射的に後ろに倒れてしまう。バクバクと心臓が音を立て始めて、全身から血の気が引いていく。
 そして次の瞬間、邪神は鉤爪のように長い爪の生えた手で千紘の首を掴むと頭上に持ち上げる。地面から足が離れて、息が詰まってしまう。涙目になって痛みに耐えているとどこからともなく声が聞こえてきたのだった。

 ――タスケテ、ク、レ……

 息苦しさで意識が朦朧とする中で助けを求める声を耳にした千紘が目を開ける。そして千紘の首を締め上げながら、血のようにギラギラ輝く邪神の赤い目から一筋の涙が流れているのを見つけたのだった。